第一章 君の目覚めと黒い海 2

 そんなこんなで放課後になった。部活動に所属しておらず、またこの時間を一緒に過ごす友人もいないので、帰路につくことにする。

 さすがにそろそろ友人を作らないとまずいかなあ、と思いつつ、夕方の道をてくてく歩く。入学したてとはいえ、もう数日が経っている。なので、クラス内ではいくつかのグループが形成されている……いや、どうだったかな。

 どうも頭がはっきりしていない。兎にも角にも、このままぼっちで居続けるという選択肢は取りたくはなかった。

 夕日の橙光が、彼方で輝いている。それを見て網膜を少し焼きつつ、その鮮やかさに酔う。

 学校から少し歩き、駅に到着する。駅には、私と同じ制服を着た人たちがいた。蝶ネクタイの色が赤だったり緑だったり、様々である。赤が私たち一年生で、緑が……えっと、何年生だっけな。

 しばらく考えたがわからなかったので、まあどうでもいいかと思考を放棄した。

 少しして、電車が到着する。ホームに滑り込む電車、その車窓から中を覗く。誰も乗っていなかったので、座れるのは確定だと喜んだ。

 ドアが開き、人々が流れ込んでいく。私もその流れに合わせて、中に乗り込もうとした。

 そのとき、私の空いた左手を、誰かがぐっと掴む。その力は強く、そして突然のことに驚いた私は、思わず足を止めて背後に振りむいた。

「……あれ、あんた」

 そこにいたのは、昼間の黒髪だった。黒髪は走ってここまで来たのか、額に汗の粒を数個浮かべ、息を切らしている。

「いやぁ……、よかった。間に合った……」

 と言って笑う黒髪を見つつ、何がよかったのかわからないぞ、と思ってしまう。

「……あの、電車乗りたいんだけど」

 そう言って、黒髪の手を振りほどこうとするも、黒髪はさらに強い力で私の手を握ってきた。

「その電車に乗ってはいけないよ」

「……うん? なんで」

 乗る路線を間違っていただろうか。それとも、こいつが未来予知者で何か良くないことを察知して教えてくれたのだろうか。……さすがにそれは無いだろうけれど。

「なんで、か。それはね簡単な話」

 黒髪は呼吸を整え、私を見据える。すっと背筋を伸ばして立っている黒髪は、なんというか、良く出来てるなあと思う程度に見目麗しい。

 しかしそんな美形から飛び出してきた言葉は、荒唐無稽なものだった。

「その電車に乗ったら、君は消えてしまう」

「……パードゥン?」

 何を言っているんだこいつ、と思っているうちに、電車は走り去ってしまった。

「ああ……」

 と私は残念に思い、無念の声を漏らす。この路線はあまり電車が来ないのだ。

「……いやほんと、何なのあんた?」

 少し苛立った私は、語調を強めて詰問する。

「何、と言われても私は私だけど」

「…………もしかして、私のことからかってる?」

「ああいや、そんなつもりはなかったんだ。ただ、君があのまま消えて行くのをみすみす見過ごしたくはなかったんだ」

 またしても意味不明なことを言う黒髪であったが、私を見据えるその瞳には、嘘というものが浮かんでいないように見えた。

 しかし、だからといって黒髪の言っていることを信じられるかといわれれば、話は別であろう。

「……消えるとか消えないとか、よくわかんないけど、私興味ないから」

 だからもう構わないでくれ、というニュアンスを言外に含めて、そう伝える。

「ああいや、私がここにいる限り、電車に乗るという選択肢は君にはないよ」

「何それ? 私を縛って動けなくするつもり?」

「……前の私だったらそれもたやすくできたんだろうけど、残念ながら今は違ってね」

 そう言って黒髪はお手上げのポーズをしつつ、小さく笑った。『前の私』ってどういうことだ。そういう脳内設定なのか。

「……あなた、それがデフォなの?」

「でふぉ、とは?」

「いや……、その芝居がかった言動はいつもそうなのかって」

 もしそうならば、クラスで浮きそうなものである。というか、移動教室のときに私と二人教室にいた時点で、多少は浮いているのだろうか。

「……いやまあこれは、場合によりけりだけど。そうか、デフォルト、のことか」

「……でふぉると?」

「調べればわかるさ」

 と短く言って、黒髪は私の手を離す。自由になった私であるが、乗り込むべき電車は十分以上来ないので、どうしようもなく、目の前の黒髪と会話することしかできない。

「君はおかしいと思わないかい?」

「……何が?」

「この世界が、だよ」

 これまたスケールの大きな話だな、と思った。今まで生きてきて世界がどうとか、私には全く縁のないものだと思っていたし、これからも縁がないものだと願いたい。

「別に、おかしいとは思わないわ」

「……そうか」

 黒髪は静かに言葉を返し、右手の真白い指を紅の唇にあてて、しばらくの間思案する。そんな黒髪の様子を見つつ、それにしてもまあ、と私は思う。

 夕日をバックにして佇む黒髪は、実に画になっていた。たとえばこれをこのまま撮影して、どこかの写真コンクールに応募すれば、入賞は間違いないだろう。

「そうだね、いくつか質問していいかな?」

「……まあ、それくらいなら」

 黒髪の言葉に私がそう返すと、黒髪は柔和に微笑んで「ありがとう」と言った。

「じゃあまず、私達の行っている学校の名前は?」

「名前って、そりゃあ……………………」

 黒髪の問いに対し、すらすらと、名前が口をついて出てくるはずだったのだ。少なくとも、私の中では。

 しかし、現実はそうではなかった。口から出てくるのは言葉を伴わない息ばかりで、私が紡ぐべき言葉は曖昧模糊として掴めない。まるで、頭の中で溶けてしまったかのようだった。

「じゃあ次、級友の名前を何人か言ってみて欲しい」

 今度の問いも、返せなかった。

「担任の名前は?」

 これも同じく、返せない。焦燥を覚える。

「……それじゃあ」

 と言って黒髪は息を吸う。今度は何を尋ねられるのだろうかと、少し怖くなった私は、身構えてしまう。

 だって、おかしいではないか。自分の通っている学校の名前も、クラスメイトも担任の名前もわからないなんて、そんなこと普通はあり得ないだろう。

 何か変なものに騙されているような感覚を覚える。狐につままれる、とはこういうことなのだろうか。

 そして黒髪が放った問いが、私を刺し貫いた。

「じゃあ、君の名前は?」

 その問いは、簡単に答えられるはずだった。しかし、私の頭の中には、発すべき言葉が見当たらない。

 そんなわけはないだろうと思い、脳内をかき回すように、自分の名前を探し求める。

 しかし、いつまで経っても私が探しているものは見当たらなかった。自分の名前だぞ、そんなわけはないだろう、と自分を信じられない。

 恐慌が私の心を浸食していく。どうしてだろうと思っていると、目の前で立っている黒髪と目が合った。

「……あなた、もしかして」

 何かしたのか、と尋ねようとした。目の前に立つ黒髪は、そんな私の心中を察したかのように首を横に振る。

「私は何もしていないよ。ただ、君がどういう状態なのか、というのを知っていただけさ」

「……何それ? 端的に言って」

 動揺により、言葉遣いが少し尖ったものになってしまう。これはあまりよくないことだ。

「端的、ね。そうだね、かつての私も、今の君のようだったってことだよ」

「……記憶が混乱していたってこと?」

 そう私が言うと、黒髪は微笑みを浮かべて小首を傾げ、口を開く。

「うーん、その認識に至るのは無理はないけど、それは間違いだよ」

「あなた、回りくどいって言われない?」

「あはは、今初めて言われた」

 黒髪は私の嫌味を軽く笑い飛ばしてしまう。愉快そうに笑っているが、私は全く愉快ではなかった。

「まあ答えを言うよ。今さっき、私が君に尋ねた全ては、最初からないんだよ」

「……………………はい?」

 黒髪の言っていることがすぐには理解できず、間抜けな声を出してしまう。少しして、黒髪の言葉を把握した私は、黒髪の発言内容のおかしな点を指摘する。

「最初からないって、それはおかしいでしょ」

 この世にあるものは、名前があって然るべきであろう。そうじゃないと、何が何で、誰が誰なのかという区別がややこしくて仕方ない。

 私はなんだかんだで十五年と少々の月日を生きてきた。その間ずっと、名前がなかったわけがないだろう。

「いいや、無いんだよ」

 再び私の心を見透かしたかのように、黒髪が静かに言葉を紡ぐ。

「……そんなわけないでしょ。じゃあ、あなたも名前がないの?」

「まあ、無いね」

 そう軽く言い放った黒髪は、そのまま続ける。

「というか、設定されてない」

「……なにそれ? わけがわからない」

「だろうね。言葉だけじゃ伝わらないだろう。だからまあ、こうやるしかないんだろうな、とは思ってたよ」

 黒髪はそう諦めたように笑い、ずずいと私の前に近寄り、じっと私を見つめてくる。漆黒の瞳に、私が映っていた。

「この世界は、この世界に存在する全ては、まやかしにすぎない」

 黒髪はそう言って両手を私の背中に回し、そのまま私の後頭部に触れてくる。逃げようと反射的に思い行動を起こそうとするも、体の自由が利かない。

 恐慌が再び訪れる。黒髪は、まるで捕食者のようにゆっくりと私に顔を近づけて、そしてその額を私の額にゆっくりと触れさせてきた。

 よくわからないまま事態が進行していく焦りと混乱の中で、黒髪の額が真っ白で滑らかなことに気づく。だからどうしたのか、という話であるが。

「君が見ているものは、見かけだけのものにすぎない。君が見ているものが本当は何なのか、本当の目を開いて見るんだ」

 などと、どこかから電波でも受け取っているのか、と思うようなことを黒髪は口走る。それを聞く私の心は、何言っているんだこいつという呆れと、これから何かとんでもないことが起こるのではないかという恐怖で、折半されていた。

 そして、黒髪がゆっくりと額を離す。私の視界一杯に広がっていたそいつの顔が離れていくにつれ、景色が目に映る……はずだった。

「……なに、これ」

 私の目に映るはずの景色は、夕日に染まる駅のホームだったはずだ。

 しかし、今の私が見ている景色は、真白い世界だった。そこには、先ほどまで様々な色で彩られていたベンチやホームの屋根などが、黒い線で縁どられることにより表現されている。

 そして、先ほどまで駅にいた老若男女様々な人は、全員が白いマネキンのような姿になっていた。そのマネキンが、老若男女それぞれに当てはまるような行動を取っている。

 それはまるで、人ではない何かが、人を装っているようでひたすらに不気味だった。

 白い世界に生きる白い人々。まるで見てはならない舞台裏を見てしまったかのように思えて、ひたすらに恐怖を覚える。

 どこを見ても、私の中にある現実という認識と遥かに乖離していて、視点を定める場所が見つからない。

「う、」

 恐怖心のあまり、小さく呻く。

「うわ、わああああああああああああ!」

 気づけば間抜けな叫び声を出して、その場から駆け出していた。

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