小村香織1

 亜矢と別れて1か月が過ぎた。

 5月になりニュースでは夏日になる事が予想されるので、脱水症状にならないよう注意を促している。

 そしてゴールデンウィークが終わり各企業、新入社員が職場になれ少しずつ愚痴をこぼし始める。そんな時期が訪れていた。


 ーーカランカランーー

 いつものようにバーのドアを開ける。

「うっす。いやぁ店の中は涼しいなぁ! もう外なんかすげぇ暑くて仕事なんてやってらんないよ」


 そう言っていつものカウンター席に座った。

 空調がしっかりと効いていたバーはいつにも増して居心地が良かった。


「明日も暑くなるってよ。ニュースでやってたぞ! それはそうと次のターゲットが決まったんだがどうする? やるか?」


 サングラスをかけたダンディーな顔がニヤリとこっちを見ている。

 さすがにマスターがどんな理由で賭けをもちかけてきているのかは定かではなかったが、多分単純に心理学の凄さを間近で見たいのだろう!


「えっ? なになに? やるに決まってるでしょ! で、どんな子?」


 俺も亜矢の件からだいぶ時間が経っていたので、そろそろ次の賭けをしてもいいかなと思っていた。

 条件付きの誘導は中々難しくスリルを味わえたし、何より心理学の力がどれほどのものか俺自身確認してみたかった。


「今回は仕事の出来そうなキャリアウーマンだな。一昨日から連続で飲みにきているんだけど新人教育とかでかなり不満溜めているみたいだぞ。前の子とはまた違ったタイプで難しそうだけどやってみな。報酬はこれで」


 そう言って指を2本立てた。


「確かに亜矢の時とはタイプが違うからまた難しくなりそうだけど20万ならやる価値大だな。キャリアウーマンが相手なら今回はこいつの出番かな」


 カメラとスケッチブックをカウンターの上に出して言った。



 そしてしばらくすると

 ーーカランカランーー


 1人の女性が入ってきた。

 黒くて長い髪をなびかせ、黒のスーツ姿に高さのあるハイヒールを履いている。顔はあっさりめの化粧だが素が良いのだろう。パッチリとした切れ長の目にすっと高い鼻、かなりの美人でプライドが高そうな顔をしている。

 いかにも仕事が出来そうな感じだ。


「マスター。また来ちゃった! ハイボールをお願い」


 その女性は俺とは1番離れた端の席に座った。見るからに疲れた顔をしている。


 店内には俺とこの女性しか客はいなく、今日も心地良い洋楽が流れている。


「はい、お疲れ様! 今日もだいぶ溜まってそうだね! 話聞くよ」


 そう言って女性にハイボールを出した。

 合間に一瞬俺にアイコンタクトを送ってきた。賭けが始まる合図だ。


 俺はとりあえずスケッチをしながらその女性の話に耳を傾けた。

 グラスにはいつものオレンジジュースが入っていたのでとりあえずこれでも描きながら。


「マスター! 今日もさぁ、新入社員の子がまたやってくれたよ。新入社員歓迎会をやるから再来週の金曜日仕事終わりに時間を空けておいてくれる? って聞いたら……ふー、なんて答えたと思う?」とため息交じりに聞く女性。


「うーん。その感じだと断ってきたとか?」


 腕を組み首を傾げながら答えた。


「それがさー『それって強制ですか? 仲良くない人と飲みに行くの嫌なんですよねー。てかそもそも俺酒飲めないんすよ』だって! いやいや強制ってか、あんた達の為にみんなが時間を割いてるんだから当たり前でしょ。てか他の先輩とコミニュケーションとって円滑に仕事を進めるのも大事な仕事ですから!」


 店に来たばかりなのに既に怒りは頂点に達していた。


「今の若い子って本当に凄いんですね。仕事であまり関わらないんで分からないですけど、僕らの頃は飲めなくても倒れるまで飲まされましたよ」


 あまりの内容にマスターはかなり衝撃を受けている様子だ。


「他にも仕事でミスをしていたから注意していたら『あのー、それ長くなりそうですか? この後、用事があって急がなきゃなんですよー』って言うの。仕方ないからミスを代わりに直してあげてたらSNSで【仕事終わりに友達とカラオケパーティー! 頑張った仕事の後だと特別楽しい!】だって。いやいや私まだあなたの直してますから! あー思い出したらムカついてきた!」


 女性の怒りは収まる気配はなく、マスターはそれに相槌をうつだけだった。


 気を紛らわす為に俺はマスターに描いていたスケッチを見せた。

「マスター! こんな感じでどう? これも飾らせてよ」と女性にも聞こえるよう少しだけ大袈裟に言った。


「おう! 相変わらず上手いな。好きなところに飾っていいぞ。その辺のセンスは拓海の方があるからな」


 スケッチを額に入れてカウンターの中でどこに飾ろうか悩んだ。


 それを見て女性はマスターにひそひそ話で尋ねている。

「もしかしてそのへんに飾ってある絵も彼が描いたの?」


「そうなんですよ。絵だけじゃなくて写真も飾ってあるでしょ。あれもあいつが撮ったんですよ。本当に上手いんで、全部お任せであいつにコーディネートさせてるんですよ。まぁタダなんで使い勝手がいいんです」


 マスターは黒人の部族が凛々しい表情で腕組みをしている写真を指差し、少し得意げな顔をして言った。


「マスター! 聞こえてるよ! 使い勝手いいとか失礼だな。まぁ俺も描いた絵や撮った写真が色々な人に見てもらえるのは嬉しいから利用させてもらってるんだけどね」


 カウンターの中に丁度いい場所を見つけ、飾って席に戻ると今度は写真を数枚出してマスターに尋ねた。


「そうだ! 今度のコンテストどれがいいと思う? 迷ってるんだよね」


 そう言って写真をマスターの前に並べた。


 1枚目は三十代前半の白人女性が赤ちゃんに授乳をしている写真だった。

 その女性の表情はとても愛情に溢れ、また赤ちゃんの小さな両手も母親の胸の近くを触っていて、小さな体全身でその愛情を受け取っているような写真だった。


 2枚目は中東の若い青年三名がこちらに銃口を向けている写真だった。

 彼らは顔をバンダナで隠しその隙間からこちらを睨むようにして立っていた。

 何故これ程までに若い青年達が銃を持って戦わなければならないのか。今だ内戦の続く中東で日本人の我々が知らない世界がそこにはあるのだと色々な事を考えさせられる写真だった。


 3枚目は川沿いの道を父、母、2人兄弟が背中を向けて奥の方に歩いている写真だった。

 5歳くらいの兄が父親に肩車をされ、3歳くらいの弟が横で母親と手を繋ぎ歩いている。父親と兄の姿を笑顔で見ながら歩く母親と弟の2人は優しい表情をしていた。その写真を見ただけで子供達が愛情いっぱいに育てられてきたのだと見てとれる。また沈みかかる夕日に映る影も趣きがあった。



「俺は写真とかよくわからないけど、どれもいい写真だな。それぞれ伝えたい事がわかるからな。うーん、俺だけじゃ判断が出来ないな」


 腕組みをして困り顔のマスター。


「あのー、もし良かったら見て頂いてもよろしいですか? 直感でもなんでもいいので選んでもらえると助かります」


 ニコリと笑いながら一番端に座っていた女性に俺はお願いをした。


「えっ? 私? うーん……」


 俺とマスターの会話のやり取りを聞いていたので興味はあったみたいだ。髪を片方の耳にかけ、真剣に悩んでいる姿がとても綺麗だった。


「すみません! あのー、今の悩んでる姿、横から見ていたら凄く綺麗でした。少しだけ描かせてもらってもいいですか?」


 申し訳なさそうに、だけど目を輝かせ続けた。


「急にこんな事言って迷惑なのは分かっているんですけど、今のは描かなきゃ絶対に勿体無いと思って! 普通にマスターと話しながら飲んでもらってていいので、少しだけ横から見て描かせて下さい。お願いします」


 宝物を見つけた時の子供の様な無邪気な表情で言った。


「えっ? 本当に急ですね。まだ写真も選べてないよ? うーん、飲んでてもいいなら描いてもらってもいいですけどモデルとかやった事ないから上手くいくかな……」


 綺麗だと褒められまんざらでもない表情の女性。


「全然大丈夫ですよ! 普通にしていてもらえれば絶対綺麗なんで! じゃあ少し準備します」


 そう言ってスケッチブックと濃さの違う数本の鉛筆をカバンから取り出し、自己紹介をした。


「僕はK大学で心理学の講師をやっている松岡拓海です。ここのバーにも飾ってあるように趣味で写真を撮ったり、絵を描いたりしています。

 ここに名前を書きたいので、差し支えなかったら下の名前だけでも教えてもらってもいいですか?」とスケッチブックの右下を指差して言った。


「香織です。趣味っていうけど凄く上手いんだね」


 香織は名前をすんなりと教えてくれた。



 今回はお酒を飲んでいて少し酔い始めた時に絵のモデルをお願いした。マスターと話しながら、また自分の描いた絵や撮った写真を見せて、ちゃんとした芸術家なのだと印象付けをした。

 仕事のストレスなどを抱えていた中で芸術センスのある人に「綺麗だ」と言われる事はイライラしている気分を変える嬉しい出来事だ。   

 もちろん香織くらいルックスが良ければ綺麗だと言われても疑いはしない。今回、絵のモデルを引き受けたのもしっかりと計算されてのことだった。

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