チラシの裏

めかくし

ヒトが慣れ始めた文化的生活について

「ゾウを見て可愛いと思わないヒトは少ないが、果たして檻で隔てられずにゾウを見たら可愛いと思えるだろうか?」


 僕は思わないでしょう。いや、思えないといった方が正確です。ゾウという動物は十二分に僕の命を奪いうる、いわば脅威たりえるのだから。僕はこの質問を通じて表したいのは、「ゾウは可愛いのか可愛くないのか」という問いではありません。僕が真にあらわしたいのは「脅威に対して可愛いという感情は発生しないものなのだとしたら、逆に可愛いという感情は、非脅威な存在、つまり格下の存在に対するものなのか?」「そして、脅威というものから保護されて生きている僕らは、本能というものを失いかけているのではないか?」というものです。これは僕が二年前、動物園や水族館に通い詰めるようになってからずっと考え続けている曲者の問いです。


 一つ目の問いが肯定されうる根拠を書きましょう。例えばハチです。田舎に行けば彼らが僕らの近くを飛んで波音のオーケストラを無償提供してくれることもしばしばですが、それを快く思う方は少ないでしょう。むしろ黒板と爪の組み合わせを感じさせる不快さで、その場を離れたくなるのではないでしょうか。小学生の頃の無邪気さと膨大な好奇心をもってしても、観察などせずに悲鳴をあげて逃散したのは僕だけでしょうか。これらはなぜこうなるのか。アリの隊列のように惹きこまれ、観察欲を刺激しないのはなぜか。ハチは危険だと本能が訴えかけているから。それが理由であると僕は考えます。ハチとは反対に、ネコやイヌ。彼らへの印象は好意的なものがほとんどを占めるでしょう。ヒトはまだ野生的な生活をしていたころからネコやイヌと長い間共生(隷属とも言えますが)していた種であり、現代では社会で心をすり減らした分の癒し求める対象となる愛玩動物です。YouTubeやニコニコ動画でもアニマルビデオとして、人気のジャンルを築いていることに加え、猫カフェというもの存在するくらいですから、彼らの人気さがわかるでしょう。それはなぜか?1+1=2の理由を聞いて回る純真無垢な小学生の様な体裁にはなりますが(ちなみにこれはペアノの公理の後置関数suc(n)を用いて示すことができます)、強いて答えを考えるのならば、共生関係に保証された無害さ、上位語に変換すればやはり非脅威性が模範的回答たりえるでしょう。


 実は一つ目の問いは三ヶ月ほど前に、退屈な授業中にひねり出した出した結論で大方満足しています。それは「可愛いという感情は優越に基づいた感情ではなく、格上との邂逅を果たした時は、そもそも生存本能に駆られた体に感情を考える余地はない」というものです。ここで「生存本能」という語が出てきます。読者の方の中で、生存本能の発露に準ずる体験をされた方はいますか?僕はありません。少なくとも東京で生まれ、アスファルトやコンクリートの鼠色に囲まれて生きてきた十六歳の少年には、命の危険を体験する機会すら発生し得ないでしょう(もちろんそれは喜ばしいことです)。ですが本能を忘れてしまうのは必ずしも喜ばしいことではないでしょう。動物という明確なアイデンティティを忘却の彼方へと押しやることと同義なのですから。本能、野生を喪失しかけていることの弊害はアイデンティティの揺らぎ以外にもあります。動物観の揺らぎです。


「川では鮭が切り身の姿で泳いでいる」


これは都市伝説の類で、事実のほどは明らかではないですが、この文章が持っているインパクトは相当なものです。さすがに滑稽とまで思えるこの都市伝説ほどではないですが、野生的生活の喪失を感じさせることがあります。YouTubeの畜産、狩猟関係の動画に付くシュピレヒコールたちです。「牛が可哀想」ならよいですが、「投稿主の人間性を疑う」であったり「同じことを投稿主にしてやる」と過激なものも数多く見られます。僕はこれが、野生的生活の喪失に関係しているのではないかと考えています。牛や豚を直接屠って食べている方はとても少数で、大半はスーパーや食肉店で法定通貨と牛肉や豚肉を交換入手しているかたちでしょう。いわば、食肉の生産はパッケージ化されてブラックボックス内にあり、生産の過程は完全に他人任せ。完全に文明的生活に浸かりきった状態で、インターネットという魔法で野生的生活の一端を見、その血なまぐさい行為が文明的生活を支えているという事実に対しての動揺。それが涵養してシュプレヒコールに繋がっていると考えています。


そもそも人間は自分たちがヒトであり動物の一種であることを忘れているように思えます。僕らは他の動物と一線を画している存在ではないし、動物にはできないなにかができるというわけでもない。それゆえに僕らも命を奪い奪われる世界に身を置いていることを忘れているように思えます。だから、牛や豚を食べることは動物である以上背負う原罪であって、決して極悪非道の限りを尽くした行いではありません。ですが、文明的生活に浸かる人々、すなわち自分たちが動物であることを忘れている人々は命を奪う行為を激しく嫌悪している。読者の方の中に動物であることを忘れている人がいるのなら、ぜひとも思い出してください。僕たちが神に肉薄している存在ではないことを。


文明的生活は悪ではありません。ただ、野生的生活を放棄しすぎるのは如何なものか。臭いものには蓋をする主義はこと動物愛護や自然保護にも跋扈しています。キリンやイルカを一生懸命に保護する一方で、積極的にゴキブリやシロアリの殺戮に勤しんでいるのはまさにヒトです。僕らにとっての動物や自然というのは、僕らにとって利益をもたらすものを指しているようにおもえてなりません。その歪んだ認識も野生的生活の喪失が関与していると睨んでいます。そもそも物事には二面性、良い面と悪い面があります。良いことづくしの理想的存在は無いといってしまって差し支えないでしょう。ですがヒトは「良い動物」や「良い自然」のみを保護し、「悪い自然」や「悪い動物」の根絶を図っています。これは、ヒトがヒトによって生み出された良い面のみを分割したものに触れ過ぎているからに他なりません。そこで僕は二面性の受容を推していきたいです。輝かしいヒーローの裏にはたくさんの凡人がいることを。完璧な善行はなく、斜に構えればいくらでも犠牲を見つけられることを。パンダなどの人気な動物の裏で、魅力的で無い動物が絶滅していることを。

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