その名はアニス! アニス先輩!
次の日の昼。
またしても空那は屋上で一人、昼食を食べていた。
膝には弁当箱を二つ乗せている。
雪乃に手渡された分と、今朝、砂月に持たされた分だ。
ハンバーグ、煮物にからあげ、卵焼き、シウマイ、キンピラごぼうにポテトサラダ。
豪華絢爛で、どれもウマい!
……ただひとつの問題点は、さすがに二つは量が多いという事だ。
丹念に作られた弁当を、まさか捨てるわけにもいかずに持て余していると、小柄な影が屋上の隅で動いた。
「先輩?」
空那が呼びかけると、影がゆっくり立ち上がる。
手には昨日と同じく、食パンにコロッケをはさんだサンドイッチを持っている。
そして、とてとて近づいてきた。
空那はアニスのパンを指差して言う。
「いつも、それなんですか?」
アニスは黙って頷いた。
「その……栄養のバランスとか大丈夫なんでしょうか?」
アニスは、少しだけ困った顔で首を傾げる。相変わらずの無口だった。
空那は弁当箱を持ち上げて言う。
「よかったら、半分食べてもらえませんか? どうにも、俺一人じゃ量が多すぎて……」
アニスは頷くと、食パンを広げてずいっと突き出してくる。
まさか煮物やキンピラをそこに乗せるわけにもいかず……空那はフタにオカズをいくつか取り分ける。そして、余分に一組あった箸と合わせて差し出した。
「どうぞ」
アニスは無言で受け取ると、空那の隣に座って食べはじめた。
空那も弁当を食べることにする。
静かな時間が流れる。一分、五分、そして十分と、二人の咀嚼音だけが聞こえる。ポカポカ陽気の中、どこか遠くで救急車のサイレンが鳴った。
なんとなく沈黙に耐え切れなくなって、空那は話をしはじめた。
「そ、そういえば! 俺の名前、まだ言ってませんでしたね?」
アニスが小さな声で言う。
「おしえて」
「俺、荒走空那って言います。先輩は、炙山アニスさんですよね? なにか、数学の賞をとったとか……」
アニスは頷き、ポテトサラダを食べ始めた。
空那もからあげを齧って、またしばしの静寂。
「……え、えっとですね。俺のこの弁当、幼馴染の女の子と妹に作ってもらったんですよ」
アニスは空那の方を向き、首を傾けた。その目からは、なんの感情も読み取れない。
黙っていると、手の平が返された。続きを話せ、と言うことだろう。
「その……変な話なんですけど……幼馴染と俺、昔からすごく仲良かったんです。でも、そんな男女の関係とかじゃなくって。気の置けない親友って感じで、放課後や学校帰りに遊んだり、本とかゲームを貸し借りしたり、時々遠出をしたりして……それで、俺はなんの不満もなかったんですけど。ところがある日、その幼馴染に……告白されて……」
はあ、と溜め息を吐く。
アニスは、相変わらずぼんやりとしていたが、その眉根が少しだけ寄せられている。
心配してくれてるのだろうか? と空那は思う。
「それで、俺は舞い上がっちゃったんですね。冷静に考えてみれば、俺なんかに告白してくれる女の子がいるわけないのに、深く考えるって事をしなかったんです。だもんで、オーケーしちゃいました」
それから少しだけ言いよどむ。
アニスは辛抱強く、待っててくれてる。
空那は息を吸い込んでから、言葉を続ける。
「……そしたらある日、わかりました。その幼馴染はですね、俺本人が好きって気持ちだけじゃなくて、他に理由があって俺に告白したんですよ。しかもそれは、俺の努力とか才能とか性格、そういうのとは全部無関係で……俺、なんだか自分が、完全に否定された気分になりました!」
そして、心のうちを吐き出す。
「なんていうか……それでもう俺、彼女の事を信じられなくなっちゃったんですね。こんな俺が、女の子とつきあっていいわけないんですよ。きっと、いい男っていうのは、こういう時に女の子を大事にしてあげられる奴なんでしょうねぇ!」
それから、うんざりしたように。
「ああ……バカだなぁ、俺は! なんだか自分が、すごく情けなくなって。半分八つ当たりみたいにして、そいつを泣かしちゃいました。……すごくいい奴なのに。……俺がもっと気をつけてれば、雪乃は泣かなくてすんだかもしれないのに」
胸にあるのは、後悔ばかりだった。
お互いに傷つかない方法があったのではないか?
それでもいいって言ってやれなかったか?
だが、何度考えても堂々巡りだった。許すことも、受け入れる事もできなかった。
空を見上げていると、アニスがその背中をやさしくポンポンと叩く。小さな手を感じ、元気が出てくる。
空那は、照れた笑い顔で言った。
「すいません……こんな情けない愚痴なんか聞かせて」
アニスはしばしうつむいた後、顔を上げる。それから空那の袖をつかんで、遠慮がちに引っ張った。
「なんでも、たすけるよ?」
見つめられて、空那は感動してしまう。
本気で心配してくれている! ……そう感じられるだけの真剣さが、瞳の光に見て取れた。
だから、頭を下げて言った。
「アニス先輩……ありがとうございますッ!」
アニスは、なんとなくホッとしたような顔をすると、空那の頭を優しく撫でる。
それから懐からノートを取り出してパッとページを開いた。相変わらず所狭しと数式が並んでいる。
「げんき、だして」
どうやら、これで元気づけてるつもりらしい。
いい先輩だけど、やっぱりどこかずれてるなぁ、なんて思いつつ、ニコニコ顔でノートを一緒に覗きこむ。アニスの指がノートの上を滑る。昨日、空那が指摘したページは、しっかりと赤いペンで上から訂正されていた。
ふと、また空那の視線が止まる。
「あ。ここだ」
首を傾げるアニスに、空那は言った。
「こんなしち面倒くさい計算、わざわざする必要ないですよ。こっちのページの結果を、そのまま当てはめればいいんじゃないですか?」
アニスはしばらく見た後で、首を振って呟く。
「それじゃ、ダメ」
「ダメじゃないです。それで、結果は同じになります。信じてください」
アニスは首を傾げ、少し考えた後で頷いた。
「やってみる」
「はい!」
大きく頷いた後で、空那も首を傾げた。
何ゆえ自分は、自信満々にそんな事が言えるのだろう? と。
正確に言えば、数式が理解できたわけではない。ただ、間違っている箇所がわかるのだ。
それも、絶対といえるほどの自信を持って。
頭の中に正解の形をした何かがあり、それと比較する事で間違いがわかる……そんな感覚である。
そしてわかったのだから、彼女に教えてあげたかった。そんな気持ちから自然に出た言葉だった。
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