第37話 ア嚇染まる世界

 意識が混沌の海に沈んでいく、沈んでいく。

 沈みながら上着が剥がされ、下着が剥がされ、生まれたままの姿になっていく。

 更に沈んでいく。

 体中の細胞が徐々に海に溶けて消えていく。足が消え手が消え、腰すら消えて段々縮んでいくあたし。

 肉体も消え、

 記憶も、

 意志も拡散していく。

 余分な付属物が消え、あたしがあたしである為の代用のきかない核が露わになっていきあたしは一に還っていく。

 ああ、あたしは生逆してるんだ。

 混沌の海の一粒の泡に過ぎなかったあたし。

 そこで生まれた泡は上に到達する前に割れて消えてしまう。ただ稀に割れずに海から浮かび上がる泡がある。

 その泡こそが魂。

 魂となった泡は現実世界で生命となる。

 一粒の泡にすぎなかったのが現実世界で、肉体を得て、服を着て、経験を積んで我の色に染まっていく。

 それが今、逆に服も肉体も記憶さえもあたしの全ては剥ぎ取られて元の泡に戻っていく。この泡さえも割れた時あたしという存在は混沌の海に還る。

 パンッ。

 割れた。

 割れて終わりのはずだったのに、何もなかったはずの泡の中に核が出来ていた。

 それは『赫怒』

 これだけは圧倒的な混沌の海にあって拡散しなかった。確固たるあたしだ。あたしはまだ何一つ果たせていない。

 こんなことで終われるか終わってたまるかっ。

 あたしの自我が爆発した。そのエネルギーで混沌の海を一気に浮上していく。拡散していた意識がまとわりつき、記憶がまとわりつき、骨が戻り肉が付いていく。

 そしてついにあたしは混沌の海から脱した。脱した一瞬の内に見た混沌の海、それは渦を巻き輝く銀河そのものだった。


「ひっ」

 池は目覚めたあたしから、慌てて飛び退いていった。まるで猛獣にでも出会ったかのようだ。

「なっなんなのその炎のように赤い髪は、なによりその嚇灼に輝く瞳は」

「そんなに驚くことはないわ。これは怒り、あたしの本質を体現化しただけだから」

 ア嚇染まる世界。

 これがあたしの世界。一度混沌の海に麝候が言う魂源に落とされたことであたしはあたしの魔に完全に目覚めた。

「まっ魔女」

 池は震える唇で呟いた。

「魔女」

 その言葉をゆっくりと噛み締めて言葉に出す。

「そうかもね。神が作ったこの不条理な世界に怒り世の理をねじ曲げる。確かに魔女ね」

「邪な術でマリを誑かしたのね。許せない許せないわ」

 池は先ほどまでのあたしへの恐怖を忘れたかのように口汚く罵りだした。狂気で目は血走り顔が骨格から歪んで見える。

 これがマリの側で静かに微笑んでいた池なのだろうか。

 嫉妬はここまで人を醜くさせるの。あたしはこの空間にべっとりと張り巡らされたに悪意の糸を綿飴を作るかのように腕を回して拳に絡ませていく。

「死ねーーー魔女」

 ぐにゅ、手を振り上げて襲いかかる池の胸にあたしの拳がカウンターでヒットした。

「宵闇に惑いなさい」

 悪意を纏った拳がぐにゃっとめり込んでいく感覚が返ってくる。

「一体私に何をした。うげえーーーー」

 嘔吐に始まり、全身から脂汗が浮かび、穴という穴から汚物を垂れ流し、べちゃっと蹲ってしまった池。

「はひーーはひゅーー」

 池は白目を剥き、その白い胸は蛭のように蠕動している。

 あたしは彼女にこの空間に蔓延る悪意を束ねて打ち込んだ。

 その結果、不良達は赤子のような無邪気な顔で眠りにつき、すやすやと安らかな寝息を立てている。

 体育館に充満していたどこか生暖かい空気は一掃され、取れたての果実のようなフレッシュな空気に変わっていた。

 そして悪意を一身に受けた池は地獄に落ちた亡者のような責め苦に苦しんでいる。人の悪意が地獄を作り、無くなっただけでこんなにも世界は清浄となるのなら、人とは一体何なのだろうか?

 もしかして麝候もこんな思いに囚われて魂の探求を行っているのかも。だとしたら彼もまた過去にひどい人の悪意に触れたのだろうか。

「感傷かな」

 地獄に墜ちて彼女が聖女になるか復讐鬼になるかはどっちでもいい。

 あたしにとって大事なのは罪には罰を、それが果たされたのなら彼女への怒りはない。

 ただ彼女が嫉妬に狂ってこうなってしまったのが悲しかった。でも彼女でおかげでマリを助ける手が見えた。彼女が持っていたナナシ、これがあれば警察を学校に介入させることができる。流石の怪士も警察がいるなかマリを浚うようなことは出来ないはず。これで時間を稼いでいるうちに大神が助っ人を呼んでくればあたしの勝ちだ。

 そう、この戦いは怪士を倒すことが目的じゃない、マリを守りきることがあたしの目的なんだ。

「くっ」

 緊張が解けたからかまた腹が疼き出した。警察を呼んだら休憩している暇はないだろうな。今のうちに治療しておかないと、これからの行動に支障が出る。

 あたしは、保健室に向った。


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