第6話 精霊の助言
──いいな、いいな。
羨ましいな。
どうして妹は褒められるんだろう。
どうして兄は怒られないんだろう。
私はリビングの前で、家族のほのぼのとした日常を眺めていた。
新しい赤のワンピースを着て踊るように回る妹と、父とゲームをして遊ぶ兄の姿。
妹を褒める母も、兄と遊ぶ父も、一般的な理想の家庭の休日を描いている。
『どけ! 死ねっ、死ねっ!』
兄は汚い言葉を使っても、怒られないんだ。
『ねぇママ。私可愛いでしょ?』
妹は自信を持っても、文句を言われないんだ。
ふと、母と目が合ってしまった。私は「あ、まずい」と思い、目を逸らす。
『何見てんの。さっさとバイト行きなさい! ったく、学校が休みだからって、ダラダラして言い訳じゃないのに』
······ごめんなさい。
私は言い慣れた言葉を吐いて、外に出る。
見慣れた道路を歩きながら、空を仰いだ。
(──いいなぁ)
***
寝れば悪夢にうなされて、起きれば幻覚に惑わされる。おかげで私は寝不足な上に、霊力補給もままならず、身体は順調に消えていった。
このまま体が消え去って『あの世』に逝くならまだしも、ただ魂が消滅するだけなのは、何がなんでも嫌だ。
だから私は、『この世』にしがみついた。
──どうして私が『私』を恨み続けるのかは、まだ分かっていない。
──全ては、十年前に解決したはずなのに。
現世──浄蓮の滝
耳元で滝の音を聞きながら、私は滝壺を
全身を纏う、冷たい水の感覚が気持ち良かった。昨日の夜、せっかく身体を拭いたのに、ひどい汗をかいて目を覚ました。その分、滝の水が普段の風呂より何倍も心地よい。
最高の一言に尽きる。女郎蜘蛛の気持ちが分かる。もうここに住みたい。
「ほあぁぁぁあぁぁあぁあ!!!」
ふと間抜けな悲鳴が聞こえた。聞き覚えがある声に、私はちょっとだけ笑ってしまった。
滝壺に浮かぶ私を抱き上げ、恐る恐る顔を覗き込む人がいた。······正確には人ではないのだが。
「やーぁ、水の精霊。水浴びさせてもらってたよ。元気か?」
「奏か! あぁびっくりした。てっきり死んだのかと思ったぞ!」
──いや、死んでいる。
滝の唄を歌わなかったのがまずかったのか、うつ伏せで浮いていたのがまずかったのか、定かではないが、精霊を驚かせてしまった。
私は近くの岩場に寝かされる。岩はその硬さとは裏腹にとても暖かかった。
精霊は私の無事を確認すると、安堵のため息をこぼした。そして私の頬を愛おしそうに撫でた。
「いやはや本当に驚いた。どうしてここに来た? 女郎蜘蛛は今はここに居ないぞ? 妖怪たちで女子会をすると言っていた」
「いいや、女郎蜘蛛に用があったんじゃないよ。今日は
私がそう言うと、頭に疑問符を浮かべていた精霊は、私の奥を見据えるような目を向けた。そして私の手を取ってじぃっと見ると、くもりガラスよりも透明になった肌に、胸を痛めるような表情をした。
その後に滝をぐるっと見回して、深いため息をつく。
「厄介な妖術をかけられたな」
「わかってんね。さすが精霊」
「だが、我が身をもってしても、その術は解けんぞ。相性が悪い」
そう言って精霊は袖から朱色の盃を出すと、滝の水をひとすくいし、それを私の顔にかけた。
「ぶぁっ! ちょっと何すんだよ!」
「その身を清めこそ出来るが、妖術を解くことはない。その妖術が土の力だからだ。水ではない」
わかっている。ここに来たのは単に霊力の補給であって、術を解こうとして来た訳ではない。
精霊は私の横に座ると、澄んだ瞳で私の手をとった。透けた肌が少しずつ戻っていく。手のひら越しに岩が見えなくなると精霊は手を離した。
「さて、奏。妖術をかけたのが、何の妖怪かは分かるのか?」
「ああ。多分、
赤く大きな鳥は、鋭い鉤爪を持ち『イツマデモ』と鳴いた。あれだけ分かりやすい特徴があるのだ。間違いない。
それを聞くと、精霊は不思議そうに顎をさすって唸る。
「人の怨念が生んだ妖怪だな。以津真天······害は無かったかと」
その通りだ。精霊の言う通り、以津真天自体には害はない。そもそも、その妖怪は死体の側で鳴くだけの、かなり無害な妖怪なのだ。
それに、あの鳴き声には『いつまで死体を放っておくんだ』という意味しかない。妖術をかけるような力すらもなかったはずだ。
以津真天が人を襲うなんてことは、万が一も無いのだ。
「精霊、妖術を解く方法も知らないの? せめて、解ける人か精霊を知ってるとか」
「方法くらいなら、聞いたことはある」
──え、知ってるの?
一筋の光、地獄に垂れた蜘蛛の糸。今はそれに縋りたい。私は身を乗り出した。
周りに迷惑をかけたくない。かといって、消えるのも嫌だ。過去にまとわりつかれるのもウンザリする。
精霊は「出来ないだろうな」と一度否定してから、私と距離をとった。それほど危険な方法なのかと覚悟した。唾を飲む私に、精霊はこう言った。
「自分を受け入れることだ」
「はぁっ!?」
僅かな希望は底知れぬ絶望へと変わった。期待していた心は落胆で重くなる。段々と溜め込んでいた思いが溢れ、腕が震え始めた。
「······私は『私』が憎い! 『私』を恨んでるって自覚してる! そう受け入れたはずなんだ! なのに、どうやって受け入れろって言うんだよ! これ以上、どうやって向き合えってんだ!」
私の叫びに反応して水面が荒れた。私が立てた波紋は大きな波になって精霊に襲いかかった。川幅程度の水なのに、大人さえ呑み込んで命を奪いかねない荒波を、精霊は水の中から顕現した杖をひと振りし、いとも容易く鎮めてみせた。
それでも止まらない私の暴走を、精霊は杖先で水をかき混ぜ、浮いた泡を私に飛ばした。
何の音もしなくなった水の中で、精霊は私の頬を両手で包んだ。泡が割れて無くなると、滝の唄が優しく、強く聴こえた。
「受け入れろ。嫌いな自分も自分なのだと。恨んだ過去を捨ててしまえ。愛しい人の子よ。そうすればもっと、楽になれる······」
* * *
水の中に差し込む光は踊るように揺らぐ。
私はもがくように手を伸ばし、水面に顔を出した。貪るように息をして、辺りが暗いことに気がついた。周りを苔むした石が囲む。湿った空間に垂れる───古く湿り気を帯びた一本の縄。
「井、戸、じゃ、ねぇかぁ!!」
地上まで根性で登りつめ、出ると同時に叫んだ。
ちょうど洗濯に来た主婦に逃げられて、水浸しの私がいたのは霧の里──の長屋の井戸。
水の精霊は、別の水場に転移させることが出来るのかと知ると同時に、『あの野郎、なんて所に転移してくれてんだ』と怒りが湧く。
──今度行ったら滝に泥団子投げてやる!
私はそう誓った。風の音がクスクスと笑いながら長屋に滑り込んでくる。なんだと思っていると、ドスドスとうるさい足音が聞こえた。
「ここに、いたかぁ! 奏!」
逃げた主婦の代わりに、長屋に飛び込んできたのは望月だった。里を一周したのか、汗をびっしょりかいて私の前まで走ってきた。望月は肩で息をして、その場に手をついた。
「良かった、いた······」
「うるさい臭い何の用か三文字で言え望月バーカ」
「しばく······!!」
私は望月に井戸水をかけて、汗を流してやった。望月も頭が冷えて、少し落ち着きを取り戻した。
崩れた衣服を整えて、いつものように威圧する。が、水が滴る着物にしっとりと濡れた髪。先ほどの慌てようを見た後で「怖がれ」という方が無理だろう。わたしはフンと、鼻を鳴らした。
「仕事だ。こんな時に悪いが付き合ってもらうぞ」
「えー! 私が消えたらどうすんだよ!」
「消えないように努力しろ! 一応千代に握り飯は預けてあるから」
──なんて意地悪な師匠だろうか。
私は思わず、反論するより先にスネを蹴り上げた。痛みにうずくまる望月を跳び越えて、賑やかな大通りに出る。
里を逃走する私の後ろを、太い怒号が案外早い速度で追いかけてきた。
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