謎の先輩X
次の日の朝、空那はいつもよりかなり早めに家を出る。
理由は単純で、雪乃と顔を合わせたくなかったからだ。しかし、通学路の途中で雪乃が立ちすくんでいた。
一瞬、体が強張る。
だが、深呼吸を三回。平常心を維持して歩きだす。
そんな彼に気づいた雪乃が、慌てて近寄ってきた。空那は、チラリと見て挨拶する。
「よう、おはよう」
「うん……おはよ」
先週までの、和気藹々とした登校とは打って変わって、陰鬱とした二人だった。
そんな彼らを見て、朝練に向かう生徒達が首を傾げる。あれほど仲のよかったバカップルに、一体なにがあったのか、痴話喧嘩でもしたのだろうか、と。
二人は無言のまま歩き続ける。
沈黙に耐え切れなくなったのか、雪乃が先に口を開いた。
「あ、あの……ね?」
「う? うん?」
どこか、間の抜けたやり取りだった。
だが、雪乃はくじけない。キッと唇を固く結ぶと、空那の前に回りこむ。空那は慌てて顔を背けた。
彼女の顔を見てると、不覚にも泣いてしまいそうだったから。
(だって、生まれてはじめての彼女だぞ!? 十六年間の彼女いない暦に終止符を打って、お互い好きだと思ってたのに……っ!)
それが、実はパッケージ扱い。中に入ってるのは、一体どんなオモチャだと……あんまりではないか!
雪乃は、一瞬で自分から顔を背けた空那に、かなり傷ついた様子だったが、やがて真っ直ぐ頭を下げた。
「まず、謝ります! ご、ごめんなさぁい!」
「うえっ?」
雪乃は、キッパリとした口調で続ける。
「別に、騙していたわけではないの。私は本当にあなたが好きだった。だから、あのまま自然に思い出して私の事も好きになってもらえれば、それが一番嬉しかったの。……でも、こんなの言い訳だよね? 本当にごめんなさい!」
早朝の通学路で、女の子が、頭を下げてる。
その光景。一体、何事かと……周りの生徒のみならず、近所のおばちゃん、はては通勤途中のサラリーマンまで、立ち止まって遠巻きに見始めた。
そんな中、雪乃は震える声で、こう言った。
「今は、こうやって頭を下げる事しかできないけれど……でも私、あなたが望むならなんでもします! ここで、土下座だってする! あなたの心を傷つけた事を誠心誠意、謝罪します! だから、どうか許してくださいっ!」
なんでもする、土下座、と言う単語に、おばちゃん達がひそひそ話を始める。
サラリーマンがメガネを直す。
朝連へと向かう女子バレー部の生徒が、非難げな視線を向ける。
渦中の空那は、背筋に嫌な汗がとめどなく流れるのを感じていた。
引きつった笑いを浮かべながら、雪乃に問い返す。
「い、いや? ……雪乃っ? お、お、お前、なに言っちゃってんの? 土下座とかさぁ……悪い冗談やめろよな!」
雪乃が顔を上げる。
その顔は真剣で、例えば彼に恥をかかせてやろうとか、おおごとにして晒し者にしてやろうとか……そういった邪心は一切みられない。ただ、その瞳には涙が浮かび、けれども決して零すまい、絶対に泣くまいと、懸命に必死に耐えている……そんな色だけが見て取れた。
そして彼女は、空那にグイと詰め寄って叫んだ。
「私、冗談なんか言ってないわ! 本当に一生かけて、あなたに償う覚悟があるのよ! だって、それだけ酷い事をしちゃったって、ちゃんとわかってるんだもの! だから、ねえ、お願い……許してよ……く、空那ぁ……空ちゃぁん!」
今度は! 一生をかけてとっ! きたもんだ!?
ざわざわざわっ! 周囲が一気にドヨめいた!
あまりの事態に、空那は完全に固まってしまう。
すると雪乃はヨロヨロと後ずさって、カバンを地面に落とす。
そして、ゆっくりと、震えながら……雪乃の膝が、肩が、地面へと……近づく。
空那は驚愕した。
(……えーッ!? 雪乃、本当に土下座するつもりかよ!?)
毎日通っている通学路の、それも学校の近くで!
顔見知りが何人もいる衆人環視の中、幼馴染相手に!
子供のころから遊び、バカ話をしつづけてきた、親友に!
女の子が、土下座をするゥーーッ!?
周囲から、溜め息に似た声が漏れる。
空那は、喉元にナイフを突きつけられた気分になった。
所かまわぬ誠意をもった真っ直ぐな謝罪が、ここまで怖いものだと思わなかった!
しかも、彼女自身は許してもらうおうと必死なだけで、決して悪気があるわけではない。
このままでは、空那の評判は地に落ちる!
幼馴染の女子高生に朝っぱらから土下座させた鬼畜外道として、一躍この町の有名人になるだろう。
だから、それ以上に肩が下がる前に……空那は慌てて駆け寄り、抱き起こす。
「だ、大丈夫だから! 俺、もう気にしてないしっ!」
雪乃は、涙の浮かんだ瞳で空那を見上げた。
「……本当に?」
「ほ、本当、本当!」
掠れた声で、カクカクと壊れた人形のように頷く。雪乃はパアっと明るい笑顔を浮かべると、ようやくホッと息を吐いて涙をボロボロと零し、「ありがとう」と呟いた。
そして……その日の昼休みである。
屋上で空那は一人、雪乃の手作り弁当を食べていた。
つきあい始めてからは毎日のように作ってきてくれて、二人で仲良く一緒に食べていた。
昼に雪乃にこれを渡された時、正直、顔が引きつった。
しかし、そんな彼の様子を察した雪乃が、沈んだ顔で言ったのだ。
「ごめんね。今は、一緒に食べてとは言わないわ。でも、もったいないから食べてくれると嬉しいな……」
その一言に、空那はホッとした。
では、いただきますと弁当を受け取り、逃げるように屋上へ来たのだ。
ちょっと薄情な対応だったとも思うが……ま、仕方ない。
朝は見物人の手前、許すと言った。が、心情的には、まだ全然納得できていない!
ぶっちゃけ、空那はへそを曲げていた。
そして、へそぐらい曲げたっていいではないか! とも思っていた。
青い空を見上げて、空那は思う。そうしないと、涙が溢れてしまいそうだったから。
(……だって、だって。初めての彼女だったんだもん!)
と、またそれである。
彼女からの告白が、自分ひとりの魅力ではないという事実は、どうにも腹に据えかねて、雪乃の顔を見ると、劣等感で泣きたくなるのだ。
いわゆる、男の純情とプライドがボロボロ状態だった。
溜め息混じりに弁当箱を見下ろす。綺麗に並んだたくさんのオカズが、目に入る。
気合を入れて作ったであろうタコさんウィンナーが、ひときわ眩しい。なんとも手の込んだことに、ノリでハチマキ、ゴマで目まで作ってある。
食べてもらえないかもしれない弁当を、一生懸命に作りこむ……その精神力は、いかばかりか?
空那は想像し、胃が痛くなった。いつもは美味しい卵焼きも、今日はなんだか土を食んでる気分だった。
作った雪乃も辛かったろうが、食べる空那だって辛いのだ!
幸せと言う字から一を抜いたら、あっという間に辛くなる。
辛い辛いの連続の、『辛い弁当』なのである。
……そんなくだらない事を考えながら、ふと視線を隣にずらす。
5メートルほど離れた場所で、小柄な女生徒が黙々と、二つ折りにした食パンを食べている。
首から下がるのは、三年生の色のネクタイ。先輩である。
(あれ? あの人……確か名前は……
有名人なので、すぐにわかった。変わった名前だが、日本人らしい。
高校生にして天才数学者とかで、新聞に載ったこともあるそうだ。
彼女は、年上どころか、高校生とは思えないほど小さな身体をしている。正直、小学生でも通じるほどだ。スレンダーと言うにも
あまりに年齢と不釣合いな体格に、実は飛び級で高校に入っただとか、アインシュタインの脳細胞から作られたクローンだとか、政府が秘密裏に作った実験体アンドロイドだとか……妙な噂まで流れている。
こんな所で一人で食べてるなんて、一緒に食べる相手はいないのかなぁ? ぼっちだね、俺と一緒かな? などと、失礼な連帯感を抱きつつ横目で見ていると、アニスのパンから、コロッケと思しき物体がポロリと落ちた。
思わず、口から声が出る。
「あ!」
アニスはパンを齧り、しばらくしてからコロッケが乗ってない事に気づく。
そして視線を巡らせて地面のコロッケを見つける。それからゆったりした動作でコロッケを拾い、困った顔して眺めた後、空那が見ていることに気づき、それからもう一度コロッケを見て、首を傾げた。
その顔は、なんだかとっても悲しそう。
天才女学生には思えない、のんびりとした動作である。
なんだか空那は気の毒になってしまい、自分の弁当箱を見下ろす。
そこにはまだ、手つかずのコロッケが残っている。
弁当を持って立ち上がると、アニスに近づいた。
「えと……こんにちは!」
アニスは、ぼんやりした目で空那を見上げる。どこか遠くを眺めるような……まるで、半分眠っているのかとさえ思う表情だ。
頭をかきながら、空那は言う。
「コロッケ、好きなんですか?」
こくり。小さな頭が動く。
「あのですね、俺の弁当なんですけど……つっても、俺が作ったわけじゃなくて、俺の幼馴染が作った弁当です。実は俺、今日はあんまり食欲がなくて。よかったらコロッケ、まだ手をつけてないんで、食べませんか? あ、味は保証しますよ! 絶対に美味しいです!」
アニスが喋らないので、倍くらい空那が喋って弁当箱を差し出す。
アニスは中を見て、それから無言で齧りかけの食パンを差し出した。
心なしか、目がキラキラと光ってる。
「え?」
ずいっと。もう一度、パンが近づく。
「あの、ここにコロッケを、のせろと?」
戸惑った空那が指さして聞くと、アニスはこくりと頷いた。
箸で載せてやると、アニスはパクリと齧ってから言う。
「おいしい。ありがとう」
小さな声だった。
空那はビックリする。まさか、アニスが喋れないのでは……? とさえ思っていた矢先だったから。
しかし、相変わらずの無表情だ。
アニスは、自分の隣をぽんぽんと手で叩く。
わけがわからずに首をかしげていると、もう一度ぽんぽん。
空那は戸惑いつつ、彼女に尋ねる。
「えっと、ここに、座れと?」
こくり、頷く。
その横に腰掛けると、アニスはまたパンを齧り始めた。
相変わらず、会話はない。
仕方なしに、空那も自分の弁当を食べ始める。
ふと横を見ると、アニスはノートを膝に広げて見ている。
正体不明の数式が、まるで抽象画の用に羅列されたノートで、空那は、「うわあ。三年になったら、あんなのやらなきゃいけないの?」と圧倒される。が、すぐに気づいた。
彼女は数学者なのだ。これは、趣味に違いない。
ぐへえ、とんでもない趣味もあったもんだー、と感心していると、空那の視線は興味を惹かれたものと勘違いしたらしい。
アニスはノートを得意げに、空那に広げて見せてきた。そのうちのいくつかを細い指先で指し示す。どうやら、お礼のつもりらしかった。
なんともコメントに困る物体を、誇らしげに見せられて、空那は焦る。
ページがめくられるたびに「あー」だの「うーん、なるほどぉ」だの、わかりもしないで呻き続けるしかない。
だが……とあるページでふと、空那は首を傾げた。
「あれえ!?」
その声に、アニスもまた、かくんと首を傾けた。
空那の指が、まるで磁力に吸いつけられるように、ノートの一点を指し示す。
「ここ、おかしくありませんか?」
もちろん、空那に数式はわからない。数学のテストだって、いつも平均点ギリギリなのである。
……なのに、なぜかそこがおかしいと感じた。
わからないのに。……なぜだろう?
言葉が確信を伴って、勝手に口をついて出る。
「うん。絶対におかしいですよ! ほら、ここで結果が収束してます!」
アニスはその指先をジッと見つめ、しばらく経った後に頷く。
小さな、小さな声で呟くように……、
「ほんとうだ」
同時に、校舎にチャイムが鳴り響いた。空那は弾かれたように立ち上がる。
「あ!? やばい! 次の時間、PCルームだ! じゃ、失礼します! 先輩!」
慌てて頭を下げて駆け出した。
その背中を、アニスはただ、ぼんやりと眺めていた。
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