#2

 少し時間は進んで。

 立夢は化学室での授業後、使われた実験器具の片付けを化学教師に命じられていた。理由は聞いていないが人選から察するに、出席名簿の上から順に引っ張ってこられたのだろう。

 ちなみに立夢の出席番号は二番。今回選ばれたのは二人。つまり、この場には出席番号一番が存在している。

 立夢は棚に器具を戻している、もう一人の片付け選抜メンバーの方へ目だけ向けた。

 憂沢小春ういざわうらら。発育の良い胸が目を引く反面、内向的な性格のせいでクラス内のグループのどこにも属さず、やや浮きがちな位置にいる女生徒である。さらに言えば、立夢が体育の授業でペアを組んでいる女生徒というのも彼女のことだ。

 小春は先と同じく、黙々と器具を片付けている。作業を始めてから今のところは特別、不審な素振りは無い。

 立夢は心の中でひっそりとため息をつく。まさか体育の時以外にも彼女とペアを組むことになるとは。作為的なものを疑ってしまうくらいだ。

(……まあいいや。とりあえず、さっさと片付けを終わらせてしまおう)

 意図せず深まっていっているような気がする縁について立夢は努めて考えないようにし、背後の机に置かれた残りの実験器具に手を伸ばす。

 伸ばした先で、同じく器具を片付けようとしていた小春の手が接触した。

「あっ……」

 反射的に手を引っ込める二人。

 互いに動作が止まり、なんとなく気まずい空気がその場に流れる。

(なんかこの人と一緒にいると調子が狂うなぁ……)

 悶々とした何かが膨らんでいくのを胸の内に感じて、言葉にならない唸り声をあげそうになる立夢。

 このままだと小春に対して溜まっているものが爆発しかねないと思い、半ば強奪するかのように実験器具を手に取って棚に押し込むという行動をすることで破裂寸前の気持ちをごまかした。

「……あ、えと、その、ごめんなさい……」

 立夢の動きに小春は一瞬、面食らっていたようだったが、我に返ると謝罪の言葉を口にした。彼女のメガネを通して見えた瞳は一点に定まることなく動き続けている。

 立夢は小春の言葉が最初、手が触れたことに向けられたものだと捉えたが、今しがたの己の乱暴な所作を見た小春が不必要な自責の念を抱えてしまっている可能性に気づいた。

「あ、ううん。大丈夫だから」

 軽率な行動を取ってしまったことを反省しつつ、立夢は小春を立ち直らせるためになるべく平静を装いながら微笑みかけた。

 それを受けて小春も安堵したのか、暗かった表情にも明るさが戻ってきたように見える。むしろ立夢が記憶する中で一番ポジティブな顔をしているかもしれない。

(あ、かわいい)

 明るい表情の小春が想像以上に魅力的で、つい素になってそんな感想が浮かんだ立夢。

「――あのっ!!」

 突然、小春が声色強く呼びかけてきた。顔つきも何かを決心したふうだ。

「何?」

 無表情で応える立夢。ちょうど気が緩んだところへ不意打ち気味に声をかけられたので実は内心、かなりドキドキしているのは内緒。

「こ、これをっ!」

 そう言って、小春はブレザーのポケットから手の平に収まるサイズの小包を取り出し、勢いよく頭を下げて立夢に差し出した。

 ころころ変わる小春の雰囲気に気圧されて若干引き気味になりつつも、立夢は差し出された小包を受け取り、しげしげと眺める。

 小包は淡い紺色で巾着袋のような形をしていた。梱包に使われているのは和紙のような質感の物で、立夢からするとこんな小さな包みに使うには大げさというか勿体無いように思える。袋の口は紐で縛られていて中身は見えないが、小包の上から触ってみると豆粒大の硬い何かが入っていることはなんとなく分かった。

「……開けてもいい?」

 こちらに何かを期待しているような目を向ける小春に、立夢はそう尋ねる。その言葉を受けて小春はコクコクと首を縦に振った。

 了承を得た立夢は小包の封を解き、中を覗く。

「これって……」

 立夢は中に入っていた物を確かめるために、小包を逆さにして自分の手の上に落とした。

 ぽとり、と落ちる輪っかになった紐とそれに繋がる猿を模した小さな飾り。

「ストラップ?」

 なぜストラップ。しかも猿。小春の行動がさっぱり理解できず、立夢は小首をかしげる。

 怪訝そうな表情を立夢が浮かべていると、小春も説明が足りていないことに気づいたらしく、慌てた様子で行動の意図を話し始めた。

「あっ、ええっと、う、有楽島さんにはいつも体育の時間にお世話になってるのでっ、あの、そのお礼と言いますかっ」

「お礼って……準備体操でペア組んでるだけでしょ?」

「で、でも、あの、私、友だちと呼べる人がいなくて……そんな私なんかに有楽島さんはずっと付き合ってくれて……それがとても嬉しかったんです。なので……」

(それでストラップをプレゼントて。なんか、想像以上に変な人だな)

 と思いつつも小春は一応善意でやっているようであり、もらって困るようなこともないので立夢は素直に受け取る。

「そう……まあ、くれるって言うならもらうよ。ありがとう」

「いえいえそんな……!」

 小春は俯きがちに首を振った。プレゼントを受け取ってもらえたことが嬉しかったのか、小春の顔に赤みが差している。

「……あの、実はもう一つ、お願いしたいことがありまして」

(まだあるの?)

 とは思っても口には出さず、「お願い?」とだけ聞き返す立夢。

「はい……あっでも、もしご迷惑ならお断りしていただいても全然結構ですから!」

 小春は両手を突き出して何度も振る仕草を交えてそう付け加えた。

「うん、まあとりあえず、そのお願いの内容を聞かせてもらえる?」

 なんとなくこちらから話を振っていかないと小春が本題に入りそうにない予感がして、立夢は先ほどもらったプレゼントをブレザーのポケットに納めながら、話を進めるよう促す。

「あ、はいっ、すみません! それで、お願いというのはですね…… 」

 小春はそこまで言って軽く咳払いし、静かに深呼吸を始めた。

 その様子を見て、立夢は小春が何を言い出すのか、少し不安になる。そんな改まる必要があるような頼み事なのか。

(なんか怖いんだけど)

 緊迫した空気が二人っきりの教室内に充満した頃。

 ようやっと覚悟が決まったのか、小春は居住まいを正し、立夢を真っすぐ見据える。

「私と――お友達になってくださいっっ!!」

 そして、宣言と同時に再び大きく頭を下げ、立夢に向かって右手を伸ばした。

 もはやこの部屋に来てから何度目かもわからない沈黙が訪れる。小春は立夢の返事待ちであるがために。立夢はいまいち脳が一連の流れを把握しきれていないがために。

「……えっ、それだけ?」

「えっ?」

 お願いの内容をやっと理解し、そのあまりの平凡さに思わず聞き返す立夢。そんな返しをされるとは予想外だったのか、小春もまた意外そうな反応を見せる。

「……あの、やっぱり駄目ですか?」

 立夢の怪訝そうな顔を否定と受け取ったのか、小春は心配そうにおずおずと尋ねた。

 それに対して、立夢は首を横に振る。

「いいよ、友だち。なったげる」

 そして、差し出されたままだった小春の手を取った。

「ほ、本当ですか!?」

「うん。そこまで必死にお願いしてるのを無下にもできないし。贈り物までもらってるしね」

 ポンポン、とブレザーの膨らんだポケットを軽くたたく立夢。

 立夢から見て小春はちょっと――否、正直かなり個性的な人物ではあったが、その人となりにはとても誠実な印象を受けた。少し丁寧が行き過ぎているような気もするが、それで迷惑を被っているわけではないし、こちらを立ててくれるのも、俗な話、悪い気はしない。あと他に要望を受け入れた理由を挙げるならば、孤独な学園生活を脱する絶好の機会だったからというのもある。

(……そんな深く考えるようなことでもないんだろうけど)

「……あ」

「ん?」

 小春の方から何かが聞こえたような気がして、立夢は意識をそちらに向ける。視線の先の小春の体は小刻みに震えて見えた。

「あ、あ……」

 小春の発している音の正体を確かめるために立夢は耳を澄ませる。そして、それが小春の口から漏れている嗚咽であると立夢が気づく、と同時に。

「ありがどうございまずううぅぅ……!!」

「うわあ」

 小春は感謝の言葉を震える声で告げると同時に立夢を見上げた。持ち上げられた顔は感極まって、涙やら鼻水やらといった様々な液体でぐしゃぐしゃだった。

「わ、わだじ、ず、ず、ずっどうらじばざんど、おどぼだぢになれだらっでおぼっでで――」

「あー、何言ってるかわかんないけど、とりあえずこれで顔拭いて」

 若干引きつつも、立夢はハンカチを取り出して小春に手渡す。

「ずびばぜん……」

 受け取ったハンカチで小春は濡れた顔をぬぐう。小さなアップリケのついた手巾は水分を吸って、あっという間に全体に湿り気を帯びた。あと僅かにぬめりも。

(……ちょっと損失はあったかも)

「そろそろ片付けは済んだかね……って」

 立夢が気持ちの昂っている小春をなだめていると、二人のいる教室の後方とは反対側、教壇のある方向から声がする。

 隣の化学準備室に繋がる扉を開けて、薬品で少し変色した白衣を纏った男が化学室に入ってきていた。体格は痩せぎすで小柄。髪は薄く、生え際もかなり後退していて、頭部には哀愁が漂っている。眼鏡を通して立夢たちを眺める目には疲労のためか、輝きが無い。くたびれた会社員のような風貌だが、一応この学校で化学教師として勤めている男である。

 化学室の片づけを立夢たちに任せている間に隣室でおこなっていた作業が一区切りついたので、こちらの様子を見に来たのだろう。しかし、間が悪く号泣する小春を目撃してしまい、しばらくぎょっとした表情で立ちすくんでいた。

「どうした。何かあったのか」

「いえ、なんでもないです。なんでも」

「……本当に何もなかったのかね?」

 訝しげに化学教師は二人を交互に見る。

 この光景だけ見ればわたしがこの子を泣かせたように思われても仕方ないよなあ、と立夢は眉根をさらに寄せる。

(こういうのはわたしがあれこれ言うより、泣いている本人が弁明してくれるのが一番良いのだけれど)

「有楽島さんは悪くないんです、先生。私が昔飼っていたペットのことを急に思い出してしまっただけなので……」

 立夢の思いが届いたのかはともかく。いつの間にか落ち着いたらしい小春が自分の涙の理由を説明する。内容はまあ嘘なのだろうが、予想している本当の理由を鑑みると立夢はそのことを指摘しようとは思わなかった。

「……そうか。それならいいが」

 化学教師の目にはまだ疑惑の念が燻っているようだったが、ひとまずこれ以上踏み込む気は無くなったのか、そこで話を終えた。それから数拍置いて、化学教師は二人の元へ歩き出す。

 途中、器具の仕舞われた棚の前まで来ると、硝子戸越しに中を一瞥した。特に何もなかったのか、表情の変化や言葉は無く、そのまま立夢たちの前までやってくるとそこで歩みを止め、流れるように視線を棚から小春、そして立夢へと移す。

 スッ、と化学教師の手が立夢に向かって伸び、その右肩に触れる。

「ッ……!?」

 脈絡の無いその動きにビクンッ、と立夢が身を強張らせたときにはすでに化学教師の手は彼の目の前まで引き戻されていた。手の形からして何かを指でつまんでいるらしく、目を細めてその何かを見つめるとすぐにそれを手の平に載せて立夢に見える位置まで差し出す。

「失礼、埃が付いていた。そろそろ棚の掃除もしないといけないか」

 確かにその手には埃が載っていた。でもそれなら先に一言言ってくれればいいのに、と立夢は早まった胸の鼓動を感じながら心の中で悪態をつく。

「さて。片付けは終わっているようだし、もう教室に戻っても構わんぞ」

 そう言って、化学教師は化学準備室へ帰っていく。

「それとまあ、なんだ……仲良くな?」

「はあ……」

 去り際の化学教師の釘を刺すような言葉に、立夢は釈然としない気分で返事をした。

 化学教師が扉の向こうへ消えると、化学室は再び二人だけの空間になる。

「……何度もすみません」

 先に沈黙を破ったのは小春だった。

「有楽島さんにはご迷惑ばかり……」

「いいよ、別に。今のはタイミングが悪かったのもあるし」

 しゅん、とする小春に立夢はフォローの言葉を投げかける。

「ただ、これからはもう少し落ち着いてくれるとありがたいかな」

「うう、本当にすみません……」

 ペコペコと小春は頭を下げる。

「……えーと。とりあえず教室に戻ろうか?」

 何度も陳謝する小春を見ていると立夢は罪悪感の他に加虐心も湧いてきそうになる。それをなんとか抑えて、立夢は廊下側の扉を開けた。小春もぺこりと頷くと、立夢に続いて化学室を出る。

 こうして紆余曲折はあったが、立夢はこの学校で初めての友だちを手に入れた。

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