真っ黒い夢と、かなり黒くない現実

 広い部屋である。床も壁も、一面が白い大理石だ。

 天井に、巨大な黄金ランプが吊り下げられている。そこに紫色の火が灯り、光を部屋に投げかける。

 部屋いっぱいに脳を痺れさせる不思議な香りが充満してる。

 床には魔導書や武具、マジックアイテム、あるいは高価な芸術品が無造作に放置されていた。

 ランプの火は、時に強く燃え盛り、時には小さく揺らいで、床の上に並べられたそれらの影を、大小様々に躍らせるのだ。

 それは誰もいないはずなのに、まるでそこで黒い魔物が踊っているようにも見せて……なにか、ハッと惹きつけられるような、そんなグロテスクな美を生み出していた。

 ……案外、そこまで計算して置かれているのかもしれない。


 ふと気づくと、目の前に誰かが立っている。

 背の高い、人形のように整った顔の男である。

 男が言う。


「これで、お前は我の物になる……後悔はないか?」


 悔しさに唇を噛み締めて、睨みつける。


「後悔など……っ! 貴様に出会ってからしなかった日は、ただの一日とてない!」


 男はニヤリと、嫌らしく唇を持ち上げる。まるで自分に向けられた怒りが、楽しくて仕方がないといった風だ。

 男は笑い混じりの声で言う。


「だが、それがお前の選択だ。安心しろ、我は決して嘘は言わぬ。だから……」


 そして、男は獣のような手を伸ばす。爪の先で顎を持ち上げられた。息がかかるほどの距離に顔が寄せられ、熱く、人とは違う匂いの吐息が肌を焼く。


「我は、お前が大好きだぞ! これも嘘偽りない……本心からの言葉だよ!」


 この状況で、まだ嬲ろうというらしい。堪えきれない涙で、視界が滲んだ。


(……ああ、この男は……っ!)


 蛇のように長い舌。それを首筋に這わせながら、男が覆い被さってきた。

 引き締まった筋肉。ビロードに似た、黒い獣のような毛皮。鋭い爪が肌を滑り、胸の先を優しく摘んだ。

 そして……男の下腹部にあるのは……目の前が、漆黒のマントで黒く染まる。


 ふと目を開けると、天井は薄い黒だった。

 寝てる間に、夜になってしまったらしい。

 はっきりと覚えていないが……なにか、変な夢を見た気がする。

 不思議と心がざわついていた。

 身を起こそうとして、妙な感触に気づく。

 薄暗い部屋の中、体に掛けていた毛布を見下ろし、空那は戦慄した。


 こんもりと膨らんで……中に、誰かが入ってる!?


 と、毛布の中から声が聞こえた。


「はあ……はあはあ……おにいちゃん……アタシのおにいちゃん……い、いざ、この剛直でヴァルハラへと導かん……くぅ!」


 毛布をめくると、ごそごそと動く赤毛とリボン。吐息混じりに漏れ出る熱い声に、空那は平手をかます。


 ペシン!


 影がギクリと硬直する。


「ひゃん?」

「おい。おいおいおい! なにやってんだよ、お前は!?」


 がばりと毛布が持ち上がり、砂月が顔を出した。


「いや……もう夜だし。おにいちゃん、晩ご飯食べてないから、持ってきてあげたんだけど?」

「持ってきたのはいいけれど。なんで、俺の上に乗ってるの?」

「その……もしかして、寒いんじゃないかなーって。低体温症で死んだらいけないし? ほら、よく言うじゃん? 寝たら死ぬぞー! 人肌であっためるんだーって……なんていうの、人命救助?」


 無理がある。

 が、あくまでトボけようというらしい。

 つきあってられんと空那は溜め息を吐き、砂月を強引にベッドから追い出した。

 それから部屋の電気を点ける。見ると、机の上には皿に乗ったハンバーグが置いてある。

 時刻は、夜の十二時を過ぎていた。

 そういえば、腹がペコペコだ。

 ありがたくいただく事にして、上に掛かっているラップを外す。まだ、ほんのりと暖かい。

 ベッドに腰掛け、箸を手に取り、食べようとして……ググゥ。どこかで、音が鳴った。

 そちらを見ると、砂月が物欲しげな顔でこちらを見ている。

 空那は不思議そうに尋ねる。


「あれ? まさか、お前もまだ食べてないの?」

「うん。だって、おにいちゃんが食べてないのに、アタシだけ食べるわけにいかないじゃん!」


 その言葉に、空那は不覚にもちょっと『グッ』と来てしまった。

 傷心の彼は、優しい言葉に弱かったのだ。

 だが、すぐに首を振って思い直す。


(いやいや! こいつも確か魔王ナントカで、結局は俺の頭の中にあるナントカカントカいう……古代遺産だかなんかを狙ってるんだよな……)


 そう思うと、急に憎らしくなって、砂月からハンバーグを隠すようにして食べ始める。

 砂月は寂しそうな顔で、ハンバーグをできるだけ見ないようにしながら、それでも時折ちらちらと見てはフンフンと鼻を鳴らし、またググゥと腹を鳴らす。

 空那は無視して食べ続ける。

 が、ふとハンバーグの味に違和感を覚えた。

 肉汁たっぷり、チーズ入りの煮込みハンバーグ。付け合せは茹でたブロッコリーと、コーンの入ったポテトサラダだ。

 うまい! 間違いなくうまいのだが……これは、いつも食べ慣れている、母の味ではない。


「なあ。これ、どうしたんだ?」


 砂月が不安そうな顔で、空那を見た。


「ア、アタシが作ったよ? だっておにいちゃん、朝、お母さんに晩ご飯いらないって言ってたでしょ? アタシも、いざとなったら強引についてくつもりだったし。だから、おにいちゃんの分もアタシの分も、ご飯の用意がなかったのね。だから……あの、もしかして、口に合わなかった?」


 空那は首を振る。


「いや……すごく美味しいよ」


 その一言に、砂月の顔にパッと喜色が広がる。


「ほんと? 嬉しいーっ!」


 砂月は笑顔で飛び跳ねる。

 空那はその健気さに、ジーンと心を打たれてしまう。


(うぅ、くそ…………可愛い……)


 まったく、なんといういじらしさ!

 こいつ、どれだけ好き好き光線撃ってくるつもりなんだろう!?

 ここまでされると、さすがに一人でハンバーグを食べ続けるのも気が引けてくる。

 空那はドギマギしながら砂月を手招きで呼び寄せる。そして、


「や、やっぱり半分ずつ食べようぜ? ……ほら!」


 そう言って、空那は箸で小さく切ったハンバーグを差し出した。

 すると砂月は二マッと笑い、嬉しそうに空那の膝の上に座り込む。それから満面の笑みで口を開け、


「あーん」


 と、来た。

 口の前に持ってくと、パクリと食べて、


「んふーっ。し、あ、わ、せぇー!」


 言いながら、後頭部をグリグリ押し付けてきた。

 空那は自分の口にハンバーグを運ぶ合い間に、砂月の前にもハンバーグを差し出す。すると、嬉しそうに食べては鼻を鳴らし、また頭を擦りつけてくる。


 このやりとり。

 なんというか、これってとっても……心が、じんわりあったかいのだ!


 膝の上の砂月にハンバーグを食べさせながら、空那は心が癒されていくのを感じていた。

 最近の彼女の奇行に少し距離を置いてはいたが、大切な家族に違いはない。

 笑い顔は素敵だし、性格だって悪くない。もともとが、嫌いなわけじゃないのである。

 だから、こんな風にスキンシップしていれば、やっぱり幸せを感じてしまう。

 だってこいつ、可愛いんだもの。


(いやいや、これはあれだって。なんかドッグセラピーみたいな感じで、動物に餌あげたりしてると癒される行為と同じだって!)


 そんな安らぎに言い訳しつつ、二人で美味しく煮込みハンバーグを平らげた。

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