辿り着いた浜辺は、酷く物寂しい場所であった。

 漆黒の天鵞絨びろうどを拡げたような空には、真円の月が張り付いている。わざとらしい程に煌々と光を放つそれは、真白に乾いた砂浜を照らし出していた。

「降ろして」

 地面に降りるや、聡子はランタンを利吉に預け、下駄と足袋を脱ぎ自らの足で砂を踏んで進んで行った。聡子の向かう先にあるのは、空の黒よりも一層深い、闇のような海だ。

 ざ、ざ、と寄せては返す波はいやに静かで、命あるものを気付かぬうちに取り込んで、無へと誘う死神の呼び声のようであった。

 聡子は引き寄せられるようにふらふらと波打ち際に近付き、波の届く一歩手前で足を止めた。

 その眼前には今、どこまでもどこまでも続く海が拡がっている。

 どこまでも、どこまでも続く闇。

 その縁に、聡子は立っている。

 声を、声を掛けなければ。利吉はそう思ったが、言葉は舌の根に張り付いたままであった。

「お願いがあるの」

 さざめく波の音を遮って、聡子の凛とした声が冷たい空気を切り裂く。それは利吉の心臓に突き刺さり、その動きを一瞬止める。聡子は相変わらず利吉に背を向けたままだ。

 ざ、ざ……今や波の音は、利吉をも取り込もうとしていた。

 聡子はやおら、背中に手を回して帯を解き始めた。

 か細い衣擦れの音がしゅるり、しゅるりと甘く利吉の耳朶を打つ。鼓動が足を速める。徐々に苦しくなる胸の傍らで、利吉は出来得る限り息を詰めていた。

 しゅるり、しゅるり——錦糸の刺繍の帯が砂浜に落とされ、続いて深い藍色の羽織が華奢な肩を滑って行く。

 遠くに見える松木林が利吉の心音に合わせて跳ね踊る。手の中にあるカンテラの灯が、それを煽るように煌々と燃えていた。松木林、灯、砂浜。一頻ひとしきり視線を巡らせた後、利吉は再び聡子の後ろ姿に目を向けた。

 見てはいけない、聡子を止める言葉を掛けなくてはならない。そう思いながらも、甘美な衣擦れの音は頭蓋のうちこだまして、利吉から身の自由を奪った。まるで酒に酔ったかの如く脳髄が痺れ、陽物ようぶつに抗い難い熱が生まれる。

 しかしその熱は、聡子が絹の襦袢を肩から落とした時に掻き消えた。

 カンテラの灯が滑らかな肩の曲線を浮かび上がらせる。露わになった聡子の背中を見て、利吉は息を呑んだ。


 その透き通るように白い肌の上にあったのは、大きな刺青であった。

 まぐわうように絡み合う二匹の蛇。

 屋敷を守る鉄の門に描かれていたのと同じ文様だ。


 それはさしずめ何かの呪印のように、聡子の小さな背を覆っていた。

「私の背中を、焼いて頂戴」

 振り返ることなく発せられた聡子の言葉の意味を解するのに、利吉は数瞬を要した。

 辺りには相も変わらず波音が漂っていたが、今やそれ以上に利吉自身の心音が大きく鳴り響いていた。

 背中で縛られているの。いつか聡子の云った言葉が不意に蘇る。

「お嬢さん、その刺青は……」

「私が、あの家の娘であることの証。私がどこへ嫁いでも、あの家の血筋が穢れないようにするためのまじない。お兄さまはこの血を絶やさぬ為だけに、私を嫁がせようとした。お兄さまは私の背中しか見ていない。私はお兄さまの、所有物でしかないのよ」

 利吉は聡子の兄を思い出した。自分の妹のことを、まるで庭木でも見るような目で眺めていた男を。

 聡子はついと、空を仰ぎ見る。

「だから、私の背中を焼いて頂戴」

 利吉は刺青から視線を逸らすことが出来なかった。

 焼く? 誰が? 何を? どうやって?

 ゆらりゆらりと揺れる灯りに照らされて、聡子の肩が小さく震えていた。

「……出来ません」

 利吉の喉からようやく出た声は、酷く掠れていた。

 聡子は襦袢で胸元を隠しながら、静かに振り返った。久々にこちらを向いた眼差しが利吉を鋭く射抜く。

「あなた、私をここまで連れ出しておいて、私を解放することもしてくれないの? これがある限り、私はお兄さまから逃れられないのよ。どこに行ったって一緒だわ。あなたがしてくれないのなら、私……」

 俄かに聡子の喉が詰まる。その背後には、闇の海が今も飽きることなく拡がっている。それはほんのふとした切欠きっかけでいつでも容易く聡子を飲み込んでしまうように思えた。

「さぁ、早く、この背中を焼きなさい」

 最早それは、依頼でも懇願でもなかった。利吉を射竦める聡子の眼差し——それは彼女の兄によく似て底冷えする程美しく、利吉に承諾以外の返事を許さぬ強さを孕んでいた。

 他にどうすることが出来ただろう。

 利吉は足元に転がっていた木切れを拾い上げ、持っていた手拭いを先端に巻き付けた。そしてカンテラの蓋を開け、布に火を移した。初めは小さな火だったのが、次第に布じゅうに燃え拡がり、即席の松明となる。

 それを目にした聡子は、再び利吉に背を向けた。

 一歩、一歩と聡子へ歩み寄る。ぱちぱちと音を立てて燃える炎は、聡子の白い背中とそこに横たわる蛇の刺青とを、闇からくっきり浮かび上がらせている。

 聡子は砂浜に膝をつき、首をもたげ、自らを抱き締めるような恰好で身を固めた。空からは満月の白い光がしんしんと降り注ぐ。聡子の後ろ姿は、まるで何かに祈りを捧げているかのようでもあった。

 晒け出された聡子の背中に、利吉はゆっくりと火を近付けていく。松明を握る指先は氷のように冷え、震えを止めることは適わない。小刻みに揺れる炎が、遂に聡子の皮膚に触れた。

「あぁっ——!」

 聡子が声を上げ身を仰け反らせたので、利吉は咄嗟に火を離す。

「お嬢さん、やはり……」

 しかし聡子はきっと振り返り、尚も鋭い眼差しで利吉を睨み付ける。

「いいから、構わず続けなさい!」

 ぴしゃりとそう言い放ち、聡子はまた正面を向く。そして先程よりも固く身を抱き締め、右手の甲を唇に宛がった。

 利吉に出来るのは、少しでも早く苦痛の時間を終わらせることだけであった。再び松明を聡子に近付け、今度は躊躇うことなくその背中に炎を押し付ける。

「んっ——……」

 聡子は身を震わせ、小さく呻き声を上げた。しかしそれからは更に身を固くし、じっと耐えていた。左手の指が、自らの右腕に爪を喰い込んでいる。背後からでは見えないが、右手はぐっと唇に押し付けられ、声の漏れるのを防いでいるようであった。

 獣のような炎が、聡子の白い肌を焼く。その表面にある蛇の刺青を、焼く。

 ぶすぶすと厭な音を立てながら、獣は蠢く舌で聡子の背中を舐めていく。白く滑らかな肌は徐々に消え失せ、その下にある赫い肉が姿を見せる。

 皮膚の焼ける臭いが利吉の鼻をつんと衝く。立ち込める煙が利吉の身を包む。額には脂汗が滲み、脇の下には冷たい汗が伝っていく。聡子の背中を蹂躙する炎が、利吉の瞳をも容赦なく灼いていた。

 しかし、目を逸らすことは許されない。獣が蛇を焼き尽くすのを、しっかりと見届けなければならない——。


 やがて刺青の大半が赫く塗り潰された頃、利吉は松明を聡子から遠ざけ、砂浜に突き立てて火を消した。

 それまでじっと耐えていた聡子は、途端に気を失ってその場に倒れ伏した。力なく地面に落ちた右手の人差し指にはくっきりと歯型が付き、血が滲んでいた。

 ざ、ざ……と途切れ途切れに続く波の音が、くぐもった意識を少しずつ洗っていく。利吉はがくりと膝を折った。今頃になってようやく、冷たいものが背筋を駆け昇っていった。

——自分は、何てことを。

 気付かぬうちに天高く昇っていた真円の月は、逸らすことなく二人を見下ろしていた。

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