小村香織3

「いやぁ僕もその辺は香織さんと一緒ですよ。学生からは愚痴を聞かされ、教授からは色々言われてますから。香織さんが新人の頃はどんな感じだったんですか?」


 ひんやりと冷えた、いつものオレンジジュースに口をつけ質問した。


「どこも一緒だよねー。私が新人の頃は斉藤さんて女性の上司がいて、その人が色々な事を教えてくれたなぁ。仕事の進め方からコミニュケーションの取り方とか、お酒の飲み方までね。本当に親身になって指導してくれたの。凄い厳しいんだけどその奥にこの子を一人前に育ててあげたいって愛情が伝わってきてたなぁ! だから辛かったけど頑張れたし、今の私があるんだと思う」


 ハイボールを優しい表情で飲む姿からは、斉藤さんという上司とのやりとりを思い出し、懐かしんでいる様子が伺える。


「凄くいい出会いがあったんですね。どんなに厳しくても自分のことを思ってしてくれる事は耐えられるし、期待に応えたい。成長したいって思えますよね。

 それで、その方とは今も一緒に仕事されてるんですか?」と尋ねた。


「それがね、私の指導をして1年くらい経った時に地方に転勤になったんだぁ。地方の経営がうまくいっていない営業所を立て直すために斉藤さんに声が掛かって、それから直ぐに転勤したの。

 送別会の時に『私の代わりにここを頼むわよ香織』って言われてからは、ただガムシャラに仕事に励んだわ。少しでも斉藤さんに追いつきたくて! それで気付いたら三十路手前で彼氏もいない、趣味もない。こんな私だけど斉藤さんに少しでも近づけたのかなぁ」と苦笑いしながら話してくれた。


「ずっと突っ走ってきたんですね。香織さんを見た時に感じた強さや逞しさ、そして美しい理由がなんか分かった気がします。でもあまり無理はしすぎないでくださいね。たまにはこうやってバーで息抜きしたりも大事ですし」


 心配そうな表情をして俺は言った。


「ならちょっとは斉藤さんに近づけたかな。けど、私は新人の育成も全然上手くいってないしまだまだダメだなぁ。もっと頑張らなきゃかなぁ! でも息抜きも忘れないよ。事実、三日連続でマスターに愚痴聞いてもらってるし」


 言葉を交わすうちに少し冗談っぽい事も言ってくれるようになった。


「詳しく聞いてないし分からないけど、香織さんの姿を見て憧れる新人も絶対にいると思うし、斉藤さんて方にしてもらったみたいに厳しく指導しながら愛情を持って接すればきっと新人の人達にも伝わると思います! 今の若い子達は昔と価値観とかは違うかもしれないけど話してみると、案外素直でいい子も沢山いますし。

 僕も絵を描いたり写真の整理とかでよくこのバーには来るので僕で良ければいつでも話し相手させてもらいますよ! なんかね香織さん見てると実家の母と少し重なるんです。凛として強くて逞しいんですけど、どこか脆そうなそんな雰囲気を感じるんです。だからもし何かあれば僕に相手させてください。一応心理学の勉強もしていますし」と言って香織に笑いかけながら、描いていた手を止めた。


「よし。出来ました」


 そう言って香織の前に絵を差し出した。


「うわぁ。これ私? 凄く綺麗な絵」


 4、5杯目になるハイボールを飲み、絵を見つめている香織。その目は酔っ払っているからだろうか。少しトロッとしている。


「僕の目にはこう映りました。凄く綺麗でしょ? 絵はね、写真と違って書き手の見方や感情も絵に組みこまれるから面白いんです」


 描かれた香織はハイボールの入ったグラスを右手の人差し指で優しく撫で、左手で髪を耳にかけている仕草をしている。

 僅かに見えるうなじや横顔からみえる長いまつ毛はどれもとても魅力的であった。

 だがこの絵の香織の最大の魅力はその表情だった。優しく見つめる視線の先には拓海の渡した写真があり、それを見つめる表情にはどこか寂しさが感じられた。

 俺の目に映った香織の本質的な脆さや弱さなどもしっかりと表現した。



「絵って奥が深いんだね。なんか拓海くんには全部見透かされてるみたいだなぁ。でも本当に綺麗に描いてもらえて嬉しい」


 大事そうに描いた絵を見つめていた。

 そして亜矢の時同様、ごく自然に俺を下の名前で呼んだ。


「宜しければどうぞ。いらなければバーに飾らせてもらいます」


 香織の持っていた絵を、カバンから取り出した小さめの額に入れて渡した。


「いるいる! ありがとう。はぁ、なんかいっぱい飲んだら眠くなってきたぁ」


 この時、時刻は11時30分を過ぎていた。もう終電には間に合わないので、タクシーで帰るしかない。

 香織と話し始めて2時間くらいは経っていた。



「こちらこそ絵のモデルに付き合ってくれてありがとう。いい絵が描けました。てか大丈夫ですか? タクシーまで送りますよ」


 マスターから水をもらい香織の前に出した。

 そしてその水を香織が一口飲み

「じゃあタクシーまでおねがーい。マスターお会計お願いしまーす」と言った。


 口調や表情から、この時点でかなり酔っていて眠気も相当なものだと分かる。会計もできそうにない。


「マスター。お会計とりあえず俺が全部出すよ」


 そう言って会計を済まし香織と店を出た。


 ーーカランカランーー


「ありがとうございました。お気を付けて」とマスターの声が背中越しに聞こえた。



 5月の夜風はお酒で熱くなった香織の体温を心地良い状態まで下げてくれた。

 触れる香織の肌を通してそれが俺に伝わった。

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