第4話 期待と不安の新生活①

 翌朝、ラシェルはまだ使用人すら起きていない早朝に目を覚ました。

 寝台で体を起こし、小さく欠伸をしてから、窓の外がまだ暗いことを確認する。


(よし、計画通りね)


 昨晩はこのために、体調が悪いなどと言い訳をして早めに寝床についたのだ。

 寝台から飛び降りると、あらかじめ用意しておいた動きやすい外出着にそそくさと着替える。

 そして、同じく昨晩のうちに用意して、寝台の下に隠しておいた大きな革の鞄を引っ張り出した。

 中身は主に、下着や寝間着といった着替えから、手鏡やブラシなどの生活雑貨品。そして、以前から愛読していた軍用書などの参考書類だ。


(思ったより大荷物にならずに済んで良かった。足りないものは騎士団の宿舎に移ってから揃えればいいから、必要最低限の持ち物だけで大丈夫だものね)


 ――そう。今からラシェルは、「家出」を決行するのだ。


 幸運にも、数日前から両親は取引のために出かけている。おかげで、昨日の面接のために家を抜け出すのも比較的安易だ。

 あとは、ハルフェロイス邸に仕える使用人たちの目をかい潜って出て行くだけだ。


(……そういえば、昨日面接の最後に渡された楽譜も持っていかなくちゃ)


 そう思い出して、慌てて机の上に置いたままになっていた楽譜を手に取る。

 寝る前に少しだけ譜読みをしようと思っていたが、その他の準備に手間取り、手つかずのまま放置してしまっていた。


(読み込んでおいてくれたまえ! ……って、言われてたけど……)


 面接の際のアルベルトという名の団長の明るい笑顔を思い出し、改めて譜面に目を落とす。

 昨日渡された時は、採用された嬉しさと予想外の注文への戸惑いから冷静さを欠いていたので、まともに見ていなかったのだ。


 ――が、すぐにラシェルは青ざめた。


「な、なにこれ……! 物凄く本格的な楽曲じゃない……!」


 重なる和音を示す音符が幾重にも羅列し、音の強弱を現す記号が事細かに記されたこの楽譜は、初心者が何となくで弾けるような簡単なものではないということは、一目で解った。


(どうしよう……。そりゃあ確かに、小さい頃はハープをそれなりに頑張って練習していたけど、もう五年くらい触ってないし……楽譜を最後に見たのだっていつだったか覚えていないくらいなのに!)


 安請け合いしてしまったことを激しく後悔した。


(……で、でも、ちょっと待って。騎士団が弾く音楽なんだから、そんな本格的なものじゃないはず。ちょっとした教養か、もしくは、何かのイベントのための余興みたいなものよね、きっと)


 そう、心に言い聞かせる。

 とはいえ、ちょっとは安心材料になるかもしれない――と思い、出発の前に、ラシェルは邸内の音楽室にそっと忍び込んだ。

 ここは、両親が娘達に教養として音楽を学ばせるべく、一流の楽師を招いて練習させるために作らせた部屋だが、ラシェルの姉はすでに嫁ぎ、そしてラシェルは途中で音楽を辞めてしまったため、五年近くの間、人の出入りのない物置部屋となっている。

 立派なグランドピアノと、そしてラシェルの祖母が愛用していたグランドハープが、暗い部屋の中で埃をかぶったまま佇んでいる。

 その哀愁に満ちた姿を何だか申し訳ないような気持ちで横目でちらりと見ながら、本棚の中から目的のものを捜す。


(そう、これよ、これ)


 引っ張り出した目的の本もまた僅かに埃が被っていたが、ぱんぱんと叩いて掃って、状態を確認する。

 その本は、かつて両親がラシェルにあてがった音楽の教師が書いたという教本だ。


(やたら厳しくて面倒くさい先生だったから、レッスンがいやでいやで仕方がなかったけど……)


 当時は開くのも億劫であった本だが、久しぶりにハープを弾く上で、何か参考になるかもしれない。

 ラシェルはその教本を手にしていた革の鞄の中に詰め込むと、気を取り直して屋敷の裏口へと向かった。

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