弐
それから二年の時が経ち、聡子が十八になった頃のことであった。
先んじて遠縁の娘を妻として迎え入れた兄に続くようにして、聡子の縁談が持ち上がったのである。
家に見知らぬ女が来てからというもの、どこか所在無げにしていた聡子は、更に見て判る程に表情を失くした。
「会ったこともない人の処にお嫁に行くだなんて」
いつもの縁側で、聡子はそう独りごちた。利吉は胸の中ににじりと拡がる痛みから目を背け、努めて明るい声を出した。
「海に近い街だと聞きました。お嬢さんがあんなに見たがっていた海が見られるんですよ」
「……それでも私は、この家に縛られているの」
利吉の顔も見ずに言った聡子の声は、秋の空に乾いた余韻を残した。どこに行ったとて、聡子に自由はない。利吉にはそれ以上に掛ける言葉も見付からなかった。
いずれにせよひと月後には、聡子は見知らぬ男の許へと嫁いでしまう。会うのはこれが最後かも知れなかった。
初めから叶わぬ恋であった。ずっと秘め続けてきた想いを伝える気など、毛頭なかった。自分に出来ることは唯一つ、聡子の平穏を祈ることだけだ。遠い場所でも、見知らぬ男の妻としてであっても、幸せであればそれで良い。そう思おうとした。
しかし運命の悪魔が、利吉の袖を引いた。
「ねぇ、お願いがあるの」
白い指で骨ばった手に触れた聡子が、長い睫毛の下から利吉の目を覗き込んだのである。
「私を連れて、逃げて頂戴」
皆が寝静まった頃に裏口から聡子を連れ出し、夜のうちに山を下りた。
山道に慣れていない聡子にとっては険しい道程であったが、弱音ひとつ零さずに利吉の後をついてきた。何度か背負うことを申し出たが、聡子は頑なに首を横に振った。
麓の街には、利吉自身の住まいがあった。仕事仲間も住んでいる。聡子と一緒にいるのを誰かに見られでもしたら不味い。二人は夜が明けるのを待って、朝一番の列車に乗り込んだ。
誰も自分たちを、知り得ぬ処へ。
何も聡子を、縛るもののない処へ。
聡子は列車に乗るのは初めてだったようで、酷く心許なげな表情で俯きながら、他の乗客や窓の外を流れる景色をそっと目で追っていた。
車掌が切符の確認に来たので、利吉は居住まいを正して二人分のそれを見せた。切符が手許に戻ってくると、ようやく人心地が付いた。少なくとも、終着駅まではここにいることが許されたのだ。
隣に座る聡子は、未だ頬を強張らせたままだ。利吉は聡子の方を窺いながら、ぎこちなく手を握った。それは驚く程ひやりとしていた。
「冷たい手ですね」
聡子はそろりと顔を持ち上げて利吉の方を見、ごく僅かに唇の端を上げた。
「……少し疲れたわ」
利吉が握った手に力を込めると、聡子は再び俯いて、少し気恥ずかしそうに微笑んだ。
しばらく無言の時が続いた。利吉はそれから聡子の顔を見ることも出来ず、ただ小さな手がだんだんと温まっていくのを感じていた。
ふと、肩に何かが触れた。
顔を向けると、聡子が首を持たせ掛けて音のない寝息を立てているのであった。長い睫毛の影が白い頬に落ちている。利吉とて疲れてはいたが、聡子の頭の重さが心地良く、眠ってしまうのは勿体なく感じられた。
列車はいくつもの見知らぬ駅に停まり、その度に幾人もの見知らぬ人々が二人の脇をすり抜けて行った。誰も自分たちを気に留める者は居ない。今この場に於いて、確かなものは互いの身体のみなのだ。そう思うと、隣に寄り添う熱を一層愛おしく感じるのであった。
——海をお見せしたら、お嬢さんはお喜びになるだろうか。
屋敷を出て以来、いや、縁談が決まって以来影を潜めていた聡子の笑顔を思い浮かべると、利吉の胸は甘く疼いた。聡子の首を擡げる不安、そして利吉自身の不安は、目にも留まらぬ景色の中に置き去りにしてしまえばいい。そう思った。
何度かの乗り継ぎを経て海沿いの街に到着したのは、ちょうど陽の沈んだ頃合いであった。晩秋の夕陽は足が速い。西の空の茜色は、すぐに東から下りる深い群青の帳に追い遣られてしまう。
「何だか不思議な匂いがするのね」
聡子はそんなことをぽつりと漏らした後、一つくしゃみをした。街を包む空気は潮の香りがして、しんと冷たい。
早く今宵の宿を探さねば。
利吉は聡子の横顔をちらと伺った。すると先刻まで利吉の隣で眠っていた無防備な娘は既にそこには居らず、ぴんと張り詰めた顔の女がごく小さく息をしていた。その輪郭は宵闇に融け、この世の果てに辿り着いた旅人のようにも見えた。
見知らぬ街の空気の冷たさが、先程まで利吉の心を満たしていた温かさすらも奪い去ってしまったようであった。代わりに、寒気にも似た不安が自分の中に滑り込んでくる。
「海が見たいわ」
利吉がうまく言葉を返せずにいるうちに、聡子は独り言のようにそう呟いた。
「しかしお嬢さん、もう暗いですから、明日にしませんか」
「海が見たいのよ」
聡子は顔を上げ、今度は強い眼差しで利吉を見据えた。聡子にそう云われて、断る術を利吉は持っていなかった。
「……解りました。ではそこらでランタンを一つ、買って来ましょう」
店じまいしかけた小さな工具屋に飛び込み、手提げランタンを買った。
火を灯すと、辺りがほの明るくなった。利吉の一歩後ろを歩く聡子の俯きがちな顔が、ぼんやりと照らし出される。ゆらりと揺れる炎の作り出す陰が、聡子の白い頬を闇色に染めていた。
生まれて初めて家を離れ、遠い街へ来てしまった心許なさか。いつ屋敷の者が追ってくるか判らぬ不安か。あるいは家を飛び出したことそのものに対する後悔か。いずれにしても聡子の顔に過る翳りは、利吉の心にざわめきを
それでも揺らめくランタンを頼りに、浜辺を目指す。ゆらゆら、ゆらゆらと見知らぬ街が移ろう。何もかもが——聡子さえも——朧げで、まるで現によく似た夢の中に居るようであった。
ふと、ぷつんと何かの千切れる音がした。
「あ……」
聡子が小さく声を上げ、しゃがみ込んだ。
見れば右足の下駄の鼻緒が切れている。その華奢な下駄は、思えば長い道程を旅してきたのだ。本当はもう、この辺りで立ち止まるべきなのかも知れない。
しかし困り果てて真っ直ぐ見上げてくる聡子の表情は何故だか妙に懐かしく、利吉の心に僅かばかりの灯を与えた。
利吉は背を向けてしゃがんだ。聡子は今度こそ素直に、利吉の背に身を預けたのであった。
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