第2話 大正浪漫
「さあ着いたよ」
セウがタクシーに乗せられ連れてこられたのは、繁華街の外縁部に位置する館の前だった。外装は苔むしたシックな赤煉瓦よって三階まで積み上げられていた。シンボル的な中央の塔には時計が設置されていて、への字状に左右に館部が広がり、まるで翼を広げる鳥のような印象を受ける。
「ようこそ我が城へ」
そう言って麝侯はアーチ型の入り口を潜り半地下に続く階段を下りていく。降りた先には来る者を拒絶するかのような印象を受ける重厚な樫の木のドアが閉じられていた。麝侯はそのドアを重々しく開けると中に入っていき、セウも慌ててドアが閉まる前に中に入った。
ドアが閉じられると、珈琲の匂いに包まれた。ホール内はマホガニーの卓が緩やかな曲線を描いて並べられ、その間に仕切のように並べられた観葉植物の緑が鮮やか変化を与えてくれる。曲線の対極の側には、一直線を貫くカウンター、美しい食器が並べられた棚があった。静けさに耳を澄ますと小川のせせらぎの如き音量で暖かい雑味のある音のクラシックが流れていた。音源を見ると窓際にレコードが置かれ稼働していた。
「いらっしゃいませ」
初老の男性が渋い声で迎えてくれた。男性は蝶ネクタイに黒のベストを纏ったウェイタースタイル。そして、容貌は銀髪のオールバックに髭を生やし、人生の深みが伺える皺が刻まれ見ているだけでこちらが落ち着く雰囲気を纏っている。
間違いない、客は一人としていないが、ここは喫茶店だ。てっきり魔術師の工房、おどろおどろしい実験室みたいなところに連れて来られると思っていたあたしは意表をつかれた。
「今は客じゃない。主としてきた」
「分かりました。それでは、どういった御用でしょうか?」
麝侯の言葉に男性から営業スマイルは消え、石に彫ったかのような実直な表情に変わる。
「喜んでくれたまえ。かねてより捜していたボクの想像に合う娘がやっと見つかった。これで我が浪漫がまた一歩完成に近付いた」
麝侯は背後にいたあたしの背を押してマスターの前に出した。
「それは喜ばしいことです」
男性は裸の上にジャケットを羽織っただけのあたしの恰好を見ても眉一つ顰めない、驚いて尋ねない。主である麝侯の命に唯々諾々と従う。
「早速この娘に、かねてより用意していたあの服を着させてやってくれ」
「分かりました」
麝侯は、あたしに何の説明をせず男性と勝手に話を進めていく。
「セウ君」
「はい」
「取り敢えず増田の指示に従ってくれたまえ」
あの服って何?ここはどこ?彼は誰などと疑問の表情で固まっているあたしに麝侯は何の説明もしない。
「それからセウ君の着替えが終わったら。食事を事務所の方に持ってこさせてくれ」
「事務所の方でいいのですか?」
「ああ、その方が話が早い」
「承りました」
「では、失礼する」
言うだけ言うとさっさと立ち去っていく麝侯。結局あたしが男性に紹介されることはなかった。裸同然の姿の上に、見知らぬ男と二人っきりにされる。その心細さにあたしの足は小さく震えていた。しっかりしろ。あたしは悪魔に魂を売ってでも復讐をすると誓ったんだ。
「では着いて来てください」
男性に着いてバックヤードを暫く歩くとシャワー室に着いた。風呂場、あたしにとって風呂場すら憩いの場でなかった。あたしはフラッシュバックする記憶に鳥肌が立つのを感じた。
「ではセウさん、まずは熱いシャワーを浴びて冷えた体を温めて下さい。可哀想に鳥肌が立ってますよ」
覚悟を決めるあたしに男性は優しい声を掛けてきた。その声には何の悪意も感じない。まさか、攫われたあの夜から肉人形扱いしかさていなかったあたしが、悪魔に付いていった先でこんな普通の人のような優しい扱いを受けるなんて。
「どうかしましたか?」
返事のないあたしに男性は心配そうに聞く。
「ううん、なんでも。ありがとうございます。そうだ自己紹介がまだでしたね。あたしは 天影 宵と言います、よろしくお願いします」
セウは背筋を伸ばして深々と頭を下げた。
「これはご丁寧に。私は増田 忠成といいます。ですが、マスターと呼んで下さい」
「分かりました。これからよろしくお願いしますね、マスター」
「では、私は戻ります。あまりレディーと一緒に脱衣所にいるものではありませんからな」
マスターは振り返ることなく去っていく。それはあたしに感心がないではなく女性の裸を見まいとする礼儀から来る態度だった。
「ふうっ」
マスターが去って緊張が解けた。幾らマスターがいい人でも半裸で男性と一緒にいるのは緊張する。
「ふふっ」
笑いが込み上げてきた。あたしにもまだこんな感情があったんだ。麝侯から借りたジャケットをハンガーに掛けると風呂場に入った。あたしは丹念に体を洗う。隅々を、足の裏から髪の毛一本一歩の先まで、かつて男に穢された場所は全て。シャワーを浴び願う。流れ落ちる水の一滴一滴よ、どうかあたしを清めて。
お風呂から上がると、いつの間にか服の他に下着まで用意してあった。服は紺の着物に橙の帯び、白の前掛け、昔着物の着付けは習っていたので難なく着ることが出来た。それにしても鏡で見ると昔の給仕みたいな恰好だった。最後に髪をリボンで結い上げ脱衣所から出て店の方に戻っていくと、調理場で調理をしているにマスターがいた。
「良くお似合いですよセウさん」
マスターは一旦手を止めると、あたしの方を見て褒めてくれた。
「ありがとう、マスター。でもこの服は?」
「ああ、それは喫茶「黄金の黄昏」の女給の制服です」
「女給?」
「ええ、前より女給の募集をしていたのですが、なかなか麝侯様の眼鏡に合う娘がいなくて、困っていたんですよ」
「そうなんですか」
「はい。今時髪を染めていないお嬢さんはいませんからね。セウさんはその美しい髪に感謝すべきかも知れませんよ」
「この髪」
あたしは自分の栗色の髪を手で梳き上げつつ答える。
「かくいう私もこの容貌が理想のマスター像だというだけで拾って貰いましたから」
「拾って貰った?」
「はい。会社を潰し、私自身も抵当に入ってましたもので。麝侯様の気まぐれがなければ、私は今頃どんな悲しい事故に遭っていたか分かりません」
マスターは恐ろしいことをさばさばと言う。
「今の境遇に不満はないの。逃げ出したいとか思わないの?」
「全然。最初こそ嘆きもしましたが、麝侯様に与えられた役をこなしている内に、役が役でなくなっというか、与えられた役こそが自分の本分だと思えるようになってきました。お互い麝侯様に拾って頂いた者同士、その役を果たしましょう」
ここはマスターにとっては店と言うより舞台なのかもしれない。麝侯は観客、それとも舞台演出家? どっちにしても麝侯のための劇であることには変わりはない。
「あたしに与えられる役は何でしょう」
「直に分かりますよ。取り敢えずは、この夕食を麝侯様のところまで運んでもらえませんか」
そう言ってマスターはオーブンから出来たての香ばしいピラフを取り出しトレイの上に置いていく。ステンレス製のトレイは曇無く磨かれ縁には蔦が絡まる薔薇の花のレリーフが彫られていた。
「麝侯様は二階の事務所にいます。事務所には一旦外に出て階段を上がって行って下さい」
マスターはトレイの上にピラフを二つ、珈琲を二つ置き、セウに手渡す。
「中からは行けないんですか?」
「ええ、残念ながら。麝候様はそこいら辺はキッチリとしていますので、店から直接行けるようにはなってないのです」
「分かりました。料理も冷めてしまいますし行ってきます」
あたしは一旦店の外に出て屋敷の中央部の階段を使って二階に上がった。2階左側の真っ直ぐ伸びた廊下は、一方は窓、もう一方側には五つのドアがあった。ここは居住でなく商業エリアで事務所が入っているとのこと。その中の真ん中のドアに麝侯探偵事務所と銅のプレートが打ち込まれていた。
「ここかな」
コンコン、ノックをし中に入ると、マホガニーのデスクで本を読んでいる麝侯がいた。
「やっと来たか。待ちわびたよ。まずは、食事をそこの机に置いてくれたまえ」
部屋の中は12畳ほどの広さで、窓際に麝侯が座っている重厚なマホガニーのデスク、壁際には木目が美しい本棚にハードカバーの本がずっしりと並べられていた。部屋の中央には青系のアラベスク文様が美しいペルシャ絨毯の上に応接用のテーブルとソファーのセットが置いてある。そこにセウは食事を置いた。
「ふむ」
麝侯は食事を置いたセウを品定めをするように見る。
「そこで一回転して貰えるかな」
「はっはい」
戸惑いつつもセウは素直にくるっと回り、ポニーテールがふわっと棚引き白いうなじが晒される。
「うむ。実に絵になる」
がらくた市で掘り出し物の骨董を見つけた収集家のような笑顔を浮かべながら麝侯は言う。
汚らわしさを感じなかった。普通なら吐き気がする男の欲望を感じるのに、麝侯からはそれは感じなかった。芸術家が美しいものを鑑賞する透明さを感じた。ようするにあたしは美しい鑑賞用の人形といったところなのだろうか。
「聞いてもよろしいですか?」
「何かねセウ君」
「麝侯様は探偵が仕事なのですか?」
「その質問に答える前に、ボクの主義を言っておくから肝に銘じなさい」
「はい」
「大正浪漫、それがボクが目指す世界なのだよ」
「はい?」
思わず素で首を傾げてしまったが、麝侯は気にすることなく言葉を続ける。
「大正浪漫、それは優雅さのなかに淫靡を内包するボクが最も愛する世界観なのだよ。そして大正浪漫といえば喫茶店と探偵で決まりだろ」
確かにその時代を扱った小説では探偵物が多いような気もするけど。悪魔のわりに、いや悪魔だからこそ遊び心溢れ子供っぽいのかもしれない。
「君もボクのものになったからには、そこを理解して貰わないと困る。まあ取り敢えず、君は探偵の仕事がないときには、喫茶店で給仕をしていてくれたまえ。依頼があったときには、探偵助手の方を優先して貰う」
「分かりました。麝侯様」
あたしはドラマとかで見て思いつく限りの優雅な一礼をした。あたしの仕事は給仕でも探偵助手でもない。この男の愛する世界感を守る為の役者、観客を飽きさせることなく役を演じきってみせる。
「なかなか飲み込みが早いな。頭のいい娘は嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
「見事ボクが気に入る役柄を演じ切るがいい」
優しい顔で言う麝侯、でも悪魔は笑顔の時こそ注意しなければならない。
「はい、それが代償というならどんな道化にでもなりましょう」
「うむ、いい心がけだ。道化に染まらないように、努々気をつけたまえ」
「あなたこそ、あたしの剣であることを忘れないでね」
あたしは麝候の瞳を焼き殺すように覗き込んだ。だが、麝候は軽く飲み込むように覗き返して来たと思ったら、ふっと視線を逸らしてしまう。
「肝に銘じているよ。だが、その剣が勝手に敵を切り裂くことはない。あくまでも剣を振るうのは君自身」
あたしが腑抜けたら容赦なく捨てられる。でも逆にあたしがこの怒りを魂に刻み磨き続ける限り麝侯があたしを見捨てることはない。
「良し、では食事にしよう。掛けたまえ」
「いえ、女中の身で麝侯様を一緒に食事をするわけには行きません」
「確かに、主と女中が一緒に食事をしてはまずいな。だが、紳士たるボクとしてはお腹を空かせた少女を傍らに置いて一人食事をするわけにもいかないだろ」
「分かりました。そういうことなら遠慮なく頂きます」
セウは麝侯の体面の席に着いた。
「麝侯様」
「なにかな」
「あたしは何をすればいいの?」
復讐。大いなる目標と原動力はあってもそこに至る手段があたしには皆無だった。
「道はボクが示す。君は信念を貫き歩み続ければいい」
麝侯の示す道、決して安易な道ではあるまい。でもあたしの答えはただ一つ。
「分かったわ。じゃあ、頂くね」
「そう。まずは食べて力を付けないとね」
マスターの作ってくれたピラフと珈琲は、とてもおいしかった。
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