第16話 萌芽

 悪意はやってくる。

 善意はやってこない、掴むしかない。

 でも悪意はやってくる。


 あたしが用を済ませて個室から出ると化粧室内には誰もいなかった。

「誰もいない」

 奇妙なほどに静かな空間に嫌な気が充満しているのを感じる。昨日のこともあるし早く出た方がいいかも。あたしが取り敢えず手だけでも洗おうとすると、突然乱暴にドアが開けられ女生徒が数人狂気のデモ隊の如く雪崩れ込んできた。

「何?」

「急いでドアを塞いで」

「オッケー」

 あたしが驚いている間に女生徒達は慣れた連携で機敏に動き、あたしはあっという間に周りを取り囲まれてしまった。

「何か用かしら?」

 気後れしたら負けだ。あたしは集団の中心を見据え言った。

「ねえ。あなた転校生のクセに調子に乗りすぎじゃない」

 少女達の間からリーダー格らしい少女が前に出てきてあたしと対峙する。

「あたしのどこが調子に乗っているって」

 肩まで伸びた髪を軽くカールさせ人を見下すのに慣れた顔をした少女。彼女を制すれば活路はある。リーダー格の少女をグッと見据える。

「貧乏人のクセに学業優秀で顔もいい。それだけでもむかつくのに、その上副会長の伊木瀬さんとも親しいなんて」

「ふっ。何、嫉妬? くだらないわね」

 思わず本気で笑ってしまった。嫉妬なんて人間が持つ感情で一番くだらない、目的を持って毎日を必死に生きている人間には持ちようのない感情。それ故にあたしは甘く見ていた。このくだらない感情、でもそれ故に全ての悪意の元に成りやすいというのに。

「嫉妬ですって。この私が、華族の家系で大会社の社長の娘である私が」

「血統に財力、どれも凄いけど、あなた自身の能力には関係ないことね」

 あたしを囲む少女達は全部で5人。どこかに逃げ道がないか、少女を挑発しつつも必死に包囲の隙を捜す。

「なんですって」

「ところでこれが一番の問題なんだけど、あなた誰?」

「えっ」

「ご免。家柄くらいしか誇るものがないような小さい人眼中になくて」

「このアマッ。あたしは不破 頼子。この名前忘れなくしてやる」

 不破は平手打ちを放ったが叩かれてやる義理はない。あたしは、平手をかいくぐり不破の懐に飛び込み体当たりを喰らわした。

「きゃあっ」

 無様な叫びを上げ不破は体勢を崩して転んだ。転んだ不破の上を飛び越えあたしは包囲の輪を抜けた。抜けた、安心した瞬間だった、突然首に縄でも掛けられたように引っ張られた。

「ぐっ」

 見ると少女の一人があたしの自慢のポニーテールを掴んでいた。悪意溢れる笑顔、ネズミをいたぶる猫の顔であたしを見下ろしくる。

「以外とすばっしこいわね。取り押さえろっ」

 少女達が死肉を漁るハイエナの如くあたしに群がってくる。あっという間だった両腕、両足にそれぞれ一人づつ4人に取り押さえられ、あたしはトイレの床に大の字に磔られる。

「いいざまね」

 立ち上がった不破は先程の復讐とばかりに容赦なくあたし顔を踏み付けぐりぐり捻り、あたしの顔はトイレの汚い床に擦り付けられる。

「このまま人間ブラシとして床を綺麗にしてもらおうかしら」

 くやしい。拳を固めたところであたしには少女一人振り払う力がない。そう、普通なのだ。復讐を誓い、修行をしていても所詮未だ常人の域を脱し得ないただの人。

「さて、どうしてやろうかしら。あなた達何かいいアイデアある?」

 不破は頬を上気させ興奮気味に話す。

「このまま剥いちゃわない」

「いいねえ~それで汗くさい柔道部の部室にでも放り込んでやろうか」

「あいつらたまっているから可愛がって貰えるわよ」

 少女達は異様に高ぶっている。彼女達だって普段は普通の少女であるのに、嫉妬から生じて弱者をいたぶれる嗜虐心に体が火照っている。

「何よその目」

 不破が苛立ちげに言う。弱者をいたぶれる絶対的優位、なのにあたしの目がまだ生きているのが気に入らないようだ。同じだ。あそこであたしをおもちゃにした男達と同じだ。男も女もない、人間はこんなにも醜悪になれる。こんな奴らに嬲られるなんて。こんな遊びで人を破滅させられるような奴らに。あたしの中で怒りが煮えたぎり純化されていく。

「気に入らないわね。ねえそこのホース取ってくれない」

「どうするの」

「あそこにホースツッコンでカエルみたいに破裂寸前まで腹を膨らませてみない」

「いいわねそれ」

「面白そう」

 力が欲しい。理不尽な暴力に対抗出来る力が欲しい。その怒りがあたしの我。これこそが世界の理を覆す。ドクン。あたしの心臓が一際大きく鼓動した。

 見える。空間に広がる赤い錆びのようなものが。それらは綿のように空間を漂い、磁石に引き付けられる砂鉄のようにあたしに向かって無気味な模様を描いてまとわりついてくる。

 これは悪意? いや、悪意だ。

 あの日以来慣れ親しんだもの。

 あなたたちもそんなに好きならたっぷりご馳走してあげる。


「ねえ、何か甘い匂いがしない」

「別に匂わないけど」

 少女の一人が自分を取り巻く雰囲気が変わったのを感じた、五感以外で。それ故にその感じた物を五感に置き換えようとして戸惑う。五感以外で感じるもの、それは更に濃厚に密度が増していく。

「うぷっ」

 少女の一人が突然吐き出し床に俯いた。

「どうしたの、うっ何この生暖かい感じ。うっ」

 俯いた少女を気遣おうとした少女も突然奇声を上げて小水を漏らしへたり込んだ。残りの少女達も顔色は真っ青になっている。

「ちょっと皆さんどうしたの?」

 取り巻き達の突然の不調に不破は戸惑いの表情を浮かべる。その不破の眼前、拘束が解かれセウは毅然と立ち上がった。

「これはあなたがやったの?」

 不破は神を仰ぎ見る罪人の如き目で見るのであった。


 あたしは化粧室の戸を開けて廊下に出た。

「はあはあ」

 あたしは何をしたんだ。記憶が定かじゃない。でも何かを掴んだ。あたしだけの力。しかし、今は兎に角体が鉛のように重い。倒れかかるあたしを誰かが優しく抱き留めてくれた。

「どうしたの?」

「伊笛先生」

 どうしてこの人はあたしが弱っている時に来てくれるんだろう。そんなことを思って気が抜けたのか、あたしは伊笛先生の胸に身を委ねてしまった。


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