寒い夜に体温を感じて
高校。
青年期の真ん中を過ごす、人生においても大きな意味を持つ、集団生活の場。
だからこそ、そこでの失敗は大きな傷を残す。
人を、死へと追いやってしまうほどの傷を。
高校の勉強というのは、想像していた以上に早く進んだ。
最初の頃は必死で食らいついたが、だんだん置いていかれるようになった。
中学の頃、何度かテストで100点を取ったことがあった。
高校に入って最初の定期試験で、学年2位になった。
それで、自分は天才だと思いこんでいた。
二年生になって、定期テストの順位は2桁増えていたのだ。
先生の悪気のない「最近どうしたんだ?」が、鋭い刃のように心に大きな傷をつけた。
僕はある部活動に参加していた。
僕は部屋の貴重品の管理を任されていたが、ある時鍵をかけ忘れてしまった。
当然こっぴどく叱られた。幸い盗まれたりはしなかったが、それで管理を任されることはなくなってしまった。
とてもショックだった。
夏休みになっても、夏休みが明けても、まるで勉強が手につかなかった。
僕は体調を崩すようになって、だんだんと学校を休みがちになった。
それでも長い二学期を必死に耐えて冬休みになって、僕は決断した。
自殺をしよう、と。
大晦日の朝、僕は遺書を机に置き、家を出た。
うちの親は、よく僕を支えてくれた。感謝していたが、もう限界だった。
持っていたパソコンやスマホ、本を売り払って生活費にするよう遺書に書いておいたから、それで許してくれるだろうか。
駅に着いた。
早朝だけあって、人はまばらだ。
これならあまり騒ぎにはならないだろう。
次に来る電車は3分後。この駅を通過する急行列車だった。
加速した列車に轢かれれば、確実に死ねるだろう。
恐怖心はなかった。
苦しかった日々を思えば、安堵が先に来た。
ようやく、苦しみが終わるのだ。
怪しまれないように、普通に並ぶフリをした。
空いていたので一番前に来た。ここなら飛び込むにしても他人が邪魔になることはあるまい。
まばらに降る雪を眺めながら、僕は冷たい空気を吸い込んだ。
ふと、微かに花のような匂いがした。
振り返ってみると、見知らぬ女子が佇んでいた。
僕は微かに逡巡した。
自分が飛び込む様子を目の前で見せてしまうことで、彼女に精神的な衝撃を与えてしまうのではないか、と。
しかし、その思考も霧散した。
今更どうだっていいやと、そう思ってしまった。
他人を思いやれる気持ちなど、残ってはいなかった。
電車が見えてきた。
二つも前の駅から加速している電車の速度は十分だ。
運転手に、そして後ろの彼女にはひどい光景を見せてしまうが、許してくれるだろうか。
そうして、電車が駅のホームに差し掛かったその瞬間、僕は再度花のような匂いがしたことに気づいた。
それが、後ろにいた彼女が僕の前に出てきて、
静かな動作で線路に飛び降りたためだと気づくのには、数瞬を必要とした。
けたたましく響き渡る誰かの悲鳴と警笛。
彼女の行動に呆気を取られていると、不意に彼女と目があった。
そうして口を開き、何かを言った。
周りがうるさくて聞こえなかったが、僕には聞こえたかのように思えた。
「ごめんね」
それは何への謝罪か。誰か知っている人間への謝罪か、それとも無残な姿を僕に見せることへの謝罪か。
それを考える前に、僕の体は自然に動いた。
「…くそっ」
電車が迫っているのも忘れ、僕は線路に飛び降りた。
そして、勢いのままに、思い切り彼女に体を当てた。
祈るように目を瞑る。
背中に風圧を受けた。
レールと車輪が擦れて甲高い音を立てているのがすぐそばで聞こえる。
恐る恐る目を開けてみると、彼女と僕は、隣のレールの上に倒れ込んでいた。
やがて電車が止まり、喧騒が遠くなると、彼女はどこか驚いたような表情で僕に話しかけた。
「なんでわたしを助けたの?」
「…さあな」
俺は空を仰いだまま言った。
「ありがとうございます、ほんっとうにありがとうございます!」
彼女の母親がひっきりなしに頭を下げてくる。
彼女も頭を掴まれ、無理やり頭を下げさせられている。
「いえいえ、どういたしまして」
僕があまりにもぼうっとしているものだから、なぜかかわりに僕の母親が返答する。この様子だと、机に置いた遺書など読んではいないらしい。
こんなことがあった後じゃ、死のうとも思えないので、助かったのかもしれない。
「ほら、あんたもお礼を言いなさい」
「…ありがとうございました」
小声で、上辺だけの感謝を述べる彼女は、どこか悲しそうな負の雰囲気を纏っている。
「…ごめん」
僕の口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。
「感謝状?」
「そう。三日後に、市長から直々にだって」
正月早々、面倒な案件が増えた。
母から告げられたとき、最初に抱いた感想がそれだった。
「はぁ~あ…」
「何よ、もっと誇りなさい。貴重な命を一つ救ったんだから」
「貴重ねえ」
ネットを見れば、僕を英雄視する声で溢れていた。
『高校生、同級生の自殺を止める』『アクション映画のような救い方』『助けられた女子も惚れたに違いない』等々。
…全く、本当に反吐が出る。
「自殺を止めた人間が英雄?脳天お花畑もいいとこだな」
僕は画面に向かって悪態をついた。
母は追い込まれていた僕のことをよく知っているからか、こちらを見てはいるが、何も言ってこない。
ふと、ニュースサイトのコメント欄で、僕を罵倒しているものを見つけた。
「『他人の苦しみを延長しておいて英雄気取りか?アホらしいな』…か…まったく、その通りだな」
おかしなことに、その罵倒に僕はどこか救われた気持ちになった。
三日後。
僕はわざわざ制服を着て市役所に出向き、市長室に入った。
いくらかのマスコミ関係者がいることは、僕に対して遠慮なく焚かれたフラッシュでわかった。
が、流石に彼女とそこで対面することになるとは思わなかった。
「…学校、同じだったんだな」
僕は彼女の制服を見て言う。あのときと同じように無表情で、用意された椅子に座るその姿は黙っていればクールな美少女、といった感じだ。
「…あの子が飛び降りて…」
「そうなのね…」
どこかの記者がひそひそとうわさ話をしているのが聞こえた。
この環境は、彼女にとっても居づらいのではないか。
それを問うと、彼女は「大丈夫」と一言だけ言った。
もう少し話そうとしたが、市長に呼ばれてしまったので、僕は前に出た。
「あなたは、その命をかけた勇敢な行動により、尊い一人の未来ある命を…」
市長の口上を仏頂面で聞き流し、形だけは綺麗に感謝状を受け取った。
すぐさまマスコミが群がってくる。
「今のお気持ちは?」
「どうして命をかけて救おうとしたんですか?」
「今後彼女にはどうしてほしいですか?」
その全ての質問を無視して、彼女のところへ無理やりに向かった。
「…隣、いいか」
「…うん」
彼女が頷いたのを確認して、がら空きだった彼女の隣に座る。
彼女にも容赦なく浴びせられる質問を全て無視して、僕は彼女に向き直った。
そして、
「あのときは、ごめん」
深く頭を下げた。
質問が止み、途端にフラッシュが大量に焚かれ始めた。
「あのときはちゃんと言えなかったから…しっかり言っておくべきだと思った。お前…あ、いや、えっと、君…が自殺するのを止めてしまって、本当にごめん」
出るとは思ってなかったであろう言葉に、周囲が驚愕するような雰囲気が伝わってきた。
「…なんで、わたしを助けたの?」
彼女はあのときと同じ問いをぶつけてきた。
「正直、三日間考えたけどわからなかった。ごめん」
「別にいいよ。わたしも、死ぬ機会なくなっちゃったし」
彼女はそっけなく答えた。僕はそれがいいこととは思えなかった。
僕は、彼女の方を向くのをやめて、椅子に深く座り込んだ。
「…ほんとはさ、俺も同じ時に自殺しようとしてたんだ」
周囲のさらなる驚愕が伝わってくる。
「もしかしたら、嫉妬かもな…先に死ぬとかずるい、とか思って邪魔したのかもな」
口に出してみて、その腹黒さが嫌になった。
「本当に最低だな…こんなくだらない感情で
カメラに写った僕の顔は、さぞかしひどかったことだろう。
「僕だって本当に苦しかったんだ…なのに、それを邪魔するなんて…」
僕は頭を抱えて黙り込んだ。
シャッター音だけがうるさく響く。
何秒かが経って、その均衡を、彼女が破った。
「なんとなく…今初めて、死ななくてよかったって思ったかもしれない」
僕は少し驚いて、彼女の方を見た。
「わたしのまわりって、皆元気で、自殺に走るような悩みなんて誰も持ってなくて…相談しても、生きてりゃいいことあるだとか、そういう言葉しか返ってこなくて、それで死のうと思っちゃったんだけど…こうやって、あなたみたいに自分の中身を曝け出して話してくれると、なんだか安心感みたいなものが持てる気がするの」
「…そうか?」
醜態を晒した自分にそれだけの価値があったのだろうか。
彼女はさらに続ける。
「いっそ、あなたに相談相手になってもらえれば嬉しいのだけれど…」
「僕なんかでいいのか?」
「正直、わからない。でも、ずっと死のうとしてたわたしが、こういうふうに思えるなら、話してみる価値はあると思うの」
「でも僕は、他人の相談に乗ったこともないし…」
「じゃあ、わたしの自殺を止めた責任を取って、相談に乗ってくれない?」
彼女は少しいたずらっぽく笑って言った。
「…ははっ、それならいいな」
この数ヶ月は、本当に地獄だった。
最後に笑ったのがいつだったかなんて、もう思い出せない。
でも、今、少しだけど笑えた。
なら、僕も、話してみる価値はあるかもしれない。
「わかった。相談相手の役、受けるよ。場所を変えようか」
僕たちは立ち上がった。
そして出口に向かっていく。
「あ、ちょ、なにか一言だけでもお願いします!」
完全に意識の外に出していた記者たちが取り囲んでくる。
仕方なく、僕は口を開いた。
「…自殺って、死の苦痛に対する恐怖を生きている苦痛に対する恐怖が上回ったときに発生するんですよ。だから、自殺を止めることは、その苦痛を味わわせることを覚悟したうえでやるべきだと思うんです。赤の他人の自殺を無理やり止めて、それで達成感に浸るような奴がいるなら、そいつはただの偽善者です。命を救うことと心を救うことはイコールではないんです。僕のことを軽々しく英雄だとかなんとか言ってる人たちは、それに気づいてほしいです。生きてりゃいいことある、なんて思えるほど自殺したい人に余裕はないんです」
さらにインタビューの声が飛んでいた気がしたが、僕たちは全部無視を貫いた。
「これから…どうする?」
「できればでいいんだけど…迷惑じゃなければ、あなたの家で話したい。外は寒いし、家には…帰りたくないから」
「あぁ…」
結局、そう遠くない自分の家に連れてきてしまった。
母は僕が女の子を、それもこの間助けた彼女を連れてきたことに大層驚いていたが、マスコミの取材をガン無視して来たという顛末を話すと呆れた顔になった。
結局母は、僕の部屋で話すよう言ったのでそれに従った。お茶とお菓子を出して、母は部屋を出ていった。
エアコンが暖かな空気を吐き出す音だけが空間を支配したが、その均衡を破ったのはまたしても彼女であった。
「…記事が出たら、なんて言われるかな…」
「さあ…でも、自殺を肯定するようなことを言ったんだ、褒められはしないだろ」
僕はそう答えたあと、本題に切り込むことにした。
「相談があるって話だったし、なにがあったか聞いてもいいか?」
「うん…わたしね、親とうまくいってないの」
なんとなく、予想はしていた。
あの事件直後に、無理矢理に頭を下げさせられていた彼女を思い出す。
それを見たら予想の一つもつくというものだ。
「それは…暴力とか、そういう感じなのか」
「暴力はないの。身体的な虐待はなかった。でも、なんというか…期待が重かった、と言うのかな」
「死ぬほどに、か」
「うん…」
親の重い期待というのはコンプレックスから発生することがある。例えば大学を出ていない親が大学へ行くのを強制しようとする行為はよく見られる。親自身は大学を出ないことで苦労したから子供に同じ道を辿らせたくない、という動機でそのようなことをしていることも多いが、強制される子供にとってはたまったものではない。
一方で逆のパターンも存在する。それが親がそこそこすごい人物で、そうであることを子供にも強制するパターン。彼女の場合は後者であった。
「わたしのお父さん、大学教授やってるんだ。それで、お母さんもお父さんみたいになりなさいってずっとわたしに言ってきたの。何度も何度も、毎日毎日…最近は少ないけど、それでも二週間に一回くらい…」
「それは…」
僕は絶句した。
二週間に一度、自分の「あるべき姿」を押し付けられる苦痛は想像に難くない。
「…酷いな…」
なんとか僕が絞り出した言葉は、そんなありきたりなものだった。
彼女が自殺に走った理由は単純だった。しかし、自殺に走る理由としては十分だった。
「わたしは、結構頑張ってたんだけどね…テストの調子が悪ければ何日間か叱られて、『あなたはちゃんと大学を出てしっかりとした道に進まないといけないの』っていつも決まって言われるの。自分はダメな人間なのか、って思うこともあった」
ダメなんかじゃない、と言えるほどに僕は彼女と触れ合っていないし理解してもいない。安易に慰めの言葉をかけることが余計に彼女を傷つけるかもしれないということは、自分自身がよく知っている。僕がそうだった。
「相談してみて、どうなった?」
「うん…少し楽になったかな。でも、解決にはなってないんだよね…相談に乗ってもらった立場で、悪いけど」
「いや、わかるよ…僕もそうだったから」
互いに死を志した者同士、同じ感覚をいくらか持っていたようだ。
「その…僕も、相談してもいいかな」
「うん、いいよ。少しでも力になれたらうれしい」
先に少しばかり回復したように見える彼女に、僕もまた相談を持ちかけた。
今までは相談をしようとも思わなかったが、他人の相談に乗ったことで、少し感情がポジティブになったのかもしれない。
「僕は…自分で言うのもなんだけど、中学までは、そこそこできる奴だったんだ」
「うん」
それでも、相談をするには自分の恥部をさらけ出す必要がある。それには、相応の覚悟がいる。
「高校入って最初の頃も、わりとできてたんだ…でも、それは間違いだったみたいでさ、苦手な教科がどんどんできなくなって…」
101位。それが二年生の夏の定期テストの順位だった。
「同じ時期に、部活動でだんだん上の立場になってたんだけど、貴重品の棚に鍵をかけ忘れて…すごく叱られて…」
まだ自分ができる奴だと思いたかった、そんなときの出来事だった。
僕は完全に打ちのめされてしまった。
「夏休みも宿題が手につかなくて、それ以降も全然学校にいけなくなって…毎朝学校がある日に休むたび、罪悪感でいっぱいになって…」
「…うん」
「…結局、自分が全部やらかしたことなんだよな。思い込みとかプライドとか、そういうくだらないのがあったせいでダメになっちゃってさ…」
彼女は否定も肯定もせず聞いてくれた。それが少しは救いになった。
「…終わり。ありがと、聞いてくれて」
「ううん、お互い様だよ」
再び部屋に静寂が訪れた。母が持ってきてくれたビスケットを、一口齧った。
「なにか…解決策とか、あればいいんだけどな」
「解決策…」
彼女は少し考えて、そして口を開いた。
「嫌なことって、絶対にやらなきゃいけないのかな。わたしはこんな環境にいたから逃げ出せなかったけど、お母さんとかが理解してくれてるなら、逃げ出してもいいと思う。嫌な原因がある学校から逃げ出すことは、別に間違ってないと思う。とりあえずできるかどうかは置いといて、罪悪感を感じる必要なんて、ない」
「罪悪感を感じる必要なんて、ない、か…」
彼女が断定するように言ったその言葉は、少なくとも今までは誰にも言われなかった言葉だった。
「そうか、いいのか…いいのかもしれないな…」
「逃げられる場所があるなら、この先どうなるにせよ生きることはできると思うよ」
僕を励ますその言葉は僕を救い、しかし、彼女の現状を僕に気づかせることとなった。
彼女には逃げ場がない。家はセーフティーゾーンであるべきだったのに。
「わたしは…どうしたらいいんだろうね。おじいちゃんとおばあちゃんの家までは、行けるほど近くないんだ…お金もないし。だからって、ずっとどこかに留まることはできないし…」
彼女のセーフティーゾーンは、どこだろうか。存在しないのかもしれない。
いや…でも、存在しないなら、いっそ作ってしまえばいいのかもしれない。
「その…うちとか」
「え?」
「うちとかに、留まってみるのは…家出してみるのは、どうかな…なんて」
いや、普通に考えて同級生の女子を自分の家に誘うのはさすがにまずいだろう…と僕は途端に冷静になり、冷や汗を流した。
下心があるなどと思われて、理解者を失うことにはなるまいか。
僕が必死に言い訳を探すのとは対照的に、彼女は少し驚いたような顔をしていた。
「それなら、いいかもしれない…でも、お母さんに迷惑がかからない…?」
「ま、まぁな…確かにな…」
僕は彼女が悪い感情を持っていないことに少し安堵しながらも、その提案は親への迷惑という当然に存在する壁に阻まれることに気づいた。
だが、その壁は呆気なく崩壊した。
「別に構わないよ?」
ドアが開く音とともに、母が現れたのだった。
「あんまり相談してくれなかったから、何を思ってたのかは気になってたけど…まさかそこまで追い詰められてるとは思わなかった。ごめん」
母は僕に頭を下げた。
「僕のほうこそ、相談しなくてごめん」
僕も同様に頭を下げた。これで、この件はひとまず終わりだ。
「で、その子だったね。私としては構わないよ、何ヶ月でもいていいよ。でも、学校はどうするの?」
「学校は…行きません」
彼女は言い切った。
「相談して思ったんです、自分もやっていいことがあるって。それで、今自分は余計なことを言われない、ゆったりした時間を過ごしてもいいんじゃないかって思ったんです。それに…学校に行くたびちゃんと学習しなきゃ、っていうプレッシャーに悩まされるのは、嫌なので…」
「なるほど。あんたは?」
母は僕にも同じ質問を投げかけてきた。
答えは同じだ。
「僕も、行かない。これだけ苦しんだなら、堂々と休んでもいいはずだから」
そして僕も言い切った。
傲慢と思われるかも知れないが、僕はそれでも自分なりの正しさを貫き通したい。
「…わかった。受け入れるよ。でも、親には連絡しなきゃね」
彼女がビクッと震える。やはり親がトラウマになっているのだろうか。
「何もお許しを得ろ、ってことじゃない。報告だけでいいから」
「決別の儀式だな」
僕は軽口を叩いた。それでようやく彼女も理解したようで、スマートフォンを取り出した。
僕と母が見守る前で、彼女はそっと電話番号を打っていく。
そして、発信した。
スピーカーモードだったのか、2コールが響いたあと、受話器を取る音が響いた。
「あ、お母さん…」
『何やってんの?門限は6時って言ったでしょ?あと5分もないじゃない。早く返ってこないとご飯の量を半分にしますよ』
うわあ。
聞こえてきた彼女の母の言葉に、僕と母は顔を引きつらせた。
現代社会にこんな親がいるのかと、いっそ笑ってしまいそうだった。
「わたしは、これからわたしを助けてくれた人の家にお世話になります。家には帰りません」
『はあ?何言ってるの、いいからさっさと』
「帰らない!」
彼女は叫んだ。
気圧されたような雰囲気が向こうから伝わってくるようだ。
「わたしは、もうこれ以上縛られるのは嫌だ!お母さんの…いや、あんたのいないところで、伸び伸びさせてもらう!ちゃんと許可は取った!わたしのやることくらい、好きにさせて!!!」
思い切り叫び、彼女は電話を切った。
「完璧だよ。これで、少しは向こうも思い直すかね」
母がそう言ったのも束の間、彼女の携帯電話が鳴る。
彼女は再び震えるが、今度は母が携帯電話を取った。
「はい」
『…あんたは誰だ!?』
「あなたの娘を救った子の母親ですよ」
『今すぐその子を追い出してうちに帰しなさい!さもなければ警察を呼びますよ!』
「そんなこと言っていいんですか?彼女は今、ここであなたの言葉を一緒に聞いていますよ」
『…だとしても変わりません!あなたは誘拐犯ですよ!』
「家出してきた人間を匿ったら誘拐ですか、それはまたおかしな話ですね。元はと言えばあなたが娘に父のようにあることを日常的に強いていることがきっかけでしょう?」
『他人の教育方針に口を出すか!』
「娘をガチガチに縛って教育?それはまたへそで茶を沸かすような話ですね。あなたのやっていることは端的に言って虐待ですから、警察を呼んで捕まるのはあなたじゃないんですか?」
『…』
相手が押し黙る。
「うちは警備会社と契約してますから、もしとっ捕まってあなたの夫の顔面に泥を塗りたくるのが嫌なら、来ないほうが賢明ですよ」
母はそう言って、電話を切った。
少ししても、電話がかかってくることはなかった。
「…これから、どうしよっか」
「どうしようかねぇ…」
母の剣幕を眺めたあとだと、なんだか毒気を抜かれたような気分になる。
これで事態は完全にリセットだ。
…そう、リセット。
「いっそ何もなかったことになんねーかな」
「…正直、わたしもそう思ってる…」
今更何もかもやり直しなんてことは、まあ無理だろう。
それでも、死ぬ気が抜けてしまったのだ。なら、生きるしかない。
「ま、いいか。ゆっくり決めよう」
親の期待も市長の表彰も忘れて、僕たちは未来を探し始めた。
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