『空』の夜
船の上から、一面に広がる雲を見下ろした。
この船は、天空を走る船なのだ。
いや、空だけではない。古文書によると、虹の橋を渡って『九つの世界』に、さらには上の『三つの世界』、そして始まりの『永遠にひとつの世界』に行き来できるそうだ。もっとも、九つの世界うち五つは、すでに滅んでいるそうだが……どこまでも続く雲海の向こうで、緑色の双月が光る。
不意に、後ろから肩を抱かれた。
「なにを考えているの?」
声をかけられ振り向くと、そこには少年の幼さをわずかに残した若者がいた。その背は、私とほとんど変わらない。白銀に輝く鎧には、その白さゆえに所々に傷や凹みが目立つ。船出の前に打ちなおすと言っていたが、間に合わなかったらしい。
「家族の事を……考えてました」
若者は少しだけ黙った後、私の頭を強くかき抱いて、元気つけるように優しい声で言う。
「無事だ……そう、信じよう!」
そうじゃない、そうじゃないのだ。
胸の奥から恐ろしいほどの感情が押し寄せてきた。
涙で視界が滲む。途方もない罪悪感に、悲鳴を上げてしまいそうになる。
聞いて! 私は、あなたを裏切ろうとしている!
……すんでの所で、言葉を飲み込んだ。
頬に添えられた傷だらけの手に震え、心の葛藤を誰にも言えず、彼の顔を見る。己の正義を信じ、世界の平和を願い、人の幸せを思う、優しく愛しい笑顔。一点の曇りもない、純白である……だが。
今は、その笑顔が眩しい。眩しすぎて、
……目が、潰れてしまいそうだった。
目覚めると、緑色の双月も、雲海も、
ただ、赤い
荒い息遣いの中、唇の上を細い物が、ついっと滑った。
空那はそっと手を伸ばし、枕もとの電気スタンドのスイッチを入れる。
「うみゃあっ!? 目がつぶれるぅッ!」
悲鳴と共に砂月が両目を抑え、ベッドの上から転げ落ちる。
華やかで甘い香りが漂い、次にそれが自分の身体からだと気づく。
眠い目を擦ると、手に黒い色とラメがくっついた。
「……毎度毎度さぁ。お前、なにやってんの?」
起き上がろうとして、手に何かがぶつかる。枕元に置かれていたのは化粧品の数々だった。芳しい香りは、どうやら香水らしい。さらに耳にはイヤリング、首にはネックレスと、各種のアクセサリーがジャラジャラと……しかも、着せるつもりだったのか、女物のドレスまで用意してある。
……サイズから考えると、母のを勝手に持ち出したのだろう。かなり派手な代物である。母がこんなの持ってたの、知らなかった。
アハアハ笑いながら砂月が言う。
「さ、最近は、男も化粧する時代らしいよ? ほら、男の娘とか流行ってるっていうし? 朝の子供向けアニメでも、女装キャラが出てきたりするんだって! 昔の人はさ、ここまで女装が市民権を得るって、考えもつかなかったんじゃない? それを煽られれば、
「いや、独歩じゃなくって。俺の部屋で、俺の顔に、なにやってるって聞いてんだけど?」
少し黙った後で、彼女が言う。
「……芸術活動」
「自分の部屋でやれ」
呆れ顔で空那は続ける。
「お前さ。前世で、俺の家族を人質に取ったんだって?」
砂月の頬がひきつり、視線が宙をさまよった。半笑いで答える。
「えー? そうだっけ? 知らなーい。あっるぅえー? 誰かと勘違いしてるんじゃないの?」
「……なんか。そのあたりの事、おぼろげに思い出した気がする」
ハッタリだった。だが、砂月はあからさまに慌てた。
「あ!? あーっ! そいや、そんなような事もあったような気がする……ですか?」
「気がするですか? じゃないよ! あのなぁ、そんなので人の心を縛りつけても、ちっとも嬉しくないだろ!」
途端、砂月の表情が豹変する。
「ククク。ならば、今生でも貴様の家族を人質にとる……と言ったら、どうする?」
空那は、あくびをかみ殺して言う。
「父さんに言いつける。そしたらお前、また拳骨くらって地下室にぶちこまれるぞ」
砂月がびくりと身体を震わせた。暗く黴臭い地下室は、彼女のトラウマなのだ。
「その年になって、地下室で泣くのは恥ずかしいだろ? 今度は、ゴキブリ出ても助けに行ってやらないぞ」
「も……もぉーっ! 冗談じゃん! いやだなぁー」
「冗談で、家族人質に取られてたまるかよ……」
ぶつぶつ言いながら、空那は身につけられたアクセサリーを外し、顔を洗うために部屋を出た。
一人で後に残された砂月はしばらく黙っていたが、唐突に荒い息を吐きながらベッドにダイブし、空那の毛布に顔を埋めて悶えはじめた。
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