#5

 体育の授業で目眩を起こして保健室行きになったあの日から数日が経過した。

 あれから立夢は突然倒れるということはなかったが、その顔色は日に日に悪くなっていく一方であった。

 流石に自分の体に不安を覚えた立夢は一度、病院へ行って診察を受けた。医者の話だと、疲労が蓄積されて体内の免疫機能やら何やらが弱っているのだろう、とのことだった。対症療法としては、バランスのとれた食事や適度な睡眠を心がけること。もしも精神的問題を抱えているならば、カウンセリングを受けることも視野に入れておくべきである、だそうだ。正直なところ、立夢が大体予想していたとおりの回答であった。

 食事や睡眠に関して、すでに立夢は実践している。しかし、その効果が表れている実感は今のところは無い。ストレスになるようなことで思い当たる節も無い。

 勿論、どちらも本当に無いと決めつけるのは早計ではある。だが、あまり悠長に構えていられないという予感もまた、立夢の胸中で渦巻いていた。このままだといずれはどこぞで動けなくなるか、最悪、死ぬ可能性だって無きにしもあらずだ。四半世紀すら生きていない立夢にとって、それは当然、御免被りたい事態である。この若さでまだ死にたくはない。

(とはいえ、どうしたものか……)

 学校からの帰り道。

 いつもの道を一人、重い足取りで進む立夢。

 なんとか今日も一日生き延びることはできたが、根本的な問題を解決しないことには気も休まらない。立夢の今の心情は、死刑宣告を待つ囚人のそれであった。

 打開できる案が何かないか考えながら歩き、道中にある公園の入り口に差し掛かる。

 そこで急に立夢の視界が揺らぎ、ぼやける。同時にフェードアウトしていく意識。

(あ、やばい)

 と立夢が思ったときにはもう遅い。力の入らなくなった足は糸の切れた人形のように崩れ、倒れる体を支えるものは何もない。

 コンクリートの地面めがけて前のめりに倒れる。

「おっと」

 このまま地面に顔をぶつけるのを待つのみか。薄れる意識の中でそう考えた立夢だったが、誰かが咄嗟にその体を支える。

「大丈夫か、嬢ちゃん?」

 立夢は自分を抱きとめている声の主を見る。

 まだ視界がはっきりとはしていなかったが、声色と体のシルエットから壮年の男性だろうと立夢は予想した。

「とりあえず休める場所まで移動するか……動けるか?」

 男の言葉に、立夢は鈍い頭で頷く。

 立夢は男に支えられながらふらふらと歩いた。長くも短くも感じられる時間を経て、辿り着いた場所で立夢はそっと寝かされた。その後、男が何かを言って離れていったが、肝心の言葉は聞き取れなかった。

 横になったおかげか、幸いにもすぐに体調は良くなった立夢。ゆっくりと上体を起こし、周囲を確認する。

 浅い砂地の空間に、見慣れた遊具やオブジェが建っている。さっき通りかかった公園だ。立夢はその中にいくつか置かれているベンチの一つに腰を預けていた。ベンチには背広の上着が丸めて置かれている。さっきまで立夢が枕にしていた物だ。

「おう、気分はどうだ。良くなったか?」

 立夢は声をかけてきた人物を見る。

 カジュアルな背広を着た男だ。年齢は自分の父より一回りほど年上のように立夢には見えた。顔は歳相応の渋さがあり、ややキツめな目つきが威圧感を与えるが、柔和な笑顔が上手く中和させている。ただ慣れてないのか、ちょっとぎこちない。本人もそれを自覚していることが、口端の僅かな引き攣り具合から伝わってくる。触れないでおこう。

「はい、おかげさまで。ありがとうございます」

 立夢は男が差し出した水の入ったペットボトルを受け取る。自販機から出てきたばかりなのだろう、よく冷えている。

 男はペットボトルの蓋を開ける立夢の隣に座る。立夢はそれを横目で一瞥しつつ、水を一口飲み下した。血の気が引いていた体に鋭い冷感が染み渡り、鈍っていた感覚を引き戻す。

「あ、水の代金……」

「ああ、別に構わんさ。ちょうど財布の小銭を整理したかったんでな」

 財布を取り出そうとする立夢を男はやんわりと止める。至れり尽くせりな感じで申し訳なく思う立夢だったが、こんなことで問答するのも気まずくなるだけな気がしたので、ここは男の好意に甘えることにした。

「……ところで嬢ちゃん。最近、身の回りで変わったことが起きたりしてないか?」

 ちびちびと水を飲んでいる立夢に、男はそう尋ねる。

「変わったこと、ですか?」

「ああ。具体的に言えば、ここ数週間の間に嬢ちゃんに関わる範囲で不可解な出来事や現象は無かったか、ってことだが」

 立夢は考える。不可解なことと聞かれて真っ先に思い浮かぶのは、今の自分自身の体調のことだ。しかしこんなことを言って、果たしてこの男性が望む答えになりうるのだろうか。悩みどころである。

 だが、これについては立夢にとって急を要する案件でもある。駄目元で言ってみることに立夢は決めた。

「……実はさっきみたいに失神しかけたことが少し前にもあって、それからずっと体調が悪いんです。わたしが気づいてなかっただけで、それより前からその兆候はあったみたいなんですけど。ただこうなってしまったことについて、自分では思い当たることが無いんです」

「病院には?」

「行きました。診察した先生には疲労が原因と言われたのでしっかり休養はとったつもりなんですけど、何故か症状は悪化していくばかりで……」

 ここまで話して、立夢は男の顔を見る。

 男は正面を向いて、顎をさすっていた。その表情は、話の前後で変化した様子は無い。

(やっぱり駄目か……)

 立夢は少し落胆する。運命的と言えなくもない邂逅をしただけに、もしかしたら、と淡い希望を抱かなかったと言えば嘘になる。しかし、やはり現実は非情である。立夢も世の不条理を知らない子供ではないので、なんとなくわかってはいた。なので酷く落ち込んだりはしなかった。あるいはすでにどん底に近いところまで落ちていたのかもしれない。

 暗い顔で俯く立夢だったが、その目の前に一枚の紙が差し出される。

 立夢は顔を上げて男の方へ向ける。男は優しい顔で頷き、立夢にその長方形の紙を取るように促した。

 立夢は恐る恐るその紙を受け取る。まさか本当に奇跡が起こって、紙にはこの原因不明の症状を治せる医者への連絡先が書いてあるのでは――。

 しかし、そんな立夢の一縷の希望はあっさり否定される。

 男から受け取った紙には、解読できない厳めしい字のようなものや模様が毛筆で書かれていた。住所や名前が書いてあるようにはとても見えない。

(というか、御札にしか見えない……)

 神社や古い家屋でよく見かける御札と今貰った紙にほとんど差異は無いように立夢には思えた。

(でもこれが御札ならつまり、わたしはオカルトな理由で体調を崩していると?)

 そんなまさか。

「あの、これって……」

「邪気退散の護符、言うなれば御札だな。信じられないかもしれないが、今の嬢ちゃんにはおそらく良くないもんが憑いてる」

 そのまさかだった。

「嬢ちゃんが寝るとき、こいつを近くに置いておくんだ。できるなら肌身離さず持っていた方が良いんだがな。意識のない間ずっと持ってろと言うのも困るだろうし、こんな気味悪いもん持ってたくねえってンならそばに置いとくだけでいい。それでとりあえず症状は和らぐはずだ」

 男は真剣な表情で御札の取り扱い方を説明する。立夢には男がふざけているようには見えなかった。

「初めて会った男にこんな怪しいモン渡されてすんなり信用できるとは俺も思っちゃいない。だから試してみるかは嬢ちゃんの好きにすればいい。俺も無理強いはしない……どうする?」

 一通り説明してから、男は立夢に顔を向けて尋ねる。

 立夢としては男の話はまだ半信半疑だった。しかし、藁にも縋りたい状況であったことと男の真摯な姿勢に押されて、やるだけやってみるのはありな気がした。

「……使わせてもらいます」

「そうか。なら俺もこんな話した甲斐があるってもんだ。それと手間かけさせて悪いが明日のこの時間、使った御札を持ってまたここに来てもらっていいか? 金は要らねえが、邪気に触れた御札の処分は俺がやる必要があるからな」

 立夢と明日また会う約束を交わすと、男は簡単に別れの挨拶をしてその場を離れる。

「あ、名前……」

「ん、俺の名前か? 猿渡さるわたりっつうんだが別に覚えてくれなくてもいいぞ? どうせ、そう何度も会うことはねえだろうしな」

 そう言ってその男――猿渡は上着を肩にかけながら公園を出ていった。

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