第6話 強欲

「狐塚様より予約を頂いていた麝侯です」

「どうぞお入り下さい」

 監視カメラで顔の確認が行われたのであろう、数秒のタイムラグの後マンションの自動ドアが開かれた。一歩エントランスホールに入ると、さっと白のスリーピースを隙無く着込んだコンシェルジュが歩み寄って来てさりげなく前に立ちはだかる。

「麝侯様、狐塚様から話は聞いております。ですが、そちらのお嬢さんは?」

「助手のセウです。何か問題ありますか?」

 コンシェルジュはあたしを一瞥し、さっと前を空ける。どうやら無害と判断されたようだ。

「いえ。確認しただけです。狐塚様が、お待ちかねです。お荷物は?」

「特にないからいいよ」

「分かりました」

 麝侯達は慇懃にエレベーターの前まで案内された。

「では、狐塚様は最上階でお待ちです」

 扉は閉められ、ボタンを押してもないのにエレベーターは最上階に向かってノンストップで上昇を始めた。これでは途中で降りて何かを細工することは出来ない。徹底したセキュリティーぶりである。しかし、コンシェルジュまでいるマンションの最上階に住んでいる人って一体どんな人なのだろう。そしてそんな財力がある人が麝侯にどんな用があるというのだろう? 麝侯がここで何かを企んでいることは、飆君や車を準備していることから容易に分かる。でもこれだけ厳重に守られているマンションで何か事を起こしてどうやって逃げる気なんだろう。興味が沸き上がって色々と考えている内に最上階に着きエレベーターの扉が開かれた。

「麝侯様、お待ちしておりました」

 黒服に身を包んだ男がエレベーターホールで待ち構え深々とお辞儀をしてくる。態度は慇懃だがスーツの下に隠れた肉体は麝侯など軽く一ひねり出来そうな力を秘めているのを隠すことなく晒し、良からぬ考えを起こす者への無言の威圧となっている。

「出迎えお疲れ様」

「さあ、こちらに」

 男は無駄口を叩くことなく歩き出し、麝侯もその後を付いていく。磨かれた大理石の廊下をカツカツと小気味よい足音を響かせ一室に案内された。

「こちらの展望温室でお待ちかねです」

 ドアを開き中に入った瞬間視界がグッと広がった。プールでも設置出来そうなほどの広い部屋の屋根はガラス張りになっていて陽光が燦々と差し込まれ、生い茂る種種多様な植物たちを照らしている。床は土でなく磨かれた石が敷かれは植物は全て鉢植えになっている。適度に置かれ作られる観葉植物の道の先、屈強な男達を従えた女性がいた。成功者は妬まれる。成功者は狙われる。どうやって這い上がってきたのか容易に想像させる。

「待ちかねたわ」

 籐製のラウンジチェアにゆったりと座り、全てを銜え込みそうな肉厚的で赤い唇が印象的であった。彼女は素肌の上から紫色のゆったりしたガウンを纏い、扇子で優雅に扇いでいる。彼女が狐塚なのだろうけど、思っていたより若い。まだ20代後半くらいにしか見えない。この若さでこれだけの財産を築いたというの。

「すいません入手するのに手こずりまして、その代わり内容は保証します」

 麝侯は懐から偽魂元の書を恭しく取り出した。

「前置きはいいわ。早速お願い」

 狐塚は後ろに控えているセウを気にもしない、いや視界にすら入っていないかもしれない。

「はい。では暫し目を閉じていて下さい」

 麝侯は偽魂元の書を開き狐塚の前に掲げる。

「前にも言いましたが、間違っても手は触れないようにして下さい、魂を持っていかれます」

「しつこいわよ」

「申し訳ありません。では、目を開きお読み下さい」

 狐塚は目を開き、掲げられた偽魂元の書を見た。見た瞬間から目は瞬きすることを忘れ文字だけを追い求める。眼球が顔から転げ落ちるかと思うほど飛び出て血走っている。

「おおっおお」

 口からは唸り声が漏れ涎が垂れていく。さっきまであれほど悠然として美しかった女性が、今や餌を貪る獣である。 麝侯は狐塚の読む早さを熟知しているのか淀む無く頁を捲っていく。そして十数分後、麝侯は人生の幕を閉じるかの如く厳かに偽魂元の書をパタンと閉じた。

「おおっおおおお。素晴らしい、これが鉛筆の芯を削るが如く、無駄を削ぎ修練を重ねに重ねて到達した頂」

「はい。あるアスリートが己の壁を打ち破った瞬間の魂です」

「素晴らしい」

 正気に戻った狐塚は感動で涙を流していた。読むだけで否応なく魂を震わす、これが偽魂元書の力なんだ。確かに凄い。凄いけど。他人が努力の末得た魂の感動はその人だけの大切な思い出のはず。それすら金で買う金持ち達に嫌悪感を抱き、それを売る麝侯に怒りが湧く。悪魔め。でもその悪魔に魂を売って復讐を果たそうとしているあたしにそんなことを思う資格はない。復讐の思い以外は捨てろ。あたしはすっと深呼吸と共に怒りも嫌悪感も飲み込んだ。

「どうでした」

「満足だわ。幾ら私にお金があってもスポーツでの記録達成は出来ないからね。まさしく究極の贅沢。これは約束の小切手よ」

 狐塚は麝侯に0が幾つ書き込まれたか分からない小切手を手渡した。

「ありがとうございます。また希望がありましたら遠慮無く言って下さい」

 麝候は丁寧に頭を下げる。何もなければ無事商談は終了。

「待ちなさい、今日は別の相談があるのだけど」

 悪意は向こうからやってくる。立ち去ろうとする麝侯に狐塚が話しかける。

「なんでしょうか?」

「それ売ってはもらないかしら?」

 狐塚はそれは目に止まったバックを買うかの如く軽く言う。

「残念ながら、これは流石に売ることは出来ません」

 麝侯は苦笑しながら答えた。

「どうしても駄目?」

 狐塚の唇が紅く蠢く。

「大事な商売道具、飯の種でして」

「あなた程度なら一生遊んで暮らせていける代金を払うわよ」

「そこまで言われましても。偽魂元の書は私の人生を賭けたもの、金で譲ることは出来ないのです」

 麝侯は慇懃だがきっぱりと交渉の余地など無いように断る。麝侯は巫山戯た態度を取って人を弄ぶような男ではあるけど、世俗の力である金に靡くような男ではなかった。本当は偽根源書をこういう風に使うのも嫌なんだろうな。でも生きて行くには金がいる。それは麝侯とて例外ではないのか。

「お前の人生か」

「はい」

「そう言われると益々欲しくなる。そして私は欲しいものは必ず手に入れてきた」

 狐塚の台詞と呼応するように背後の植物の影から男達が出てきて私達の退路を塞ぐ。元からいた男達と合わせて総勢20人近くの男達に囲まれたことになる。

 体が高ぶる。思い出してしまう、有無も言わさずワゴン車に放り込まれた日のこと。法も情も道徳も超越する力、圧倒的暴力。正義だ、道徳だ、警察に訴えるとか言っても、その場で襲いかかる暴力には無力、暴力に対抗出来るのは暴力だけ。この男達は間違いなく暴力を行使する者達。あたしが復讐すべきもの。でも今はその時じゃない。深呼吸で怒りを深く鎮め横目で麝侯を見た。予想通り麝侯にこの事態に心が揺れている様子は見えない。むしろ想定内とでも言うような態度。そうよ、そうでなくては付いていくと決めた意味がない。麝侯はどうやって対抗するのだろう。あたしは期待で胸が躍った。

「これは、これは」

「今なら、まだ取引に応じるわよ」

「魔術師でもないあなたが、この本を手にしてどうするのですか? 下手に読めば文字通り魂を奪われてしまうだけですよ。この本の真の価値を引き出せるのは魔術師であるボクだけですよ」

 一人称が私からいつものボクに戻っている。もう商売は終わったと言うことか。

「いいえ、欲しいと持ったものを持つことに意味があるの」

「強欲ですな」

「褒め言葉と受け取っておくわ。欲しいものは必ず手に入れる、その欲が私をここまで昇らせた」

 体重が倍になったかと感じるほど重い言葉。この人のこの言葉に嘘はない、きっとこの人は自分の欲を満たす為それ以外のことは全て、愛も家族も友情も誇りも捨てている。そんな狐塚を見る麝侯の目は蔑むどころか宝石を見るかのように愛おしそうにしている。

「ご立派です。宥め、騙し、陥れ、暴力を振るう。欲望に忠実に生きるあなたの魂はどんな本になるでしょうかね。実に興味深い」

 慇懃の中にも舌嘗めずりする麝侯の感情の吐露が織り混じっている。

「残念だけど、私の成功は私だけのもの誰にも味合わせる気はないわ」

 でも他人の感動は手に入れたい。呆れるほどの強欲だ。

「それでこそ強欲」

「いい加減にしろよ優男。狐塚様が差し出せとおっしゃっているのだから、さっさと差し出せばいいんだよ」

 周りを取り囲んでいた男の内、折角のスーツが型くずれするほど筋肉が盛り上がった男が痺れを切らしたのか割り込んできた。

「ボクは今狐塚さんと話をしているんだ、あなたの方こそ引っ込んでいて貰えませんか」

「この原島様に向かって舐めた口利くなよ優男。その口利けなくしてやろうか」

「ふっこれは怖いですね。その鍛えて上げた体、ボクなんかじゃ敵いそうもない」

「おうよ。お前如き片手で捻り潰せる」

 原島は丸太のような腕を突き出し、威嚇なのか拳をぱきぱき鳴らしながら開いたり閉じたりする。

「いやいや称賛しますよ。弱者を虐げたいという魂の原罪、その原罪に従いそこまで鍛え上げるとは素晴らしい」

 麝侯はここで称賛の拍手を送る。この態度、バカにしているのか、本当に称賛しているのか、判断が付きにくかった。それだけにこの態度をどう取るかは、自分で自分をどう思っているかの主観に委ねられる。

「ふっ巫山戯るな。俺が体を鍛えたのは高見を目指す為だ。今じゃこうだが、元はボクサーでチャンピオンを目指していたんだぜ」

「いいんですよ。無理しなくても。多くの人が己の魂の原罪に気付くことすらなく日々を漫然と過ごすのに比べたら、気付いただけでも大したもんです。それがどんなものでも、あなたは誇るべきなのですよ。弱い者虐めが大好きな原島さん」

「黙れっ」

 原島は自制することなくあっさりと拳を振り上げた。

「盾になって下さい」

「えっ!」

 体がぐいっと引き寄せられるのを感じた時にはあたしは麝侯の前に立って、目の前に拳が迫っていた。

「きゃあっ」

 頬に蝋を垂らされた時の数倍の熱さを感じてあたしは意識と共に吹っ飛ぶ。数秒の意識の空白の後、気付いたら床に這い蹲っていた。起きあがろうとするが、惨めにミミズの如く床を這いずり回るだけで腰に力が入らない。

「おやおや、酷いですね。こんなか弱い少女にすら容赦なしですか。いや、むしろか弱い少女だからこそ喜んで殴ったのですかね」

 麝侯の態度は変わらない。あたしが殴られたのに、悲しみも怒りもない、ただ淡々と原島を問い詰める。悪魔が人間を陥れるのは、こんなものかもしれないと思った。

「ちっ違う。俺は女の子を殴ろうとなんてしてない」

「現に今殴ったじゃないですか」

「それは突然前に出たから。そもそも、お前が盾にしたんじゃ」

「いい訳はよしましょうよ。元プロボクサーが拳を止められなかったはずがないじゃないですか」

 麝侯はここで一呼吸を起き、癌告知をする医者のように告げる。

「あなたは女を殴るのが大好きなんですよ」

「そっそんなことは」

「拳に伝わる柔肌の感触が好きなんでしょ。少女を殴った時、勃起したんでしょ、射精したんでしょ、最高のエクスタシーを感じたんでしょ。何を躊躇うのですか、自分に素直になり、自分を解放させるのは、薬よりも、Sexよりも、この世の何よりも、最高の快楽。さあ、素直になりましょうよ」

 園児を諭す保母のような笑顔で麝侯は告げる。

「すなおに・・・」

「さあ、胸が疼くんでしょ。その疼き、それこそ芽生え始めた原罪。それを自覚するのです。シン」

 麝侯は男の胸を人差し指で軽く突いた。

「ぐおっ、なんだ胸がむず痒い。気持ち悪い」

 原島は胸を掻きむしり悶え始める。

「気持ち悪い気持ち悪い。歯に小骨が挟まったような気分だ」

「なら取ったらどうですか?」

「どっどうすれば取れんだよ」

「したいことをしたらんですよ。その胸の奥に秘めた想いを解放すればいいですよ。想いを止めておくから疼くんですよ」

「したいこと?」

「したいことですよ。さあ目を瞑って思い浮かぶ幸せは何ですか」

「俺は俺は、俺は人を殴るのが何より好きなんだ。男もいいが、何よりか弱く怯える女がいい。あの柔らかい肌にめり込む拳の感触なんて最高だぜ」

 目を瞑り麝侯の前に跪く原島は、神父に告悔する信者のように厳かであった。

「いいですね~その想い今は誰に抱いているんですか?」

「それは」

 目をかっと見開いた原島は狐塚に向かって拳を固め一気に走り出した。

「俺はその高飛車な面を一度ぶん殴りたかったんだ」

 向かっていく原島を慌てて他のボディーガードが取り押さえた。

「邪魔だどけーーーーーーっ」

「それがお前の魔術か?」

 取り押さえられる原島を横目で見つつ狐塚は麝侯に尋ねる。

「いえいえ、こんなの魔術でも何でもありませんよ。しかし、折角原罪を覚醒させたのに、それを自制する意志の強さがないと無様ですな。その点、狐塚さん、あなたは原罪を覚醒させて、なお理性を保っていられるからこそ、そこまで成功為された。どうです、もう少し自制なされて偽魂元の書は諦めませんか。出来ればあなたとは今後もいい取引を続けたいのですが」

 主人に仕える執事の如く胸に手を当て綺麗にお辞儀をする麝侯。

「よく回る口だこと。その要領で目を回して周りの状況をよく見るがいい。なぜこの状況で私が自制しないといけないの?」

 原島は何かが砕ける鈍い音を響かせ動かなくなっていた。そして改めて麝侯の周りを男達が取り囲む。先程までの余裕の態度と違い、張り詰めた緊張感を持っている。誰もが自覚している。この悪魔とは会話をしてはいけない。男達は恐れるように口を閉じている。もはや麝侯が口先で付け込む隙など見あたらない。

「ふっ。ボクの方こそ聞きたいですよ。この世界にはありとあらゆるものがありますが、それは物でしかない。この世界で唯一魂に干渉出来るのは言葉のみ。その言葉を操るこのボクが、碌に言葉を操れない木偶の坊共に囲まれたくらいで、なぜ降参しなくてはならないのです」

「くっく、面白い男だ。どうだ・・・」

 パンッ、狐塚がまだしゃべっている途中で銃声が轟き、麝侯の胸に赤い染みが広がっていく。

「あれ?」

 麝侯は何が起こったのか分からない顔をしたまま前のめりに倒れ、床に赤い染みが広がっていく。

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