第2話
俺のいる保健室の窓からは、二宮金次郎像が見える。
人間の行動している昼間は俺達の睡眠時間となっている訳だが、夕方の、最終下校時間が迫る時間になるとボチボチと眠りが浅くなって、我慢出来ずに動き出す者が出たりする。
ほら、今少し金次郎の視線が上がって……少し指も動いたような?
なにをあんなに派手に動いてんだ?誰かに見付かったらどうするつもりなんだよ。
とか思いつつ、微かに指を差されている方に向かって眼球を少し向けてみれば、そこには鶏を飼育している小屋の横にあるイチョウの広場がある。
イチョウの広場は正門に続く道とグラウンドの中間地点にあるのだが、教師達は本館にある出入り口からグラウンドに出るし、児童達は下足室のある第1校舎の出口からグラウンドに出るので、イチョウの広場付近は普段から人通りは少ない。
芝生に覆われていて、イチョウの木が1本たっているだけの広場がなにを目的にして作られたのかは分からないが、手入れは行き届いている。
教師達が口を揃えて木登り禁止と言うそのイチョウの木の上には、1度も話した事がなく、1度も声を聞いた事もなく、1度だって理科室に来ない“新入り”がいる。
声をかけようと木の下に行って呼びかけたものの、声は“新入り”まで届かないのか1度たりとも応えてくれた事がない。
そして厄介な事に“新入り”の視線はいつも空に向いていて、校舎の3階から手を振っても、声をかけても少しも動かないのだ。
花子さんが言うには、悪い気配をまとってはいないから無害。との事だから“新入り”が自分から進んで木からおりて来るまで待とうって事になっていた。
それなのに、まだ最終下校時間でもないのに動いてまでイチョウを俺に見せようとしてくる金次郎の行動の意味は?
と、よくよく見てみれば、イチョウの下に建っていた木登り禁止の看板が新しいものに交換されていた。
綺麗になった看板には、読み易い大きな字で、木登り禁止。と書いてある。
こうして真新しい看板を見ていると、あのイチョウの上に“新入り”がいなかった頃の事を思い出してしまう。
それは何年か前の、今と同じくらいの時間の事。
その時も、金次郎はイチョウの木を指差していた……。
当時のイチョウの広場は芝生に覆われてはおらず、もう少しイチョウの木は小さくて、教師達は、木登り禁止。だと言っていたが今ほど厳しくはなく、なによりイチョウの下に木登り禁止の看板は設置されていなかった。だから放課後になると教師の目を盗んで木登りをするやんちゃな児童も何人かいたりして、イチョウの広場は最終下校時間になる直前まで賑わっている事も少なくはなかった。
その日、イチョウの木には児童ではなく子猫が木登りをしていて、その結果おりられなくなって小さな声で鳴いていた。
最終下校時間が来て、校内から誰もいなくなったら助けに行こう。
そう思いながら子猫を見守っていると、1人の児童がイチョウの下にランドセルを置いて木によじ登り始めたんだ。
いつも木登りをしているやんちゃな児童達とは違って恐ろしく危なげで、必死で。だけど子猫は助けに来てくれている児童に恐怖し、上に、上にと逃げて行く。
ヤバイと思った時には既に遅く、子猫も児童も随分と上の方まで行ってしまい、逃げ場をなくした子猫は児童によって捕獲された。
警戒していた子猫によって何度か引っかかれてしまった児童は、子猫を大事そうに胸に抱き、座り込んだまま動かなくなった。
今度は児童がおりられなくなったのだ。
児童は遠くを見たり、空を見上げたりして気を紛らわせていたと思う。
長い時間を太い枝に座ったままの姿勢で。
そこに響く、
ピンポンパンポン♪
「皆さん、下校の時間です。校内に残っている生徒は速やかに帰りましょう」
最終下校時刻を告げる校内放送。
児童は泣きそうな表情でキョロキョロと辺りを見渡した後、再び空を見上げた。
空の色が夕焼けから薄っすらと夜の気配を漂わせた頃、校舎に残っていた最後の教師が校舎から出て来て、イチョウの木の下に置かれているランドセルに気が付いたのだろう、小走りでイチョウに近付いて、上を向いたかと思った次の瞬間、
「コラ!なにをやってる!?おりなさい!」
大袈裟なまでの大声で怒鳴った。
パッと下を向いた児童は心底安堵したはずだ。
助かったと、そう思ったはずだ。
だからこそ教師に、助けて。と言ったのだろう。
けど、気を抜いてしまったんだ。
焦り過ぎてしまったんだ。
長時間不安定な場所で座り込んでいた足が限界を超えていた事に気が付けなかったんだ。
ザザザザザ。
ゴッ!
子猫は空中でクルッと体勢を立て直して綺麗に着地すると、逃げるようにその場からかけて行った。
その数日後、イチョウの木の下には木登り禁止の看板が設置され、イチョウの広場は芝生に覆われ“新入り”はイチョウの遥か上の方からおりて来なくなってしまった。
イチョウからおりられなくなって、教師に助けを求めていた“新入り”が、どうしてまだイチョウの上にいるのかが分からない。
おりたかったんじゃないのか?
それなのに、何故1度もおりて来ない?
自分だけさっさと逃げて行った子猫を、大声で怒鳴って驚かせた教師を憎み、この世に縛られた?
いや、それなら悪い気配をまとっているはずだから、花子さんが放ってはいないだろう。
だったらどうしてここにいる?
なんて、本人に聞くのが1番手っ取り早いというのに、その本人が空を見上げたままおりて来ないんだからどうしようもな……。
「フー!」
ん?
何処からか微かに動物……猫の唸り声が聞こえる。
声の主を探すように目を凝らしてみるが、グラウンドにも植え込みにもそれらしい姿は見られない。
聞き間違いだろうか?
「フー!」
いや、確実にいる。
金次郎は声の主を見付けられているのだろうか?と視線を向けると、さっきよりも大胆に動いていた。
流石に顔の角度を変えるのは駄目だろ!大丈夫なのか!?
チラチラと目配せしてくる金次郎には後から色々注意が必要だけど、今はあんな大胆な動きを止めさせるためにも示されている場所に目を向けるしかなさそうだ。
しかし、その場所はやっぱりイチョウの木。
もしかして?
と、イチョウの木の上を注意深く見てみれば“新入り”がいつもよりも随分と下の方にいる事に気が付いた。それだけではなくて、顔も空に向けてはいない。
「フー!」
その視線の先には1匹の猫。
猫を助けてああなった“新入り”だというのに、どうやらまた猫を助けたいようだ。
本当に猫に対して恨みの念は抱いていないのか……だったら何故まだそこに……だからそんなのは本人に直接聞くしか正解を得る事は出来ないから、いくらここで俺が頭を捻っても無駄だ。
だけど、そうだと分かっていても、入学してきた児童が卒業していく程の時間を、空を見上げたまま、なにを考えてそこにいたのかが気になってしまうのはしょうがないだろ?
そして、何故今になって動いたのかも。
「俺はただ、助けたいだけなんだよ?」
穏やかな声が聞こえてくる。
これは俺に向けられた答えか?それとも猫に対する呼びかけか……。いや、誰に向けられたものだって良い。要は“新入り”がただ単純に猫を助けたいと思っている事が分かったのだから。
なるほど、花子さんの言う通り無害以外の何者でもない。
「フー!」
猫は更に激しく唸り声をあげるから、観念したのか、諦めたのか“新入り”はスルスルといつもの頂上付近に戻ってしまった。その直後、
「ニャー……ニャァー……」
猫から聞こえるか細い声。
助けては欲しいんだな“新入り”以外の誰かに。
ピンポンパンポン♪
「皆さん、下校の時間です。校内に残っている生徒は速やかに帰りましょう」
最終下校時間を告げるチャイムと校内放送。
校舎内の電気が消えて、校舎内に残っている人間が全員帰ったら、俺達の時間までもう少し。
キィィィィィ。
校舎内にいた最後の教師が出てきた。
サラサラ、サラサラ。
風もないのに揺れるイチョウの葉から涼しげな音がする。その音に混じって微かに聞こえるのは、
「こっちだ、こっちだよ!」
教師を呼ぶ“新入り”の声。
人間に対しても恨みの心は持っていないのか。
本当に、なんでここにいるんだろう?普通はなにかを恨むとか、未練があるとか、そういうのがない限り現世に留まったりはしないんじゃないのか?
具体的にはなにも知らないが、あのバスケ小僧やプール娘にだってそういう未練か恨みがあるんだ。なのに“新入り”からはなにも感じられない所か穏やか……にしては、直接イチョウに触れていないのに葉を揺らせるなんて、花子さんレベルの強者である事を見せ付けてくる。
悪い気配をまとったら最後、誰にも勝ち目がない悪霊や怨霊になってしまうとか、そんな感じ?
それってもう俺達とは別のナニカじゃないのか?
「ニャー……」
結局教師は猫の声に釣られてこっちを見た。
軽い足取りでかけて来る体格の良い、恐らく体育教師は、暗いイチョウの広場に立っているイチョウを注意深く見上げ、その間にも猫は何度か下に向かって助けを求めて鳴いた。
気性が荒い猫だと思っていたが、人間に対してはそうでもないようだ。
動物は俺達みたいなモノを察する力が高いって言うし……待てよ?実体のない“新入り”は、どうやって猫を助けようとしたんだ?例え猫が警戒しなかったとしても、触れられないんじゃあ助けようもないんじゃないか?それとも、触れられるとか?
確かにイチョウの枝は触れずに揺らしてたけど、生き物に対しても触れずに影響を与える事が出来るとするなら、それってもう俺達とは別のナニカだ。
「分かった、分かったからジッとしてろ~」
教師はやっと枝にしがみついている猫を見付け、何度も、動くなよ。と声をかけてから運動場を走って行った。その先にあるのは用具入れである倉庫。
多分、ハシゴを取りに向かったんだと思う。
ガシャン。
思った通りハシゴを担いで戻ってきた教師は、イチョウの木にハシゴをかけてゆっくり昇り始めたのだが、猫はそんな教師に恐怖して逃げ出そうとしている。それも、よりによってイチョウの上に向かって。
さっきまでは助けてーってな感じで教師に向かって鳴いていたと言うのに……猫ってのは向かってくるモノから逃げるって習性でもあるのだろうか?そして何故散々警戒していた“新入り”のいる方向に向かって逃げる?
サラサラ、サラサラ。
また、風もないのに枝が揺れる。
ザワザワ、ザワザワ……。
ちょっと派手に揺らし過ぎじゃないか?
「こっちに、来るな」
猫を上に行かせないためだとは言え、ゾッとする程の気配を放った“新入り”は、更に両手を広げて分かりやすく威嚇した。
ポテ。
猫は腰でも抜かしたかのように座り込み、そこへ丁度やって来た教師に首根っこを捕まれ、ゆっくりとハシゴをおりてきた。
「フシャー!」
その様子を上から見守っている“新入り”に、地面におろされた猫がまた毛を逆立てて威嚇し始める。
「どうした?まだ怖いのか?」
あまりにも威嚇する猫を不思議に思ったのか、教師はイチョウの上を、上半身を左右に動かせながら色んな角度で見上げ始めた。
「フシャー!」
なにもそんなに嫌う事もないだろ?
猫にとっての“新入り”は、少しばかり刺激の強い存在だったのかも知れない。それでも終始助けようとしていた相手に対してその態度はどうなんだよ。
これじゃああまりにも“新入り”が可哀想だ。
「なにか……いるのか?」
ガシャ、ガシャン。
イチョウを見上げていた教師は、青い顔で慌ててハシゴを回収し、まだ唸っていた猫を小脇に抱えて走って行ってしまった。
イチョウの広場に戻ってきた静寂。
始まった俺達の時間。
さて、どうしよう?
今なら“新入り”もイチョウの下の方にいるし、なにより猫と教師の後姿を目で追っているから下を向いている。
自己紹介と、理科室に誘うには絶好の、またとない機会だ。
イチョウの広場に向かおうと窓の鍵を開け、チラリと金次郎を見てみれば、台座から豪快にジャンプして飛び出し、走ってイチョウの広場に向かっていた。
イチョウの木では“新入り”が、走ってくる金次郎をまるで、化け物が出た。とでも言いたげな、まん丸と見開いた驚愕の表情で見ている。
まさか、初めてしっかりと見る顔がこれとは。
それに化け物なのはお互い様。
「俺、二宮金次郎。お前は?」
サラリと自己紹介をする金次郎の姿は俺からじゃ後姿しか見えないけど、真正面から行き成り自己紹介された“新入り”の姿ならしっかりと見える。
驚愕の表情から笑顔に変わる瞬間もバッチリ。そして更には、
「名前……あれ?なんだっけ……」
と、自分の名前を思い出せなくなって困惑している表情まで。
バスケ小僧の時もプール娘の時もそうだったけど、幽霊組って、名前を忘れてしまわなければならない。とかいう決まりでもあるのだろうか?そして決まって言うんだ、
「好きに呼んでください」
って。
バスケ小僧を命名したのは金次郎で、理由はバスケットボールを持っているから。プール娘を命名したのも金次郎。理由はプールに出るから……そしてあの“新入り”の前にいるのは金次郎。
今度はどんな名前にするつもりだろうか?
イチョウにいたからイチョウ小僧?安直過ぎるな。銀小僧?杏小僧とか?ギンナン小僧かも?
「んー……あ、そうや。なにが心残りなん?」
名前は!?
そして、そんなデリケートな事を堂々と聞き過ぎだからな?デリカシーってもんがないのかよ。それをまだ同じ幽霊組が言うならまだしも……。
「えっと?猫も助けられたし、特になにもありません」
え?
「え!?じゃあなんでおるん?」
同感だけど、言い方が他にもあるだろ。
「イチョウの上から見る空が綺麗なので、見てました」
猫も、教師も全く関係がなくて、イチョウから落ちてしまった自分の身を愁う訳でもなくて、空が綺麗だから……って、それだけ!?
それだけの理由で、木登り禁止のたて看板が腐食して、新しい看板がたてられるまでの長期間現世に留まれるものなのか?
愁う事はあったが、その長い時の中で癒えたのか?
殆ど動かずに空だけを眺めていた事を考えれば、愁いが癒えたから動けるようになった。と捕らえる方が自然だし、それなら猫にも教師にも恨みを抱いていない事の説明がつく。
触れずに枝を揺らせた理由は、良く分からないが……。
「声かけても無視するしー、まぁえぇねんけど。で、なんで今日下向こうと思ったん?」
金次郎の言葉を聞きながら“新入り”は驚いたり、謝ったりと急がしそうに表情を変えている。
どうやら俺達の呼びかけを無視していたつもりは全くなかったようで、そもそも声は聞こえて来なかったらしく、今日、何故こうして下を向いたのかと言えば、
「猫の声が聞こえたから?それに……下を見たくなったから、かな?」
らしい。
動けるようになったのが今日だとして、動こうと思ったのが今日だとして、初めて聞こえた声が猫の声だとして。それで真っ先に助けようと思って行動に出られた。
現世に留まる理由が消えたにもかかわらず……。
それは、一体如何いう事なんだ?
「猫の声は聞こえて、俺らの声は聞こえんかったんかーい」
金次郎、ツッコム所はそこじゃない!
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