第6話 愛は忘却の彼方に

しばらくして目が覚めると僕は居酒屋の席で酔いつぶれて寝ていたらしい。


「朝日、まだ飲めるか?」


そして聞き覚えのない声で自分の名前が呼ばれて目が覚めたのだということが分かった。


「はい。」


と何となく返事はしたもののその向かい側の男性の顔の輪郭がぼやけてよく見えない。


その向かい側の男性は僕にお酒を注いでくれているらしかった。


僕はその注ぎおわった杯を自分のもとに引き寄せ、自分でも驚くほどにぐいぐい飲んだ。


珍しいことにそれでも不思議と酔っぱらった感覚がしない。


「お前、今何歳になった?」


「31です。」


「そうか…。」


その男性は僕の年齢を聞くと喉に釘が刺さったかのように渋い声を出した。


「あなた、何してるの?」


今度は女性がその向かい側の男性を奥に行かせて僕の向かい側に座った。


その女性の声にも聞き覚えがなかった。


そしてその女性の顔もぼやけてあまりよく見えなかった。


「ああ、朝日と酒を飲んでいたんだ。」


向かい側の男性はそう言ってその隣の女性に酒を注ごうとしたがその女性は


「意地悪ね。私は今妊娠中なのよ。」


と言った。


妊娠中という言葉で僕は向かい側に座っている2人が誰か分かった。


よくよく見るとテーブルの上に置いてある缶の焼酎は墓場に備えられていたものと同じものだった。


どうやら僕の想像している両親はずっと30代で止まっているらしかった。


「そうだ。お前に会いたがっている人がいるぞ。」


「会いたがっている人?」


その向かい側の男性は今度はさっきより若い女性を引き連れて再び戻ってきた。


「やっほー、朝日。元気?」


朝日は持っていた杯を机に置き、その女性の顔をじっくりと見た。


「…彩花?」


「あなたの隣に座っていいかしら?」


朝日はすぐさま席を横に半分ずらした。


「ありがとう。」


彩花らしき女性いや彩花は僕の顔をじっと見てから杯に目を落として言った。


「注いでくれない?私にも。」


「ああ。」


朝日は杯に酒を満たした。


「ありがとう。」


彩花はそう言って勢いよく口に運び、持っていた杯を机にドンと叩きつけた。


「おい、朝日。いつまでグチグチしてんだよ。」


「え?」


「私は死んだんだ。いい加減に現実に戻れよ。」


朝日が返す言葉に窮していると


「ねえ、私の腕時計朝日が持ってたの?」


彩花は僕の右腕を見てそう言った。


「ああ、そうだよ。」


「私の腕時計返してくれないかな?」


「僕が持ってたらダメなのか?」


彩花は頷きその腕時計を奪い取ろうとした。


「やめろって、彩花。」


「私の時計、返してよ。」


朝日と彩花はもみ合いになり朝日が地面に勢いよく転倒した。


その衝撃で時計にひびが入ってしまい指針も動かなくなってしまった。


「どうすんのよ?これ。」


「ごめん、彩花。」


「もう2度と私に会わないで。」


彩花はそう言って店の出口に手をかけようとした時、朝日が彩花の右腕を掴もうとするがその前に視界がどんどん明るくなっていく。


「待ってよ、待ってよ。彩花。」


彩花の姿もどんどん光の中に消えていく。


そして奇しくも朝日の声は届かず意識が現実の方に戻った。


しかし朝日はしばらく目を瞑って彩花に会おうとしたが暗闇が広がるばかりで全く見えてこなかった。


朝日は諦めて起き上がり右腕の痛みが走り右腕を見ると着けていた時計にひびが入っていた。


「おいおい、嘘だろ?」


時間も12時10分で止まっていた。


時計のねじを前や後ろに動かしてみるなりしてみたが固くて動かない。


時計を腕から外すと時計の跡がくっきりと残っていた。


しばらくして僕の目から涙が流れた。


すぐ止まるだろうとは思っていたがなかなか止まらない。


その時はどうして涙が流れたのか自分でもよく分からなかった。






ベッドから起き上がり母に時計のことを相談しようと思ったが昨日のことがあったので言い出せなかった。


朝食はもう既に机に置いてあった。


食べ終わって時間を見ると、まだ時間に余裕があったので駅の近くの時計店に立ち寄って腕時計を預けた。




警視庁に向かうと何故か戸崎が待っていた。


「どうしたんだ?戸崎。」


「あ、あのさ…朝日。実は…。」


「おやおや、朝日君。」


振り返ると仁志さんが嫌らしい目でこっちを見ていた。


「昨日も君、朝日君と一緒にいたよね?どういう関係だい?朝日君。」


「ただの親友ですけど。」


「いやそんなことないだろ。30歳でそんなしょっちゅう会ってる親友なんか見たことないから。でも俺はてっきり朝日君相澤さんのことが好きだと思ってたけどな。」


「僕まだ30になってませんから。それより相澤さんって誰ですか?」


「ほら、朝日君の隣に座っているショートカットの。」


「ああ。」


僕はショートカットとそいつを呼びすぎたあまりどうもその呼び名で定着してしまって苗字への関心が自然と薄れてしまっていたようだ。


「でも違いますから。」


「じゃあやっぱり朝日君は……。」


「僕にはお見合い相手がいるんで!!」


言った時にはもう遅かった。


「お見合い相手?詳しく聞かせてくれないかな?」


仁志さんは鼻の下が伸びて顎をさすっている。


「分かりましたよ。」


朝日は少し呼吸を整えてから言った。


「見合い相手は20代後半の女性です。もういいですか?」


僕はその場を立ち去ろうとしたが仁志さんが自分の体の前に躍り出た。


「いいや、まだだ。その彼女何をしているんだ?」


「ピアニスト兼モデル。」


「何ていう名前だ?」


「確か西園寺…楓…。」


「もしかしてあの西園寺か。」


戸崎と仁志さんは言葉がはもり、戸崎が嫌そうな表情を浮かべた。


仁志さんは戸崎に先に言うよう譲った。


「西園寺って…お父さんが確か有名な茶道家だよね?」


「そうだった気が…。」


僕はあまり縁談相手に興味がないのでいちいち細かい情報を把握してなかった。


「あと…お母さんが確か…あの伝説のアイドルの桜木 凛だっけ?」


「ごめん、僕いちいち把握してないんだ。」


「そっか。」


正直この縁談を譲れるなら戸崎に譲りたいものだ。


「俺はそういうのじゃないんだけどな。悪いが、君席を外してくれないか?」


戸崎は僕の顔を少し見てから


「分かりました。じゃあ朝日、昨日と同じ場所で。」


と言って警視庁の方に入っていった。


仁志さんは人目につかないところに連れ出して言った。


「西園寺家は危険だ。」


「どういうことですか?」


「西園寺家は金を使って数々な事件をもみ消してきた。例えば…敵対していた茶道家を事故に見せかけて殺したとかな。…そういえば思い出したぞ。ずっと引っかかってたんだ、どうして有名な凶悪犯の姉の自殺が公にあまり出てなかったのかを。確か時期が重なってたんだ、その茶道家の事件と。道理で凶悪犯の姉が自殺したことを認知していなかったわけだ。」


仁志さんはすっきりしたのかこの透き通った空と同様にとても顔が晴れやかだった。


対照的に僕はとんでもない事実を知ってしまった後悔とこれからどうすればいいのかという苦悩に頭が押しつぶされそうになった。


「そんな自分で感心してる場合じゃないですよ…。」


「ああ、そうだ。あとは娘さんがいわゆる裏入学をしたというのも聞いたことがある。」


仁志さんは僕の本心を知らないで西園寺家がどんなに恐ろしい存在かというのを嬉しそうに話していた。


本当に無神経極まりない。


「あとこんなのは言いたくなかったんだが………。」


仁志さんはゆっくり息を吐いた。


「多分今回のお見合いが実現したのは朝日君のお父さんと関係あるんだ。」


「どういうことですか?」


「朝日君のお父さんは西園寺家の事件の関与を跡形もなくもみ消してきたんだ。」


「ということは…。」


「そうだ。君が何かあった時に事件のもみ消しを頼まれるということだ。お前のお父さんみたいに。」


だんだん人通りも増えてきたので仁志さんはもう少し声を潜めてそしてさっきより早口で言った。


「とにかくだ、朝日君。この事実を知ったからには適当な理由をつけて断った方がいい。分かったな?」


「はい。」


「ああ、あと育ての親にも知られずにな。」


そう言うと仁志さんは僕の背中を軽く叩いて警視庁の中に入っていった。


仁志さんは僕のために善意のあることをしたと思っているであろうが


たとえ娘さんを脅したとしても裏入学の話が本当ならお父さんを通じて口封じで僕は殺されるかもしれない。


むしろ知らない方が好都合だったかもしれない。





戸崎に言われて竜千秋を取り調べたが約束通り全く口を開かず聞く素振りも見せなかった。


以前よりガードが固くなっているといった感じだ。


取り調べを終えて戸崎が


「どうしたんだろうな、一体。もしかしてお前何か怒らせたか?」


と眉をひそめて言った。


「いや違うって。」


「とにかく竜千秋の口をどう割るか考えなきゃな。」


そう言って戸崎は生活安全課の方に戻っていった。


戸崎の前向きな姿を見ていると胸が苦しかった。


僕は刑法にこれから違反することを反省するどころか開き直って正当化しようとしているのだから。





仕事が終わり時計店によるともう時計は壊れていて直せないと言われた。


そうですかと一言だけ言ってその時計店を跡にした。


何故かあまり失望とか悲しいとか負の感情は起こらなかった。


むしろ時計はまだ直せる可能性があった朝の方がその感情の振れ幅は激しかったかもしれない。


自分でも正直驚いている。


どうしてこんなにあっさりしているのだろうかと。


ただ何となく予期していたのかもしれない。


あの夢の中でもう彩花には2度と会えないのではないかって。


だからあの時涙が流れて心の準備が出来ていたのかもしれない。


壊れた時計を腕につけ何となくその時計を電車に乗っている間ずっと見ていた。


時計を見るといろんなことを思い出す。


バーで初めて彩花と出会った時のこと、初めてのデートの時の思い出、喧嘩が絶えなかった日々。


ただ僕の中ではそれはもう遠い昔話になってしまった。


それはまるで自分の幼少期を思い出す時の感情とよく似ていた。


ぼんやりしていることを他者の話の見聞を基に何となく自分の尺度で形どるみたいな抽象的なものでどこか不安が付きまとうものだった。


それに夢ではあったが彩花の言葉を信じるなら僕に前に進んでほしいのだろう。


夢でなくても彩花なら僕とは対照的な自分より他者を優先する人格者だから前に進んでほしいときっと言うだろう。


それを考えるとあの夢もあながち夢ではないかもしれない。


返って縁談をためらっているのが天国にいる彩花を苦しめているのかもしれない。







家に帰り、母に開口一番にお見合いのことを了承すると言った。


母は驚いて本当に大丈夫なのかと聞いた。


僕は素っ気なく大丈夫だと言って自分の部屋に戻り、時計に


「さよなら、ありがとう。」


と言って引き出しから2番目の所に入れた。


「ご飯できたわよ。」


「はーい。」


僕は一度も引き出しの方を振り返らず下に降りて夕食を済ませ風呂に入り眠りについた。

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