第7話 小萩


屋敷を出て行く決心を固めて数日、

朔は、未だその場を離れられずにいた。


そして時が経つにつれ、それがいかに無謀な考えであるかも分かってきた。

抜け出そうにも、衣摺れする程長い袿をまとっているため、まずは人目につく。

第一、そんな格好では逃げだすこともできない。


しかも方向感覚がまったく分からない上、

運良くたどり着けたにしても、美袮は朔を歓迎しないだろう。

なぜ帰ってきたのかと糾弾され、また元の木阿弥もくあみに戻るだけだ。



しかし、

ここでいつ来るとも知れない屋敷の主人を、ずっと待ち続けるのも苦痛には違いない。


気が滅入ってふさぎがちな朔を見かねたのか、アヤメが遊び相手にと寄越したのが、小萩こはぎという名前の少女だった。



大人にばかり囲まれて育った朔は、同年代の少女が大層めずらしかった。

朱に染まった頰には丸みがあり、小萩は一見ふくよかな印象の娘だった。

目鼻立ちは整っていないものの、生来の健やかな愛嬌が、目の光のなかにのぞいている。


朔が戸惑いがちに視線を合わせると、小萩は明るい瞳を輝かせた。



「小萩と申します。ひいさま。今日から私がお相手致します」



ハキハキと快活な口ぶりでそう言われて、朔はまごつきながらも嬉しかった。

何より、同い年くらいの友達を、ずっと持ってみたいと思っていたのだ。



「姫さまじゃなくて、朔って呼んでくれる? 私も小萩って呼ぶから」



そう言いながら、

朔は、今まで名前を呼んでくれる人が誰もいなかったことに思い至った。


小萩は、年の頃にふさわしく浅葱色の涼しい汗衫かざみ姿で、童顔のためか、座っているとひいなの人形をどことなく思わせた。




小萩の出現で、朔のふさいだ心も次第に晴れていった。

小萩は、貝合わせや物語にも詳しく、何より気がおけない相手だったのだ。



朔のまわりの大人たちは、皆一様に優しかったが、それは上辺だけのものだった。

その点小萩は、アヤメの斡旋を受けているにしろ、楽しんでここにいるということが、表情や仕草から率直に伝わるのだ。

その気安さは、朔をなぐさめるのに充分なものだった。





「小萩は、どうしてこのお屋敷にいるの」


ある日、

物語の絵巻を幾重にも広げながら、

朔は、仕切られた御簾の内側で尋ねた。


「私は親が早くに死んで、お方さま——大炊君さまにもらわれたのよ」


朔が敬語を使うのを嫌ったため、

自然と小萩も打ち解けた口調になった。


「じゃあ私も、大炊君さまにもらわれたのね」


小萩との共通点を見つけて朔は合点したが、小萩はすぐさまそれを否定した。


「朔の場合は違うわ。だって朔は、お姫さまなんだもの。お母様かお父様が、高貴な方だったのでしょう」


「全然知らないの。母さまは小さい頃に亡くなったし」


「でも、お名前くらい覚えてないの?」


「白珠の更衣、というの。でもそれはただの通り名だし、本当の母さまのお名前ではないのよ」


「白珠の、更衣さま?」


小萩は絶句し、

朔がその不審さに気づく前に、ふるえる声で言った。



「それでは、朔は皇女ひめみこということになるわ」


朔が訝しむと、

小萩は動揺を抑えるためか早口になった。


「更衣というのは、後宮の女官のことよ。女御やお妃に比べれば位は落ちるけど、帝のご寝所にはべることもある。

朔は、帝と更衣から生まれた姫君なのね」




そう指摘されても、朔には現実味が湧かなかったし、それが自分のこととも思えなかった。


更衣という立場が指し示すものはうっすらと知っていたが、直接帝に結びつくとは思わなかったのだ。



帝というのは雲の上の人で、自分にはまったく遠い存在だった。



急な話に呆然としていると、小萩は朔の顔をのぞきこんだ。



「でも、それならなぜこんなところに身をひそめているの。本来なら、たくさんの女房にかしずかれて、御所で暮らしているはずでしょう」


「私、物心ついた時から、大原の屋敷で乳母と暮らしていたの。そしたら、十五になったら迎えが来ると言われて……」


「普通、十五になられた皇女なら、髪上げと裳着の儀式をして祝言を挙げるものよ。御所で暮らせなかった理由が、何かあるのだわ。大炊君さまに聞けるといいのだけれど」



小萩はそう言って顔をしかめたが、そんな風に一緒に考えてくれる人がいるだけで、朔には嬉しかった。


今までこんな風に語れる人は、何せまわりに一人もいなかったのだ。



小萩とこの先もいられるなら、もとの屋敷に戻ろうとする決意も、自然とどこかへ消えていくようだった。


——私は、本当に皇女なんだろうか。小萩の言う通り。



そう言われても、信じられなかった。



朔が知りたいのは、自分がここに呼ばれた理由であり、更衣と呼ばれた母親のことだった。


それさえ知ることができれば、心置きなくここで暮らせる気もした。


胸のつかえがとれれば、もっと身軽になることもできるのだ。



——アヤメに聞いてみよう。彼女は何か知っている風だったもの。



その方が、

ここを抜けだすことよりも、ずっと簡単だと朔は思った。


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