山岳地帯


(森林地帯・山火事)


数日をかけて徐々に標高をあげ、森林へと覆われた山脈へと進んできた一行が目にしている大地は、見渡す限りの焼け野原だった。

しばらく前から、焼け焦げた匂いが強く漂ってきていたので警戒はしていたが、尾根を一つ越えたところで実際にそれを目にしてみると、その破壊の跡は凄まじく、広範囲に渡って生命は何一つ残されていないように思える。

以前は鬱蒼とした森林であったろうその山肌は、焼け焦げた剥き出しの地面に変わり果てている。地面から無数の焼けぼっくいだけが突き出ている様は、まるで見渡す限りに黒い墓標が立ち並んでいるかのようで、二人の人類にとっては、ぞっとするイメージを呼び起こす。

大きな焼けぼっくいの中には、まだうっすらと煙を立ち上らせているものも散見できた。


「やはり山火事だ。しかも新しい。数日以内に起きたばかりだろう」


「まだ煙が出ているところも沢山あるな。昨日の雨でようやく鎮火したのかもしれん」


「山火事自体が雨を呼び寄せる場合もあるそうね。強い上昇気流と煙に含まれる灰燼が雲を生成するのだそうよ。一種の自己消火機能って言えるかも」


「自然発火ならいいが、この前ワイトが言っていたように、メイルの攻撃で起きた火事だとすると物騒だな。ここに生息していた生物たちにとってはいい迷惑だろう」


「でも、もう何百年も繰り返されてるんだ。燃えやすいところは、とうの昔に燃え尽きてしまっている気もするね」


「メイルの数がずっと増えてないならな」


「ああ、そうか。密度が増えれば単純に戦ってどちらかが破壊されるだけじゃなくて、徐々に周辺に追いやられる個体も出てくるだろうな。そういうメイルが増えれば、それまで平和だった周辺部でも新たに戦いが起きるようになるかもしれない」


「しかしワイトは、しばらく前にM.A.I.N.がメイルの新規配備を中止してエイムへ切り替えたと言っていただろう?」


「ああ、だから増えているのはエイムの方だね」


「私は思うんだが、そうだとすると徐々に周辺に追いやられていくのはメイルの方ではないかな?」


「どうして? メイルは大抵の場合、エイムには負けないと思うけど」


「エイムは躊躇しないし負けそうでも引くことを知らない。その分、メイルにとっては容易い敵で、負けることはめったにないかもしれんが、ぎりぎりの勝負のときに避けるのはメイルの方だ。エイムは決して避けない。

そうすると、エイムの数だけがどんどん増えていくならば、ちょっとした退却や身を隠す行為の積み重ねで、本人たちも気付かないほどわずかづつ、外縁部へ追いやられていくような気がする」


「うーん、そういうものかな...」


ワイトも口を挟んだ。


「恐らくオマルの考えは正しいだろう。メイルの方がベースの知力が高い。だから、自分を守るために身を引くこともできる」


「昔のオマルみたいに」 ジャンヌが横から茶々を入れる。


「私にもジャンヌほどの知力があれば、アクラに見つからないような隠れ方ができていたと思うのだがね」


ワイトは二人のやり取りを気にせず続けた。


「普通の生物ならエイムはすぐに絶滅してしまうだろうが、メイルと違ってM.A.I.N.がエイムの供給を続けているから数を減らすことはない。逆に追いやられたメイル同士が出会う頻度は上がるので、沿岸部でのメイル同士の戦いも増えていくだろう。その結果、エイムにやられずともメイルは同士打ちで数を減らしていく。いずれはすべてのメイルをエイムが駆逐すると考えられるし、M.A.I.N.はそれを予定しているだろう」


「またしても殺伐とした話だな...いまの僕らにとってメイルは敵ではあるけれど、放っておくといずれは滅んでしまう敵か」


エミリンはその会話を聞いていて、またしても複雑な気持ちになる。アクラは人類もメイルも助けたいと思っているけど、アクラが助けたいそのメイルたちも、いまは敵でしかない。

ジャンヌは咄嗟に話題を切り替えた。


「とりあえず、このルートを進むしかないでしょう? しばらくは身を隠す木立もないけど、熱源はあちこちに散らばっているし、環境中の炭素が多すぎて色々な反応もむちゃくちゃになってるから探知されにくいとも言えるわ。それに、この焼け野原の周囲はともかく、中に入れば無事なメイルはいなさそうね」


「まぁジャンヌの言う通りだろうね。ワイトの言う山脈越えのコースへ行くにはここを通り抜けるしかないし、むしろ踏み込んでしまったほうがいいだろうから勢いよくいこう」


一行はアクラを先頭に、ワイト、ジャンヌとフギン、エミリンとムニン、エイトレッグの隊列と続いて、しんがりをオマルが務めて進んだ。

ジャンヌがぽつりと言う。


「私も山火事の危険は理解していたつもりだったけど、もっと高緯度地方での戦い方を考えなければいけなかったわ。爆装したドローンに乾燥地帯の森林で戦わせるなんて、生態系を考えれば狂気の沙汰よね」


そのまま4マイルほど進んだところでアクラが立ち止まった。何かを感じ取ったようだ。


「エミリン、ドローンを前に飛ばそう。動きはないけど何か気になる」

「オッケー。ちょっと待ってて」


エミリンはとりあえず後方警戒に回していたドローンの向きを変え、一同を追い越して前方に進ませた。念のために二機目も誘導弾を抱えた機体をムニンの背中から発進させる。


「あ...金属集積反応と電磁空間ノイズがある。反応はメイルっぽいけど全く動いてないわ。周囲に熱源がありすぎてエネルギー反応はよくわかんないな」


「僕が見に行ってみるよ。みんなはここで少し待ってて」 


アクラはそう言って走り出した。


やがて、そのままの位置で待っていた一行のトーキーにアクラの声が響いた。


「やっぱりメイルがいたよ。ただし、もう脅威ではないと思う。こっちに進んでも大丈夫だ」


焼け焦げた丘を二つ越えて2マイルほど進むと、佇んでいるアクラの姿が見えた。その足下には何か大きな塊がある。倒れたメイルのようだ。近づいてくる一行に、アクラが事情を説明した。


「僕が倒したんじゃないよ。最初からずっとここにいたんだ」 


確かにエミリンのドローンも移動体はまったく検知していなかった。


「火事に巻き込まれたらしい。まだ...死んではいない。もう動けはしないと思うけど」


近づいてみると、その焼け焦げたメイルは一同に背を向けた姿勢で横たわっていた。背中の破砕弾のハッチはすべて開いていて中は空だった。

アクラとそのメイルは、メイル語で少しやり取りをしていたようだ。オマルがそれを聞いてエミリンとジャンヌに説明してくれる。


「スピーカーが熱で損傷を受けていて発話がひどい。アクラも聞き取りに苦労している。だがこちらの声は聞こえているようだし、簡単だが会話も成り立っているようだ」


「敵にやられたの?」


「やはり戦闘があったそうだ。その際に双方が撃った破砕弾が火災を引き起こした。彼は敵を倒したが、ここで炎にまかれ高熱で動けなくなって損傷したらしい。残りの破砕弾は、誘爆を避けるために自分で全弾発射したそうだ」


オマルはそれに自分の所見を付け加えた。


「知性回路はかろうじて生きているようだが、もう移動はできないな。センサーもほとんど損傷しているし、仮に頭をこちらに向けていたとしても、恐らくレーザーポートも使えんだろう」


「非常に珍しいケースだと思われるが、動けないとしても、電力が供給されている間は思考を維持することはできる」 


ワイトは端的な事実だけをコメントする。


「助ける方法はないの?」 なぜかエミリンはそう質問していた。


ジャンヌが驚いたようにエミリンの顔を見る。

だが、誰も『なぜ?』とは言わない。エミリンが思わずそう言った根元にある心情を、みんな理解しているからだ。


「難しいな。まだしばらくはエネルギーも持つとは思うが、どうやっても動けないだろう。ここはリエゾンの補給路からは遠く離れているだろうし、たとえリエゾンのメンテナンス機能を使っても、彼は修復できないだろうと思う。仮にどうにかそこまで行ってエネルギーパックを交換してもらったところで、あっという間にほかのメイルかエイムの餌食になって終わりだ」


「そっか...そうよね。無理よね」


通りすがりに偶然出会ったメイルに過ぎなかった。

そして、恐らく健在であれば、彼らに向かって問答無用で攻撃してきたに違いない存在だった。だがいまは回復不能な傷を受け、無力だ。

エミリンは、なぜ自分がそうしたいのかわからないのに、彼を助けてあげたかった。


一同が押し黙ったままでいると、アクラが彼に何かを話しかけた。

会話がされているようだが、なぜかオマルはそれを通訳してくれない。驚いているようでもあった。


そしてアクラは数歩後ずさり....レーザーを放って彼の頭部を切断した。


「アクラっ!」思わずエミリンが叫ぶ。


「これは彼の望みだエミリン」 

オマルが落ち着いた声で説明した。


「彼はほとんどのセンサーを失って何も見えない状態だった。動くこともできず、見えるものもなく、暗闇の中でようやくアクラの声を聞いたんだ。そして彼に頼んだんだよ。自分を終わらせてくれと...彼は自分の修復が不可能だと理解していた」


「そんな...」


「アクラは彼を救ったんだよ、エミリン。彼を出口のない絶望から救ったんだ」


「救いか...きっとそうだな」 


ようやくワイトが口を開いたが、いつも饒舌な彼らしくもなく、言ったのはただそれだけだった。


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(山岳地帯・山上湖)


山火事の爪痕はおよそ10マイルにも及んでいた。大きな川に出会って、そこでようやく塞き止められたようだが、あの雨がなかったら、さらに川を越えて燃え広がっていたのかもしれない。


アクラは、あの火災で破損したメイルとの出会いのあと、ずっと無口な状態が続いていた。


戦闘でも防衛でもなく、彼の『自殺』に応えたことについて、彼なりに思うところがあるのだろうと、エミリンもあえて触れなかった。


一行は焼け跡を抜け出ると、そのまま大きな川の岸伝いに山脈に向かって登っていき、山上湖にたどり着いた。


生まれて初めて、山あいの湖というものを見たエミリンとジャンヌは、その光景の美しさに旅の疲れも忘れて息を飲む。


青い水をたたえた水面は時折そよぐ風にさざ波を立てるだけで、ガラスのように澄み切って見える。そこには、これから一行が向かう山脈の姿が逆さまになって見事に写り込んでいた。


湖の形状はほとんど円に近く、湖水のぎりぎりまで木々が迫っていた。周囲には深い森が茂り、鳥や動物たちの気配も多い。


これまで通り抜けてきた平原部とはまったく違う意味で、内陸に来なければ決して見ることのできない光景であることは間違いなかった。


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(山上湖・メイル)


彼は、奇妙な一行が湖の縁を迂回して行進していく様子を暗い穴の奥からじっと眺めていた。


彼のいる場所は自然にできた洞窟だ。

彼はそんなことは知らなかったし、気にしてもいなかったが、ちょうどいい隠れ家だった。


彼のボディが納まっても十分な余裕があり、しかも内部の岩が奇妙に激しい凹凸を持っているせいか、それとも岩の材質のせいか、電磁ノイズもほとんど周囲に放散しない感じがする。


つまり彼は、自分は周りから見られない場所にいながら、遠くまで見張ることができているはずで、そのことが妙に気に入っていた。

ここにこうして座っているだけで、安心して縄張りを一望に見渡せる。


だから彼はここにいることが好きだった。


いま、湖の縁を縦一列になって動いている集団は、彼がこれまで見たことのないものだった。このあたりのエリアに来てだいぶ経つが、あんな集団は見たことがない。


いや、そもそも集団でいるエイムやメイルなど見たこともなかった。しかも、メイルとエイムが混じっているし、エイムともメイルとも言えないような見たこともない奴までいる。

すべてのメイルは敵だし、すべてのエイムも敵だ。


そういう意味では、あれは敵の集団なのだが、その敵が『集団でいる』と言うありえないはずの事実そのものが、彼の心に大きな不安を呼び起こした。


なぜ、やつらはあそこでお互いに戦っていないのか? 


変な武装を背中に乗せている奴もいるし、戦いあいもせずに一緒に静かに移動している理由がわからない。


あのこんもりと盛り上がった武装はどのような兵器なのだろうか? 

もし攻撃を仕掛けたら、全部一斉に反撃してくるのか? 

それとも誰も反撃してこないのか?


その姿も変だ。光学的にははっきりと見えているのに、電磁的には奇妙にぼやけてまるで透明みたいだ。


彼は十分に用心することにした。


いったいあれは何なのか? 

何日か前に低地の方が燃え盛っていたことと、何か関係あるのだろうか?

なぜか、それは突き止めなければいけないことのように思えた。


彼はその奇妙な隊列が湖畔を通り過ぎた後もしばらくじっと考えていたが、この未経験の事態を処理すべく、やがて静かに動き出した。


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(山岳地帯・尾根)


山上にある湖のほとりに沿って反対側まで周ったあと、そこからはかなり直線的に斜面を登って山脈の尾根筋に出た。


振り返ると、眼下では周囲を深い森に囲まれた山上湖がきらきらと輝き、その丸い水面の姿が、エミリンの心に、一瞬ムーンベイを思い出させた。


エミリンは、いましがた自分たちが登ってきたルートを振り返って見ながら、ムニンの背中に座って運んで貰っているからいいようなものの、自分の足でこの急斜面を登ってこいと言われたら卒倒しそうだと考える。 


いや、果たして登りきれただろうか? そもそも沿岸部にしか居住していない人類にとって、「山脈」という規模の高地はなじみがない。


ワイルドネーション好きのエミリンにとってもシティ暮らしの頃には、遠くに見える山並みは立ち入り禁止エリアの象徴に過ぎなかった。


ワイトも、さすがにこの先は山を下りるまでメイルやエイムに出会うことはもうないだろうと考えているようだ。


「ここからは尾根伝いに進んでいくのがよいと思う。ほとんどが岩場だが、中には雪と氷に覆われた場所にも出会うかもしれない。そういう場所は非常に寒いと同時に、滑りやすくて足場が悪いいそうだ」


「そうなの?」


「私も実際に経験したことはない」


「まぁ、それはそうよね。で、そこをどのくらいの距離進めばいいのかしら?」


「26マイル進めば、最も標高の高い場所に到達できる。峠を越えるという意味で。そこからは、M.A.I.N.の本拠地がある平原地方が遠くに見えるはずだ」


「とうとうM.A.I.N.の居場所を目で見える場所までたどり着いたってことね。ここまでは上首尾だったわ」


「その通りだ。そして、ここからしばらくは、敵よりも天候や地面の状況の方が進行を妨げる障害になる。足を滑らせて高所から落ちれば、数百ヤードの転落も当たり前だ。それはジャンヌやエミリンはもちろん、メイルのボディでさえ耐えられない衝撃だろう。また、樹木のある場所よりも上では風が強く気流も安定しないから、ドローンを飛ばすことは昼夜を問わず非常に難しいと思われる」


「メイルもエイムもいないでしょうから痛み分けってところね。それよりも、オマルやアクラの体重では足もとの方がよっぽど心配だわ」


「その通りだジャンヌ。人間でも苦労するだろう」


そして一行は静かに稜線へ向けて登り始めた。

進むにつれて地面はひび割れた岩が主体になっていった。ごつごつとした大きな岩が転がる間に、その隙間で風を避けるようにねじ曲がった背の低い樹木が張り付いている。


植物と呼べる存在はその程度で、獣はおろか上空に鳥の姿さえも見えない。


次第に斜面の角度が急になっていき、それに従って歩行スピードを落とさざるをえなくなっていく。

このペースでは、26マイルといっても二日で走破できるか微妙なところだ。


風もどんどん強くなってきていた。

いまではジャンヌもエミリンも、ジャンヌの縫ったステルスケープにしっかりとくるまってフギンとムニンのシートにうずくまっている。

ここまでの旅で、フギンの背負っている荷物はだいぶ減っていたが、まだ背中からの風よけには十分だった。


四時間ほど登ったところで稜線に出た。


山の向こう側との境目ではあるものの、まだ通り越す上での最高地点ではない。

もう一つ隣にある山に邪魔されて、その向こうにあるはずの中央平原もまだ見えなかった。

空気が冷たい。そして気のせいか薄いという感じもする。

ジャンヌとエミリンは、わずかにめまいを覚え始めていたが、お互いにそれを自分だけの問題だと思って口にはしなかった。


足場はますます悪くなっていき、うっかりしているとメイルの大きな脚部でさえ、尖った岩と岩の隙間にはまりこんで足を取られそうになる。


どう足掻いても明るいうちに峠を越えることは難しそうに思い始めたエミリンは、前を歩くフギンというか、フギンに乗っているジャンヌの姿勢が少しふらついていることが気になっていた。


アクラが、ずっと押し黙ったままのジャンヌとエミリンを気づかって提案した。


「ジャンヌ、このペースで進んでいる以上、峠を越えるのは時間がかかるだろう。僕は無理をせずに、できるだけ明るいうちに平坦な場所を見つけてキャンプしたほうがいいと思う。みんなで一緒に固まっていられる場所があるなら、少し高度を下げてもその方がいいんじゃないかな」


稜線は狭く、ほとんどの場所では二体のメイルが横に並んで進むことさえ難しい。

シルエットの浮かび出る稜線上に縦一列に並んだままで止まってしまうのは、万が一の敵との遭遇を考えても、あるいは二人の人類の防寒を考えても、どちらにしても得策とは言えなかった。


「そうね。私たちも結構きついかもしれない。少し平衡感覚がおかしくなってるみたいなの。頭も痛いわ」


「え、ジャンヌもなの? ほんとは私も少し頭が痛い」


「恐らく気圧が低いせいだろう。ここは沿岸部よりも0.2気圧は低い」 


それがワイトがセンサーでリアルタイムに計測した値なのか、知識として持っているものなのかエミリンには判別できなかったが、なんであれ不調の原因がわかったことで少しほっとした。


「きっと寒さだけじゃなくて、そのせいね。早めにキャンプするのは大賛成よ」


進むにつれ、岩と岩の隙間に白いものが見えるようになってきていた。真夏だというのに、岩影にある雪が解けずに残っているのだ。

この分ではシェルターを張らないと夜を過ごすのも難しそうだった。


その時、一番狭くなっていた場所で、フギンの踏んだ岩が突然崩れ落ちた。


エミリンの目の前でフギンが姿勢を崩し、谷底へ向けて斜めに体を滑らせる。かろうじて右側の足だけで体を支えているが、あと少しバランスを崩せば谷底へ真っ逆さまだ。

フギンが次の動きを判定できずに体を硬直させているように思える。


「ジャンヌ、右の岩の上に飛び降りるんだ!」 後ろからオマルが叫んだ。



だがジャンヌはフギンから降りようとしない。

「頑張ってフギン! しっかり踏ん張るのよ! 左手でそこをつかんで! その岩をつかむの!」


ジャンヌに叱責されて、フギンが左側の前脚をそっと突き出した。そのままマニピュレーターを展開させて岩角をつかむ。


「そうよフギン、ゆっくり体を持ち上げて。真上によ。横にずれちゃダメ、いいわね。そうそう、そのまま上に...いいわよフギン」


フギンがゆっくりと体を持ち上げていく。


徐々に体勢が起き上がり、やがて浮いていた後ろの足も地面をつかんだ。

静かに稜線上に体を押し上げて体勢を水平に立て直す。


助かった。


「うん、偉いわフギン。良く頑張ったわね」 ジャンヌがフギンのボディを背中の上からぽんぽんたたきながら褒めた。


すでにエミリンは、途中からボロボロ涙をこぼしていた。


「ああああ、ジャンヌー、もう、心臓が止まるかと思った...」


ジャンヌが答えた。


「アクラと出会って以来、何回心臓が止まりかけたかしら? もう数えるのもやめちゃったわよ...でも、さすがにいまのは私も肝が冷えたわ」


オマルが言う。


「なぜ飛び降りなかったジャンヌ? 助かったから良かったが、いまのはかなり危険な状態だったぞ」 


「だって...あそこで私がフギンの背中を蹴って飛んでたら、きっとフギンはバランスを崩して落ちてたわよ?」


「まあ...確かにそうだったかも知れんが....」


それでエミリンは、ジャンヌが自分一人が確実に助かるよりも、フギンと一緒に助かる可能性に賭けたことを理解した。

フギンの背中の荷物を失っても、すぐに行動ができなくなるわけでもないし、二人でムニンの荷台に乗っていくこともできる。


だから、あそこでフギンを失うまいとしたのは生存率を上げる上での合理的な判断ではなく、ジャンヌの気持ちの問題でしかなかったはずだ。


一行はフギンの踏み抜いた場所を慎重にかわし、狭くなった場所を通り抜けた。

念のためにエイトレッグも一台ずつ目視で確認しながら通過させる。確かにこのペースを続けていたら、今日中どころか二〜三日かけてようやく着くかどうかというところだ。


風は尾根の左から吹きつけてきている。右側に少し降りてキャンプサイトを探せば、少しは風をかわせそうだった。


太陽が水平になり始める頃、ようやく稜線から200ヤードほど下に少し窪みになったガレ場を見つけることができた。

周囲の岩から崩れ落ちた小さな岩が積み重なったことで、若干とは言え少し平坦な空間が生まれている。


これ幸いと一行はそこへ降りていき、キャンプサイトを張った。


例によってフギンとムニンに並んで体を降ろしてもらい、その狭間の空間に細いパイプを使って布製のシェルターを組み立てた。

見た目は頼りないが、雨風を避けるには十分な機能がある。

地面がごつごつしているので、予備のマットも全部持ち出して敷き詰めた。


まだ少し頭痛はするが、だいぶ良くなってきた気がする。

二人はヒーターでお湯を沸かし、温かい食事をとった。エミリンはあまり食欲がなかったが、ジャンヌに強く促されて頑張って食べる。


『寒さが厳しいときは嫌でも高カロリーなものを沢山食べておかなきゃダメ』だそうだ。しかも、『疲れを感じたときにはもう遅い』と脅かされて、油分と炭水化物たっぷりの食事になった。


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食事の後は、すぐにシェルターに入って横になった。のんびり景色を見ていられる場所でもないし、何より寒い。

エミリンは満腹と疲れで眠くなったが、食事中に聞き損ねたことを、一つだけジャンヌに尋ねた。


「ねえジャンヌ、ジャンヌはいつからフギンとムニンのことを『可愛い』って思うようになった?」


「そうねえ...いつ頃かしら。最初に見たときは心臓が止まるかと思ったわよ。一瞬、アクラが狂ってたらどうしようって思ったもの。でも、遠征キャンプの造成で、色々な土木作業をやってもらってるうちに、だんだん意思も通じるようになって、背中にも乗せてもらえるようになって...」


「うん、二人の背中に乗れるようになった頃から、私もかなり印象が変わった気がするなあ」


「ええ、だから私驚いたわよ。エミリンがワイトに、人類は家畜の飼育を禁じていますって断言したときは」


「え、なんで?」

「だって私たち、あの時フギンとムニンの背中に乗ってたのよ?」


「うん?」


「つまり私たちにとってフギンとムニンって、まるっきり昔の人類が家畜にしていた馬とか牛とか、そんな感じになってたでしょ? 確かにフギンにもムニンにも脊椎はないけど、それなりの知能も自我もあるし、これって家畜扱いじゃないのかなーって。ね」


「うわああああああああ、言われてみればそうだ! ああぁダメだ、どうしよう恥ずかしい。私、何偉そうなこと言ってたんだろう! やだ、恥ずかしすぎる!!!」


「まぁ、そこまで気にしなくていいわよ。っていうか考えすぎよ。ワイトだってまったく気にしてないと思うから」


「そ、そうかな? そうだったらいいけど。あ、でも、ダメだ。フギンとムニンに謝らないと」


「謝ってどうするのよ? そんなこと気にするより、ただあの二人には優しくしてあげてればいいのよ」


「....ううう、なんか自分が情けない...うん、でも二人には優しくするね」


「だから、そんなに気にすることじゃないわよ。それに、あなたはいまでも十分に優しいわ。きっと彼らもあなたのことが大好きよ」


「だったらいいけど....」


「私もね、昔の人間が『ペット』という存在を持ちたがったわけが、少しだけわかってきたの。フギンとムニンを見ていると、『守ってあげなきゃ』って気持ちになるもの。

もちろん、彼らの方が本来なら全然強いことは承知しているし、彼らの知力が低いと見下しているわけでもないのよ? 

それでも、いまの状況で彼らがアクラやオマルの庇護下を出たら、そう長生きできないだろうって言うのも事実だと思うの。だから、なんとかして守ってあげたいし、できることなら彼らが自由に生きられる世界にしてあげたいとも思うのよ」


「そうだね、私もそれは思う」


「私は、あの二人があなたに貰ったビニールボールで遊んでいるのを見たときに、色々なものの見方が変わったのかも知れないわね。フギンとムニンはペットなんかじゃないわ、私たちの友達よ」


「そうね、ジャンヌ。私たちは強い友達の背中に乗せてもらってるんだわ」


「ええ、いまはそれでいいと思うの。M.A.I.N.を止めることができたら、きっとあの二人の未来も考えることができるわ」


「うん...」 


エミリンは枕に頭を預けながら、フギンとムニンの未来という言葉に思いを巡らせてみようとしたが、疲労であっという間もなく寝ついてしまっていた。


「未来を変える力は知性体のもつ権利でもあるけど、同時に義務でもあるのよ、エミリン。知恵を持つものにはそれを役立てる義務もあるの」


ジャンヌは静かな寝息を立て始めたエミリンの顔を見ながら、独り言のように静かに言う。

そしてジャンヌ自身もそれから程なくして、すっと眠りについていた。


その翌朝、エミリンはフギンとムニンに対して一生懸命に謝っていた。

アクラやオマルやワイトの聴力であれば、昨夜の会話は聞こえているはずだが、何度も繰り返しフギンとムニンの頭部に抱きついては語りかけているエミリンに、なぜか誰も、途中で口を挟みも、ジョークで茶化しもしなかった。


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