番外編・川瀬省吾1

 俺の名前は川瀬 省吾かわせしょうご。都内でバーを経営している。10年前まで、メンタリストとして仕事をしていたが、ある事件がキッカケで大切な人を失った。

 そしてその時の後遺症で、俺の目はサングラス無しではほとんど何も見えなくなってしまった。



 8月15日午後3時、拓海との賭けを終えて約1ヶ月が過ぎた。


 ーーパンパンーー


「今日で10年かぁ……時が経つのは早いな、茜」


 拓海に描いてもらった、バーテンの服を着て笑っている女性に手を合わせて話しかけた。

 決して返事が返ってくる事はないのだが……


 描かれている女性は、10年前の8月15日に亡くなった俺の婚約者だ。

 名前は佐伯 茜さえきあかね。俺より2つ年上でお腹の中には8ヶ月になる赤ちゃんもいた。

 絵の中の茜は、太陽のように全てを照らしてくれるような笑顔をして、こちらを見ている。当時の姿のままだ。


「俺なぁ、もう36だぞ。おっさんだよおっさん。ホント嫌になっちまうよ。ただな、夢だった俺たちのバーはちゃんと実現出来たんだぞ」


 そう言って、絵の前に白ワインの入ったグラスとオレンジジュースを入れた子供用のコップを置き、自分のグラスと乾杯した。

 毎年、茜の命日である8月15日になると昔の事を思い出してしまう。

 今年も例外なく、自分のグラスに注がれたワインを飲みながら、思い出していた。





 ーー11年前ーー


「川瀬先生、相変わらず素晴らしい講演でしたね。これからも宜しく頼みますよ」


 長い白髭を生やした50代の男性が、満面の笑みで俺に話しかけてきた。

 ゆっくりとした柔らかい口調、丁寧な言葉遣い、そして優しい目で笑いかける表情、どれをとっても気のいい親切なおじさんに見える。

 だがこの男こそ、日本で3本の指に入る宗教団体【笑顔の民】の教祖、田中 篤たなかあつしである。


「いいえ、大した事はしていませんよ。また何かあったらいつでもご連絡ください」


「またまたぁ、ご謙遜なさって。今の【笑顔の民】があるのも川瀬先生のおかげですからね。また連絡させてもらいますよ。こちらは今回の御礼です」


 手渡された封筒には100万円が入っていた。

 たった1時間半の講演でこの報酬は破格と言って間違いないだろう。そしてこれだけのお金をすぐに現金で支払えるという事が、宗教団体【笑顔の民】の資金力や規模の大きさを物語っている。


 教祖が俺のおかげと言ったのにも理由があった。

 それは俺がメンタリストとして、裏世界の仕事に手を出し始めた時の事だった。

 当然裏世界の仕事はハイリスク、ハイリターンで一歩間違えば命にも関わる時があるのだが、俺は自分のメンタリズムがどこまで通用するのか興味があったし、多額の報酬にも目がなかった。

 そんなある日、依頼をしてきたのがこの教祖だった。まだ結成間もない【笑顔の民】を大きくする事と、財源の確保を依頼されたのだ。

 俺は主婦層に目をつけた。主婦層の横の繋がりは非常に強く、また広がりやすい。そして子育ての悩みや夫婦間の悩み、金銭面での悩みなど付け入る隙が沢山あったのも理由の1つだ。

 俺の狙いは見事に的中し、幹部の主婦層を中心に爆発的に信者を増やしていった。

 そして裏で【笑顔の民】と繋がっている店舗(塾、医者、エステなど)や商品(水、サプリメント、調理器具など)を主婦層の口コミで広げていき、多額の財源を確保する事に成功した。

 こういった経緯で駆け出しだった【笑顔の民】は、たった数年で日本屈指の宗教団体へと成長を遂げた。

 そしてこれが教祖が、俺を先生と呼ぶ理由でもあった。

 この仕事を機に、俺の噂は裏世界で広まり、高額な仕事の依頼が次々に舞い込んできた。




 封筒を受け取った俺は、夜の街に足を運んだ。

 ギャンブル、酒、女、食事、全てにおいて堕落した生活を送っていた俺は、たった3日で100万円という大金を使い切ってしまった。

 俺はメンタリストとして、人の心を読む「リーディングスキル」や、人を思い通りに動かす「コントロールスキル」は非常に高い能力があったが、1番大事な自分の状態を整える「マネジメントスキル」に関しては皆無に等しかった。



 お金を使い切った翌日、なんのあてもなく街を歩く。

 外は清々しいくらいに晴れていた。剥き出しになった太陽は、俺の汚れた心と体には眩し過ぎて前を向く事すら許してはくれない。

 下を向いて歩いていると誰かの肩にぶつかってしまった。


「ごめんなさい」


 どうやら女性とぶつかってしまったらしい。スーツ姿の女性は手に持っていた資料を、落としてしまい慌ててそれを拾う。

 その姿を見て俺も拾うのを手伝った。


「手伝ってくれてありがとう。……あのさぁ君、下ばかり見てたらダメだよ! 地面になんて石ころくらいしか落ちてないんだから。若いんだから前向いて生きなきゃ」


 そう言って彼女は笑顔で俺の肩をポンと叩き、去って行った。


 女性にしては高めの身長で165センチくらいはあったように思える。すらっとした体型で長い手足も印象的だった。黒い髪はボブくらいの長さで、パッチリとした二重に大きな黒い瞳がとても魅力的だった。

 その女性の笑顔はこの清々しいくらいに晴れた空がよく似合っていた。それはまるで太陽のようで、俺の汚れた心に優しく光を当ててくれた。

 俺の心は一瞬にして彼女に奪われた。

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