第八章 白珠の願い

 私たちを取り巻く世界が、刻一刻と壊れつつある。そんな中、この世界でただ二人自発的に動ける私と黒曜は、学校の図書室に籠って本を読んでいた。

「で、なんかいい場所ありそう?」

 読書に勤しむ黒曜に問う。黒曜は言葉を返すのではなく、読んでいる本の表紙を見せて反応を示す。

 黒曜が読んでいたのは、娯楽小説だった。

「……おい」

 私は目を鋭くして詰問する。

「いやあ、この作者のシリーズ面白くてさ」

「……わかった、今度は私が行きたい場所に決定ね」

 行きたい場所、と言っても本当に行けるわけではない。この世界に、そのような場所はもう残っていないのだ。

「うーん、それでもいいけど、勝負もせずに権利を渡すのは面白くないな」

 黒曜はそう言って不敵に笑う。

 私達は、この世界の崩壊を止めようとそれなりの努力をしつつ、残った時間を有意義に遊んで使おうという、どっちつかずな二面作戦をとっていた。

 二面作戦のうち、遊ぶ方はいい感じに遂行できていた。今みたいに、二人で図書館の書籍やらコンビニの雑誌やらを読んで得た知識で、あるいは黒曜がデータベースにアクセスするなどして、二人で行きたい場所を選定し、それを私と黒曜の能力で、小規模ながらも再現する。そして、そこで自由に遊ぶのだ。

 これは黒曜が提案したものだが、良い発想だと思えた。二人でボール遊びに延々と興じるのは、さすがに稚気じみ過ぎている。

 一方の、世界の崩壊を止めようとする作戦。これは私が主導となって行われた。

 私は考えついた手段を片っ端から試していった。

 黒い海に飲み込まれていった、白い大地を再生しようとした。

 この世界に漂うデータを集めて、黒い海を埋め立てようとした。

 黒い海が侵食する速度を、白い大地の果てを強固にすることで、遅らせようとした。

 今のところ、その全ては、徒労に終わっている。

 黒曜が言っていた、『風呂場の浴槽が壊れている』という比喩は、わりと正しい。結局、栓が抜かれて浴槽が割れている状況から、水が流出することを防ぐのは、水の側からはどうしようもないのだ。浴槽を、どうにかしなければならない。

 私の心の片隅では、諦観があの黒い海のように、じわりと侵食しつつあった。かつて、黒曜もこのような気持ちを味わったのだろうか、と思う。

「……どうしたの?」

 などと考えていると、黒曜が私の顔を覗き込んでくる。

「ああ、いや、別に。何があったってわけじゃないよ」

 私は慌てて取り繕い、両手を前に出して、振る。

「……本当に?」

 澄んだ漆黒の瞳が、白磁のような瞼で細められ、じっと私を見つめていた。

「……この世界のこと、考えてた」

「…………どうやれば、崩壊が止められるかって?」

 黒曜の問いに、こくりと首肯する。

「それもそうなんだけど、今までやってきたことは、全部上手くいかなかったなって」

 そう言って黒曜を見ると、黒曜は黙って微笑みながら、小さく頷いていた。

「ねえ黒曜、やっぱり無理なのかな」

 そう私が力なく問うと、黒曜は難しい顔をして、しばし思考する。

「無理……、かどうかはわからない」

 黒曜はそう切り出し、言葉を続ける。

「しかし、可能性は限りなく低いだろう。それこそ、この計画の最初の目的……、この宇宙船が、どこかの知的生命体に発見されて保護される……、なんてミラクルがない限りは無理だ」

「……つまり、私達にはどうしようもないけれど、奇跡の中の奇跡が起これば……、崩壊は止められるってこと?」

「そういうことさ。他人任せみたいで、ちょっと気に入らないかもしれないけどね」

 そう言って、黒曜は諦めたように笑った。その笑顔にたどり着くまで、黒曜は何度無力を味わったのだろうか。

「……そう、ね」

 私は絞り出すように言って、笑い返す。

「白珠。君が、この崩壊を止めたいと言うのならば、私はそれにいくらでも付き合おう。その気持ちを無理矢理我慢するなんてことは、きっと君のためにならない。けれど、崩壊を遅くできないこと、そして止められないなんてことを、君が気に病む必要は少しもないさ」

「……どうして?」

「だって、私はひとつも気に病んでいないもの」

 黒曜が口にした理由は、そもそも理由として成り立っているのか、という疑問を覚えてしまうようなものだった。

「……なんていうか、それでいいの?」

 と思わず聞いてしまう。黒曜は鷹揚に首肯し、「いいとも」と断言して続ける。

「この世界を生きるための時間は、きっと有限だ。それは、私たちの世界を搭載して銀河を彷徨う、滅んだ星の船が誰かに拾われたって、間違いない」

「……そうなの?」

「ああ、これは間違いなく断言する。永遠、というものはこの世界に存在しない。永遠に思えるような時間の流れも、いつかは終焉を迎えるに違いない。かつて、私たち、いや私たちの元となった人々が住んでいた星も、悠久の時の流れの果てに、滅びたのだから」

 黒曜の言葉を聞いて、私はこの宇宙のどこかで塵となった星を想像する。そこには、たくさんの人々が生きていたのだろうか。滅亡の間際、彼らは何を思ったのだろうか。

 そして、私は何を思う? 彼らと酷似した境遇にある私は、終わりに対してどのような心構えをすればいいのだろうか。

 黒曜は、生きることに飽きたといった。では私は、どうだろうか。私が私という連続した思考体を自覚したのは、さほど前のことではない。

 そこから、今までの時間、私は私として生きてきた。それは、充分に生きたと言えるだろうか。

「黒曜、あなたは前に、生きることに飽きた、と言ったね」

「……ああ、言ったよ」

「私は、一つも飽きてないわ。まだ、全然飽きてない」

 私は。

「飽きるまで生きていたい」

「……それが、君の願いなんだね」

 黒曜がぽつりと言う。それに対して、私は目を鋭くして、強く首肯した。

「ええ、これが、私の願い。……黒曜、私は抗いたい。この滅びに対して、出来るところまで。……付き合ってくれる?」

「ああ、いいとも」

 そう言って、黒曜は首肯する。私は黒曜の答えに、嬉しくなった。

 その一方で、私のわがままに黒曜を付き合わせて良かったのだろうか、という疑問も浮かぶ。

「本当に、いいの?」

「いいとも。唯一の友の頼みだ。断る道理なんてないさ」

 そう言って、黒曜は爽やかに笑った。

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