第二章 黒田と白川

 高校に入学して一週間、クラス内のグループというものはおおかた出来上がっていて、それらのグループに属せなかった人間は、孤独に高校生活をエンジョイしなければならない。

 そして私は、そのグループに属せなかった。なので、孤独モードで高校生活をプレイしている。

 とはいえ、孤独であるよりは孤高でありたいと思った私は、一人であっても堂々と振る舞うことにした。背中を曲げるよりも背中を伸ばし、集団が来れば道を譲るのではなく、集団の真ん中に割って入って抜けてやる。

 背中を曲げていれば、自然と視界は狭くなるだろう。背中を伸ばせば、その逆だ。

 広がった視界の中で、私は一人の女の子を見つけた。

 その女の子は、私と同様に高校生活を孤独モードでプレイしているようだった。しかし、それを特に気にする素振りはなく、ぼんやりとしている風である。

 その女の子は、少し茶色がかった髪を肩甲骨近くまで真っ直ぐ伸ばしている。くせ毛の私にとって、それは少し羨ましかった。

 肌は白くて肌理が細かく、大理石か何かを思わせる。身長は私より少し低いだろうか。手足は細く、長い。見ていると、綺麗だなあ、という感想を覚える。

 直接話したことは無いので、顔がどんな風だったかは明確には覚えていない。目は真ん丸で大きく、愛らしい小動物のようだった気がする。鼻と口は整った形で、少し小さかっただろうか。太っているわけではないのだが、輪郭は少し丸かった。

 全体的に色素が薄く、全体的にすべすべしており、そしてふわふわしてそうである。擬音が多い。

 名前はうろ覚えだが、確か白川と言ったはずだ。

 昼休みあけの五時間目、科目は美術。クラスのほぼ全員が、美術室にやって来ていた。

 その中で一人、白川だけがここに来ていないことに、私は気づく。美術室を見回すと、クラスの面々は教師が来るまで好き勝手に時間を潰しており、白川がいないことに気付いているのは私だけのようだ。

 この学校は無駄に敷地が広く、そしてややこしい作りをしている。入学したての一年生が迷うのに無理はない。私だって、クラスメイトの流れに乗ってここに辿り着いたのだから。

 なので、白川が何らかの理由で迷っていることは想像に難くない。

 そんなことを考えているうちに、美術教師がやってくる。教師は、水分の足りてなさそうな長い髪を、後頭部で結んでいた。年齢は四十ぐらいであろうか。痩せているためか顔の皺が目立ち、二つの瞳が出目金のようにぎょろりと動いている。

「はいじゃあ、授業始めます」

 と教師が言い、徐々に教室は静寂に包まれる。誰一人、白川がいないことを教師に伝える人間はいなかった。

 どうしようかなあ、と思う。白川がいないことを教師に伝えた方がいいだろうが、私と白川は仲が良い悪いという関係より前の地点、そもそも話したことがない。

 そんなことをする義理はないのだ、と心中の打算的な部分が囁く。

 でもなあ、と一方で私の良心は思う。誰一人、この教室で白川がいないことを教師に伝える者がいないというのは、少し残酷すぎやしないか。

 打算と良心を量りにかければ、どちらが重いかはすぐにわかった。

「あの、先生」

 真っ直ぐ挙手し、そう言い放つ。瞬間、教室にある目線が全て私に集まり、少しだけ居たたまれない気分を覚えた。

「どうしました?」

「あの、一人まだ来てません」

「誰ですか?」

「えっと、白川さん、っていう子です」

 私がそう言うと、教師は腕組みをして、右の指先で左の肘を規則的に叩く。どうするのか考えているのだろうか、と私が思っていたら教師が口を開いた。

「知りません。授業を始めます」

 そう教師は短く言って、板書をし始めた。おいおいそんな無慈悲な、と私は思う。

 そんなとき、教室のドアが勢いよく開け放たれた。そうして入ってきたのは、他の誰でもない白川である。

 白川は肩で息をしており、その顔には汗の筋が浮かんでいた。その様子から、走ってきたであろうことは容易に察することができる。

「すいません遅れました」

 その様子と反している落ち着いた話し方で、白川は謝罪した。

「……どうして遅れたのですか?」

「ちょっと、道に迷ってしまって」

「そうですか。では、教室に帰ってください」

 淡々と教師がそう言うので、つい聞き流してしまいそうだが、この流れはそうではないだろうとびっくりする。それは私だけではなく、クラスの他の連中も同様だった。

「……えっと、それはどうしてですか?」

「授業に遅れたからです」

「理由、説明したんですけど」

「知りません。あなたが道に迷ったと誰が証明してくれます? そもそも、道に迷ったのならどうやってここに辿り着いたんです? あなたがただ昼休み遊び惚けてて、それで遅れてしまったという可能性もありますよね?」

 と、教師は取りつく島もない様子である。白川は驚いた表情を浮かべたあと、困ったように笑う。

「一応、上級生の人に途中まで案内してもらいましたが……」

「ではその上級生を連れてきてください」

 白川の弁明に対し、教師はぴしゃりと突き放す。

「……それは、無理です。名前、知りませんし」

「じゃあ証明はできませんね。帰ってください」

 なんだこいつ、と傍から聞いていて思わざるを得ない対応である。少し、イラっとした。

 白川はというと、先ほどより目つきを少し鋭くして、教師をじっと見ていた。多少、怒っているのだろう。

 白川は言葉を紡ぐことが出来ず、そんな白川に対して教師は追い打ちを加える。

「授業の邪魔です。始めたいので帰ってください」

 その一言が、火をつけた。……白川ではなく、私に。

「さすがにそれはないんじゃないですか?」

 しんと静まり返った教室に、私の抗議がよく響く。教師は白川から私にそのギョロついた目を向け、嫌悪感を露わにした表情を浮かべた。

「……なんですか、あなた」

「あなたではなく、黒田、という名前がありますが。ご希望なら下の名前もお教えしましょうか?」

「結構です。今、あなたは全く関係がないはずです。黙っててください」

 生徒に対して黙れと来たか、と私は内心で呟く。やはりというかなんというか、この教師はたいがい尖っている教師らしい。

「クラスメイトなので十分関係はあると思いますが」

 と少し屁理屈めいた理由で私は反論する。教師は不愉快な顔を強め、嫌悪感を濃厚に含んだ視線を私に向けてくる。

「今は、私とこの遅刻してきた生徒が話をしているのです」

 教師の言葉を聞いて、せめて名前を覚えるぐらいはしてやれよ、と思った。

「だから白川さんは道に迷ったって言ってるじゃないですか。そんな理由で遅れても授業を受ける権利はないんですか?」

「ありません。私が来た時点で、その後から来た生徒は何人たりとも授業を受けさせません」

 話が通じないというか、聞く気がないらしい。私はついため息を漏らしてしまい、それで半開きになった口から、言葉が漏れてしまう。

「馬鹿じゃねーのお前」

 しんと静まり返る美術室。私の声はよく聞こえたことだろう。そして、その声が教室の温度を冷えさせたような気がする。

 別にこんなことを言うつもりはなかった。いや、心の中では(こいつ馬鹿じゃないのか)とは思ってはいたけれど、口にすれば面倒になるということは、わかっているつもりでいた。

 しかし、言ってしまったわけである。自分の心というものも、中々制御が難しいものだなあ、と思った。

「ああいや、これは」

 慌てて弁明しようとして、口を開く。その瞬間、私の目に映った教師の顔が過去最高に不愉快そうであり、そしてそれを見た私も不愉快な気分になったので、弁明する気は失せた。というか、ここで弁明したら負けたような気がして腹立つ。

「先生のことを、人の話もろくに理解できない馬鹿じゃないのかなあ、と思った次第で」

 こんなことを言えば、白川にも迷惑はかかるんだろうなあ、と思う。止めるべきである。しかし止まらない。

「日本語で説明してるんですよ。理由を、わかるように、です。それでどうして頑なに授業を受けさせようとさせないんですか?」

「……ていけ」

「はあ、聞こえませんが」

 相手の怒りは手に取るようにわかった。しかし、だからといってその怒りに迎合してやる理由はない。

 なるようになれ、と思ってしまった。

「出ていけ! お前ら二人とも、出ていけー!」

 教師がギョロ目をひん剥いて、狂人のように叫ぶ。口角泡が、光を反射して飛んでいた。

「まあ私は別に構いませんが」

 と言って白川を見る。白川も私を見ていたので、視線が見事に一致した。

 どうするのだろうか、と思い白川の反応をうかがう。白川は柔らかく微笑みかけてきた。

「では先生、この度はこのようなことになってしまい、まことに残念至極でございます。私の注意力の散漫さ、この学校の構造についての認識の甘さ、そして理由を伝えてもしっかり理解してもらえなかった日本語能力の拙さを実感した次第でございます。次回はよろしくお願いします」

 そう慇懃無礼に言って白川は微笑み、教師に背中を向ける。教師はぎょろりと白川を見たあと、私に視線を向けた。その目には明確な怒りの色が浮かんでいる。……十代半ばの小娘に、そこまで怒らないでもいいだろう、と思った。

「では、出てけって言われたのでー、出ていきまーす」

 私はそう軽く言って、手をひらひらと振って美術室を出る。その間、教師はずっと私を睨みつけていた。

 文句があるなら、今この場で言えばいいのに。私はそう思いつつ扉を開けて、閉める。扉の向こうでは、白川が立っていた。どうやら、私を待っていたらしい。

「悪いことしたね」

 開口一番、私は白川にそう言って謝罪する。白川はきょとんとした表情を浮かべ、「何が?」と尋ねてきた。

「ほら、勝手にしゃしゃり出て、場をややこしくしたじゃない?」

「ああ、そういうことならぜーんぜん。私も腹立ったし」

 そう言って、白川は微笑んで小首を傾げる。白川の声は、流水のように澄んでおり涼やかで、そしてどこか温かさを感じるようなものだった。

「ま、こんなとこで話してたら、また怒られるから……、どっか行く?」

「あ、それ賛成。ここにずっといたら、『出ていけー!』ってまた叫ばれちゃうよ」

 白川は教師の真似をして言う。その真似は別に似ていなかったが、白川がやると独特の愛嬌というものが生まれていた。

 そんなこんなで、私たち二人は並んで授業中の校内を歩く。教師の誰かに見つかれば注意されるだろうが、こちらとしても事情があり、事実あの美術教師に帰れと言われたのだから、仕方あるまい。そんな心境が、余裕の歩みを生ませていた。

「……それにしても、あの教師ヤバイね」

 隣を歩く白川に語り掛ける。前方を見ていた白川は、私の方に目線を向ける。私と白川の身長差の関係上、白川は私を見上げるような視線になっていた。

「ほんとねー。事情を説明したのに、全く聞き入れてくれないのはびっくりしたよ。……というか、最初から疑ってかかってきたのは本当に無いと思う」

 白川はそう言って不機嫌そうな表情になり、続ける。

「でもまあ、黒田さんがああやって怒ってくれて、こっちは助かったよ」

「そう? 事情をややこしくした感じはあるでしょ?」

「それはまあ、否めないけど」

 そう言って笑う白川に、(いやそこは否定して欲しい)と思わざるを得ない私であった。

 苦笑している私に、「けど」と白川は口を開く。

「さっきも言ったように、私も腹立ってたし、ああやって言ってくれたのは助かったよ。私、怒り方があまりわからなくて」

「…………そうなの?」

「そうそう」

 と白川はこくりこくりと小さく頷く。

「はらたつー、って思うことはけっこうあるんだけどね、それじゃあ自分はどうして、何に怒っているのか、その感情を相手にどう伝えればいいのか、ってことを考えてるうちに、タイミングを逃しちゃうことが多いんだよね」

「そういう……」

 ものなのか? と思う。私は怒りを覚えたらすぐに発露させてしまうので、白川のいうことはあまり実感を伴って迫ってこない。

「ものなんだよ」

 私の心を見透かしたかのように、白川は微笑んで言う。私は小さく笑って頬を掻くばかりであった。

「しかしまあ、これからどうしようかね」

「教室に帰れって言われたから……、帰る?」

 白川は、教師の言ったことをそのまま実行しようとする。さては中学時代、優等生だったに違いない。

 一応私も中学の頃は優等生だったのだが、さっきの一件でその座から離れたように思える。

「教室に帰っても暇じゃない?」

「それはまあ、確かにそうだけど……」

 少しためらいの色が見られる白川である。もう少し押してみるか、と思うも、これ以上迷惑をかけるのも悪いかなあと今度は私が躊躇した。

「まあいいね、どっか行こっか」

 白川が晴れた表情でそう言う。さてはこいつそこまで優等生じゃないかもな、と私は認識を改めた。

「よし行こう行こう」と言って私は笑みを浮かべる。

 私たちは自分たちの教室に向けていた足を、どこか違う方向に向ける。

 二人きりの学校探検の始まりであった。

「あ、名前」

「名前?」

「うん、黒田さんの名前、知らないから」

「ああ、そういうことね」

 誰かが自分の名前を知ろうとしてくれるのは、悪い気分ではない。

「黒田、曜子。曜日の曜に、子供の子で曜子」

 私がそう伝えると、白川は「なるほどなるほど……」と小さく呟き、空中に指先を躍らせる。少し見ていると、それは私の名前を書いているのだとわかった。

 そんな白川の様子は、見ていて可愛らしい。そしてそんな白川の容姿もまた、可愛らしいのであった。

 同性の私ですらそう思うのだから、世の男がどう思うかなんて、考えるまでもない。

「白川さんの名前は?」

「私? 私はね白川珠璃しゅりっていうよ」

「……シュリ?」

 真っ先に浮かんできたのは、沖縄の観光名所であった。そんな私に対し、白川は「聞くだけじゃわかんないよね」と苦笑を浮かべる。

「真珠の珠っていう文字に、瑠璃の璃って書いて、珠璃」

「なんていうか……」

 そこまで言ったものの、どう感想を言い表すべきか迷う。すごい名前、というのは喜ばれないだろう。書くのが大変そうだね、というのも誤りである気がする。

 しかしその名前の響きは聞いて心地好く、綺麗な名前だな、と思った。

「綺麗だね」

 思ったことがそのまま口をついて出た。白川珠璃は、私の言葉を聞いて目を丸くする。その数秒後、私は自分の発言が、ちょっと気障なように思えて恥ずかしく思った。

 私は自身の頬が羞恥で紅潮しているのを感じている。そして目の前の白川に、それを見られるのは恥ずかしいなと思っていると、白川も頬を赤らめていた。

「……黒田さんって、なんていうか真っ直ぐだね」

 頬をほんのりと朱に染めつつ、白川はそう言って笑う。

「そうかな? そんなこと初めて言われたけど」

 と返して、私も笑みを浮かべた。

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