第7話 初仕事の味

「えっ!?」

 その光景にあたしは一瞬魂が抜けたように虚脱した。希望がこんなにもあっさりと砕け散った。

「ふん、カッコつけても所詮銃には敵わないじゃないか」

「お前が撃ったのか?」

 狐塚が硝煙上げる銃を握った男の一人に咎めるように聞く。

「はい。こんな奴との会話は無意味ですよ」

「そ奴にはまだ利用価値があったのに」

「生かしておけばいつかしっぺ返しを喰らいます」

 男は主に咎められてもまるで意に介する様子はなく、偽魂元の書を奪う為、さっさと麝侯に近付いていく。

 虚ろな目に、赤く染める麝侯の血が映り込んでいく。このままじゃ麝侯は死んでしまう。そうなればその後のあたしの運命も決まっている。また圧倒的な暴力、圧倒的な悪意に晒されて弄ばれるの? それでいいの? あの時だって、あたしは悪意に抗うため、この手を赤く染めた。そうだあたしにとって、赤は始まりの色、決意の色。赤とは命の輝き、魂の輝き。ここで途方に暮れていても現実は変わらない。あたしは何かに寄り添ってないと生きていけない少女は捨てたんだ。復讐を成し遂げるのはあたし、麝侯を利用はしても、頼っては行けない。この手で成し遂げると誓ったはずだ。ならこんなとこで寝ていてどうする? 誰も助けてなんかくれない。

 スプリンターのスタートの如く立ち上がると同時に走った。驚き一瞬動きを止めた男より早く麝侯の傍に駆け寄り偽魂元の書を拾い上げることが出来た。

「何の真似だ?」

 銃を持った男が問いかける。

「取引だっ。偽魂元の書は渡す。代わりにあたしと麝侯を見逃せ」

 これがあたしに出来るギリギリ限界の闘い。

「取引出来る立場だと思っているのか?」

「要求が通らないのなら、破く」

 あたしは引き千切れるように両手で偽魂元の書を開いて持った。あたしには彼らと取引するだけの暴力はない。でも彼らが欲しがるこの本を破壊することぐらいは出来る。偽魂元の書、これだけがあたしの取引の材料、これに麝侯とあたしの運命が掛かっている。

「くっ」

「さあ」

 歯軋りする男にあたしは更に一歩踏み込む。

「大人しく本を渡せ。そうすれば君だけは見逃していいぞ」

 妥協を引き出せた。でも即答。

「断ります」

 あたしだけじゃない麝侯も助ける。甘さなのだろうか。でも復讐のため、あたしまで彼奴等と同じように堕ちてどうする。堕ちたあたしが彼奴等を倒してもそこには何のカタリシスはない。復讐者こそ正しくあれ。

「なんでそんな男に忠義立てる?」

「恩人だから」

「そいつは決して善意から人を助けるような男じゃないぞ」

 同類だから分かるのか男の言葉には妙に実感が感じられる。

「そうかもしれない」

「なら」

「だがあたしにとってそれは救いでした。善意の心で何もしない人より、悪意の心で助けてくれた人にあたしは恩を感じます」

 男は溜息を吐くと諦めたように狐塚の方を向いた。

「狐塚様どうしますか?」

「小娘名は何という」

「セウ」

「セウか。いい目をしている。最初は気にも止めなかったがただの愛玩具ではないようだな」

 狐塚があたしの真価を探るように見る。

「それはどうも」

「だが所詮小娘、何の力もない。これ以上私の邪魔をするというなら、生きながら地獄に落としてやるぞ。さっさとその本を渡せ」

「いやです。まずは麝侯を病院に連れて行きなさい」

 狐塚の恫喝を跳ね返す。

「小娘がっ、調子に乗るなっ。私は欲しいものを前にして焦らされるのが最も嫌いなんだよ」

「だから麝侯を病院に連れて行ってくれるなら、すぐ渡すわっ」

 狐塚が飢えた猛獣の目で睨み付けてくる。負けられない。あたしも気迫を込めて睨み返した。熱帯夜を過ごしたように体が重くなる、思考が鈍っていく。それでも必死に気を保って睨み付け続けた。負けられない。あたしはあれだけの地獄を経験した。そして果たさなければならない目的があるんだ。だから心だけは負けられない。

「ふう~、負けた。小娘その男に惚れているのか?」

「冗談でしょ。ごふっ」

 気付けば鳩尾に狐塚が持っていた扇子がめり込んでいた。あたしは胃液を吐きだした床に倒れ伏した。呼吸が元に戻る間もなくあたしは男達に押さえこまれ、偽魂元の書は奪われた。緊張感を弛緩させるたわいない質問、これこそが海千山千の強者が放った罠だった。地獄を見て精神的には成長したつもりでも、所詮まだ小娘に過ぎなかったことを実感させられた。

「残念だったのう~あんな言葉に気を抜いたお主が悪い。経験が足りなかったな」

「ちきしょうっ」

「涙を流した顔はなかなか可愛い顔じゃないか。お前達、気に入ったのなら好きにしてもいいぞ」

「本当ですか」

「ボーナスだ。殺さなければいい。この娘にはその後で豚共のサバトの生け贄になって貰おう。欲しい物を手に入れるには色々と人脈も金もいるからな」

 待てが許された犬のように、涎を垂らして男達は夢中で胸元に手を伸ばす。セウは必死で体を揺らし抵抗しようとするが、両腕両足を押さえられている状態では大した抵抗もできなかった。スーツがはぎ取られ、シャツのボタンが外されていき、胸元がはだけ出さた。ブラがズリ上げられ、桃のように美しくピンクに染まる乳房がさらけ出された。

「おお、年の割に結構成長しているじゃないか」

「どうせ。あそこの男に毎晩弄ばれていたんだろ、体はもう成熟しているぜ」

 涎を垂らし男の一人が早速乳房を揉みし抱く。

「ちくしょう。ちきしょう」

 セウは唇を噛みしめ涙を流す。

「余興は飽きた。早く本を持ってこい」

 セウが陵辱される様子を暫し鑑賞していた狐塚は、もう興味を無くしたのか視線を外して部下の一人に命令する。

 何も出来なかった。また何も出来ずに全てを奪われてしまう。どうして、どうしてあたしには力がないの? このまま嬲られるくらいならいっそ・・・。だめだ。強者が弱者を喰らっていく世界。それも自然界のように生きる為じゃない。強者が己の娯楽の為に弱者を悪意を持って嬲る世界。あたしはこんな世界に一矢報いることなく終わってたまるか。まだだ、まだきっとチャンスはある。一度あった奇跡、それがもう一度無いとどうして言い切れる。あたしはチャンスを待つために体の力を抜き、男達の欲望に為すがままになることにした。

「おっあきらめたのか、大人しくなったぞ」

 あたしは体を男達の為すがままに任せ。取り敢えずこの場の中心である狐塚に視線を向けた。

「狐塚様、これを」

 ボディーガードの一人が偽魂元の書を差し出す。

「やった手に入れた。手に入れたわ」

 狐塚は、偽魂元の書を手にした瞬間、それは芸術家が描いた天使かのような純粋で美しい歓喜の顔を浮かべた。普通の人ではこんな美しい笑顔は出来ない。これだけの情熱を注ぎ込むことは出来ない。行為はともかく、物を欲しいと思う心は本物だ。

「シン」

 誰もが終わったと弛緩した空気を貫く黄金のニードルが狐塚を貫いた。射抜かれた狐塚から黄金に輝く文字が溢れ出す。溢れ出す黄金の文字は狐塚が持つ偽魂元の書に吸い込まれていく。

「ああっ、生きていてくれた」

 振り見る先に麝侯が立っていた。捕らわれているあたしのことなどまるで気に掛けた様子のない、いつもの不貞不貞しいその姿。なのにあたしは歓喜の声が溢れた。本当にただ生きていてくれたことが嬉しかった。あたしの前からいなくならないでいてくれた。

 始めて見る魔術的な現象に誰もが呆気に取られている中、麝侯は放心している狐塚に近付くと偽魂元の書を取り上げた。

「強欲に連なる原罪の魂を持つあなたのことだ、偽魂元の書を手に入れれば、きっと魂が歓喜に震えると思ってましたよ。最も、少々心配でしたから香辛料は利かせましたけどね。確かに、あなたの魂写し取らせて貰いました。さぞや、素晴らしい物語が綴られているのでしょうね」

 麝侯は頁を捲り偽魂元の書を読み始める。

「なぜ、生きている」

 正気に戻った狐塚がぐったりと椅子に体を預けながらも奮える声で尋ねる。

「血糊ですよ。安易なトリックで申し訳ありませんが、ボクも一張羅を犠牲にしたんですから、お許し下さい」

「おのれおのれ」

「まあまあ、お怒りを鎮めてくれませんか。こちらも魂も写し取らせて頂きましたし、先程の蛮行は水に流しましょう。どうです、ここらで手打ちとしませんか?」

「巫山戯るな。私の魂誰にも覗かせはしない」

「おやおや、もしかして成り上がる為にじじい共に躰をおもちゃにされていた過去を暴かれるのが嫌なのですかね? それも成功した今となってはいい思い出じゃないですか」

 麝侯は偽魂元の書を読みながら言う。

「お前達麝侯を殺せっ」

 柳眉を上げた狐塚が命令する。

「交渉は決裂ですか。残念です。飆君仕事ですよ」

「はいはい」

 先程銃を撃った男が答えた。

「おまえ」

 隣にいた男が銃を抜こうとした時には、腕ごと肋をへし折られていた。

「とろいぜ」

 言いつつ男の体が萎んでいき一回り小さくなって少年の体格に様変わりする。そして、顔の皮膚を仮面の如く剥ぎ取ると、そこに飆が現れた。

「何者だ」

「俺は疾風。風は動かなければ空、空転じて風と為す」

 それから瞬き一つするたびにボディーガード達が倒れていく。僅か数秒後には狐塚を除いて皆床で呻いていた。 飆も普通の少年じゃなかった。麝侯と同じ世界の側に立っている人間だった。あたしも麝侯に着いていけばあんな力が手に入るのだろうか。 

「ご苦労さん飆君」

「全く、あんたの仕事は後味悪いな」

 飆はあたしの元に歩いていく。

「立てるか」

 飆は倒れているあたしに手を差し伸べる。あんな超人的力を持った人が、こんな普通の行為が出来るんだ思いつつ、あたしは飆の手を取った。

「ありがとう」

 立ち上がると狐塚の放心した声が聞こえてきた。

「そんなそんな」

「確かにあなたは強欲の原罪に目覚めたからこそ、能力を開花させ成功したのでしょう。ですが知っておくべきでしたね、上には上がいることを」

 麝侯は静かに狐塚の側に寄っていく。

「私をどうする積もり?」

「この商売、舐められたら続けられないんですよ。淑女にこんなこと言うのは紳士として心苦しいのですがですが。ボクの命を狙った代価は支払って頂きましょう」

「ひいいいいいい。たす助けて・・・。お金ならいくらでもあげる。だから」

「その言葉本当ですか」

「ほっ本当だ」

「ならこれに署名をお願いします。内容は要約すると、命以外の全てを麝侯に譲渡すると書いてあります」

 麝侯は懐から羊皮紙とペンを取り出した。

「言っておきますが、魔術的細工が施された契約書です。ゆめゆめ破棄出来ると思わない方がいいでしょうな」

「分かった書く書くから。命さえあれば幾らでも財産は蓄えられる」

 観念したかに見える狐塚に麝侯はペンを差し出し、狐塚はそれを取ろうと腕を伸ばした。

「ば~か」

 狐塚の顔が豹変した。さっきまでの観念したかの顔が仮面が取れたかの如く人を小馬鹿にした顔が表れ、同時の狐塚の伸ばした腕の袖下から小型の銃が表れ火薬の炸裂音が響く。

「きゃはははははっはあははははっはは、ば~か。誰が必死に溜めた金を渡すか。これはな~私の魂にも等しいんだよ。このば~か、ば~か、大人しく従ってりゃいいもの~。

 へっ?」

 銃弾を喰らったはずの麝侯は、馬鹿笑いする狐塚の前平然としていた。確かに弾は命中している、それが証拠に麝侯のスーツには新しい穴が追加されている。

「ああすいません誤解しましたか。確かに先程血糊を使用したと言いましたが、銃弾が空砲だと誰が言いました?」

「へっ?」

「飆君が使用したのはあなた方から奪った紛れもない本物の銃ですよ。空砲なんて使用したら現実味が薄れますからね。全く誰かさんが加減というものをしてくれないので、肋骨に多少罅が入ってしまいましたよ」

「はい?」

「防弾衣ですよ。折角の機会、狙うなら頭部でしたね」

 麝侯は額をトントンと指差す。

「なら今撃ってやるよ」

『外せ』

 狐塚は目の前にいる麝侯から銃口を外して撃った。

「?????」

「おやおや不思議ですか、不思議ですよね。仕掛けは簡単これですよ」

 麝侯は偽魂元の書を狐塚に見せた。

「あなたは一部とはいえ魂を僕に複写されたんですよ。つまりあなたは魂を司る「言霊」をボクに握られたんですよ。そんなあなたがボクの言葉に逆らえると思っているのですか? ああ、でも安心して下さい。無理矢理契約書に署名させるなんてことはさせませんから。セウ君」

 呼ばれて近付いたあたしに麝侯は床から拾った銃を渡してきた。

「この女を始末しなさい。丁度いい機会です。あなたも慣れておきましょう」

 あたしは手渡された銃の重さに呆然としていた。この世界に生きるとはこういうこと。

「どうしたのです。この女はあなたが復讐を誓った者達と同じ人間ですよ。己の欲望のためなら平気で他人を陥れる。心が痛むような善人では決してない」

 それでも。

「あなたの覚悟はその程度なのですか。人一人くらい蚊を潰すように殺せなくてどうします?」

「たったすけて」

 狐塚は必死の声を絞り上げる。

「いやいや、ボクが出したたった一度の蜘蛛の糸を切ったのはあなたなんですから、責任は取ってもらわなくちゃ。何よりボクがこの業界で舐められる」

 あたしは銃口を狐塚に向ける。標準の先狐塚の顔にピントが合う。

「ゆっゆるして」

 必死にあたしに祈る狐塚に向ける銃口が震える。

「復讐を諦めますか?」

 あたしはこういった人間に復讐を誓った。その果ては、この世の悪人を端から殺していくことなのだろうか。それとも愛を説いて、善人に改心させていくことなのだろうか。

「どうしました。思い出しなさい。あなたの家族がどうなったか」

 あたしの家族を破滅させた奴なら躊躇わずに引き金を引ける確信がある。でも・・・。

「う~~ん。それがあなたの限界でしたか。その聖人ぶり、復讐を辞めて修道院にでも入ったらどうですか?」

 許したい訳じゃない。でもここで狐塚を殺すことがどういう事なのか分からない。この人はあたしに殺されるだけのことをしただろうか?

「その程度の覚悟だったのですか」

 覚悟が足りないのだろうか。復讐をするためには人を虫のように潰せるように感情を殺さないと行けないのか。違う。感情を殺すんじゃない感情を爆発させるんだ。この世の悪意に対する怒りを燃え上がらせろ。この女は、あたしの家族を破滅させた奴らと同じ。なら遠慮をするな。震えが止まった。銃口が真っ直ぐ狐塚の眉間に突き刺さる。でも引き金が引けない。なんで? そうかあたしはこの女が実際に何をしたか知らない。だから今一実感出来てないんだ。

 あたしが銃口を降ろし、麝侯が落胆の色を浮かべる。

「それがあなたの結論ですか。実に残念」

「麝侯っ」

「はい」

 いきなりの呼び捨てに咎めるよりきょとんと返事をしてしまう麝候であった。

「あなたは狐塚の魂を複写したわね」

「ええ、まあ」

「なら矢木の時のようにそれをあたしの中に打ち込めるわね」

「打ち込めますが、なんであなたがそんなことを」

「そうだそんな危険なことは辞めるんだ」

 飆も麝侯に同調する。

「権利を得るため。今のあたしにこの人を裁く権利なんて無い」

「何言ってるんだ。この女はお前を部下共に犯させようとしたんだぞ」

「あたしが倒したわけじゃない」

 強者に媚びて弱者を虐める。それこそあたしが唾棄すべき行為。裁くなら己の手で。

「そんなこと言ってたら」

「それに、この人がどんな事をしてきたのか知らない。でも麝侯あなたはあたしに覚悟を見せろと言う。この場で何かの結論を出せないあたしじゃ復讐なんて果たせないことも分かる。ならあたしも相応のリスクを負う。そうでないと、人は裁けない」

「素晴らしい。ならば狐塚さんのことは全てセウ君に任せましょう。どんな結論でもボクはもう何も言いません」

「ならさっさとやって」

「はい、はい。セウ君は怖いですね。我、複写せし魂をここに開封する」

 偽魂元の書から無数の文字が浮かび上がり、麝侯の周りを球状に回り出す。

「魂の記憶、彼の者に打ち込む」

 麝侯の指先に文字が収斂されていく。

「シン」

 黄金の文字が螺旋を描いてあたしの胸に抉り込まれ、ドクンッと鼓動が跳ね上がる。

 強烈に沸き上がる衝動。

 欲しい。

 街角のショーウィンドウに飾られていたあの赤いバックが欲しい。

 テレビを見ている時に見た好きな女優が来ていたあのスカーフが欲しい。

 普段フッと沸き上がってはそのまま無意識の底に沈んでしまうたわいない欲望達が、泡の如く次々と私の意志下に浮かび上がってくる。欲しくて欲しくてしょうがなくなる。母親にだだをこねる子供如く衝動に身を任せたくなる。手に入れるまで決して消えも薄まりもしない欲望。このまま増え続けたらあたしは内側から破裂してしまう。狐塚はこんな物を抱えて生きてきたのか。あたしは今更ながら狐塚の精神力に感嘆した。欲しい欲しい欲しい、兎に角欲しい。どうすればこの強欲を押さえられるというの。

 欲しい。その為なら何だってする。少女は強欲を満たすため、自分を磨いた。少女というだけである程度のステータスはあるが、そんな才能に頼っただけで手に入れられるものなどたかが知れている。だから己を磨いた。美貌のため計算された食事制限、体を引き締めるための運動、知性が顔に輝きをもたらすと聞けば勉強もした。そうして磨いて磨いた美貌を使い、一流と言われる男達を捕まえるため動き出した。よぼよぼの肌だろうが、糖尿臭い股間だろうが喜んで舐めて銜えた。テクニックも磨き、男の魂をとろとろに融かし、貢がせた。そうして財を築き上げ、欲しいものをある程度まで手に入れられるようになった。でも、まだ足りない。上に昇れば昇るほど自分が知らなかった宝がこの世に溢れていることを知る。その為にもっと美貌を磨き、男を捕まえなくては。

 ドクンッ。まずい狐塚の強欲にあたしの中に眠っていた色欲が刺激された。欲しい欲しい欲しい、宝が、男が欲しい。女の芯に火が灯ってしまう。この体を満たして欲しくなる。欲しい。体が男を求めて更に熱くなる。心だけでも耐え難いのに体まで熱くなり、あたしはもう溶けてしまいそう。心も体も理性もとろけてアメーバ、全てを飲み込む肉塊になってしまいそう。

「あなたの怒り、この程度だったのですか?」

 溶解寸前のあたしの理性を呼び覚ます声が響いた。思い出せ。家族を奪われ、純潔も奪われた怒り。あたしはあたしの家族を破滅させた彼奴に復讐するんだ。この強欲を制御してみせる。狐塚はこの強欲を強烈な目的の為の努力で制御した。あたしも同じ事をすればいい。あたしには狐塚に勝る目的がある。ようは強欲の力のベクトルをその方向にうまく向ければいい。強欲よ、あたしが真に欲しいものは力。怒りを具現化させる事が出来る力。確固たる目的意識の元、あれほど溢れていた欲のベクトルが一つの収斂されていくのをあたしは感じた。

「おい、大丈夫か」

 目を開けると心配そうにこちらを見る飆の顔があった。どうやら飆に抱き抱えられているらしい。

「ちょっと頭がくらくらするわ」

「結論は出ましたか?」

「くっ麝侯、お前っ」

 飆はセウを庇いつつ麝侯を睨み付けた。

「ええ、出たわ」

 あたしは飆の優しく抱きしめる手を振り払い立ち上がる。ご免ね、あたしは優しに甘えている余裕はないの。

「ではどうするのかね」

 麝侯が指し示す先、狐塚が必死の思いであたしに拝んでいる。

「狐塚」

「はいっ」

「貴方がしてきたことを見ました」

 セウの言葉を狐塚は疑わなかった。それは麝候と付き合いがあって魔術を知っていたからじゃない、あのセウの目、狐塚にとっては天上の神に等しい全てを見透かした目に怯え、懺悔するように狐塚は許しを請う。

「そっそれは、仕方なかったんだよ。何かい私にまっとうに働いて手に入れろって言うのかい。そんなんじゃこの衝動を抑えることなんかできやしないんだよ」

 狐塚の魂を打ち込まれた今なら分かる。彼女の言葉に嘘はない。己の原罪からくる衝動とは、生半可なことではない。人はこんなもの自覚しないまま一生を終わるのが幸せなのだ。そういう意味では何の覚悟もないまま目覚めてしまった彼女も可哀想ではある。

「それでも理性で抑えるべきでした」

「無理だって、私に発狂しろってか」

「そうすべきでしたね」

 あたしは突き放すように言った。

「ふざけんなっ。私は聖人じゃないんだ、自分と他人なら私は自分を取る。それが普通でしょうがっ!」

「そうね。そこまで追い込まれていた貴方の苦しみも理解出来る」

「本当、なら」

 狐塚は助かるかもしれない希望に目が輝く。

「でも、あたしはあなたのような人の為に理不尽に翻弄される運命に復讐を誓った女」

 あたしは引き金に指を掛け照準を狐塚の額に合わせた。

「ひいいいっ」

 希望などなかった狐塚は目の前の少女が断罪人であると悟った。

「選びなさい、ここで欲を抱いて死ぬか、欲を捨て生きるか」

「財産を全てあなたにあげればいいの?」

「いいえ。これか先あなたが欲したのものは全て人にあげてください」

「えっ」

 欲したのものを全て他人にあげる。自分の手に入らない。それは強欲の原罪を持つ狐塚にとっては魂が摩耗するほどの罰。

 命か魂かまさに究極の選択。

「死にたくない、死にたくない。まだまだ欲しいものはいっぱいあるのに。でも、命は助かっても欲しいものは二度と手に入らない」

 狐塚は結論の出ない命題に頭を抱え、頭から髪が抜けていき、頬が痩け、歪んで歪んで、あの有名な絵画ムンクの叫びのようになり奇声を発したまま固まった。

「あああ、ああああ~」

 彼女は狂ってはいない。ただ結論を出すべくひたすらに悩み出しただけ。その深さは常人には決してのぞき込めない深さ。これが原罪に翻弄されたものの末路。狐塚の姿に自分の末路が重なって見えた。

 ぱちぱち、拍手が鳴り響く。

「素晴らしい。大岡越前を彷彿させるような裁きです。感服しました」

「それはどうも」

「彼女の出す結論、何年いや何十年先か分かりませんがボクも非常に興味ありますよ。うん、楽しみだ。ご褒美に今日は一足先に上がっていいですよ」

「あたしも後片づけを手伝います」

「大丈夫ですよ。セウ君も最初から張り切り過ぎますと持ちませんよ。休息ということで若い者同士、飆君と楽しんでもいいですよ」

「あたしを追い出して狐塚をどうするの?」

「そんな怖い顔しないで下さい。可愛い顔が台無しですよ。別に命は取りませんよ、ただこのままでもまずいですからね。後処理を行うだけですよ」

 確かにこのままにしておけば狐塚は餓死して死ぬだろう。病院に入れるなりしないと。なら見届ける義務があたしにあるはず。

「ならあたしも立ち会います」

 麝侯にいきなり人差し指で額をドミノでも倒すかのように軽く押された。ストンッと腰が抜け、たったそれだけで尻餅をついた。

「はれ」

「強がるのはおよしなさい。他人の原罪を受けいれたのです。ただで済むはずがないでしょう。セウ君には明日も働いて貰わないと困るのですよ」

 口惜しいけど麝侯の言うとおりだ。今のあたしにはここから立ち上がる力すら入らない。こんなんじゃ何も言う資格がない。

「飆君。申し訳ありませんがセウ君を家まで送って貰えませんか、それこそお姫様のように大事にお願いしますよ。それとも追加料金を払わないといけませんかね」

「いらねえよ。ちゃんと連れて帰ってやるよ。その代わり車は返して貰うぜ」

「仕方ありませんね。では車はフォビアさんに貴方から返却して置いて下さい」

「あいよ」

 飆が前まで来たと思ったら両手だけでひょいっとペットのように抱え上げられた。いわゆるお姫様抱っこだ。

「ちょっちょっと」

「お前のご主人様の依頼通りにしているんだ文句言うな」

 飆は抗議の声を上げるセウを無視してさっさと部屋から出て行ってしまった。


「気を許すなよ」

「えっ」

 車に乗せられ動き出したところで飆が言った。

「彼奴は確かにお前を裏切りはしないだおろうが、だけどそれは決してお前を大切に守るという事じゃない。気を抜いているとあっという間に奈落に堕ちるぞ」

「気を許したつもりはないわ」

 それは今日躊躇うことなく盾にされたことで実感している。原島のパンチ、当たり所が悪ければ死んでいてもおかしくなかった。それにしても、こんな意味深なことを言うなんて、彼は過去麝侯と何かあったのだろうか。

「ならいいんだけどな」

「でも、それを乗り越えないとあたしの目的は果たせない」

 大事に守られているお姫様じゃあ復讐は果たせない。麝侯は保護者じゃない、諸刃の剣なんだ。

「昔の俺と同じだな」

「えっ何て言ったの」

 飆の呟きが良く聞こえなかったが、何か大事なことをいったような気がする。

「俺が守ってやる」

「えっ」

「まだ修行中だけど、それなりの力はあるつもりだ。どうしようもなくなったら俺を呼べ」

「ありがとう」

 最近人の悪意ばかりに晒されてきたあたしには彼の少年らしい真っ直ぐな正義感がただ眩しかった。

 こうしてあたしの初仕事は終わったのであった。

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