第8話 月夜に


その晩、

なかなか寝付くことができずにいた朔は、ふと起き上がって夜具を押しやると、榑縁の先へ出た。


高欄に手を置き、空を見上げると、月が夜に浮かぶ雲の合間に淡い光をそそいでいるのが分かる。


その月を眺めていると、心のなかに浮かぶ感慨があった。


自分は何か、大切なことを忘れてしまっている。

それを遠いどこかへ置き去りにしたまま、ここに流れ着き、今も不安定にたゆたっている。




——と、


天啓のように、朔の頭に閃くものがあった。




——私は、も、出ていかなければいけなかった。本当は、そうしたくはなかったのに。



その先を思いだそうと記憶をたどったところへ、闇のなかで、誰かの声がした。





「そんなところにいては、風邪をひかれますよ」



人の気配を感じなかった朔は、危うく声をあげるところだった。

かろうじてとどまったのは、それが聞き慣れた人のものだったからだ。

暗闇にまぎれてよく見えないものの、それは確かにアヤメの声だった。

朔は、声のした方へ向き直った。



「聞きたいことがあるの」


朔は言葉を継いだ。


「母さまは、いったいどんな約束をしたの」



急な問いかけに、

アヤメは少し驚いたようだった。


でも朔も、これ以上何も知らないままではいられない気持ちだった。

小萩と会って初めて、自分がいかに無知だったか思い知らされたのだ。

逃げ出せない上、頼る場所もないなら、せめてここにいる理由を知りたかった。


アヤメがためらいながらも口を開いた時、いきなり誰かが凛とした声で言った。




「お姫さまには、少し無理をさせたようですね」




その声に、

いち早く反応したのはアヤメだった。


アヤメはハッとすると片膝をつき、深く叩頭した。


朔が突然のことにぼうっとしていると、声の主は、暗闇から浮かびあがるように、簀子縁に姿を現した。



垂纓すいえいの冠に紫の直衣をまとい、固紋かたもんに彩られた指貫さしぬきという袴の出で立ちで、口元は優美に檜扇ひおうぎで隠している。


実際にこの目で見たことはなくても、それが男性の格好であることは朔も知っていた。



どうしたらいいのか分からず、おろおろと固まっていると、その人物は穏やかに微笑んだ。



「怖がらないで下さい。女性の単や袿はどうも動きにくくて、必要のある時しか着ないのです」



——ではこの人は、女の人なのだ。



そのことを知って、

朔はうろたえた自分が急に恥ずかしくなった。


しかし、この年まで男性を間近にしたことがないのだから、無理もないことだった。

男装と分からなければ、どこからどう見ても貴公子にしか見えない。



「ここで立ち話も何ですから、東の対の部屋に移りましょう。あなたの母君について、私からお教えします」



そう言って背をむけようとする相手に、朔は思わず後ろから呼びかけた。



「あの、あなたは……」


「ご紹介が遅れましたね。この屋敷の主の、大炊おおいと申します」




——この方が、大炊君。




アヤメと比べても、年の差がどれくらいなのか、まったく分からないのが不思議だった。

とても盛りを過ぎた人には見えない。




——でも、これですべてが聞けるのだ。



そう思うと、朔は浮足立った。


簀子縁から続く渡殿を歩きながら、朔は強い思いに唇を噛みしめた。


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