第16話 善意の悪行
ドアを蹴り破って房を抜け出した俺達は混沌とした坑道内を駆け抜ける。≪天使の指先≫の構成員達は爆発によってパニックになり、我先にと無秩序に出口を目指していた。それはまるでおとぎ話に伝わる地獄から抜け出そうと必死にもがく亡者のような姿であり、これこそが生存本能に突き動かされる純粋さの具現に思えた。そして本来招かれざる客でしかない俺達を誰も気にしていない。精々が逃げ惑う人々の流れに逆らって爆発元へと進む愚か者としか思っていないのだろう。
「だーれも俺達の事気にしないんだな」
「誰だって自分の命が大事なんだろ。それにここは放棄するのが決まっていたんだ。今さら執着する奴なんて誰もいやしない」
それにここは元々犯罪組織の秘密工場。雇われている人間も相応に脛に傷を持つ輩が多い。そういう奴ほど命の危機には敏感であり、いざとなれば何もかも見捨てて逃げるのに躊躇などするものか。途中、捨ててあったショートバレルの連装式ショットガンを拾い、目的の首を目指す。
爆弾を仕掛けた工場内は既に火の海と化しており、元から狭く様々な機器がほぼ隙間無しに設置されていたので、爆発が効率的に伝播した事で見事なまでに瓦礫の山と化していた。それに複数の薬品が混ざり合い、さらには炎と反応して鼻をつんざく臭気を漂わせている。どのような薬品か分からないが著しい健康被害が予想される。触れる事もガスを吸う事も止めた方が賢明だ。幾つか無事な貯蔵タンクもあるが、この火災ではいずれ全てを飲み込むだろう。アッシュもそれを分かっているのでハンカチを口元に当てて可能な限り吸うのを避けていた。
瓦礫が埋まる工場跡を可能な限り迅速かつ転ばぬよう注意を払って進み、出口に差し掛かったところでふと思い付いた事があったので立ち止まる。
「おい、何してる?」
「ちょっと保険を掛けておこうかと思ってな」
訝しむアッシュを無視して、壁際の破損した水道管を折り曲げてから出口を挟んで床上15cm程度に水平に浮かべて固定しておく。普通なら気休めにもならない罠だが、万が一の備えとしてやらないよりは良い。
「そんなの俺達が取り逃がさなけりゃいらねーだろ」
「使わないに越した事はないが損はしないだろ?」
アッシュは罠を不要だと軽く見ているが、そういう軽はずみな意識が祟って命の危機を招くと分からないらしい。紡績工場で捕まった事をもう忘れているのか。いつでも誰かが助けてくれるわけでも、幸運が常にこちらの味方と限らない、何事もすべて上手く行くわけでは無いのだから、失敗した時に挽回が効く状況を繕っておくのが命を繋ぐ秘訣だと思わないのか。
とはいえ今回たまたま一緒に行動する事になっただけで、別段アッシュとは仲間でも何でもない。最悪こいつがどこで死んだところでさほど困る物でもないので、これ以上言い争う義理も無い。
手早く作業を済ませて廃墟となった工場を後にした。
研究室の扉は閉まっているがカギは掛かっておらず、扉越しに数人がバタバタと慌ただしく動いている雑音が聞こえてくる。おそらく荷造りに追われている音だろう。という事はまだ部屋に賞金首のクサレ博士が居る可能性が高い。
「アッシュ、お前が扉を開けて俺が博士を仕留める。こういう場合は散弾の方が都合が良いからな」
「まあいいか。けど賞金は山分けだぞ。あとアーティファクト使いは俺の獲物だからな。そこんとこ忘れんなよ」
「部屋に居たらな」
あの博士はともかく単なる雇われ者のあの二人が最後まで付き合っているかは望み薄だ。それにあまり欲張ると寿命を縮めるので居なければ速攻で麻薬組織のボスである博士を殺して死体だけ持ち帰ればそれで最低限の仕事は済む。
互いに目で合図し、アッシュが一気に扉を開けた。
部屋では博士と護衛のライン。それにもう一人白衣を着た若い男がいそいそと部屋の備品や資料などを箱詰めしていた。こちらに気付いた三人はきょとんとして居たが、俺は無言でその中のクサレ博士にショットガンの照準を合わせて引き金を引いた。
距離は10m程度離れていたが、短く切り詰めた銃身によって即座に散弾は拡散して、無数の鉛弾は一人の男に襲い掛かる。亜音速の散弾の運動エネルギーによってひょろひょろの博士は弾き飛ばされ、仰向けになって痙攣する。それを見たラインは咄嗟に机の陰に隠れて、もう一人の白衣の男は悲鳴を上げて手に持っていた資料を捨てて入口へと駆け出した。しかしそれをアッシュは逃がすつもりは無く、胸部を拳銃で撃ちぬいた。若い男は心臓を撃ち抜かれており即死している。紡績工場でもこいつは天井のガス灯を狙って撃ち抜いていたのを思い出し射撃の腕に自信があると見た。
残るはライン唯一人だったが、あれでもアーティファクト使い。幾ら酒浸りの相手でも、リムが手元にない以上は余裕で勝てるとは言い難い。それにグズグズしていると工場からの火の手がこちらへと到達する。最悪、ラインを諦める事も考えねばならない。
「――――――まったく、何も言わずにいきなり銃を撃つなんて。これだから教養の無いならず者は嫌いなんだ」
その声に背中から冷汗が噴き出し、肌が粟立つのを感じた。声の主は先程まで倒れていた博士の物だった。むくりと血まみれの上半身を起こし、続いて首周りを確かめながらしっかりと両の足で立ち上がる。その動きには一部のよどみも無く、まるで痛みも感じていない、どこまでも呑気な声が却って恐ろしさを感じさせる。
博士はボロボロになった白衣を脱ぎ捨て、まるで大好物のお菓子を前にした子供のような笑顔を向ける。
「は、ハカセー、あんた何でそんな平気な顔してんだい、銃で撃たれたんだろ!?」
「ははは、銃で撃たれただけで人は死にはしない。人間というのはねラインちゃん、結構頑丈にできているのさ」
「それにしたってあんたは異常だ。治癒力を高めるアーティファクトでも使っていれば話は別だがな」
「あんなオモチャなんて僕には不要だよミューズ君。なにせこの身体はこの世で最も強い肉体だからさ」
誇らしげに自らの胸に手を当てて、自身の言う最も強い肉体とやらを愛おしそうに撫でる様は嫌悪感を催すが、散弾を無数に浴びても何事も無く過ごせているのを見れば、あながち嘘とは思えない。
「さっき僕が人間の中に眠る現在の科学では解明出来ない超能力と言っていたのを覚えているかい?あれは何も火を生み出したり、天候を操るだけじゃない。一番身近な、自分自身を操る術もその中には含まれているのさ」
例えばこうやってね。
――――――自分の目を疑うというのはこのような現象を目にした時を指して表現するのだろう。それほどに不可解な状況が俺の目の前で繰り広げられている。
「おい、なんだよこれ。なんなんだよ!!ド畜生め!」
隣のアッシュの悪態には全くもって同意する。血まみれの博士の身体が徐々に膨れ上がり、そのたびにブチブチとシャツやズボンが引き裂かれる音が研究室に鳴り響き、床にはシャツのボタンが転がり乾いた音を立てて跳ねて転がる。170cm程度の身長はいつの間にか2mを優に超えており、恐ろしい事にまだ増している。さらにそれに見合う重厚さの盛り上がった筋肉は鎧じみた鋼の装甲になり、食い込んでいた鉛の散弾が押し出されて排除される。手足はまるで丸太のような太さとなり、挙句の果てに何の冗談か頭部には二つの突起が盛り上がり、口にはずらりと犬歯のような鋭い歯が生え揃っていた。唯一元の形を留めているのが瞳だが、理性と知性の象徴であったからこそ却ってそれが暴力的な体躯とチグハグな組み合わせとして、より一層この変貌の禍々しさを強調している。
これではまるでおとぎ話の鬼ではないか。人知を超えた光景に俺を含めた三人は息を呑む事しかできず、それを見たかつて不健康そうな研究者だった生き物は豪快に笑う。
「これが、これこそが僕が確信した神への道なんだよ。この身を以って知る事で、僕は神の存在を知覚した。昔から病弱でまともに筋肉の身に着かなかった貧弱な身体が、まるで神話の英雄のように雄々しく美しくなれるんだ。普通なら何年も血の滲むような鍛錬を積んで、鍛えに鍛えた末に手に入るのに、碌に鍛えもせずたった数分でこれほどの肉体が手に入るんだよ。これを天使の導き、あるいは奇蹟と言わずして何と呼ぶんだい?」
「自分で≪天使の導き≫を使って手に入れたのか?」
「そうさ。随分昔、まだ満足に検体を用意してもらえなかった新人の時に好奇心に負けて僕自身を検体にした。それでこの肉体操作を手に入れたんだ。それからずっと研究を続けているけど、どうにも上手く行かないし、上からは無駄だって研究費削られる。どうして僕という成功例があるのに分かってくれないんだろう」
心から残念だと首を振る怪物に他者への嘲りは含まれていない。あるのは善行と信じた行為を理解してもらえない世界への落胆、悲憤、疑問。この怪物は自己のこれまでの所業を何ら恥じておらず、罪科とも感じていない。徹頭徹尾、人の為だと信じて疑っていなかった。
なまじ自分という成功体験が最初の基準となってしまったがゆえの悲劇。勿論その後の研究や麻薬として流通させた事で多くの人間を死に至らしめた事は今更取り返しがつかない暴挙だが、この怪物は怪物なりに私利私欲に走らず良かれと思って今に至るまで足掻き続けたと思うと余計に救いが無い。
「ふざけんなっ!お前一人が成功しただけで薬はろくに完成してないだろうがっ!そんなんで奇蹟なんて寝言ほざいて神だのなんだの偉そうな事言ってんじゃねえ!てめえはただの化け物で天使でも何でもねえよっ!」
激昂して唾を飛ばしながら、アッシュは博士だった鬼を罵倒する。こいつがどこに怒りを感じているかは分からなかったが、俺と同じく人を辞めた化物を快く思っていないのは理解出来る。そしてこの鬼を生かしておく気は俺にも無い。ならばやる事は一つだけ。
「化け物がこれ以上人の言葉を操るな。そして死ね」
ショットガンの引き金を引き、残る一発を化け物へとぶち込んだ。
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