第3話 始まり
音と音の切れ間にノイズを含んだメロディ、レコードが奏でるドビュッシー『夢』が響く店内に、静かに本を読む客がただ一人佇む。
「お客さん少ないですね」
あたしは黙々とクリスタルグラスを磨くマスターに言う。あれからこの喫茶「黄金の黄昏」でウェイトレスとして朝から働いている。そして分かったことだが、この喫茶店は内装も味も一級品の隠れた名店というか知られていない名店というか、本当に客数が少ない。ランチタイムを過ぎたところでの累計客数は片手で数えられる。
「そんな些細なことは気にしなくていいですよ」
「はいっ?」
商売をする上で誰もが知っている一番重要なことを些細なことと言い切るマスターに、あたしは首を傾げてしまった。
「この喫茶店の運営費は麝侯様から貰っています。我々は麝侯様が好む雰囲気を維持することが仕事なのですよ」
「雰囲気が重要」
「そうです」
この喫茶店を維持していくのに幾ら掛かるのかあたしには分からないけど、どうやら前に麝侯が言ったことが冗談ではなく本気だということだけは分かった。
「でももったいないですね。マスターの入れてくれた珈琲とか凄くおいしいのに」
「私にとっては麝侯様に喜んで頂ければ十分です」
マスターはここで一旦言葉を切った後、重要なことを思い出したように付け加える。
「それとセウさんが加わりましたかな」
引き込まれそうな柔軟な笑顔に、あたしはマスターには敵わないなと思った。
「さて、そろそろ時間ですかな」
マスターは喫茶店の中央に置いてある2m程の大きさの設置型の振り子時計を見て言った。振り子時計は外装の木が年月を得て黒光りするようになった正真正銘の機械式で、マスターが毎朝油を差してメンテを行った後自身のクォーツの電波時計で時間を合わせているという時計としては本末転倒であるが喫茶店内の雰囲気を形作るのには貢献している。
「セウさん、珈琲をお願いします」
「分かりました」
毎日午後3時に麝侯の所に珈琲を持っていくのがあたしの仕事らしい。
コンコン
「入りたまえ」
「失礼します」
珈琲を持って部屋に入ると、麝侯はハードカバーの本を机で読んでいた。これも麝侯の言う大正浪漫という奴なのだろうか、確かに背筋を伸ばして読んでいる姿は凄く様になっていた。
「ありがとう。珈琲は机の上に置いておいてくれたまえ」
「はい」
セウはマイセンのカップに入れられた珈琲を机の上に置きつつ、ちらっと麝侯が読んでいる本を盗み見た。
「んっ何かな?」
麝侯はあたしが向けた視線に気付いたようだ。本を読んでいるようで鋭い。
「すいません。どんな人の人生を読んでいるのかなと気になってしまって」
「これは偽魂元の書じゃないよ。ただの小説だ」
「小説?」
「意外かな。ボクだって余暇は必要だよ。そして人生の友と言えば良質の本と珈琲または紅茶、それ以外に何がある?」
「そうですか」
友達と遊ぶとか他にも色々ありそうだけど、そこはそれあたしも大人なので何も言わない。
「何か納得してない顔だな。まあいい人の主義主張は人それぞれ、そこまでボクは干渉しないさ。ちなみに君は部活動とかしていたのかい?」
「ダンス部にいました」
「ほう。それで腕前は?」
「県の予選で3位でした」
「なるほど。失われた青春。願うなら取り戻したいと思うかね」
意地悪な質問。部活動に打ち込んだ日々はセピア色の記憶になって蘇る。でもそれは思い出であって、取り返すべき日々じゃない。
「復讐を果たした後にでも考えます」
「いい答えだ」
悪魔が満足そうに笑みを浮かべる。
試したな。そして試されたことに胸がホッとしていた。思えば、あの日悪魔に魂を売ってまで誓った復讐なのに、それが夢であったかのような平凡で平穏に数日が過ぎていた。普通の人なら地獄から救われたこの穏やかな日々に幸せを感じているのだろう。でも、あたしにはこのままでいいのかと焦りが生まれ始めていたところだった。
「さて、傷付いた体は回復したかな。まさか、女中のまねごとをしていて一生が終わるなんて思ってなかっただろうね。さて、良質と本と紅茶これ以外に人生に何がいると言いはしたが、稼がなくては食っていけないのが現実。悲しいがボクとて例外ではない。今日、セウ君にはボクの仕事を手伝って貰う。まずは増田に用意させておいた服に着替えてきなさい」
「はい」
あたしは返事をしつつ緊張に頬の筋肉が引き締まるのを感じた。
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