おうちにかえろう

 帰り道、砂月が空那の手を握る。

 どうしようかと迷うが、冷たくするのも可愛そうなので、そのままにしておく。

 すると今度はピタリと身体を寄せてきた。そして、言う。


「昨夜のハンバーグ、どうだった?」


 そんな事を聞いてきたので、空那は答える。


「ああ。美味しかったよ」

「本当!? アタシ、料理上手かな?」

「うまいんじゃないか。いい嫁さんになれるよ」


 空那が言うと、嬉しそうに笑う。


「そっかぁ! 一生アタシの味噌汁、飲みたいときたもんかぁ!」

「……そこまでは言ってないけどな」


 砂月の足が止まる。そして彼女の手が伸び、空那の顎に手が添えられた。

 そのまま、顔の向きをクイッとと変えられると、目の前にとろけた砂月の顔があった。

 外灯に照らされた頬は真っ赤で、まるで夢見るように惚けた目をしている。

 空那の喉がごくりと上下する。

 舌で唇を湿らせてから、震える声で問いかけた。


「……どうした?」


 どうしたもこうしたもない。ヤバい雰囲気だ。どういうつもりか、本当は十分わかってる。

 つまりはこれは……こいつ、思いっきり発情中であるッ!

 冷や汗が、頬を流れ落ちた。

 さりげなく砂月から離れようとするが、腕を掴まれ抜け出せない。まるで指の先まで鉄でコーティングされてるみたいにビクともしない。

 砂月が怪しく微笑み、「あはぁ……」と悩ましげな声と共に、興奮と官能に染まった息を吐く。

 肺の中までピンク色になったような、甘酸っぱい息吹が顔にかかった。

 その匂いに、脳がじんじん痺れる。


 しかし、初めて嗅ぐはずなのに……なにか、どこかで覚えがあるような……?


 考える間もなく、砂月の手がネクタイを掴む。そして、ぐいと引き寄せられた。

 あっという間に二人の顔の距離が近づき、空那の頬がひきつる。


「ちょ、ちょっと……? おいっ!」

「目、閉じて……」

「な……なんで?」

「いいから。幸せにしてあげるから」

「まず、この状況が幸せじゃないだろ!?」


 だが砂月は、空那の突っ込みに微塵も動じない。

 焦った空那は本気で暴れてみるが、まるでビクともしない。

 やはり年下の女の子……いや! 人とは思えない怪力だ!

 その異常さに、いよいよ空那のじれったさは強くなる。

 砂月の唇がゆっくりと近づく。空那は限界まで首を捻り、必死で逃れようと努力した。


 「やめろって……! 砂月、いい加減にしろッ!」


 ついには強く怒鳴りつける。静かな住宅街に、声が響いた。

 すると、砂月がぼそりと、低い本気を含んだ声で……、


「ねえ。乱暴にしたほうが、いい?」


 ギクリ! 空那は身を硬直させる。

 それから、呻くように言った。


「……ら、乱暴はよくないと思います。はい」

「じゃ、おとなしくしてて。アタシもそっちのがいいから」

「は、はい……わかりました……」


 空那、完全に涙目になってしまう。

 互いの唇は、もうわずか数センチの所だった。興奮を伴った荒い鼻息が、耳に聞こえる。ふわふわした猫っ毛の前髪が、空那の顔を撫でる。

 くちゃり……砂月が嬉しそうに、真っ赤な舌で己の唇を舐めた。

 空那の脳裏に、先日のキスの感触が甦る。

 というか……こいつの発情具合……これ、今回はキスだけで……終わるんだろうか!?


(ヤ、ヤバいっ! これは本気でヤバい! 誰か……助けてっ!)


 そう、願った瞬間。

 思いは叶った。


 パッコォーーーン!!


 やたら景気のいい音が、暗くなった住宅街に響く。

 颯爽と自転車で現れた救世主は、通り過ぎざまに砂月の首にラリアットをかますと、五メートルほど先に砂埃を巻き上げながら急停止した。


「声を聞きつけ来てみたら……な、な、なにやってんのよぉーっ! あんたはぁーっ!?」


 救世主は、雪乃だった。

 一方、吹っ飛ばされた砂月は、派手に地面を転がると、勢いよく電柱に激突する。

 あまりにも見事な転がり方だったので、空那はしばし唖然としてしまう。が、慌てて砂月へ駆け寄った。


「お、おいっ! 大丈夫か!?」


 砂月はムクリと起き上がって首をポキポキと鳴らす。

 次いで、その顔がふにゃっと崩れ、泣き顔になった。


「おにいちゃーん! このバカに虐められたよっ! このバカ、前世でアタシを殺したくせに、現世でもまた殺そうとしたよ!?」


 その言葉に、雪乃は力いっぱい怒鳴り返す。


「あなたが、そのくらいで死ぬわけないでしょおっ!」


 そして、雪乃は自転車から降りるとツカツカ歩み寄り、砂月の首根っこをつかんで引き上げた。


「さっき、私の家で約束した事、覚えてないわけ!?」


 砂月は首を擦りながら雪乃を睨んだ。


「……ったくぅ、痛いなぁ」

「痛くされるような事するからでしょ!」


 砂月はムッとしながら雪乃に言う。


「そっちこそ、なんでこんな所にいるのよ? ストーカー? またストーカーしてたの?」

「してないっ! 忘れ物したから届けにきたの!」


 言いつつ、ポケットからスマホを取り出すと砂月に手渡した。


「あ、アタシのスマホじゃない」

「勇者の部屋にスマートフォン忘れる魔王なんて、古今東西あなたくらいよ」


 呆れた顔で呟く雪乃に、砂月はエヘヘと笑う。


「ありがとね」

「……別にいいわ。昔っから忘れ物が多いわよね。ほんと、気をつけなさい」


 昔から。その言葉に空那は頷いた。

 その昔はおそらく、前世の話ではなくて、空那の知っている砂月の話だから。

 雪乃はチラリと空那を見る。


「あのね。明日のお弁当、なにか食べたい物あったりする?」

「え、ええと……からあげ」

「うん、からあげね!」


 雪乃は、自転車を手で押して空那の横に立つ。

 砂月も反対側に回ると、無言でスマホをしまう。

 どうやら雪乃、家までついてくるつもりらしい。家まで送る立場なら、普通は逆じゃないの、と思ったが、空那は黙って歩き始めた。砂月も、特になにも言わない。


 そう……今はただ、この穏やかな空気を壊したくない……心地よい距離感を保ちたい。

 そんな全員の思いが、夜の冷たい帳を通して伝わりあう。

 ふと空那は、子供の頃に三人で、暗くなるまで夢中で遊んだ事を思い出す。

 こうして並んで歩いていると、ここしばらくの馬鹿みたいな出来事が、全部嘘みたいに思えてきた。

 夜空を見上げると黄色い半月と、星がわずかに瞬いている。


(前みたいな関係に、また戻りたいな……)


 それはもう、叶わないのだろうか?


 幼馴染、兄、妹。


 例え時が経ち、あるいは誰かに恋人ができ、その関係が変化しても。

 互いの距離だけは、ずっと変わらないと信じてた。

 なのに前世とやらが絡んできて、今はこんな有様になってしまった。

 だから、もう少しだけ、このまま歩いてたくて……空那は可能な限りゆっくりと、街灯に照らされたアスファルトを踏みしめた。

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