第一章 君の目覚めと黒い海 3
走る。走る。走る。
いくら走っても見えてくるのは白と黒ばかりで、私の見知っている景色など何一つない。通学路を逆走して学校に辿り着くも、学校も駅と同様に黒い線で縁どられた白い何かとなっていた。
学校に入ることなく、その周りを沿うように走る。グラウンドの近くでさすがに疲れたので走るのをやめて、歩く。
グラウンドを見ても、どうせあの白いマネキンがいるばかりなのだろう。そう思い、出来るだけ見ないようにしていたが、ふとグラウンドを見てしまう。
やはりそこには、マネキンたちがいた。マネキンたちが部活動をしている。白いバットを持っているマネキンがいれば、白いハードルを飛び越えているマネキンもいるし、白いゴールポストに白いボールを蹴り込んでいるマネキンもいた。
その様子を見て、私の背筋にぞわりと悪寒が走る。私の日常は、この白に侵食されたのだろうか。
再び私は走り出し、行く当てもなく進み続ける。
次第に景色から、物々を縁取る黒線が消えていき、真っ白い平野になってくる。この平野の果てに向かえば、元の日常を取り戻せるかもしれない。そう思い、私は足を止めない。さっきまで見ていた町は、私のずっと後方にあるだろう。
そして、白以外の景色が見えてくる。
「……なんだろ、あれ」
見たこともない風景に、私は思わず呟きを漏らしてしまう。
私の視界に映ったのは、微かに紫がかった一面の黒だった。それは私が立っている場所よりもずっと向こうにあり、白を浸食するかのように波打っているようにも見える。
まるで黒い海だな、と思った。私はその海に向かって、歩く。
しばらく歩いて、白の果て、黒の始まりに辿り着く。黒は、本当に少しずつではあるが、白を浸食しているように見えた。
黒い海は、ただ静かにそこにある。その色は、おそらく触ってはならないものだろう。
しかし私は、そんな理性の警告も無視して、白に膝をつき、黒にゆっくりと手を伸ばす。心の片隅では、この黒の向こうに元の世界があるかもしれない、という期待があったのかもしれない。
右手で黒に触れる。指の先がおぼろげになり、溶けていくような感覚がした。私というものから、私の断片が剥離して消えていくような気がする。
それは強い嫌悪感を伴っており、そしてその一方で、静謐を伴った安堵のようなものも覚える。
この感覚を、私はどこかで体験したような気がする。頭の中を探ってみる。自分の名前すらわからないのに、こんな朧気なものが見つかるだろうか。
まあ、あいつは私の名前は無い、と言っていたが。無いものは見つからない。
私が頭の中を探る間にも、黒は私をじわりじわりと溶かしつつあった。まるで、疲れ切っているときに入る湯船のように、それは安らぎを伴っている。
このまま、黒の中に身を投げ入れてしまえば、もっと気持ちよくなれるかもしれない。そんなことを思っていると、私の肩を誰かが強く掴んだ。私は驚いて息を止め、目を見開いていると、更にもう片方の肩を掴まれ、強く引き戻される。
ごろりと白の上に転がり、見上げるとそこには黒髪がいた。
黒髪の額には汗の粒がいくつも浮かんでおり、呼吸は荒々しい。黒髪は先ほど浮かべていたような余裕の表情ではなく、ただ怒っているような、泣きそうな顔を浮かべていた。
そんな黒髪と目が合う。直後、黒髪は困ったように笑った。
「……いやあ、全く無茶するなあ」
と眉をしかめているのか、それとも眉を下げているのか、よくわからない笑みを浮かべ、黒髪は小首を傾げる。
「これ、無茶だったの?」
「まあ、無茶でしょ。そのままずっとそれを続けてたら、君は消えるだろうね」
「なにそれ。よくわかんないんだけど」
そう私が返すのも放っておいて、黒髪は私の右手に触れる。驚くことに、私の右手の触覚は、いつもよりもずっと機能が低下していた。触れている黒髪の手の感触が、いまいちわからないのだ。
「ああ、こんなにしてしまって……」
と漏らしつつ、黒髪は私の右手を両手で包み込む。少しすると、黒髪の手の温もりが、伝わってくるようになる。それに付随して、私の手の感覚も蘇ってきた。
「もうこれで大丈夫だよ」
黒髪はそう言って私の手を離す。私は呆気に取られて自分の右手を見つつ、試しに左手の指先で突っついてみると、爪が当たる感触がした。
「…………ありがとう」
「いや、どういたしまして。……もうちょっとこっちに」
黒髪は私の脇に手を入れて、私を立たせる。その後、私は黒髪に手を引っ張られて黒い海から離れた。
「ま、ここぐらいならいいでしょ」
と言って黒髪が私を解放したのは、黒い海から二十メートル近く離れた場所だった。
「あれ、そんなに危険なの?」
「危険というか、アレに触れてたら消える」
「消える、って何?」
「文字通り、消えてしまうのさ。でもって、君の欠乏を補うために、この世界は新しい君を作るだろう」
黒髪が言っていることの十割は理解できないが、つまり何一つわかっていないのだが、私が消えて新しい私がそれを埋める、という文面は不気味だった。
「だろうというか、作る。これは確定してるよ」
「断言するのね」
「そりゃあね、毎日、消えていく人を見たから。……来てごらん」
そう言って、黒髪は私の手を引いて歩く。しばらく歩くと、黒い線で縁どられた白の何かが、地面の上に続いているのが見えた。
私たちは横側からそれに近づく。それの一方は町に続いており、そしてその反対側は、黒い海で途切れている。
それは線路だった。
「あれ、私が乗ってる路線の」
「そうだね、君が毎朝使っているという“設定の”路線だ」
「……また設定、なのね。この世界は、何なの?」
「この世界は……」
私の問いに対し、黒髪はそう返したあと、しばし口ごもる。言葉を取捨選択しているようだった。
「この世界は、まがい物なんだ」
「……はあ、まがい物」
黒髪の言っていることは現実感が希薄で、つい間抜けた返しをしてしまう。とはいえ、この状況の時点で現実感は皆無に近いのだが。
「かつてあるものを、再現しているだけだ」
「この白と黒が?」
「いや、それは違うけど。……さっきまで君が見ていた、色彩溢れる景色、あれがそうだよ」
「……なるほど、私が現実だと思っていたものは、全部過去のものだったと」
そう私が言うと、黒髪は「そういうこと」と言って首肯した。一方の私は、信じる信じないという問題を横に置いて、黒髪の話を聞くことにする。
「そして、私たちが生きるこの場所は……」
と切り出して始まった黒髪の話は、要約するとこういうことだった。
私たちの世界は巨大な記録媒体の中にあり、その記録媒体は宇宙船に乗っているということ。私たちの世界のモデルとなった惑星は、遥か遠くにあり、そして。
「滅んでしまったんだよ」
「はあ、さいですか」
とのことだった。スケールが大きかったり、突飛だったりで、もう理解することを諦めたくなる。
今の私の現実は、無味乾燥な白と黒ばかりである。音なんてものは、私と黒髪が発するもの以外何も聞こえない。
そんな中で、私は一つの疑問を持つ。
「……私も、まがい物なのかな」
我思う、故に我あり。そう、どこかの偉い哲学者が言っていたような気がする。では、作り物、まがい物の世界の中にいる私は、果たして存在していると言えるのだろうか。
そして、思考するということが存在の証明ならば、その思考は純然たる私のものなのだろうか。思考しているのではなく、“思考していると思い込まされている”のではなかろうか。
「それは、わからない」
黒髪は私から目を背け、そう力なく呟く。
「そ、か。わからない、か」
私はそう言って、彼方の黒い海を見ながらぼんやりと考える。
自分が何者でもないかもしれない。自分というものは獲得したものではなく、何者かに与えられた情報だけで成り立っているのかもしれない。そんな思考が、黒髪から聞いた話を発端にして、私の中に根を張ろうとしている。
正直なところ、こんなことは知りたくなかったな、と思う。何も知らないまま、こんな白と黒を見ないまま、あの町という作り物の舞台で、日常という演目を演じるだけでよかった。
きっと、そっちの方が幸せだっただろうと、今は思う。
黒髪はそんな私の思考を読み取ったのか、悲しげに微笑んだ。
「……悪いこと、したかな」
「悪いことかどうかは、まだわからない。ただ、知らないままでいられたら、それはそれでよかったな、とは思う」
私がそう言うと、黒髪は「そうか」と少し残念そうに言った。
「私はね、この世界をずっと見ていたんだ」
「この世界って、どっち?」
「白と黒の方。……君は見ようとしてこの世界を見た。私はその逆だった。あの色彩溢れる嘘の世界を、見ようとしなければ見れなかったんだ」
つまり、この何一つ面白くない世界を延々と見続けたわけだ。それは拷問に近い。
そう思う一方で、この面白くない世界を私に紹介して、黒髪にとって何があるのだろうか、と思った。
「そんな白と黒の世界に、ある日君があらわれたんだ」
「……なんで、私?」
「それは……、なんでだろうね。でも、マネキンばかりの世界に、ある日突然、君が現れた。私は君を、絶対に消したくないと思ったんだ」
黒髪はそう言って、「ついて来てほしいところがある」と手を差し出してくる。
私はその手を取るか否か逡巡し、そこまで心の距離が近いわけでもないので、手を取ることなく、黒髪の後ろについていくことにした。黒髪はそんな私の意思決定を察し、少し残念そうに手を下げて、歩き始める。
「あの黒い海は、いわば無なんだよ」
歩きながら、黒髪がおもむろにそんなことを言う。「そうなんだ」と私は相槌を打ち、ただ足を動かし続ける。
そうしているうちに、線路のすぐそばにまで近づいてきた。町の方を見ると、色の無い家々があり、そしてその間を線路が通っている。
少しして、黒い線で縁どられた白い電車がやってきた。その中には、白いマネキンのような人々が、多数乗っている。
「……あ、あの電車」
その電車が走っていく向きを見て、私はとあることに気づく。その電車は、町から走ってきた。向かう先にあるのは、あの黒い海。
「……そうだよ。そういうことだ」
黒髪は何か諦めたようにそう言って、「目を背けずに見て欲しい」と黒い海の方に顔を向ける。私もそれに倣う。これから起こること、それを大まかに察しながら。
私が予想した通り、電車は黒い海へと走っていく。線路は黒い海の直前まで続いており、黒い海で途絶している。
そして電車は、黒い海へと進み、そして黒い海に差し掛かる。
何の音も出さず、何一つ悲鳴も聞こえず、それは黒い海の中へと消えていった。
「……あの中に乗っていた人たちは」
「消えたよ。でも、明日になれば、今度はあの線路の果てから電車がやってきて、その中に乗っているはずだ」
「……消えたのに?」
そう私が疑問を呈すると、黒髪はその髪の毛を指先で弄び、言葉を返してくる。
「ああ、今の電車に乗っていた人たちは消えた。明日やってくるのは、その人たちと全く同じ特徴を持つ、新しく創られた人たちだ。消えた彼らとやってくる彼らが同一人物かどうか。それを判断するのは、君の自由だ」
そう黒髪は言うが、例えば私が消えて、私そっくりの人間が現れたとして、私はそれを私本人と呼べるだろうか。
私を私と証明する手段は、連綿と続く思考と記憶しかない。そして今の私が持っている記憶は、今日以前のものが存在しない。
昨日の私は消えたのだろう。そして、今日の私が現れた。両者が同一人物だと、私はどうしても思えなかった。
「あなたは、消えたことがないの?」
「私かい? 私は、一度もないよ。ここがどういう世界で、何をしてはいけないか、ってことを最初から知ってたからね」
「……それはどうして?」
「あはは、色々あってね。ちょっと今は言えないけれど」
と言って黒髪は答えをはぐらかす。今は、と言うが、ではそのいつかは来るのだろうか。
「……私が君にこの世界の真実を伝えたこと、君はどう思っているかわからない。もしかしたら、知らない方がよかった、よくもこんなことを教えてくれたな、と思っているかもしれない」
「まあ、正直それはちょっと思ったけど」
そう私が率直に述べると、黒髪は切れ長の目を細めて苦笑した。
「……まあ、私本位の考えなんだよ。この世界で、私はずっと白いマネキンのような人々ばかりを見ていた。そんなある日、白いマネキンの中に、君という色彩に溢れた人が現れた。私はその事実に打ち震えたし、そんな人間を、いつものように消滅させたくはなかった。もしかしたら、もう二度と会えないかも、って思ったから」
長々と黒髪は語る。私が黒髪の言葉に対して言葉を返すのは、せいぜい二言三言であろう。それに対して、黒髪の言葉の量は私の比にならないほど多いはずだ。
この世界がまやかしだろうが、知って不都合な事実を知らされようが、黒髪の言葉はその量と、そしてその声に籠る涼やかな響きから、私の心に迫ってくる。
「つまり、私をあそこから助けてくれたと」
黒い海を、指さして言う。黒髪はえへへ、と笑ったあと鷹揚に首肯した。
「そういうこと……、にしてくれると、嬉しいかも」
「うん、それはまあ、礼を言うわ。……ありがと」
「いえいえ、どういたしまして」
私が軽く首肯し、黒髪がぺこりと頭を下げる。長く伸ばした私の髪が、重力に従って垂れている。よくできているなあ、とこの世界に対して賞賛のような感想を覚えた。私の記憶にあるゲームなんて、こうやってキャラクターが頭を下げたら、髪の毛はそのままの形でついてくるのに。
そう思い、更に思考を飛躍。そういえば、ゲームの中は架空の世界だろう。そして、私たちが生きるこの世界も架空の世界……、らしい。
架空の世界の中に、また架空の世界があるのか。私たちの世界を生み出した元々の世界も、もしかしたら作り物なのかもしれない。
世界の中に世界があり、その世界の中にまた世界があり……、という連鎖が延々と続く様を想像する。さながら世界のマトリョーシカだった。
それはさておき、目の前に立つ黒髪を見る。まだ名前を教えてもらっていなかった。
「あなた、名前は?」
「名前、か。忘れたかな」
「……さっきは、私と一緒で名前は無いって言ってたのに?」
「いや、遠い、遠い昔はあったはずなんだ。でも、誰も呼んでくれなかったから」
使われない記憶は風化して消えてしまう。黒髪が言っていることは、そういうことだった。しかし、私の名前は設定されていないと黒髪は言った。そんな黒髪は、自分の名前を忘れたという。
この世界がどういうものかと知っていること、意識せずに黒と白の世界を見ていたということ。それらを考慮するに、黒髪は私とは違った存在ではなかろうか、と思う。
まあ、だからどうした、という話だが。
「忘れたってことは、あったってことでしょ。何か思い出せることはない?」
黒髪は「何か、ねえ」と呟き、腕を組んで考え込む。途中からうんうんとうめき声を上げ始めた。どうも、脳に負荷をかけすぎているみたいである。
そして、黒髪が唐突に「あ!」と短く、そして大きな声を出す。油断していた私は、びっくりして体を硬直させてしまった。
「あはは、ごめん」
「ま、まあいいけども。で、何か収穫は?」
私がそう問うと、黒髪は右手の人差し指を、ぴんと立てた。どうやら、一つあったという意味らしい。
「黒」
「黒?」
「うん、黒という文字が入っていた……、という気がする」
「黒、ねえ。じゃあ私はその対称として白かしら。……でも、これじゃあ味気ないわね」
そう思った私は、黒髪をじっと見つめる。相手の漆黒の瞳も、私をじっと見つめていた。
しばし、思案する。黒髪の瞳の色が、私の中にある知識と結びついた。
「黒曜」
「……こくよう?」
「ええ、黒曜石から、黒曜。これでどうかしら」
私がそう言うと、黒髪は「こくよう、こくよう」と何度も反芻する。名前を思いついたのは私だが、そう何度も連呼されると少し恥ずかしいような気がしてきた。
「いいね、黒曜か。それはとてもいい。よし、今から私の名前にしよう」
そう言って黒髪改め黒曜は、破顔一笑する。その笑顔の快活さに、私は少し眩さを覚えた。
「……さて、次は私の名前ね」
「白珠、ってのはどうだろう。君が黒曜石から私の名前を決めてくれたように、私も真珠から白珠という名前を思いついた」
「……真珠って白珠なの?」
そう尋ねたら、黒曜は迷わず首肯した。ならばそういうことなのだろう。
しかし、である。
「私、真珠要素ないけど」
そうなのだ。黒曜は黒という文字が元々彼女の名前にあったらしく、そして彼女の瞳が黒曜石のような色だったから、そう思い付いたのだ。
一方の私は、元々の名前などない。新しく名前をつけるにしても、スタート地点が曖昧なのだ。黒曜は、そのスタート地点を宝石関連に見出したようだが。
「いや、真珠要素あると思うけど」
「……どこに?」
「いや、肌とかスベスベだし」
と黒曜は褒めてくる。初めてそんなことを人に言われた私は、どう対応して良いかわからず、「ど、どうも」と少したどたどしく礼を言うことしかできない。
とはいえ、今の私は、今日という地点から始まった存在である。なので、詳細に言ってしまえば、何事も初めてになるのだろうが。
「……嫌かな?」
黒曜が困り眉をして聞いてくる。
「嫌……ではないけど」
率直に言えば、仰々しい。まるで何かのキャラクターみたいだ。
「少し、恥ずかしいかな」
「それを言うと、私の名前もちょっと恥ずかしいよ」
そう言って黒曜ははにかむ。それはまあ、そうだよな。
「……じゃあ、私も白珠でいいわよ」
「じゃあ、っていうのが気になるけど、ありがと」
そう言って黒曜はにかりと笑う。その笑みには屈託一つ存在せず、やはり眩しい。
「白珠」
笑いながら、黒曜がそう口にする。不意打ちに近いその一言に、心の準備ができていなかった私はびくりとした。
「……慣れないわね」
「そのうちなれるってば」
黒曜はそう軽く言ってしまうが、私の心には、どうかな、と疑問符が付く。
先ほど、黒曜は自分もそれなりに恥ずかしい、的なニュアンスの言葉を言った。ならば、そのうち慣れるかどうか、黒曜で試すことにしよう。
「黒曜」
「ん、何?」
「黒曜」
「……だから、何?」
黒曜は私の意地悪さに気づかず、純粋に私が黒曜を呼んでいると思っているようだ。
ならば、気付くまで呼んでやろう、と思った。
「黒曜、こくよう、黒曜、こくよー、黒曜」
「……ああ、なるほど、そういうことだね」
察した黒曜が、呆れたように笑う。
「わかってくれて何より。どうだった?」
「ぶっちゃけ少しこそばゆい」
困惑しつつ、目尻を下げて笑う黒曜であった。一方の私は、だろうな、と思って更に「黒曜」と呼んでみる。
「いやだから、こそばゆいって言ってるじゃん」
「黒曜、そのうち慣れるって、黒曜黒曜、言ってたし」
「嫌がらせのように人の名前を呼ぶのはやめなさい」
「そのうち慣れるって言ったのはそっちじゃん」
そう私が言いかえすと、黒曜は「ぐむ」と言って口ごもる。その間、私はずっと黒曜の名前を連呼してやった。
「白珠」
そう黒曜が口にする。これは呼んでいるのではなく反撃だな、と思った。
「黒曜」
「白珠白珠白珠白珠白珠白珠!」
「黒曜黒曜黒曜黒曜黒曜黒曜黒曜!」
などと、互いに互いの名前を馬鹿の一つ覚えの如く呼び続ける。殺風景な空間に、セミの鳴き声の如く、私たちの名前が響いた。
そんなやりとりが続き、そのうちに二人とも疲れ果てた表情になる。
「黒曜」
そう力なく言う私の顔には、苦々しい笑みが浮かんでいただろう。
「白珠」
丁度、目の前にいるやつのように、である。
どちらからともなく、地面に座り込む。二人とも馬鹿をやって疲労が極まっていた。
「……馬鹿じゃないの?」
「……そっちこそ」
などとまだ言い合いを続けるも、そこにマイナスの感情はない。それどころか、爽やかさすら感じた。
わはは、と笑いが漏れる。黒曜を見ると、同じように笑っていた。
「馬鹿ね、私たち」
「それは否定しない。……まあそれはさておき、名前は気に入ってくれたかな?」
「……何度も聞かされて慣れたわ」
「それはなにより、私もだよ」
そう言う黒曜に対して、「それは良かった」と言葉を返し、私は立ち上がる。少し遅れて、黒曜も立ち上がった。
私の背後には、黒い海がある。視線の先には黒曜と、そしてそのずっと向こうには白い町。
「で、この世界で何をしろと?」
「何を、と言われても特にはないよ」
「…………わざわざこんなものを見せたのだから、さぞかし大層で深遠な理由があるのかと思ってたんだけど」
「そうは言われてもね、今は思いつかない。ただ、暮らすだけでいいんだよ。言っただろ、このまま君が消えるのを見たくなかったって」
黒曜のその言葉に、多少の引っ掛かりを覚えつつも「そう」と言って納得してみせる。
「……まあ、これから探すわ。この世界が見える私に、できることをね」
そう私が言うと、「ああ、それがいいだろう」と黒曜は言う。その余裕を持った言い回しに、さっきのように名前を連呼してやりたい気持ちに駆られるも、私は大人なので我慢した。
「……少し、いいかしら」
「何かな?」
一つ、とあることを思いついた私は、その許可を得るべく黒曜に尋ねる。
「黒い海の近くに行きたいんだけど」
「黒い、海? ……ああ、世界の果てのことか。なるほど、黒い海か、その言い方はいいね」
「それはどうも。で、良いのかしら?」
「いいとも。あ、でも中には入らないでね」
黒曜の言葉に、「そんなことするわけないでしょ」と返して、私は黒い海へと近づく。
黒い海には、浮かぶものなど何もない。この世界の果て、と黒曜は称していたが、それはきっと正しいのだろう。
なるほど、これがこの世界の果てか。この中に入れば、私たちは消えてしまう。
そして、この海の中に入っていった、昨日までの私を、消えていった私を思う。
今日になって、私はやっと連続した命を手に入れたのだろう。昨日までは、毎日毎日、一人一人の私が生まれ、そして何も知らされないで消えていった。
いわば今の私は、昨日までの私、彼女らの屍の上に立っているようなものだった。
私は、過去の自分の気持ちを推し量ることはできない。私は、生きたいと望んでいるわけでもない。
それでも一つだけわかること。それは、何も知らされないで無為のまま消えることだけは嫌だろうな、ということだった。
両手を合わせ、黙祷する。昨日までの私と、この海に消えていった他の人たち。そしてこれから消えゆく、様々な人たちのために。
この世界に神がいるのかどうか、それはわからない。しかし、この祈りが手向けになれば良いな、と思った。
黙祷を終えて目を開き、「黒曜、終わったよ」と報告する。
「オッケー、じゃあ私は、先に行っとくから」と黒曜は言って、背中を返した。
黒曜の細い背中を少しの間眺めたあと、ぼんやりと黒い海を見る。
「……あれ?」
そこで私は、黒い海が少しだけであるが、広がっているように思った。それも、奥ではなく手前側に。先ほど覚えた錯覚を、またも覚えることに、冷や汗が流れる。
「……まさか、ね」
と私は言いつつ、制服のブレザーのボタンを引きちぎって海の近くに置き、その場を立ち去った。
黒曜を追うように歩く。黒と白の世界の中、その漆黒の髪は無二の存在感を放っている。
現状、この世界の実情を知っているのは、私たちだけだろう。この世界に、たった二人きり、ということだ。
相手が望もうと望まなかろうと、二人きりしかいなければ、よほど相性が悪くない限りは、仲良くすべきだろう。
きっと黒曜は私のことをあまり知らないだろうし、その逆も然りだ。なので、これから知り合っていけばいい。
世界を眺める。黒と白ばかりの無機質な世界。その世界で、色彩に溢れる黒曜を見る。
彼女の色を見れば、心が安らいだ。それは、黒曜も同じなのかもしれない。
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