第7話 消えない呪い
『今日は外食にしましょ』
母の一声で、家族は出掛ける準備を始める。
私がその様子をじっと見ていると、父は冷たい視線を向けてくる。
『お前、何してるんだ。勉強はどうした。外で飯を食べる暇があるなら、少しは勉強に費やせ』
──······ごめんなさい。
私はリビングをそっと離れ、部屋にこもる。
たわいない話をして楽しそうに出掛ける家族を見送って、私は勉強机に向かった。
帰り道にこっそり買った、二割引の惣菜パンを食べながら、私は教科書を開く。
──少し、しょっぱい。
***
頭の中心に脈打つような痛みが走る。熱を帯びたその痛みに、じわじわと怒りが湧いてくる。
少し腫れた患部をさすりながら降り立った現世は、またもや森の中だった。木の感じからして、おそらく東北といったところか。
······そろそろ都会の街並みが恋しい。
「まーたケンカしたのかい」
出来たてのたんこぶを押さえる私を、呆れた顔で出迎えた千代は、辺りをキョロキョロ見回してさっそく亜種探しを始めた。
同時刻に門を通った望月は、どうやら別件の仕事に向かったらしい。
てっきり仕事を持ってきた望月も一緒だと思っていたから、私は面をくらった。
「奏、あんたの耳は使えっかい?」
「ああ、うん。一応······」
千代に聞かれ、私は耳を澄ませた。目を閉じて聴覚だけに意識を向ける。
だがどうにも上手く音を拾えない。色んな音が混ざり合ってしまって、どれが亜種か、どれが自然の音か全く判別がつかなかった。
私は躍起になって耳を澄ませた。だんだん耳の奥が痛くなってくる。
「ダメだよ〜姐さん。奏ちゃんはまだ本調子じゃないんだから」
生馬の手が私の耳をそっと塞いだ。そしてムッとした表情で千代を見つめた。千代は生馬に文句を言ったが「ダメなものはダメ!」と返され、諦めて式神を召喚する。不満そうに蝶々を追って、森の先に進んでいった。
「生馬······無事なのか?」
私は生馬の手を離して顔を見た。生馬はいつもの明るい笑顔で頷いた。一緒に襲われたとは思えないほどの血色の良さ。生きていたならどれほど健康に見えただろうか。
「僕はすぐ妖術が解けたからね。奏ちゃんもきっとすぐ出来るよ」
『受け入れろ』
精霊の言葉が脳裏をよぎった。私にそんなことが出来るわけがない。妖術を解くどころか、進行さえ抑えられないというのに。
「············そうだね」
私はそれしか返せなかった。
光の蝶が案内する樹海を、三人揃ってただ黙々と歩く。私は生馬の背中を追いながら、考え事をしていた。
──もし精霊の言う通りに受け入れるとしたら、私は役立たずの自分を認める、ということだ。思い通りにならなかった自分を、肯定する必要がある。
それが私に出来るだろうか。自分自身がそこにいるだけで、腹が立つというのに······──
『なら消えてしまえよ』
いつの間にか、私の後ろに『私』が立っていた。
彼女は恨めしげに私を睨んでは、絶えず『消えろ』と吐き続ける。
──いちいちうるさいな、私だってお前に消えて欲しいんだよ。
『いつだって私が悪いんだろ? 何をやったって私がダメなんだろ? なら消えてしまえよ。自分ごと私は消えるんだから』
「お前だけが消えればいいんだよ。そもそもの原因が、お前にあるんだから······」
「奏ちゃん!!」
生馬の声で我に返った。
すぐ近くまで迫った雑音と、私の視界に広がる大きな口。横から攻めてくる二匹の蛇と、それら全てを頭部に収めた女。──二口女だ。表についた顔がにやりと笑った。
──しまった。考え事にふけって反応が遅れた! 札を出す時間もない!!
私はどうすることも出来なかった。目の前に迫る大きな口に、ギュッと目をつぶった。
喰われる······!!
「千の蝶 万の花 我がために働け
風を起こせ厄災を祓え 悪しきを滅ぼす剣となれ」
突然、千代の呪詛が響き渡った。何万にもなる蝶がひらりひらりと飛んでくると、光を放って風を起こす。一緒に吹き飛んだ私の体を、木が優しく受け止めた。
目の前では、ヨダレを垂らして口をパクパクさせる二口女が倒れていた。二口女は狙いを私から千代に変え、二匹の蛇を走らせた。
私はまだ混乱していた。札を出そうにも、出す前に千代が噛まれてしまう。でも札を出さねば戦えない。
どうしたらいいか。必死に考えた。必死になって考えたが──
「どっせりゃぁぁぁぁぁ!!」
考えるくらいなら、と私は飛び出した。
「爆!」
短い呪詛と同時に爆発を起こして、二口女はその場に倒れた。耳を澄ませて森の音を拾う。体制を立て直せる場所がどこかにあると、そう思っていた。
『やっぱりお前は馬鹿だ』
憎い『私』のその一言が、生馬の悲鳴に気づかせた。
横を向くと、ちょうど生馬が吹き飛ばされた瞬間だった。対峙しているのは赤い巨鳥──あの時の以津真天だ。
「餌の熟成具合を見に来たんだよ。あ〜、いい感じになってきたね」
「人を餌呼ばわりかよ」
以津真天を操る青年は、ニコニコと笑って私に近づいてくる。鳥は生馬の腹に乗って、
千代が私の服を引いて下がらせた。怖い顔で睨んでいるが、千代は青年と以津真天の、どちらに注意すべきか迷っていた。
「消えてしまえよ」
青年は『私』と同じことを言う。青年は私に乾いた笑みを浮かべ、冷たい声で言う。
「未熟な過去は今のお前だよ。どう足掻いたって、『要らない自分がいる』事実は変わらない」
手足が重くなった。力が入らなくて、鉛の枷がハマったような錯覚が私を襲う。最初からいなかった方が······なんて、私だって何度も思っていた。
『消えてしまえよ。お前なんか要らないんだから』
────でも、私は必要なんだよ。今をつくった『私』が。私を取り戻すきっかけになった『私』が······。
額が痛かった。硬いものにぶつけて、血が出そうなくらいに。目の前で青年が倒れた。私を睨みつけて草の上に横たわる。千代が驚いたまま、ポロンと煙管を落とした。
私は頭突きの痛みに、我を取り戻した。
「うるっせぇな! お前ごときが偉そうに!」
聴こえなかった音が、私の耳に溢れてきた。さっきよりも、鮮明に。
「空に感謝を 大地に恵みを
命の芽吹かす土の祝詞
慈愛の腕で還らせ給え」
草が動き出し、青年の体を大地に結えつけた。土は草の上を登り、体を飲み込んでいく。
まだ妖術に苦しんで数日だ。だが懐かしいとさえ思える。土の唄が足から染み込んでくる。風の唄が手のひらを握る。私に寄り添う音は、愛おしいほど優しい。
私は妖術を解いた。
それだけでも心が満たされる。それに愛しいものが私に力をくれるのだ。この上ない、喜びだろう。
「命を愛せよ 命を癒せよ
誰にも知られぬ恵みの雨を
誰にも分からぬ感謝の風を
全てに支えられた慈愛の果実
そして我も支える巡りの橋を」
私が大地の唄を紡ぐ度、青年が土の中へと消えていく。もがき苦しんで、悔しそうに腕を伸ばして沈む体はあと少しで見えなくなる。そう、あと少し───
『 イ ツ マ デ モ 』
氷のような冷たさが、私の心臓を射抜いた。一瞬動きを止めた私の体を、以津真天が蹴り飛ばした。地面を転がる私の胸を、奴の鋭い嘴が貫いた。
声も出ない痛みに全身が裂かれそうになる。私が何とかもがいても、鳥の嘴が抜ける気配はない。
青年は土から這い出ると、勝ち誇ったように微笑んだ。私の傍にあのローファーが見えた。
嘘だ。なんて思ったところで本当のことだ。事実は変わらない。
私が認め、受け入れたはずの『私』はいつまでも私に毒を吐き続ける。
『いなくなっちまえ』
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