松田亜矢6

 数日後、俺はいつものようにバーでオレンジジュースを飲んでいた。

 すると

 ーーカランカランーー

 亜矢がドアを開けた。


「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」とマスターの声が聞こえる。


 相変わらず低い声だ。まぁダンディーとも言えるが。


 亜矢はカウンター席に座っている俺の隣に腰を下ろした。


「この間はご馳走様でした。また話しにきちゃいました」


 ニコリとこちらを見て笑う亜矢の表情からは完全に心を開いているのが分かる。


「こちらこそこの間はゲームに付き合ってくれてありがとう。てか見て見て! ついに買いましたー!」


 俺は嬉しそうに腕につけた青い腕時計を見せた。この間、亜矢がつけていた腕時計の男性モデルのものだ。


「あー! 〇〇の限定モデルの腕時計買ったんだぁ! 青もかっこいいね。てか本当にお揃いになっちゃった」


 自分の腕につけているオレンジ色の腕時計を見せて亜矢が言った。


「やっと給料入ったからね。この前亜矢ちゃんに見せてもらってからどうしても欲しくて!」


「よく似合ってます。あの……話変わるんですが、拓海さん舞台とか興味ありますか?」と少し照れながら聞いてきた。


「舞台かぁ。あまり見たことはないけど興味はあるよ! どうして?」


「えっと、この前のお礼がしたくてですね。これ来週の土曜日にあるんですけど私も出演するので是非見に来てください。お礼になるかわからないんですけど!」


 そう言って亜矢は、頭を下げながら両手で舞台のチケットを俺の前に差し出した。


「おぉ! 嬉しい嬉しい! 亜矢ちゃんでるなら尚更興味あるよ。有り難く頂戴致します。楽しみにしてるね」


 笑顔でチケットを受け取る俺を、嬉しそうな表情で亜矢が見つめている。


「あとこの間拓海さんと話してから自分のしたい事とか彼氏の事とか色々考えたんですけど、中途半端な気持ちが嫌だったので彼とは別れました! ずっと迷っていたのでスッキリしました。これからは女優になる為にやれるだけの事はやっていくつもりです! 今やらなかったら絶対後悔すると思ったので! 一応決意表明と報告です。話聞いてもらっていたので」


 そう話した亜矢の顔は、晴れ晴れとした良い表情をしていた。

 そして亜矢の目は、ただひたすら前だけを見つめているように見えた。


「そっか。亜矢ちゃんが出した答えなら俺は応援するよ。じゃあ亜矢ちゃんの新しいスタートに乾杯しよっか」


 そう言ってオレンジジュースを使ったカクテルを亜矢に差し出した。


 カーンとオレンジ色のグラスがぶつかる音と同時に「乾杯」と2人の声が重なる。

 そしてその後、俺達は色々な話をした。

 亜矢が出演する舞台のストーリーや亜矢の役、見どころなど沢山の話をして盛り上がった。

 2時間くらい経っただろうか。

 俺は青色の腕時計に目を向けた。


「そろそろ行こうか! 今日は時間に余裕をもってね! 走るのしんどいし。いやぁそれにしても沢山話しちゃったね。今日もホント楽しかった」


「そうですね。今日は歩いて駅まで行きましょう! 私も楽しかったです。時間があっという間に過ぎちゃいました! 拓海さん話聞くの上手いからいっぱい話しちゃうなぁ。じゃあ来週の日曜日必ず見に来て下さいね!

 あっ! そうだ、連絡先まだ聞いてなかったですね。交換してもらってもいいですか?」


 前回や今回の亜矢の態度や口調、そして連絡先を聞いてきた事からも亜矢がかなり好意的になっているのが分かる。


「絶対見に行きます! そういえば連絡先まだだったね。いいよいいよ! じゃあこれ俺の連絡先です」


 そう言って携帯のアプリを使って連絡先を交換した。


 ーーカランカランーー

 ドアを開ける俺達に

「ありがとうございました。また宜しくな」とマスターが右手をあげて言った。


 その言葉に「はぁい」と上機嫌に亜矢が返事をして、俺達は店を後にした。



 駅に向かう間も好きな芸人やテレビ番組など、本当にくだらない話をして盛り上がった。


 そして家路に着いた。




 舞台当日の日曜日。

 開演1時間前に一度亜矢に連絡をいれた。

【今日は楽しませてもらいます。ファイトーイッパァツ! 気合いだ気合いだ気合いだー! (笑)】


 きっと緊張しているだろう。

 俺は少しでも亜矢の緊張が和らぐよう、しょうもない内容で滑るのを覚悟しながら送信した。



 暫くして既読になり

【ネタが古いよーー! でも少し緊張がほぐれました。頑張ります。】と返信が来た。


 開演時間30分前に会場に到着し、真ん中辺りの席に座った。

 会場の広さや人の多さで、本格的な舞台なんだと素人から見てもすぐに分かった。


 亜矢の役はヒロインの親友でカフェの店員だ。事故で亡くなってしまうというなかなか重要な役だ。

 この大舞台でどんな演技を見せてくれるのか純粋に楽しみだった。


 暫くすると開演のブザーと共に舞台の幕が上がる……


 ふと気が付くとエンディングが始まり、キャストの方々が頭を下げて挨拶していた。

 どうやら俺は2時間の公演が一瞬に感じられるほど舞台に見入ってしまっていたようだ。

 その中でも亜矢の演技はお世辞抜きで良かったし、インパクトがあった。

 与えられた役をしっかりこなし、感情のこもった熱い演技。

 そしてなんといっても亜矢の声は舞台で更に映えた。

 透き通った声。時に力強く、時に弱々しく。インパクトを残しつつもメインのキャストを決して潰してしまわない配慮も見事だった。

 迷いのない堂々とした演技だった。



 舞台終了後、亜矢から連絡がきた。

【今日は見にきてくれてありがとうございました。これから舞台の打ち上げですがもし拓海さんが時間あるならまた夜いつものバーで会えませんか? 感想聞かせてもらいたいです!】


 直ぐに返信をした。

【舞台お疲れ様。俺は暇だからバーにいるので亜矢ちゃんが打ち上げ終わったらいつでも来てください。感想はその時伝えるね。】


 そしてその足でバーに向かった。


 バーでマスターと話しながら時間を潰していると

 ーーカランカランーー


「はぁはぁ……お待たせしました。打ち上げが思ったより長引いてしまって。はぁはぁ」


 相当急いできたのだろう。かなり息を切らしている。


「とりあえず座りな。俺もここで講義の資料作りとかやることあったから全然待ってないから心配しないで。何飲む?」


「じゃあ私は今日もオレンジのカクテルで」


 それを聞いていたマスターがすぐにカクテルを用意してくれた。


 カーン。

「今日は本当にお疲れ様。乾杯」


「見に来てくれてありがとうございました」


 2人は今日もオレンジのグラス同士を軽くぶつけて乾杯をした。


 たわいもない話を始めた俺に亜矢がモジモジしながら言った。

「そろそろ舞台の感想を聞かせてもらってもいいですか?」


 焦らした効果もあり、狙い通り少し緊張している様子だ。


 今日で落とす予定だけど、ここまで付き合わせてただ騙すだけじゃ可哀想だな。少しだけ何か残してあげよう。そんな事を考えていた。


「じゃあそろそろ舞台の感想を話させてもらいます。まぁ素人目線だからそんな気にしないでね。

 まず劇場で舞台を見る事自体、俺は初めてだったんだけど2時間の公演があっという間に感じる程見入ってしまったし、本当に良かったです。話してくれた通りストーリーもしっかりできてて感動しました。皆さん凄い演技が上手で、というか演技とは思えないくらいなんかこう熱量が伝わってくるというか。

 その中でもね、亜矢ちゃんの演技は凄く輝いて見えたよ。よく透き通る綺麗な声を時に力強く、時に弱く、その声で色々な物を表現していたと思う。うん!

 隣におばさんが座っていたんだけど、亜矢ちゃんがカフェでドジをするシーンなんて『あらら、しっかりしなさい。何かしちゃいそうで見てられないわ』って完全に舞台に入り込んでいたし、亜矢ちゃんが死んでしまうシーンとその前日の親友であるヒロインとの会話のシーンでは『ヒクッ、ヒクッ、なんであんたが死ななきゃいけないんよ。もうやめてあげてな』って言って大号泣してたよ! 確実に亜矢ちゃんの演技は見ている人に何かを感じさせてるし、残してるんだよ。

 それを見て思ったんだけど亜矢ちゃんは、絶対にもっともっと凄い女優さんになれる! 俺もファンになっちゃった。これからも応援させて。本当に感動しました」


 途中おばさんのモノマネをしながら、亜矢の舞台で感じた事を事細かに伝えた。


「……ありがとうございます。私の出演している舞台で、私の演技を見てそういう風に感じてくれてる人がいたんだ……何かを残せたんだ……頑張って良かった」


 亜矢は涙を流しながら、少し言葉を詰まらせていた。

 自分の演技で人の感情を動かすという初めての経験をし、その達成感から今までの努力が報われたような気持ちになっているに違いない。


「亜矢ちゃんはまだまだこれから絶対伸びるから! 迷わないで精一杯進めばいいと思うよ。もし何かあれば俺がまた背中を押すから」


 亜矢を優しく見つめた。


「本当に本当にありがとう。まだまだこれからが本番だよね。もう迷わない! 全力でぶつかります。拓海さんに会えて良かった。

 あの……拓海さん! これからは1番近くで応援してくれませんか?」


 涙を拭いて、少し頬を赤く染めながら亜矢は言った。

 さっきまで舞台であれほどまでに熱のこもった演技で様々な表情をしていた亜矢が、今舞台では見せなかった全く別の表情を俺だけに見せている。



「1番近くって……付き合うって事?」


 亜矢同様にこちらも照れた表情で聞いた。


「はい。だめですか?」


「俺でよければ宜しくお願いします」と頭を下げて交際を承諾した。


「よかったぁ。嬉しいです! こちらこそ宜しくお願いします」


 付き合う事になり、亜矢は凄く嬉しそうな表情をしていた。

 だが亜矢の喜ぶそれは俺がマスターとの賭けに勝ったという事実でもあった。


 ーーカランカランーー

 そして2人は店を出て、手を繋ぎ駅に向かった。

 この日もまだ2人の吐く息は少し白かったが、手をつないだ温もりのせいかこの前ほど寒くは感じなかった。




 ーー数日後ーー


 ーーカランカランーー


「うっす。あー眠い。とりあえずは終わりだね」と目をこすりながら言った。


「結局上手くいっちまったなぁ。今回は拓海の勝ちだよ。ほら」


 そう言って10万の入った封筒を渡してきた。


「まいど。とりあえずメンタリストの力を証明できたな! さぁ、あとはもうちょいしたら別れなきゃな」


 俺はお金を受け取るとカウンター席に座り、この間描いていた女性の絵を描き始めた。




 1か月後、それらしい理由をつけて亜矢とは上手く別れた。

 もともと賭けをしていただけで、心理学を学んだ俺には全く恋愛感情はなかった。

 とはいえ亜矢にも少しは悪いと思ったので最後告白させるときに【トラウマ】を残してきた。

 トラウマというのは肉体的、精神的に強い衝撃を受けた事で、長い間それにとらわれてしまう状態をいう。そしてそれらは多くの場合、否定的な影響を持っている。

 ただポジティブな事にもトラウマを利用する事ができる。


 通常のトラウマの反対に衝撃的な精神的喜びを与えてあげるのだ。

 今回俺は亜矢の演技で、見ている人に悲しみや喜び、感動などを与える事が出来ていたと、隣の席のおばさんの話をして具体的に伝えてあげた。

 それをする事で亜矢は自分の演技で何かを伝えたいという願いを初めて叶える事が出来た。その時味わった達成感や感動が亜矢に残してきたポジティブなトラウマである。


 また、その時の達成感や感動を強調させる為に焦らしという、テクニックも使った。人は焦らされた時、不安な気持ちを持ったり、緊張してしまう。そして緊張した後の感情は普段の何倍もの大きさに膨れ上がる。特に喜怒哀楽の喜に関して、その効果は計り知れない。

 例を挙げるとするなら高校受験なんかもそれに近いものがある。

 高校受験などは結果が出るまでかなり時間がかかったりする。その間焦らされて緊張感が高まるのだが、合格発表の時に自分の今までの努力が実り合格した時、涙を流して喜ぶ人もいるのではないだろうか。



 亜矢の中に残った、今回のポジティブなトラウマには強い向上心や諦めない気持ちを持続させる効果がある。


 亜矢には声という確かな武器があり、これに強い向上心や諦めない気持ちが持続すればきっと彼女は女優として成功するだろう。

 恋愛感情とは別だが、亜矢が女優として成功する姿は見てみたいなと純粋に思った。

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