参
辿り着いた浜辺は、酷く物寂しい場所であった。
漆黒の
「降ろして」
地面に降りるや、聡子はランタンを利吉に預け、下駄と足袋を脱ぎ自らの足で砂を踏んで進んで行った。聡子の向かう先にあるのは、空の黒よりも一層深い、闇のような海だ。
ざ、ざ、と寄せては返す波は
聡子は引き寄せられるようにふらふらと波打ち際に近付き、波の届く一歩手前で足を止めた。
その眼前には今、どこまでもどこまでも続く海が拡がっている。
どこまでも、どこまでも続く闇。
その縁に、聡子は立っている。
声を、声を掛けなければ。利吉はそう思ったが、言葉は舌の根に張り付いたままであった。
「お願いがあるの」
さざめく波の音を遮って、聡子の凛とした声が冷たい空気を切り裂く。それは利吉の心臓に突き刺さり、その動きを一瞬止める。聡子は相変わらず利吉に背を向けたままだ。
ざ、ざ……今や波の音は、利吉をも取り込もうとしていた。
聡子はやおら、背中に手を回して帯を解き始めた。
か細い衣擦れの音がしゅるり、しゅるりと甘く利吉の耳朶を打つ。鼓動が足を速める。徐々に苦しくなる胸の傍らで、利吉は出来得る限り息を詰めていた。
しゅるり、しゅるり——錦糸の刺繍の帯が砂浜に落とされ、続いて深い藍色の羽織が華奢な肩を滑って行く。
遠くに見える松木林が利吉の心音に合わせて跳ね踊る。手の中にあるカンテラの灯が、それを煽るように煌々と燃えていた。松木林、灯、砂浜。
見てはいけない、聡子を止める言葉を掛けなくてはならない。そう思いながらも、甘美な衣擦れの音は頭蓋の
しかしその熱は、聡子が絹の襦袢を肩から落とした時に掻き消えた。
カンテラの灯が滑らかな肩の曲線を浮かび上がらせる。露わになった聡子の背中を見て、利吉は息を呑んだ。
その透き通るように白い肌の上にあったのは、大きな刺青であった。
まぐわうように絡み合う二匹の蛇。
屋敷を守る鉄の門に描かれていたのと同じ文様だ。
それはさしずめ何かの呪印のように、聡子の小さな背を覆っていた。
「私の背中を、焼いて頂戴」
振り返ることなく発せられた聡子の言葉の意味を解するのに、利吉は数瞬を要した。
辺りには相も変わらず波音が漂っていたが、今やそれ以上に利吉自身の心音が大きく鳴り響いていた。
背中で縛られているの。いつか聡子の云った言葉が不意に蘇る。
「お嬢さん、その刺青は……」
「私が、あの家の娘であることの証。私がどこへ嫁いでも、あの家の血筋が穢れないようにするための
利吉は聡子の兄を思い出した。自分の妹のことを、まるで庭木でも見るような目で眺めていた男を。
聡子はついと、空を仰ぎ見る。
「だから、私の背中を焼いて頂戴」
利吉は刺青から視線を逸らすことが出来なかった。
焼く? 誰が? 何を? どうやって?
ゆらりゆらりと揺れる灯りに照らされて、聡子の肩が小さく震えていた。
「……出来ません」
利吉の喉からようやく出た声は、酷く掠れていた。
聡子は襦袢で胸元を隠しながら、静かに振り返った。久々にこちらを向いた眼差しが利吉を鋭く射抜く。
「あなた、私をここまで連れ出しておいて、私を解放することもしてくれないの? これがある限り、私はお兄さまから逃れられないのよ。どこに行ったって一緒だわ。あなたがしてくれないのなら、私……」
俄かに聡子の喉が詰まる。その背後には、闇の海が今も飽きることなく拡がっている。それはほんのふとした
「さぁ、早く、この背中を焼きなさい」
最早それは、依頼でも懇願でもなかった。利吉を射竦める聡子の眼差し——それは彼女の兄によく似て底冷えする程美しく、利吉に承諾以外の返事を許さぬ強さを孕んでいた。
他にどうすることが出来ただろう。
利吉は足元に転がっていた木切れを拾い上げ、持っていた手拭いを先端に巻き付けた。そしてカンテラの蓋を開け、布に火を移した。初めは小さな火だったのが、次第に布じゅうに燃え拡がり、即席の松明となる。
それを目にした聡子は、再び利吉に背を向けた。
一歩、一歩と聡子へ歩み寄る。ぱちぱちと音を立てて燃える炎は、聡子の白い背中とそこに横たわる蛇の刺青とを、闇からくっきり浮かび上がらせている。
聡子は砂浜に膝をつき、首を
晒け出された聡子の背中に、利吉はゆっくりと火を近付けていく。松明を握る指先は氷のように冷え、震えを止めることは適わない。小刻みに揺れる炎が、遂に聡子の皮膚に触れた。
「あぁっ——!」
聡子が声を上げ身を仰け反らせたので、利吉は咄嗟に火を離す。
「お嬢さん、やはり……」
しかし聡子は
「いいから、構わず続けなさい!」
ぴしゃりとそう言い放ち、聡子はまた正面を向く。そして先程よりも固く身を抱き締め、右手の甲を唇に宛がった。
利吉に出来るのは、少しでも早く苦痛の時間を終わらせることだけであった。再び松明を聡子に近付け、今度は躊躇うことなくその背中に炎を押し付ける。
「んっ——……」
聡子は身を震わせ、小さく呻き声を上げた。しかしそれからは更に身を固くし、じっと耐えていた。左手の指が、自らの右腕に爪を喰い込んでいる。背後からでは見えないが、右手はぐっと唇に押し付けられ、声の漏れるのを防いでいるようであった。
獣のような炎が、聡子の白い肌を焼く。その表面にある蛇の刺青を、焼く。
ぶすぶすと厭な音を立てながら、獣は蠢く舌で聡子の背中を舐めていく。白く滑らかな肌は徐々に消え失せ、その下にある赫い肉が姿を見せる。
皮膚の焼ける臭いが利吉の鼻をつんと衝く。立ち込める煙が利吉の身を包む。額には脂汗が滲み、脇の下には冷たい汗が伝っていく。聡子の背中を蹂躙する炎が、利吉の瞳をも容赦なく灼いていた。
しかし、目を逸らすことは許されない。獣が蛇を焼き尽くすのを、しっかりと見届けなければならない——。
やがて刺青の大半が赫く塗り潰された頃、利吉は松明を聡子から遠ざけ、砂浜に突き立てて火を消した。
それまでじっと耐えていた聡子は、途端に気を失ってその場に倒れ伏した。力なく地面に落ちた右手の人差し指にはくっきりと歯型が付き、血が滲んでいた。
ざ、ざ……と途切れ途切れに続く波の音が、くぐもった意識を少しずつ洗っていく。利吉はがくりと膝を折った。今頃になってようやく、冷たいものが背筋を駆け昇っていった。
——自分は、何てことを。
気付かぬうちに天高く昇っていた真円の月は、逸らすことなく二人を見下ろしていた。
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