欠落ちぬ月

陽澄すずめ

 月が、ついてくる。


 ざく、ざく、と草履が地面を踏む音が、途切れ途切れに鼓膜を揺らす。

 虫が鳴く季節はうに過ぎ去ってしまったらしい。僅かの風すら吹かぬ今宵は、草木もすっかり眠っている。

 これはどこへ続く道なのか、そもそもどこへ行くべきなのか。それすら判らぬ心許なさを誤魔化すように、若者は一歩一歩を力強く踏み締める。

 胸元でランタンが揺れる。肩ごしに伸びる白い手が掴むそれは、若者の心の迷いそのものだ。

 見知らぬ街を包む空気は酷く冷たい。ただ背中に寄り添う娘の身体だけが、確かな温もりを伝えている。

「……ごめんなさい、背負わせてしまって。こんな時に鼻緒が切れるだなんて」

 負われた娘が、小さな声でそう云った。うなじに掛かる吐息にぞくりとする。背にあたる柔らかな感触から意識を遠ざけながら、若者は低い声でぽつりと呟く。

「……力仕事には慣れていますから」

 あら、と娘が云う。

「ごめんあそばせ」

「すいません、そういう意味で云ったんじゃ……」

「解っているわよ」

 ふふ、と笑みが零れる。少しだけ、空気が緩んだ気がした。





 ある山の中に、いつとも判らぬ昔から脈々と続く旧家があった。

 その家は人里離れた処にひっそりと隠れるようにしてあったので、その存在を知っているのは近くの集落に住む人々だけであった。

 もっとも、屋敷の外縁はぐるりと高い生垣に囲まれており、外側からでは中の様子を伺うことすら儘ならない。時おり麓の街から来た用聞きらしき者が裏口より出入りしているので、屋敷に住人が居ることは確かなようではあったが、集落の村人の中で屋敷の主人の顔を知る者は誰一人とて居なかった。

 屋敷を守る表の門は、いつもぴたりと閉ざされている。その鈍色の鉄の門扉には、奇妙な文様が描かれていた。

 絡み合う二匹の蛇。

 それは何とも近寄り難い荘厳な佇まいであり、故に人々は噂していた。蛇信仰を強く持ち続けた古き豪族の末裔にあたる一族が、天皇を神と奉る皇族や施政者から疎まれ、落ち延びてここに棲み付いたのではないか——と。

 しかしそれとて誰が云い出したか判らぬ根拠のない話であった。


 庭師の弟子であった利吉は、月に一度、庭木の手入れの為その屋敷に出入りしていた。そうでもなければ、元来そのような身分の高い家にゆかりなどない。

 利吉の生家はここより遠く離れた漁港近くの村にあり、漁に使う道具を作って細々と生計を立てていた。利吉は先の見えない暮らしを嫌い、十六の年に田舎を出て高名な庭師に弟子入りしたのであった。


 かの旧家に初めて連れて来られた時分には、利吉もその陰々鬱々とした雰囲気を酷く訝しく感じたものである。しかも蛇の文様の描かれた立派な正門ではなく、さっと見ただけでは殆ど生垣と見分けの付かぬ裏手の小さな扉から、人目を憚るようにして入らねばならぬときた。

 一体この屋敷にはどのような人物が住んでいるのか。田舎から出てきたばかりの若者が物珍しさに胸を躍らせたのも、無理からぬことであった。

 しかしひと度足を踏み入れると、その庭の見事さに利吉は思わず息を呑んだ。

 堂々とした見事な枝ぶりの松、鮮やかな茜色に染まった紅葉、色とりどりに咲く花々。それまで親方についていくつかの庭を目にしていた利吉であったが、その美しさは群を抜いていたのである。少なくともここの主人は風流を解する人物なのだろう、と思った。

 だが利吉にとってそれ以上に鮮烈だったのは、この屋敷に住む娘との出会いだ。

「こんにちは」

 鈴の鳴るような声を背後から掛けられたのが最初だった。驚いて顧みれば、利吉と同じ年頃の娘が陽の当たる縁側に立っていたのである。

「あなた、新しい人ね。お名前は?」

「……利吉、です」

 咄嗟に返事を出来ずにいた利吉は、ようやく口を開いて自分の名を云った。すると娘は木漏れ日のような笑みを零した。

「私は聡子。利吉さん、今日はよろしくお願いします」

 庭師たちの仕事の間、聡子は縁側にしゃんと坐し、彼らの様子をじっと眺めていた。

「お庭が綺麗に整えられていくのが面白くて。どうかお気になさらないで」

 聡子はそう微笑んだが、利吉は気にせぬ訳にはいかなかった。

 何しろ、美しい娘である。

 絹のように艶やかな黒髪、陶磁器のように白い肌。切れ長の目を縁取る長い睫毛、小さな鼻と口。ぴんと背筋を伸ばし膝の上に手を揃えて座る姿は、屋敷の庭に大輪の花を咲かせる寒牡丹にそのまま重なった。


 浮世から隔てられた屋敷の住人たる聡子は、穢れを知らぬ上質の真綿のようであった。同時に、その目には他の者に有無を云わせぬような強かな光を宿していた。聡子に微笑みかけられてその我儘を退けられる男など居らぬのではないか。利吉はそんな風に感じた。

 親方は聡子が少し苦手のようで、「見張られているようで敵わん」などと云った。しかし利吉には聡子が純粋に庭作業の様子を楽しんでいるように見えたし、年の近い自分に対しては他の兄弟子たちよりも気安く声を掛けてくれるようにも思えた。

 縁側に繋がる廊下を行き来するのは女中らしき年老いた女のみで、その奥に続く部屋は随分ひっそりとしていた。庭の手入れで出入りしているだけの身分では家の細かな事情など尋ねる由もなかったが、聡子が暇を持て余していることは目に見て明らかであった。



 利吉が聡子と女中以外の人物を見たのは、三度目に屋敷を訪れた時のことであった。

 いつもの如く親方の手伝いの合間にぽつりぽつりと聡子と言葉を交わしていた頃合、その人物が縁側を通り掛かったのである。

 それは利吉より少し年上に見える、聡子に良く似たかんばせの、美しい青年であった。

 青年の纏う雰囲気は女性にょしょうである聡子よりもむしろ艶っぽく、その姿に視線を囚われたが最後、僅かたりとも目を逸らすことは適わなかった。怜悧な眼差しが自分の方へと向けられた時には、利吉の肌はさざめくようにぞくりと粟立った。

 しかし何より異様であったのは、他でもない聡子の様子だ。

 いつもは凛としている聡子が、その青年を前にした途端、まるで射竦められたかのように畏まり、床に指をついて深々とこうべを垂れたのである。

 青年はそれを気に留めるでもなく、切れ長の目をすぅと細めて整えられた庭を一瞥し、満足そうに二度三度と頷いた後、床に這いつくばった恰好の聡子にそのままの視線を差し向けた。

 そして涼やかな声で云った。

「あぁ、いい塩梅だね」

 その言葉が、庭の感想を述べたものなのか、それとも聡子の様子を云ったものなのか、利吉には判らなかった。青年の顔に浮かんでいたのは、ぞっとする程の美しい笑みであった。

 青年はその後直ぐに縁側から立ち去ったが、聡子はなかなかおもてを上げなかった。ようやく身を起こした聡子の顔は真白で、いつもは強い光を宿す瞳はびいどろ玉のように虚ろに揺れていた。


 かの人物こそ屋敷の主人であり、聡子の兄であった。早くに先代を亡くした彼は十五の年から家長を務めており、以来五年、屋敷の中では絶対の存在だったのである。

 利吉は、自分と然程年の違わぬ青年が屋敷の主人であるということよりも、彼が聡子の実の兄であるということに酷く驚いた。

 二人の様子は、利吉の知る「兄妹」の関係とは余りにかけ離れていたからだ。

 あんなに冷たい目で、妹のことを見るなんて。

 それはまるで、動けぬ獲物を愛でる蛇のような目だったのだ。



「私はこの家から出られないのよ」

 何度となく屋敷を訪れ、何度となく言葉を交わすうち、聡子が時おり寂しげな顔を見せるようになった。その訳を尋ねた利吉に対して、聡子はそう言って自嘲するような笑みを零したのであった。

「あの門がずっと閉ざされているからですか?」

 利吉は思い切って、気になっていたことを訊ねた。すると聡子は少し声をひそめて話し始めた。

「あの門に蛇が描かれているのを知っているでしょう?」

「はい」

「あれは我が家の守り神なのよ。だから門を開くことでそれが割れてしまうのは縁起が良くないって。そんな理由で閉ざされているの」

 莫迦みたいでしょう、と聡子は付け加えた。

「でも私たちが使っている裏口もありますんで、出掛けようと思えば出掛けられるんじゃないですか?」

「駄目よ、お兄さまに叱られてしまうわ。外には不浄が多いからって。それにきっと、どこへ行っても一緒だわ」

 聡子はつと、睫毛を伏せた。

「背中で縛られているの」

 その言葉の意味はよく解らなかった。

 しかし家から出られぬのであればと、利吉は外の話をした。遠い自分の故郷の風習や穏やかな平野の四季、漁港近くの市場の活気——武骨な語り口ながらも利吉の話はどれも物珍しかったようで、聡子はくるくると表情を変えては熱心に聞き入っていた。

 聡子はその中でもとりわけ海の話に興味を示した。

「海……話には聞いても、一度も見たことがないの。どのくらい大きなものなの?」

「そりゃあ、海より大きなものなんてこの世にありませんよ。見渡す限りどこまでもどこまでも拡がっていて、遠い異国に繋がっているんです」

 ほぅ、と聡子は溜め息を漏らした。

「素敵……一度でいいから見てみたいわ」

 そう云って聡子は目を細めた。決して自分の手には入らぬものを、そうと知りながら望むように。その表情に、利吉の心は痛んだ。

 それを知ってか知らずか、聡子はいとけない調子で続けた。

「ねぇ利吉さん、いつか連れて行ってね」

 柔らかな陽光の中で、聡子の笑顔が揺れた。途端、心臓を締め付けられるような甘やかな苦しさにはっとして、利吉はようやく気付いたのであった。

 自分もまた、手に入らぬものを望んでいるのだと。

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