悪意の海を泳ぐ

ガクルサラフ

覚醒編

第1話 悪魔の選択

 吹き上げる風に髪が大樹の枝のように天に広がり、絶壁の眼下には煌々たる光の軌跡が星座を描いていた。少女が凛と立っていた。腰まで伸ばしたポニーテールを風に靡かせ、強い意志が込められ宝石のように輝く瞳で世界を睨み付けている。だがその美しい挙措と反対に、楚々とした月光が晒す白い肢体には縄の跡が浮かび上がり渇いた白濁液がこびり付いていた。

 こんな躰を晒したくないけど、しょうがない。最後にシャワーが浴びたかったな。未練が残りつつ自分の体を見る。あたしはこんなにも穢れてしまったのに世界は輝き美しい。そう世界は美しい、でも優しくなかった。美しさと優しさはイコールじゃない、そんな簡単なことすらつい最近まで、幸せな子供だったあたしには気付けなかった。世界は美しく、努力さえしていれば幸せになれると信じていた。でも違った。世界は美しく、抗いようのないほどに悪意に満ちていた。悪意の渦から逃れられるかどうかなんて運でしかない。そして、運の無かったあたしはビルの屋上、柵と断崖の間僅か50cmのデットラインに立っている。柵を掴む手を離せば死神があたしの手を掴んでくれるだろう。最後にあたしはもう一度目を見開く。美しい光の絵画が天にも地上にも描かれている、これをあたしの網膜に移った最後の光景にしよう。美しい光景を見れば心も落ち着く。

「ちきしょう」

 駄目だっ。とても静かな気持になんか成れない。鎮めようとすればするほど赫怒の炎が燃え上がる。仇を討ちたい。あたしを家族を不幸に陥れた奴らに、この不条理な世界に復讐したい。

 少女がグッと噛みしめる唇から怨嗟の涙のように血が流れ落ちていく。

 復讐。その一心でどんなに体が穢されても必死に耐えてチャンスを待った。やっと訪れた一瞬のチャンスに賭けて逃げた。成功したように思えた。でも結局は牢獄から脱出するどころか、逆に逃げ場のない屋上に追い込まれてしまった。もうすぐ奴らがここにやってくるだろう。そうなったらもうお終い。きっと二度と逃げられないようにされる。足の腱を切られるくらいならまだまし、お仕置きを兼ねて手足をハンマーでぐちゃぐちゃに潰されるかも知れない。見せ物として手足を切り落とされ達磨にされるかも知れない。でもそれだってまだまし。怖いのは肉体でなく心が死ぬまでいたぶられ穢されること。心のない人形になってからでは、人間としての死はもうない、ものとしての壊れるしかない。人としての矜持が残っている内に、せめて終わりくらいは自分で決めるんだ。

 決めるんだ。

 ちきしょうちきしょう、何で何であたしの家族を不幸に陥れた悪意ある奴らが幸せになって、普通に生きてきたあたし達が不幸にならなきゃいけないんだ。なんて不条理な世界。こんな悪意に満ちた世界なんて焼き払ってやりたい。心は益々猛き荒ぶり、不条理な世界に対する怒りで、恐怖は消えた。人として死ぬ。それがあたしに出来るこの悪意溢れる世界に対する反逆。

 怒りを叫び柵から手を離す。

「シン」

 誰もいないはずの屋上に静かで朗々たる声が響き黄金の衝撃に胸を貫かれた。どっくん、とあたしの鼓動が大きく弾け、鮮血の如くあたしの胸から輝く文字が吹きだした。溢れ出す文字文字文字の洪水を銀幕にあたしの思い出が映り出されていく。走馬燈?

 木々が騒がしい騒音を遮る楚々たる街の一角。隣が見えないとまでは言わないけど、十分隣家とは隔絶してくれる庭。有名建築家に依頼して建てた洒落ているけどどこか暖かみが感じられる家。そこにあたしは父と母と暮らしていた。母は朗らかな笑い皺しかない顔に、絹のように滑らかな手をしていた。父は祖父から引き継いだ会社を堅実に守り、家で怒鳴ったりしたことなど無い人だった。

 あたしは高校ではダンス部に入っていて友達と共に青春の汗を流していた。たまに男子に告白されたけどみんな断っていた。男の秘めたギラギラした欲望がなんか嫌だったから。勉強が大変とか部活の練習がきついとかあったけど、そんなの今思えば何でもない、ただの生活の香辛料に過ぎなかった。幸せだと感じることすらない幸せに飽和したぬるま湯に漬かった生活。でもあたしが気付かなかっただけ、熟れた果実が徐々に腐るように緩やかに日常は壊れていったのだろう。

 そしてあの日、あたしにも分かるように世界は決定的に壊れた。学校から帰宅し家に入った瞬間、体中を無数の男の手に押さえられ、口を塞がれ、嗅がされたクスリの匂いと共に意識は沈んでいった。

 次に目を開けた時、世界は暗転していた。あたしは一糸纏わぬ姿に剥かれ、奴隷のように首枷を掛けられていた。薄暗い地下牢のような部屋の中あたしを囲む見知らぬ男達は、あたしの惨めな姿を見て心底嬉しそうに笑った。その笑顔に、圧倒的な悪意に満ちた笑顔にあたしは耐えきれず、また気絶してしまった。体を引き裂かれる痛みで目を開ければ、気持ち悪い感触と共に白豚があたしの上で腰を懸命に振っていた。

 あたしの体をナメクジが這い回る。

 あたしの体に汚水が塗りつけられ。

 あたしの中に汚物が注ぎ込まれてくる。

 男達はあたしの身だけでなく心すら陵辱しようと、言葉嬲りの一環で父が騙され多額の借金を背負わされたことを知らされ、自分が借金のカタに攫われたことを知った。

 最悪の処女喪失の以後、ひたすらにおもちゃにされる日々が始まった。

 縄で縛られ吊され、自分の体中の骨が軋む音を聞いた。

 蝋燭で炙られ嬲られ、吐いて汚物を垂れ流してしまった。

 跳び箱よりも先が尖った器具の上に跨がせられ、引き裂かれた。 体中の穴を弄ばれ心が擦り切れ摩耗していく、このままあたしは心のない肉人形に成り果て一生を玩具として終えてしまう。いやだっ。このままじゃ、あたし達家族をこんな目に遭わせた奴に復讐どころか、父や母がどうなったのかさえ分からない。ここまで世界に無視されて終わってたまるか。

 あたしというおもちゃにも飽きてきたのか、牢獄の中白豚が一人あたしを弄んでいた。『今しかない』、白豚が背中を向けたチャンスにあたしはデザートナイフを掴んでいた。白い肢体を真っ赤に染めてあたしは牢獄から逃げ出した。だけどすぐに事は露見し、あたしは出口ではなく屋上に追い込まれ逃げ場はなし。あたしはせめて人として終わる決意を固めた。

 走馬燈から気付いた時あたしは虚脱感に重い躰を柵に凭れさせていた。

「何が起きたの?」

 ぱらっ。ページを捲る音が静かな屋上に響き渡り、その音源には重厚な装丁がされた本を片手に読んでいる青年がいた。一目で既製品じゃないと分かる体に合わせ込んだオーダーメイドのダークグレーのスリーピースとシルクハットに身を包み、湖面を連想させる微笑みを浮かべた風貌から、一見青年実業家、またはドラマに出てくる名探偵のように見える。

 彼奴等の仲間? いえ彼奴等とは、違うあたし達とは何か纏っている空気が異質だ。

「ふむ、何も知らない無知なる子供の安っぽい絶望かと思えば、怒りと矜持が入り交じったなかなかのもの、必読に値する魂だな」

 よく分からないけど、あたしの人生が晒され視姦されている。ある意味裸を見られるよりの恥辱を味わっていると魂が感じていた。

「んっ」

 本を読み一人呟いていた青年は少女の睨み付ける視線に気付いたのか本から顔を上げた。

「これは失礼したね。僕はこれ以上君には干渉しないから自殺の続きを心おきなく続けてくれたまえ」

 あたしなんか路傍の石ころより興味がないとばかりの態度だった。確かに高々17年しか生きてない人生だけど、あたしはそこまで価値がないというの?

「あたしに何をしたっ」

 新たな怒りがあたしを叫ばせ突き動かした。あたしは柵を掴み立ち上がったのだ。白豚は欲望をあたしに吐き出しただけだけど、それでもあたしの体だけには価値を認めていた。なのにこの青年はあたしの体にさえ興味がないとばかりに、裸のあたしを見てもその目に何の色も浮かばせない。

「何、君の魂が丁度臨界状態に達したようだったので、君の魂を偽魂元の書に写させて貰っただけで、実害はないから安心して自殺してくれたまえ」

 言葉を交わしてなおこの男はあたしに同情の色はなく、淡々と事務的だ。

「その偽魂元の書って何?」

「君、自殺しようとする人間の割には好奇心が強いね」

 青年は苦笑気味に答え本を閉じ、そして始めてあたしの目を見てきた。

「いけませんか」

 自分でも不思議だった。全てと決別を済ませたせたはずなのに、あたしは青年の何かに惹かれている。

「別にいいさ。淑女には優しくしてこその紳士、そして大正浪漫だしね。簡単に言うと偽魂元の書とは、魂を写し取る魔道の書なのさ」

「魂を写し取る?」

「そんなことが出来るのかって顔だね。人を人たらしめる根源である魂は、肉体により厳重に守られおいそれと人が手出し出来ないようになっている。そんな魂だけどね、無防備になる瞬間が二つだけあるんだ。一つが当たり前だが死んだ時。魂は肉体から離れ涅槃の彼方に去っていく。だけどこの間は刹那の間でね。とてもじゃないが捕らえきれない。となると大事なのはもう一つの瞬間になるわけだが、分かるかな?」

 口調こそ丁寧だが、あたしを試しているのが感じられる。ここで気の利いたことを答えられないようでは、会話する価値も無しとばかりにこの青年に見切りを付けられる。そして彼は躊躇無く去っていく。それは怖い。死すら覚悟したはずのあたしが、必死になって青年を繋ぎ止めようとする。なぜだか分からないけど、あたしの心が青年を繋ぎ止めろと必死に叫ぶ。

「絶望。人が絶望した時に魂は肉体から離れるんだわ」

「ん~惜しいな。自分の場合に当てはめて考えた努力は買うが、そこからもう一歩飛躍が欲しかったな」

 答えは外れたようだったが、青年の興味を繋ぎ止めることは出来たようだ。青年は少々得意そうに会話を続けていく。

「な~に、そんなに難しい事じゃないんだ。よく言うじゃないか、魂を震わす・・・って。そう魂を震わす程の、怒り、悲しみ、歓喜、そして絶望。その時、一時的だが魂は臨界状態となり肉体から溢れ出し部分的にだが無防備になる。この無防備になった部分の魂なら、この偽魂元の書で写し取ることが出来るのさ」

「そんなことしてどうするの?」

 これが一番の疑問だった。魂を仮に写し取れたとして、それが何になるというの? あたしにはその活用方法が全く思いつかなかった。

「色々と有効活用出来るさ」

「色々って何っ? 誤魔化さないでっ」

 煙に巻こうとする青年の煙を吹き飛ばそうとあたしは必死に食い下がった。

「意外としつこいな。いい加減満足して逝かないの?」

 青年は苦笑しつつ言う。

「こんな気持のままじゃいけません」

「そうかそうだよな。折角この世との未練が無くなったのに、ボクが余計なことをしてしまったようだね。なら責任を取るのが紳士というものか。そうだな。偽魂元書は魔道書といえども本は本。つまり、本として活用出来る」

「本として?」

 きょとんとした。この科学万能時代に生きる魔法を使って得た成果がそれ?

「ふん、最近の子は本を読まないから。本の偉大さが分からないか。いいかい。例えば君の魂の写し、これを読むことにより君が屋上から飛び降りるのに至った心境を疑似体験できるのさ」

「そんなことを経験してどうするんだ」

「おや分からない。映画だって悲劇が無くならないじゃないか。それと同じ。成功した金持ちとかは、君が体験してきた幸福陵辱絶望みたいなのを味わってみたいのさ」

「死んだ後まで嬲るかっ!」

 怒った。体中を振るわせ、声帯が破壊されるほどの声で怒鳴った。

「いいじゃないですか。死んだ後どうなろうと。あなたはもう何も感じることは出来ないのですから」

 あたしの怒りを青年はそれこそそよ風の如く飄々と流した。

「巫山戯るな」

 これ以上嬲り者に成らない為に死ぬのに、死んだ後まで金持ちのおもちゃになってたまるか。

「おやっ残念、少女との月夜の語らいもここまでのようだ」

 青年はそう言うとあっさりとあたしに背を向けた。

「えっ?」

 青年は振り返ることなくそのまま立ち去っていく。

「待てっ」

 あたしは手を伸ばしていた。絶望していたはずのあたしが、何を今更求めるのか手を伸ばす。

「返せっあたしの魂」

 気付いた時にはあたしは生と死の境、柵を乗り越えていた。そして、走っていた。絶望した人間、何かを求めていない人間が決してすることがない行動。その求めるエネルギーを爆発させないと出来ない行為。決して何かを求めない人間には出来ない行動。躰の筋肉を躍動させ、力強く地を蹴り飛ばし、何かを求め手を伸ばす。でもその手が青年に届くことはなかった。闇に紛れていく青年の背に届く前に、地獄の門が開かれてしまった。タイムリミット。折角チャンスを掴んで得た僅かな時間が終わりを告げる。

「こんなところにいやがったかっ」

 屋上へ通じるドアから小太りで嫌らしい目つきをした男が入ってきた。この売春ビルの管理を任されている男で矢木という。矢木は少女を見付けると鼠を見付けた猫のように笑う。

「ああああ」

 あたしの腰から力が抜け落ちていく。膝が笑い出す。このまま失禁をしてしまいそうに躰が恐怖に怯えている。泣き叫ぶあたしを味見と称して笑いながら抱いた男が来る。心が体が蛙のように萎縮していくのを感じる。

「えらいことをしてくれたな。あんなことをしてただで済むとは思ってないだろうな」

 言葉とは裏腹、矢木があたしを睨み付けてくるその目は、純粋な子供のように輝いていた。

「くぅっ」

 また嬲られるの?

「ふん、大方ここから飛び降りる積もりだったのが、怖くなった口か」

 終わりの選択。前に進めば、人形となって心が死ぬ、後ろに逃げれば、躰が死ぬ。どちらかしか選べない究極の選択。何を考えているんだ。とっくにその選択を済ませたはずだ。何を迷いだしている?

「まあいい、取り敢えずこっちに来い」

 矢木は手をこっちに差し出す。その手を取れば心が死ぬ。

「嫌です」

 叫び、拒絶していた。この死地にあって心だけは燃え上がっていく。

「何だとっ」

 こいつさえ何とか出来れば。心も体も奪われないんじゃないかと希望が鎌首を擡げてくる。

「人の手を煩わせるな」

 矢木があたしを毟り取る如く手を伸ばしてきた。

「触らないでっ穢らわらしい」

 もう一度戦う。戦うんだ。

「ちっ」

 少女はその手に握り締めたままだった血塗れのナイフを振り払い矢木の掌に朱線を走らせる。

「いいじゃないかいいじゃないか。拉致って来た最初のお前みたいじゃないか。その気の強そうな目にそそられちゃうね。それが最近じゃすっかり大人しくてつまらなかったよ。まあ、今にして思えば絶望したフリをしてチャンスを伺っていたんだな。今度は騙されないぞ。今度こそその目を死んだ魚になるまで嬲り尽くしてやる」

 矢木は掌を舐めつつ、その顔に好色と喜色のマーブルを浮かべる。

「さあ狩の始まりだ」

 矢木は腰を落としあたしの一挙手一投足を見逃すまいと凝視する。

「ごくっ」

 あたしは喉を鳴らし恐怖を飲み込むとナイフの先を矢木に向け戦う意志を示した。

 少女は部活でもしていたのか体は筋肉で引き締まり、それでいて少女らしい丸みも失っていない。その矢木を睨む目と相まってダビテ像の少女板のように美しい肉体美を顕わにしていた。その美しさに生唾を飲みこみ矢木は、じりじりとすり足で間合いを詰めていく。

 圧迫感。食らいつくそうとする肉食獣のごとき気迫があたしを覆い尽くし、夜の冷気で寒い位なのに背中に汗が滲み出てくる。

 じりじり。

「くるなっ」

 迫り来るプレッシャーに耐えられなくなったのか少女は闇雲にナイフを突き出した。

「素人ちゃんが」

 矢木は迫り来るナイフを軽く躱すと同時に、少女の手を掴みあっという間にねじり上げた。

「きゃあああああ」

 苦痛の悲鳴が闇夜の空に吸い込まれていく。

「さあ、躾の時間だ嬢ちゃん」

 肘の関節が限界まで曲げられ少女の牙であるナイフが地面に落ちていく。

「痛かったかい。なら今度はこうだ」

 あっという間に少女は空を回り、床に叩き付けられた。

「ガフッ」

 握り潰されたかのように肺の中の空気が絞り出され、一瞬で窒息しそうになる。慌てて息を吸い込もうと胸が膨らもうとするタイミングで、矢木が踏み付ける。

「かふ」

 可憐な胸が靴により無惨に歪み、矢木は更にぐりぐり足を捻る。

「くっく苦しいかい、お嬢ちゃん。まるで陸に上がった魚みたいだぜ」

 矢木は楽しそうに苦しむ少女を見下ろしながら、ゆっくりとベルトを外した。

「手間掛けさせやがって、一から誰がご主人様かその躰に教え込んでやる」

 矢木はズボンを降ろすと、そのそそり立った欲望を見せ付けるように少女の前に晒した。

「やめろっ。いっそ殺せ」

「そんなもったいないことするかよ。死ぬまで俺が嬲ってやる。死んだらその皮を剥いで、ラブドールに加工して永遠に可愛がってやるよ」

 視界が白くなってしまうほどの屈辱に目にうっすらと涙が浮かんでくる。

「いいぞその顔、その顔だ。矜持が踏みにじられる屈辱とこれから犯される恐怖がおり混ざった最高の顔だ。まるで処女を奪った時のように心ときめくじゃないか」

 矢木は股を開かせようときつく閉じられた股の間に手を入れてくるが、少女は足を棒のように強張らせ必死に抵抗する。

「ほうまだ歯向かうか。いいじゃないかいいじゃないか、必死に抵抗してみろ」

 矢木は視界がねじれるほどの平手打ちを少女に容赦なく喰らわせる。

「きゃっ」

 白磁のように滑らかで白い肌に、無惨な紅葉が彩られる。

「ほらほら、早く力を抜かないと頬がおたふくみたいになるぞ」

 矢木は容赦なく頬を叩き、脳がシェイクされ意識が遠のき全身が弛緩していく。

「ご開帳~」

 矢木は少女のまだうっすらと生い茂るだけの下腹部に欲望の先端を宛い、ゆっくりと侵略を始めた。

「やめろっ。やめて」

 少女は希望が砕け散ったのか全身が陸に打ち上げられたクラゲのようにぐったりした。

なんで、あたしはまたこんな目に遭うの? こんな屈辱を二度と味わいたくないからこそ必死に逃げ出したのに。一体あたしは何を期待してしまったの? 心が深い闇に沈んでいく。一度天に上がってから落下しただけに勢いは更に増している。

 もうどうでもいい?

 あたしは、その最後の質問に答えようとした。

 嬲るだけ嬲り侵略し蹂躙し、最高だーと矢木が恍惚の笑みを浮かべた時、闇に消えたはずの青年の声が朗々と響いた。

「シン」

 矢木は絶頂感で恍惚としていて全く声に気付いていない。青年の指より黄金に輝く光のニードルが放たれ、矢木の胸を貫いた。矢木の胸から輝く文字が吹き出した。吹き出した文字は、青年の持つ偽魂元の書に吸い込まれていく。

「はあああああ」

 矢木はまるで生涯を回想する老人のような顔になり放心している。数秒後矢木の躰から文字は吹き出さなくなり、矢木は正気に戻った。

「一体何が起きたんだ」

 矢木はすっかり萎えた欲望を引き抜くと立ち上がって周りを見渡す。見渡すその先、偽魂元の書を読み耽る青年を見つけた。

「てめえ何をしたっ!」

「そう怒鳴らないでくれたまえ。それより、まずその見苦しいモノをしまって貰えないかな」

 怒鳴り散らす自分を前にしても柳のような態度を取る青年に矢木は警戒したのか、単に恥ずかしかったのか、いそいそとズボンを履き直す。

「なに、君の魂の一部を写し取らせて貰っただけだよ」

 青年は矢木がズボンを履き直すのを見計らって答えた。

「俺の魂を写し取った?」

「安心したまえ、それにより君の寿命が縮むとか不利益は全くないから。文字通り、君の魂を文字として写し取らせて貰っただけだ」

 青年はこともなげに、写真でも撮ったくらいの感じで言う。

「魂を文字?」

「そう、この世界に実体のない魂を表すことが出来るのは、同じくこの世界に実体のない言葉、もしくはそれを示す文字だけなのだよ」

「お前俺の魂を写し取って何をする気だっ」

 矢木は恐怖を誤魔化すため怒声を上げる。魂を写し取る、そんなライトノベルの世界の出来事も実際に目の前で起きた現実と青年の雰囲気が自然と納得させる、させられる。

「愚問だな」

「なんだと!」

「人間の根源はなんだと思う」

 青年は矢木がどんなに怒声を上げても、踏み潰された蟻の怒りが聞こえない子供のように平然と語り出す。

「はあ?」

「呼吸を司る肺か?

 血液の循環を司る心臓か?

 体の機能を制御し統括する脳か?

 違う。こんなもの全て代替品で置き換えられる。置き換えられるものが人間の根源であるはずがない。置き換えが出来ない存在、それは魂なり。魂こそ一人に一つしか宿らない唯一のもの、根源であり魂元。それは、すなわちこの世界の根源であり真理。魔術師とは真理の探求者、ならば真なる魂に辿り着く為、研究する以外に何があるというのかね?」

 世界の根源? ならこの不条理な世界を作っているのも魂だというの?

「分かるかっ。魂なんて生まれてこの方見た事も触ったこともねえ」

「僕だってない。だが感じているはずだ。魂の臨界を起こさせるほどに覚醒させている君が感じて無いなどと言わせない。君が女を陵辱するのは本能などという脳機能の問題じゃない。女を陵辱する時脳で喜びを感じているんじゃない、もっと深いところから喜びが湧いてきているではないか? 蛇により知恵を与えられた時より神からの離別は始まった。原罪を覚醒させよ。神からの解放。君は魂の原罪を覚醒させることで、女を陵辱する為に人より優れた力を得る、故に女を陵辱せずにはいられなくなる」

 青年は天の意志を伝える予言者のように、いや天に挑む悪魔のように天を睨み両手を広げ熱く語る。

「はっいいねそれ。俺が捕まったら俺が悪いじゃない魂が悪いんですって言えば無罪放免てか」

「君は面白いことを言う。世界の真理とちっぽけな人間が決めた法律に何の関係があると?」

 青年は一気に白けたように言う。

「魂を覚醒させつつある者と言っても、この程度。魂の覚醒と知能もまた関係なし。愚者を説得する趣味も博愛もなく啓蒙主義でもないので、これ以上の議論は控えさせて貰うよ」

 慇懃無礼、青年はこれ以上なく丁寧に一礼をした。

「てめえっ」

 矢木は素早く銃を抜き、銃口を青年に突き付けた。

「そんな物騒な物は仕舞ってくれないかな」

「まずは黙れっ。そして俺の質問にだけ答えろ」

 矢木が突き付ける銃口の先が僅かに震えている。恐れている。あたしをおもちゃのように扱い、おもちゃのように捨てることの出来る矢木が。矢木は決して個人で強い訳じゃない、彼の背後にある夏禅会という組織の力を背負っている上で強いのだ。個人的に強いとは桁が違う強さを持っている矢木が恐れている。あの青年には夏禅会と対等に闘える力があるとでも言うの?

 もう一度青年を見る。銃を前にして相変わらず飄々とした態度を崩していない。対して矢木の方は緊張の限界に来ているのが伺える。いつ引き金を引いてもおかしくない。

「その本を置いて両手を上げろ」

「嫌ですよ。何で紳士であるボクがそんな無様な恰好をしなければならないんです」

「てめえ、俺が撃てないと思っているな。俺が人を殺せないと思っているな」

「そんなことは全然。このビルを任される位まで上り詰める人がそんなことないでしょ。ただ」

「ただなんだ」

「ここで銃声を響かせることのリスクを計算出来ない人が上り詰められる訳が無いとも思ってます」

 確かに青年の言うとおりだ。こんな音を遮るものが何一つ無い屋上で銃声を響かせたら警察を介入させる絶好の口実を作ってしまう。それだけはこのビルを任される責任者として避けなければならないはず。組織の力を利用するものなら組織からの制裁の恐ろしさも身に染みているはず。

「小賢しい知恵が回るじゃないか。でもなあ~最後には理屈より感情を選ぶからこそ、俺はここにいるんだぜ」

 そう。最後に理屈を選ぶような人では暴力の世界を生きていけない。

「困った人だ。話し合いで済ませるという選択はないのですか?」

「話し合いか。いいだろう事務所でゆっくり伺おうじゃないか」

「時間があればそうしたいのですが、生憎ボクは忙しいので遠慮させて頂きます」

「てめえの都合なんざ聞いてないんだよ」

「困った人だなあ~、矢木さんは」

 青年は偽魂元の書をパラパラと捲りながら言う。

「何で俺の名前を知ってるんだよ。やっぱりそうか、てめえどこの組織のもんだ」

「別にボクは組織なんかに属してませんよ。あなたの魂の一部を写し取った偽魂元の書を読んだだけですよ。例えば、あなたの初体験なんかも分かりますよ」

「なっなんだと」

「え~とあなたが魂の原罪に目覚めたのが14歳中学生の時ですか。そして原罪に従い、同級生を暗がりに引きずり込んでの強姦が初体験ですか」

「おつおまえなぜそれを」

「次が通っていた中学校の音楽の先生ですか。おや、これも強姦ですか」

「・・・」

 絶句した矢木が青年の言っていることが本当であることを物語っている。

「次は、また強姦ですか。今度の女性は、たまたま夜見かけた女性。おやおや見境がないですね。あなたが夏禅会に入ったのもその方が効率よく女性を犯せると考えたからですか。そしてもっと多くの女性を犯したいが為に、ひたすら組織で出世していったと。お見事、ぶれることなく首尾一貫していますね」

「へっそれがどうした。女を地獄に落として何が悪い。逆らいようのない力で犯された女が見せる、あの悲しみと屈辱が混じった表情、それ以上に素晴らしい物がどこにある」

 矢木は女性を強姦し続けた人生を恥じるどころか誇りにしているかの如く胸を張って言う。

 怖い。ここまで穢れた人生を送っていて、誇りに思える精神があたしには理解出来ない。

 拍手が鳴り響いた。

「素晴らしい」

 青年は心底感嘆した表情で矢木を褒め称えた。その姿に嫌みも皮肉もない、心からの謝辞が感じられる。

「その徹底して原罪に従い磨き続けた魂、さぞや魂元に近付いていることでしょう。研究に値しますよ」

「俺もいかれていると思っていたが、おまえも相当いかれているぜ」

「僕が求めるは魂元に至る魂のみです。それ以外は些事に過ぎません」

 悪魔だ。矢木にも恐怖を感じたがこの青年からは次元の違うものを感じた。もしかしたら、猿が人間を見るのはこんな感じなのかも知れない。

「さて、これだけ素晴らしい魂を複写させて頂いたのですから、是非御礼をしないといけませんね」

「ほう~何をくれるんだ。言っておくが俺は女以外、興味はないぜ」 調子に乗っている矢木は気付いていない。青年の笑顔の瞳が酷薄に変わっていることに。

「ええ、分かってますよ。あなたの大好きな少女の絶望に染まった魂、どうぞ受け取って下さい。

 我、複写せし魂をここに開封する」

 青年が持つ偽魂元の書から無数の文字が浮かび上がり、青年の周りを球状に回り出す。

「妙な真似するんじゃねえ」

 矢木は銃を青年に向けて撃とうとした。

「駄目っ」

 あたしは咄嗟に矢木に飛び掛かり銃口を青年から逸らした。

 夜空に銃声が轟いた。

「魂の記憶、彼の者に打ち込む」

 青年の周りを回っていた文字が、青年の人差し指に集約されていく。

「シン」

 集約された文字が矢木の胸に打ち込まれた。

「うはははははははっははあっははははははははあは、うはひゃああああああ」

 矢木は狂ったように笑い出した。

「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 矢木は急に無表情なり黙り込んだ。と思った次の瞬間にはまた笑い出した。

「なっなんなの?」

 あたしは青年に尋ねた。

「一見に値する状況ですね。彼の中で少女の絶望と少女の絶望に歓喜する二つの魂が互いに高め合っている。少女の絶望が深まれば矢木の歓喜が高まり、歓喜の高まりが少女の絶望をより深くする。素晴らしい、一体どこまで魂は高まっていくのか非常に興味がそそられますよ」

 青年は顎に手を添え興味深げに矢木を観察する。

「あはっあはっあはっははははははははは」

 矢木は穴という穴から体液を垂れ流すほどの歓喜に打ち震えている。

「うわーーーーーーーーーーーーーーーーっ」

 矢木は突然叫び出すと屋上の縁に向かって走り出し、そのまま柵を乗り越えジャンプした。

「ふむっ深まった絶望に耐えきれなかったか。ふむ、魂の相乗効果は素晴らしいが、耐えうる器が必要なようですね」

 ここで青年は少女の方を見た。

「先程は助かりましたよ」

「いえそんな。無我夢中で」

 悪魔かと思った青年に礼を言われる意外性に面食らってしまった。

「さて人が飛び降り銃声が轟いたんだ。いくらなんでも警察が来るだろうから保護して貰うがいい」

 青年はポケットから出したハンカチであたしの体を拭き清めてくれる。それは先保恐怖を感じた青年と同じとは思えないほど、青年は数億の美術品を扱うように優しくあたしを拭いてくれる。

 解放されるの? でも、全然嬉しさが込み上げてこなかった。

「では少女よ、ボクはこれで失礼する」

 青年は最後にあたしに自分の上着を掛けてくれる。暖かい。でもあたしはこの暖かさに満足しちゃいけないんだ。

「待って」

 背を向けようとした青年にあたしは呼び掛けた。

「なんだい?」

 振り向く青年に理性は悪魔に関わるなと警告する。

「あたしを連れて行って」

 馬鹿なことを口にいている自覚はある。でも、この言葉を引っ込められない。それこそ青年が言うように魂が囁く、『この青年の力なら復讐が出来る』と。

「ん? だからここにいれば警察が助けてくれると」

「警察がここから連れ出してくれてどうなるというの? あたしにはもう帰るべき家はないの。檻から出されて、またジャングルに放り出されるだけじゃない」

 だからあたしには力がいる。あたしをおもちゃのように扱った矢木を打ち倒した、あの悪魔の力がいる。

「まあ確かに警察じゃ一生の面倒は見てくれないが、そんなのボクだって君の一生の面倒をみる義理はないな」

 あたしには二つカードがある。でも勝負出来るのは一度のみ。さあどっちを出す。悪魔と取引するなら情と理どっちを選ぶ?

「対価を払って」

「対価?」

「あたしの魂を写し取った対価を払って。あたしの魂を見せ物にするというなら対価を払って」

「対価ときたか。助けたことを恩に着せないのは好感が持てるが、弱いな。君だってもう社会の仕組みが分かっているんだろ? 対価が要求出来るのは、それなりの力を持っている者、弱者は踏みにじられるのみ」

 青年は冷たくも熱くも語らない、当たり前すぎるから自然体で言い放つ。でもだからと言ってあたしだって諦められない。あたしはあの力が欲しい、あの力が必要なんだ。

 だから考えろ。必死に考えろ。会話は続けられたんだ。次に何を差し出せば、あたしは青年の心を繋ぎ止められるの? あたしの体? こんな穢れてしまった体で良ければいくらでも差し出す。でもこの青年は一糸纏わないあたしの体を見ていて眉一つ動かさない。だから駄目、体じゃ繋ぎ止められない。でも今のあたしにこの体以外に何があるの? この身一つ以外に何があるの?

「諦めたまえ。何も好き好んで闇に落ちることはない。だがまあ警察が来るまでは、紳士として君を保護してあげよう」

 これはこの青年の優しさじゃない。それが証拠に優しい人なら決して言わないような言葉を続ける。

「君程度の魂の対価としてはこれぐらいが妥当だよ」

 あった。青年が放った皮肉の言葉にこそ希望が隠れていた。あたしの目的と彼の目的、それがパズルのピースの如く合わさった。

「極上の魂をあげるわ」

「んっ?」

 喰い付いた。青年の目に興味の色が滲み出てきている。

「あたしに協力して。そうすれば、あたしは家族を騙し地獄に突き落とした奴に復讐を遂げるわ。その時あなたは極上に磨き上げられた魂を手に入れられるわ」

「なるほど刈り取るばかりでなく、自分で育て上げる訳か」

「どう?」

「興味は惹かれる。惹かれるが、君が復讐を果たせる保証がないな。さっきの男にすらいいように弄ばれる君が海千山千の相手に復讐を果たせるかな、返り討ちに合うのが関の山じゃないのか?」

 拒絶じゃない、問いかけてくれている。希望の糸は繋がっている。

「意志の強さが全てを可能にするわ」

「ふっふ、自殺しようとしていた娘の言うセリフじゃないね。でもそれで復讐を果たすまで君の面倒を見ろとは随分とずうすうしいね」

「その間、あたしを奴隷にしていいわ。なんでもするわ、舐めろと言うならあなたの靴だって舐めるわ」

 あたしは復讐の為に全てを捧げる。

「奴隷ね。いいだろう、君はボクの魔道の実験体にでも成って貰おうかな。言っておくけど、それは死より辛いことかもよ」

「構わないわ」

「本当かな~。なら、その意志の強さを証明して貰えるかな?」

「何をすればいいの?」

「何もうすぐ警察が来るし時間がない。さっきの男にしたことを今から君にする、見事耐えてみせてくれ、それだけでいい。そうすれば君の望み通り、ボクの奴隷として君を連れて行ったあげよう」

「矢木と同じ事をされるの?」

「そうだ」

 耐えられなければあの矢木のように狂ってしまう。でもそのくらいでなければ、今まで普通の女の子だったあたしに力なんて手に入らない。

「おや黙り込んじゃって怖じ気づいたかな。だがそれが正常だよ。分の悪い賭けに命を賭けるもんじゃない」

「それでも」

 耐えれば道が開ける。奴隷でもその先があるなら耐えられる。

「耐えたら連れて行ってくれるのですね」

 自分で選んだ荊の道なら歩いていける。

「ああ、ボクの下僕として連れて行くことを紳士として誓おう」

「ではお願いします。早くしないと邪魔が入ります」

「いい覚悟だ。だが一つ覚えておくがいい。強すぎる復讐の炎は己の自身をも燃やしてしまうよ。では君のその覚悟に敬意を称して特別だ。君を地獄に落とした男の魂を送ろう」

 よりによって、矢木の魂を打ち込むというの? 覚悟を決めたはずのあたしの心に恐怖が滲む。

「我、複写せし魂をここに開封する」

 青年が持つ偽魂元の書から無数の文字が浮かび上がり、青年の指先に集約されていく。

「君を地獄に落とした男の魂に見事耐えて見せろ少女。魂の記憶、彼の者に打ち込む。シン」

 黄金のニードルを胸に打ち込まれ、あたしの体が強烈に疼き出した。熱いからだが熱い。特に下腹部が焼きごてを当てられたかのように熱くなる。この熱さ、この疼きを鎮めたい。それには女だ。それも幸せに包まれた美しい女、自分が不幸になるなんて露ほども予想していなかった女が地獄に堕ちる瞬間に見せる崩れ落ちる顔は最高だ。捜さないと、見付けないと。捜して攫って犯してやる。そんなことをして何になると理性が働いても些細なこと。胸の奥から悪意が溢れかえってくる。溢れる悪意に矢木に乱暴され疲弊しきっていた体に活力が漲ってくる。さあ、こんなとこにいる場合じゃない街に行って獲物を探さなくては。顔を上げ歩き出す先に青年がいた。

「邪魔」

 少女は一睨みする。その眼光、とても少女のものとは思えないギラギラと脂ぎった欲望に輝いていた。

「これは失礼」

 青年はあたしに睨まれさっと道を空ける。情けない男。男なんて相手が弱い女だと思うと途端に強気になって獣欲を剥き出しにするような汚らわしい存在。最も嫌悪する存在。そう、あたしは獣欲に塗れた男を嫌悪する。

 はっあたしは今何を考えていた! よりによってその汚らわしい男と同じ事をしようとしていたなんて!! 怒りが燃え上がり。浸食されかけていたあたしの魂が蘇る。

 あたしは歩みを止めた。

 女、女を犯せ。

  汚らわしい。

 恥辱に満ちた女の顔が見たい。

  下劣な。

 女を虐めいたぶりたい。

 こんなこんな男の下劣な欲望、悪意の為にあたしは地獄に堕ちたのか。己の欲望、いや生存とは何の関係もない愉悦のためだけに他人を不幸にする悪意。これが人間なのか? 人はエデンから追放される代わりに知恵を得て本能から解放された。その解放の結果がこれか? なら、まさしく知性は蛇が人間を苦しめるために与えた原罪だっ。神からの解放が悪意というならあたしは純真な獣に戻る。いやそんなはずはない、悪意の先があるはず。あたしは悪意を超えた先を見てみたい、目指したい。

 ぱああ、宵闇に包まれたあたしに一筋の天の光が差し込んできた。というのに直ぐに闇が陰ってくる。女、女を犯せ、女を縛り嬲りいたぶり犯せ。一時収まっていた魂の浸食がまた始まった。このままだとあたしは第二の矢木になる。どうすればいい? 簡単なこと。目には目を歯には歯を、原罪には原罪。矢木の原罪が色欲というなら、あたしの原罪は何? そんなこと考えるまでないわ。『憤怒』本能に刻み込まれた捕食者の運命を覆す。勇気へと繋がる原罪。矢木の限りない女への悪意があたしの魂を侵食するなら、あたしはこの悪意に怒りを燃やすだけ。あたしは女をおもちゃにするような奴を許さない。あたしの魂が矢木の魂を糧にして燃え上がり、世界がア嚇染まった。


 毅然と仁王立ちし、ポニーテールを風に靡かせ広がる虚空の闇を睨み付ける。 

「お見事です。あなたの魂を認めましょう」

 青年はあたしに向かって深々と一礼をする。

「あたしの体は自由にしていいわ。その代わりあたしに力を」

「我は麝侯じゃこう 琴羽ことは。真なる魂を求める探求者。

 我は誓う。今この時より汝の復讐の剣となることを。汝対価として何を差し出す」

 青年は名乗った。あたしは認められたんだ。あたしの胸が熱くなる。あたしは翻弄されるだけのお人形から這い上がれたんだ。

「あたしは、天影あまかげ 宵せう。

 復讐の果て、この魂をあなたに捧げることを誓います」

「その言葉、戒めとなり心に刻む。シン」

 麝侯の指があたしの胸に触れ、あたしの心臓の鼓動が一瞬跳ね上がった。

「契約はなった。ようこそセウ君」

「よろしくお願いします。麝侯様」

 こうして、あたしは悪魔と契約を交わした。

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