第14話 詩を奏でる
空をも燃やす炎が、私の体を
恐怖心を煽ろうと必死な周りの全てを無視して、私はのん気に地獄を歩いていた。
しばらく歩いていると、脅かすのを諦めて道を譲る炎の先に、赤い御殿が威厳たっぷりに
中国のような、いや、アジア調というべきか。優美で歴史を感じさせる堂々とした御殿だ。炎に囲まれ、尖った岩を塀の代わりにしてもなお、その威厳は消え失せることは無い。むしろ、それら全てがその優美さを際立たせる装飾のように見える。
私は大きく息を吸って御殿を見上げる。懐かしさに目を細めた。
私が世話になった、地獄の裁判所──まだ覚えている。
門の前には見張りの鬼が一人立っていた。
鬼は威嚇するように、武器をうるさく鳴らしてみせるが、私は動じなかった。むしろ睨みつけて、退魔の札をちらりと見せた。
「通せ。中の女に用がある」
そう言うと、鬼は不服そうに唸り声を出した。私はその態度に腹を立て、舌打ちをして裁判所の壁を殴りつけた。
鬼の頬を掠め、壁がミシッと音を立てると、鬼は不満げな表情ながらも門を開けた。門がゴリゴリと地面を削る。その横を、私は鼻歌交じりに通った。
***
──暗い。とても暗い。
門の向こうは、真っ暗闇で前も後ろも分からない空間が広がっていた。
前に来た時とは違う。
前に来た時はもっと、罪を責め立てるような威圧感のある空間が広がっていた。高い天井と真っ赤な炎の地獄絵図、固くて冷たい床。見間違うはずがない。
泥の波打つ音がした。
私がその方向へ耳を頼りに進んで行くと、そこに詩音がいた。泥沼の中心で
私は気がついた。
ここは詩音の生み出した、心の空間なのだと。
深い闇で、粘り気があり、重苦しい空間だ。押し込めた冷たい感情と苦しみが溢れだしている。
「詩音」
私の声が空間に反響した。それが詩音の耳に届く。彼女はぴくっと微かに動いた。だが次の瞬間には、沼に浸かり見えない拳を、固く握って体を震わせた。
「お前のせいだ!」
どこから出るんだろう、と思うほどの大声で私に毒を浴びせかけた。
「お前が私を拒絶なければ! お前が私の思い通りになっていれば! 私はこんな目に遭わなくて済んだのに! 悲願を叶えられたのに!」
詩音にはいつもの笑顔が無い。怒りと失意と、憎しみと恨み。負の感情という感情に支配される彼女は、私に自分の感情の全てをぶつけてきた。
「私はとってもいい子なの。誰とでも仲良くできる、優しい子なの! ずっとそう演じてきた! 嫌いな子とも、悪口の一つも言わずに仲良くした! 褒められる全てのことをしても、家族は私を愛さなかった! どうして私が憎いんだ! どうして私を拒絶した! お前と私の、何が違うって言うんだよ!」
バチン──!!
怒りが湧き上がる前に、勝手に手が動いた。動いた手は詩音の頬に、かなり強めのビンタを喰らわせた。その後を追ってようやく頭がついてきた。
──どうして憎いかって? 何が違うかだって?
「教えてやるよ。クソ野郎」
私は詩音の胸ぐらを掴んで自分に引き寄せた。泥が重く、鎖もあって、頭突きが出来るほどの距離までは持ってこれなかった。が、怒鳴るには十分な距離にまで引っ張った。
「──愛された事実を捨てようとするからだ」
私は怒鳴ろうと思っていたのに、それが出来なかった。喉まで込み上げていた烈火の如き怒りは、叱り諭すような柔らかいものに変わっていた。
全身の力が胸ぐらを掴む腕にだけ集中して、他の部分には回らない。それでも口は語り続けた。詩音に口を挟む隙すらも与えない。
──今は、私の話を聞け。
「いい加減に気づけよ。自分の本心に、恨みの核心に。『殺したい』んじゃないだろ。『復讐したい』んじゃないんだよ。お前、分かってんじゃん。分かってんのに隠してんじゃん。本当は『悔しい』んだよ。愛する人に殺されたことが、愛されていたのに殺されたことが」
私の言葉は泣くように零れていく。
そもそも私はここへ何をしに来たのか。
どうせ地獄に行くのならと、私を利用しようとしたことを怒鳴ろうとしたのか?
里を荒らしたことを、責めてやろうとしていた気もする。
──いいや、違う。
胸ぐらを掴んでいた手は、いつの間にか詩音の肩の上にのっていた。強く揺さぶって詩音の心を開こうとしている。私は、彼女を助けたい。
「確かにあの親は最悪だった。エゴで動いたロボットだったよ。辛かったよな。でもさ、思い出してみてよ。楽しかった思い出が、笑った記憶がいっぱいあんじゃん。優しさも愛も、欲しい物も言葉も思いのまま。沢山得られたくせに。幸せを溢れるほど得られたくせに。私、なんもなかった。何も得られなかったんだよ。どんなに頑張ったって、誰も褒めてくれやしない。振り向いてもくれなかったんだよ。お前、羨ましいなぁ。······幸せじゃんか。幸せだったじゃんか!」
私は自分の言葉で自分の傷を抉る。
私は詩音を憎んでいた。嫌いだった。それでも、彼女を助けたかった。彼女の首を緩やかに絞める鎖を、解いてやりたかったのだ。
──きっと、私と詩音が似た者同士だから。
泥水に一滴の水が滴る。私が顔を上げると詩音が泣いていた。
その瞳には光が戻りつつあった。詩音はか細い声で私に問いかけた。
「私はどうすればいい? どうしたらいいの?」
まるで、死後まもなくの自分を見ているようだ。詩音の問いかけは、私の心にのしかかる。
「私は家族に殺された。愛する家族に殺された! 幸せだったよ。奏さんの言う通り、私は幸せだった。けど、どうしたらいい? 私のこの心は、痛みはどうしたら消えるの?」
詩音の気持ちは痛いほど分かる。
けれどもそれに対し、私に答えられるのはひとつだけだ。
「恨むのをやめる」
それだけだ。単純であり、とても難しい答えだ。
「あいつらはまだ生きるけど、私らはこれから新しいことが出来るんだよ。その門出にドロドロした感情なんて要るか?」
「でも、私は朝日野さんみたいに割りきれない」
「私もそうだよ。だから子供らしくやり返してやるんだ」
私が里を飛び出した時は、詩音が私に手を差し伸べた。今度は私が手を差し伸べる番だ。大嫌いな相手なのに、ずっと、こうしてあげたかった。
「ねぇ、一回きりのデカいイタズラ、やりたくない?」
詩音に手を出した。彼女は瞳に光を灯し、鎖を引きちぎって手を伸ばした。少し困ったように笑う彼女は、小さな声で恥ずかしそうに言った。
「私、親に反抗したことがないの。だからやり方が分からない」
「それくらい、いくらでも教えてあげるよ。私、万年反抗期だし」
手を掴み、詩音を沼から引っ張り出すと、闇は砕け散って消えた。ガラスのように砕けた空間を抜け出して、私と詩音はキラキラと反射する光の中を走り出した。だが──
「現世に帰れると思ってんのか?」
外まであと数歩の距離で、扉の前を片足で塞ぐ鬼がいた。
彼女が私がかつて世話になった鬼であり、酒呑童子が言っていた鬼だ。鬼女は私をジロっと見ると鼻を鳴らした。
「久しぶりだなぁ。奏っつったか? ん? 元気そうで良かったよ。二度と来て欲しくなかったがな。で、そいつを連れてどこ行く気だよ」
言い訳なんて山ほどあるが、私の口から出たのは真実だけだ。嘘をついたところで、この鬼女には通用しないと、心のどこかで知っていた。だから怖気付くことなく、私は彼女に言った。
「お礼参りに行くんだよ。この子のケジメつけに」
「そいつ四十九日近いだろ。回収出来なくなった奴は、後の始末が面倒なんだよ」
「一日だけ」
「ダメだ」
「死後に一つだけ願いを叶えられるんだろ」
「こいつは、迎えが来るはずだった魂で、亜種妖怪を無理やり作りやがったんだぞ。それに今も悪霊化が進んでる。地獄の作法の対象外だ」
「必ず守る。私の魂にかけて一日だけだ。頼むよ」
「あ〜ぁ。反抗って、たま〜にウゼェもんだな。喰うぞ」
たった三文字の脅しなのに、全身が震え上がった。足はすくみ、毛は逆立つ。詩音を後ろに隠して、札を取ろうとポケットに手を入れ──
──ん? なんかあったような気がする。
ポケットからは重みのある手紙が出てきた。
そういえば酒呑童子に、鬼女に渡せって言われていた。私は中身が気になりながらも鬼女に渡した。
鬼女もほんのりと漂う酒の匂いに、なんとなく手紙の主を察したのか、私からそれを素直に受け取ると、その場で広げてみた。
鬼女の手から落ちた手紙の端は、どこまでも伸びていく長さだった。だだっ広い裁判所の端まで伸びると、三人で「うわぁ······」と引いた声を漏らした。
鬼女は舌を出して手紙を読み進めるが、途中でやめた。
「これ嘆願書じゃん。あの野郎にこんなもん書けたのか。はぁ、やめやめ。くそ長ぇもん、読むだけ無駄だ」
鬼女は続きを流し読むと、ある一文に目を留める。その内容は、私からは見えなかった。
すると、鬼女はニヤニヤと笑いながら通路を避けた。背中姿でも分かる楽しそうなオーラを漂わせながら、聞こえよがしに言った。
「あ〜メンドクセェ。こーんな長い手紙なんか読んでたら、一日が終わっちまうなぁ。ったく、酒呑童子って奴から、余計な手紙なんか届かなければなぁ。あーあ、今なら誰か出てっても、全然気づかねぇなぁ〜」
鬼女はあからさまに、達筆の手紙を読むふりをしていた。
酒呑童子の嘆願書に何が書いてあったのか、単なる気まぐれなのかは知らないが、私たちを見逃してくれるつもりらしい。だが、何となく、同情心が見え隠れしているように思えた。
私は詩音を先に外に出し、鬼女の背中に小さく礼をして裁判所を出ようとした。鬼女は振り向かなかったが、私に釘を刺した。
「
「もちろん。終わったらちゃんと報告するよ」
「詩音に持たせろ。裁判に加味するから、絶対忘れんな」
私は鬼女に「分かった」と言って外に飛び出した。鬼女は嘆願書をそっと撫でると、長いそれを引きずって裁判所の奥へと行ってしまった。
***
何とか裁判所から出ることが出来た。
外に出たところで、炎の世界にいることは変わらない。詩音が不安そうに尋ねた。
「朝日野さん、どうやって帰るの?」
······どうしよう。そういえば帰る方法なんて全く考えてもいなかった。
遠くにある三途の川を逆走しようか。それとも、どこかにいる火車でも捕まえようか。
前は式神を使って帰ったが、また式神なんかに頼ったら、十年経っていたなんてことになりかねない。すぐ帰るという望月との約束もある。破ったら、何百年チクチクと言われることになるやら。
悩んでいると、私の足元で糸がきらりと輝いた。私はふと、とあることを思い出した。とある妖怪の、ものすごく厄介な癖。それが今は希望の光にすら思える。
「手、絶対離すなよ」
そう言って、私は詩音の手を、しかと握った。詩音も両手で手を包み返した。私はその可能性を信じ、その足の糸をつまんでなぞってみた。
「うぉああああああああ!!」
「きゃああああああああ!!」
案の定、望月に投げられた時以上の速さで、空に引きずり込まれた。私が地面を見上げると、炎が手を振るように揺れていた。
地獄の音が遠ざかり、代わりに聞き慣れた水の音が近づいてきた。空を見下ろすと、はっきりと見える澄んだ水と、薄らと見える艶やかな着物が私たちを手繰り寄せていた。
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