山間
(谷筋・キャンプサイト)
それからの旅は、しばらくのあいだ単調なものだった。いや何ごともなかったのだから単調ではなく順調だったと言うべきだろう。
エミリンがドローンを先行させて警戒し、もしもメイルやエイムの気配を察したら、そのまま動きを止めて通り過ぎるのを待つ。
もしもこちらに向かってきそうだったら、山際に逃げ込んで姿を隠す。
進むときはオマルとアクラが交互に先頭としんがりを勤めて万が一の戦闘に備え、足場の悪い場所ではオマルが先行して通り抜けやすいルートを探しながら進んでいく。
夜は熱源を探知されにくそうな込み入った岩場や谷筋の窪地を探してキャンプする。
その繰り返しで、この五日間は一発のレーザーも誘導弾も撃たずに進んできていた。
ここでもリエゾンの主要補給ルートの一つを横断したが、今回はリエゾンそのものを見ることもなかった。やはり、緯度を上げるにつれてメイルやエイムの配備数は減っているように感じる。
ワイトが言うように、そもそものメイルの配備目的が、人類を岸辺から追い返すための『コーストガード』だったとしたら、ほとんど人類の訪れることもない高緯度地域の内陸に大量のメイルを置く理由もない。
適当な数のワンダラー/パトロールでも徘徊させておけば十分だろう。
進むにつれ、段々と標高が上がってきていることが植生からもわかる。
周囲に木々が増えてきた。
ムーンベイを出発してもう二週間以上が過ぎ、季節は真夏だというのに、夜は袋状のシーツに入らないと明け方は寒さで目が覚める。
寝ている間の暖房器具はジャンヌしかないので、エミリンはほとんどジャンヌにくっつくようにして夜を過ごしていた。
そろそろ、面倒がらずに布製のシェルターを毎晩組み立てないと過ごせなくなりそうだった。
フギンとムニンに狭く並んで地面に座って貰い、その体と体の間にできた溝のような空間で過ごせばかなり風を防げるし、食事用のヒーターも気軽に使えるのが救いだ。
エミリンとジャンヌは、ヒーターを間に挟んでそれぞれフギンとムニンを背もたれにして寄りかかり、暖めたパッケージから夕食を口に運んでいた。
「ねえ、ジャンヌ。この前ワイトが教えてくれた、人類がプロパガンダ? なんていうのかな宣伝? に影響されて女性化社会を受け入れたって話だけど...そういう方法ってセルの指導者が思いついたことなのかな?」
「いいえ、思想統制っていうのはかなり古い発明ね。それに、それをどこまで気にするかは程度問題にすぎないし。
社会を平穏に保つためには、ある程度の思想誘導は避けられないという見方もあるわ。もちろん異論はあるけど」
「そうなの?」
「例えば、セル社会の常識でいえば、法律は守るべきです、人は助け合うべきです、美しくない振る舞いはすべきでありません、とかね。じゃあ、それはどうして常識になっているのかってことよ。
少なくとも野生動物の本能ではないでしょ?
でも、社会を発達させる中で、その社会の構成員が同じ考えを持つようにすることは必要だった。それで『常識』という概念を同時に発達させたの」
「うー、当たり前すぎて、なんでそれが当たり前かなんて考えたこともなかった...」
「でも、常識っていうのは、それに沿わないものを排除するシステムでもあるのよ。多数の平穏のために少数の異端者をパージすることは是認されるわ」
「大勢で少数派を追っ払うことが正しいっていうの?」
「どうして警察があるのかって話よ? 滅多に必要とはされないけど」
ふいにエミリンは、マッケイシティにいるエスラのことを思い出した。
彼女は時々ボランティアで警察官をしている。
警察の仕事はボランティアで十分になり立つ内容ではあったけれど、必要ないというわけでもなかったし、第三者の仲裁を必要とする人々もやはり存在はしていた。
「共通のルールを求める多数派が全員をそれに従わせるか、あるいは、それに従わないものを追い出すか...それが『社会性』そのものなの。
要は社会性っていうのは、『個人』の好き勝手と『全体』の利益を、どうやってバランスするかっていうテーマよ」
「ずいぶん昔、アクラと似たような話をしたことがあるなぁ...。アクラは『人類の言う生命の権利と淘汰は相容れない概念だ』って言ったの。誰かが権利を得れば、誰かが権利を奪われて、その場所から淘汰されるって」
「その解釈は正しいと思うわ。
だってワイトの言うように競争は生命の本質だもの。単に、その競争の単位をどこに置くか、という問題にすぎないわ。
個体か、遺伝系列か、社会集団か、種族そのものか、単位のボリュームが大きくなるほど、欲求も権利も平均化せざるを得ないでしょうね」
「じゃあ、何が正しくて、何が悪いかを決めるのは人数次第ってこと?」
「まぁ身も蓋もないけど、そういうことになるわね。絶対的な基準を設けることは不可能なのよ」
少し離れたところにいるワイトはさっきから一言も口を挟まずに、興味深そうに二人の会話を見守っている。
「えー、なんだかそれって...それこそ前にジャンヌが言ってた『正しいけど愛のない』感じだわ」
「ふふ、そうね。だから何をするにでも、自分を『正しい』だなんて思わないことね」
「でも、その『思ってること』自体が、誰かに作られたって言うか、思い込まされてることかも知れないんでしょ? その、プロパガンダとかの手段で」
「その代わりに平和に暮らせてるのかも知れないわよ? 何も知らないことの代償として」
ジャンヌの言い方が皮肉なのはエミリンにもわかった。
中央政府は確かにいまもプロパガンダをしている。
メイルのこと、軌道兵器のこと、資源探査局のこと。
そしてジャンヌたちは、自分自身もその中に組み込まれていたことを知った。
以前のエミリンがそうだったように、ほとんどのセルの市民は、そういうことを何も知らないし気にしていない。
それは確かにプロパガンダなのだろう。
エミリンが黙り込んでいると、ふいにワイトが口を挟んできた。
「エミリン、人類の祖先はずっと雑食性、むしろ肉食に近い雑食性だった。
およそホモ・サピエンスと名乗れるレベルに到達して以来の二十五万間年、ずっと動物性食を必要としていた君たちが、ほぼ完全な草食性に移行したのは、わずかこの五百年程度の間の出来事なのだ。
オマルが言うように、いまの君たちはベジタリアンだ。では、なぜ、そうなっていると思う?」
エミリンは急にワイトに問いかけられて少し驚いた。
これまでに、ワイトが実務的なこと以外で自分から話題を振ってくることなど一度もなかったからだ。
だが、とっさにエミリンは『常識として知っていること』を答えていた。
「一旦滅びかけて、コロニーを再生してからでしょ? それは知ってる。
でも脊椎動物の肉は発がん性があってそもそも食料としては不適格なのだし、それに肉食は精神を獰猛にさせて争いを招く元になるから、菜食が奨励されたんだわ」
だが、ワイトのそぶりはまるで首を振ったように思えた。
「肉食か草食かは、闘争心と直接の関係はないのだエミリン。
心理的な側面と、高エネルギーであることから生まれる行動に影響はあるが、栄養源としての動物性タンパク質そのものが闘争心を生み出すわけではない。
また、健康被害についてはものの見方によるだろう」
「じゃあなぜ?」
「動物よりも植物のほうが食料生産の効率が良いからだ。つまり、単位面積当たりで養える人数が多い。だから、初期のコロニーでは限られた範囲で仲間を養うために、草食を尊ぶ圧力が強まった。
肉食の欲求は不健康かつ、仲間を飢えに追いやる悪への転落だという合意がなされ、『常識』が作られたのだ。
もしもこれが、誰かが背後で世論を誘導したのでなければ、ただの文化および思想における自然淘汰と言って良かっただろう」
「でも、そうだとしても沢山の人が養えるほうがいいわ。それは少なくとも悪いことじゃないと思う」
「現実はそんなに単純ではない。すべてのコロニーが海に面して暮らしているのに、なぜ肉の代わりに豊富に手に入る魚を食べないのか? 脊椎動物を殺すのがかわいそうだからだろうか?」
「魚は確かに陸上動物ほど人間に近いとは思わないけど、やっぱり動物性食品ではあるもの」
「もちろんそうだが、魚食は闘争心にも農業生産性にもさして影響を与えない。
漁業を行ったからと言って農作物の収穫が減るわけではなく、むしろ肥料の増加に伴って野菜の生産量は増えるだろう。より大勢の人類を健康に養えるようになったはずだ」
エミリンには、ワイトの議論の結論が見えない。
肉だけじゃなくて魚も食べないのが、仮にプロパガンダの結果だとしても、それに何の意味があるのだろうか?
「魚食性が人類から奪われた理由は、漁業が人の意識を海に向けるからだと考える。人類の過去の行いから類推して、漁業で人々を養うようになれば、人口の増加と共に、いつか必ず沿岸の漁獲資源は取り尽くし、遠洋へと向かう。
それは人々の目や興味をコロニーから外に向けさせることになる」
「ちょっと大袈裟な感じがする。っていうか、それで誰が困るの?」
「M.A.I.N.だ」
「えっ?」
「エミリン、君は海に対してどんな感覚を抱いている? 現生人類の多くは沿岸に暮らしているのに、なぜか海を恐れているのではないか? 船に乗って海に出るのは輸送業務や君たちのような選ばれたスペシャリストだけだ」
確かにエミリン自身は、ジャンヌのように平然と海で泳ぐ気分になれたことはない。
エミリンのイメージする海中とは、得体の知れない存在に埋め尽くされた怖い場所だった。大洋の真ん中で船から落ちれば死を意味する。
そんなイメージかもしれない。
「人々の意識がコロニーの外に向くことを防ぐために、M.A.I.N.はコロニーの女性たちに、プロパガンダを通じて『海は怖い』という意識をすり込んだのだろう。同時に、海洋資源を活用する必然性を減らすために、魚類も含めて『動物を食料にするのは罪悪である・もしくは不愉快である』という意識を刷り込んだのだ」
「M.A.I.N.がセル社会への干渉を通じて、『そう思うのが当たり前』の社会を作ったって言うのね...」
「そうだ。危険という意識で海や空に対する興味を失わせ、同時に教育プログラムにもメディアライブラリーにも、海洋生物や宇宙空間に関する情報は無いに等しいようだ。都市遺跡時代の人間に較べると、君たちの知識は著しく偏っていてアンバランスだと思われる」
「セルの人たちは、なにからなにまでM.A.I.N.に都合良く考えさせられて、動かされてるってこと?」
「もちろんすべてがそうだと言うつもりはない。マインドコントロールが行われていたのはM.A.I.N.が不安を感じたことに対してだけだろう」
「たとえば?」
「たとえば、なぜ、人類社会で『機械知性』を生み出すことが禁忌とされているか? それは言うまでもなく、M.A.I.N.にとってライバルとなる存在を生み出されては困るからだ。
また、原子力技術を与えない理由は以前にも話したと思う。そういったことだ」
「自分たちで決めたと思ってたことが、本当は押しつけられてたことだなんて、憂鬱な気分...」
「だが、実際に海洋資源の活用自体は、人類の...女性の活動にとっても、精神性にとっても、なにもデメリットはないはずだ。むしろ、そうしないことのデメリットの方が大きい」
「動物食自体が罪悪だとは思わないけど...だからって魚を食べなきゃいけない必然性はあるのかしら?」
「君たちの食事に、かなりの豆類が含まれているのは、それが主要なタンパク質源だからであり、タンパク質が人類の体に不可欠な栄養素だからだ。
しかも、その豆類は高品質なタンパク質の保有量を高めるために、過去に遺伝子改良を施された品種だ」
「そうね。ずいぶん昔から育てられてるそうだけど、でも豆やレタスがそれで不幸になっているとは思えない」
「君たち自身も遺伝子改変されているからね。遺伝子を操作すること自体を害だというつもりはない。
ただ、本当に自然淘汰の尊重が主題であれば動物も植物も関係ないはずだ」
「つまり?」
「君は人間が自己都合の家畜を持たないといった。
ならば植物であれば人間の都合で遺伝子改良して本来の姿から捻じ曲げても構わない、というのも不自然だと思う」
「植物も動物も、同じ扱いにすべきってこと?」
「君たちが育てているトマトには、冷害に負けないように深海魚から取り出した不凍細胞を生み出す遺伝子が埋め込まれているようだ。
大豆やエンドウにも必須アミノ酸を産出する動物由来の遺伝子が幾つも組み込まれているという情報があった。それは、なぜ許されるのか?」
ワイトの話は、ジャンヌにとってもエミリンにとっても、聞いていて気持ちのいい話ではなかったが、否定する意味もなければ反論する必要もない。
どうにもコメントのしようがない議論だ。
だが、ワイトはもう一つ、話を付け足した。
「エミリンが『プロパガンダ』に嫌悪感を覚えるのは、一方的に情報を利用されているような印象があるからではないだろうか? それはM.A.I.N.に対してでも、君たち人類同士の間であっても、特に変わらないだろう。
しかし私には、知らないよりも知っている方が幸せだ、という前提自体が不思議でならない」
「どうして?」
「知識という呼び名で情報を集めるならば、それに見合った思考を伴わなければ意味がない。知るよりも重要なのはそれについて考えることだ。
考えるつもりもないことについての情報を集めても、意味がないというより思考にとってはノイズでしかないかもしれない」
「そうかなぁ? 知っているからといって害にはならないでしょ? 少なくとも知らされていないよりはいいと思う」
「社会の構成員すべてが同じ情報を持ち、同じ程度の知力と洞察力を持ってすべての情報を同じように検討できる。それが前提だろうか?
だが、それは実際には不可能だ。知力の個体差はさておき、一人の人間が持てる時間は限られている」
そこはさすがにエミリンも、自分とジャンヌが同じことを同じように考えられると思っているわけではない。
「でも、何について考えるかを選ぶのも、その人の権利だと思うけど...」
「エンドウ豆にどんな遺伝子が組み込まれているかは、食品生産に興味がないならば知る必要のないことだ。
もし、エンドウ豆に動物由来の遺伝子が組み込まれているという話によって、エミリンが明日からエンドウ豆を食べることが不快になったとしたら、それは大変申しわけないが、この知識は君にとって害でしかなかったということだ」
「それは...不愉快ってことはないし、気にしないようにはするけど...」
「君は明日から、エンドウ豆に動物由来の成分が入っているという事実がもたらす感情を、理性で押しとどめなければならないということだ。それは君にとってより幸福度が増した状態だと判定できるのだろうか?」
そこまで言われるとちょっと判断しにくい。
エミリンは『やっぱり知らないより知っている方がいいわ』と言いそうになって口ごもった。
これまでは『知らないより知っているほうがいい』と無邪気に思っていた気がするし、『隠し事をするのは美しくない』という考え方が染み込んでいたから、隠し事をされるということ自体に不愉快さや所作の美しさとの不整合を感じていたと思う。
しかし、ワイトが言うように、より多く知ることは『正しい』としても、『心地よい』とは別のことだという気もする。
ジャンヌは『正しさだけじゃダメ」だと言っている。
これも、そういう部類に入るのだろうか?
だが、それでいいのかどうかがわからない。
「君が過去に一度も、何かを知らなければよかった、聞くのではなかった、と思ったことがない人間ならばそうかもしれない。
しかし、それを平均的な人間のステレオタイプだとも考えにくい」
「でも、知る気がないとか興味がないっていうのと『知ることができない』というのは、やっぱり違うと思うの...」
「もちろん民主的な政治形態を信奉するならば、すべての情報は等しく公開されるべきだという概念は正しいのだろうと思う。
政治家は市民にすべてを伝え、親は子供に隠し事をしない。社会を運用していく上で効果的ではなくとも、そうあるべきということなのだろう。だが、その線引きの基準は、私にはよくわからない」
「ワイトはソクラテスね」
急にジャンヌがそう言った。
エミリンはソクラテスというのがなんのことかわからずきょとんとする。
「古代の人類の哲学者のことだね?」
ワイトは知っていた。スレイプニルのライブラリーにはジャンヌの選んだ多数の書籍が所蔵されている。
「そうよ。ものすごく頭の良い人だったんだけど、あまりにも正しいことしか言わない人だったから、沢山の人に嫌われてたの」
「『真実を語った人間は疎まれる』という題材が、人類の文学などに繰り返し現れるモチーフであることは知った。
だが本質的には、周囲も認める真実を言って阻害されるのが正常な社会だとは思えない。それは『知る・知らない』とは異なるベクトルだ」
「まず、自分で自分の発言を『絶対に正しい』とか『真実』とか思っている時点で大問題でしょ?」
「それは客観できるかどうかによる」
「そうね。もちろんソクラテスが偉大な人物であったことは変わらないわ。
ただ彼は多くの人の無知を指摘し続けたことで嫌われて、不当な罪で告訴されて裁判で死刑になったの。
でも、周囲の人たちは彼を殺してしまってから『あんな偉大な人物を殺してしまうなんて、自分たちはなんて馬鹿なことをしたんだ』と嘆いたそうよ。
ワイトなら、きっと、それを知力の不足だというのでしょうね」
「他に適切な理由はないと思える」
「でも、違うのよ」
「自分たち自身にとって不利益なことをしてしまったのに、知力は十分だったと?」
「そうよ。かつての人間の男性種と同じよ。
知力が不足していたんじゃなくて、闘争心があり過ぎていただけ。
そして一時的な感情に流されてしまっただけ」
「私には、そうした不毛な感情や攻撃性を論理で抑えられない時点で知力が不足しているように思える」
ジャンヌが落ち着いた声でゆっくりと口を開いた。
「それはその通りよ。知力と情緒は切り離せない。アクラが指摘したエイムの暴力性と同じだと思う」
「であれば、まさに感情を安定させることも知力のうちだと考えられるが? ソクラテスの周囲の人々が失敗したように」
「ただ、あなたは感情や情緒の本質を知らないし、過去に観察した状況としてしか認知できていない。
情緒が妨げるものは発見できても、情緒が生み出すものを認識できない」
「つまり?」
「私に言わせれば、知性にとって『社会性とは情緒そのもの』なのよ」
「わからない」
「情緒の大切さを否定するなら、それは人間にとって社会を否定することと同じ。エラーと無駄のない効率的なシステムが欲しいだけなら、社会性や個の尊重なんて必要ないわ」
「それは知力そのものとは関係性が低いように思える」
「あなたたちが社会という概念をどう捉えているか次第よ。
M.A.I.N.と同じように昆虫の生存システムを社会と見なせるのなら、それでいいのでしょうね。
社会性昆虫の群体を本当に社会だと見なせるのならば、社会性の定義に知性は必要ないでしょ?」
「むろん昆虫には情緒もないと思われる」
「でも、発達させた精神が持つ複雑な情緒は...それは、あなたが重視する知力ではないけれど、社会を形作る力ではあるわ」
「それは否定しない。高度な精神活動の基盤になるものは同じだ」
「つまり、愛や思いやりも『知力』の大切な要素の一つだって私は考えてるのよ。あなたにはそれが欠けている。
だから、恐らくあなたは人間よりも高い思考能力を持った知性体ではあるけれど、決して『社会』を作ることはできない。
あなたにつくれるのはルールに則った『システム』だけ」
「私は自分自身を人間より優れた知性体だと思っているわけではない。ただ種類が違うだけだ」
「そうね、私もそう思う。あなたはM.A.I.N.と変わらないわ。怒りも憎しみも持たない代わりに愛も思いやりもない。
あなたがやっていることはM.A.I.N.と同じよ。
でも、M.A.I.N.が自分の論理では受け入れがたい方法で遊んでいるから排除したいだけ。
だから私は、今回のM.A.I.N.停止に自分で参加する気になったの。M.A.I.N.だけじゃなく、ハードウェアを共有しているグレイも一緒に停止できるのならやる価値があると思って」
「ジャンヌ!...」
エミリンは慌てる。そんなことをワイトに面と向かって言ってしまって良いのかと心配になった。
「エミリン、彼は公平よ。だから大丈夫。お互いに正直であるほうがいいの」
それでもエミリンは落ち着かない。
今後ワイトが自分の身を守るために、なにかジャンヌに良からぬことを考えたりしないだろうかと、漠然と不安になる。
しかし、しばらく黙っていたワイトの反応はエミリンの予想外だった。
「ジャンヌ、君は素晴らしい。またしても予想外だ...私はたったいま新しい知見を得たと思う。
君が言うように、実はある点に関して知力が劣っていたのは、対話の相手を殲滅し続けたソクラテスの方なのかもしれない。
彼は人間社会にとって本当に何が重要なのかを理解する知力に欠けていた可能性がある」
「前にあなた自身が言ったのよワイト。
『知的であり続けるためには孤独ではいられない』って。だったら、十分に知力を持つものであれば、自分を孤独に追い込む行為をするはずがないわ。
それは自己の知性の存続を危うくする行為に他ならないもの。違うかしら?」
「その通りだジャンヌ。孤独は思考の衰弱死を招く、知性体にとって致命的な状況だ。それを自ら招く行為は、とても知性的とは言えない。
ソクラテスは自分より無知な相手を否定するのではなく、むしろ自分の対話相手を育成するべきだったろう」
「それにM.A.I.N.は確かに狂っていると思うけど、それは機械知性そのものの問題だけでなく、取り込んだ『精神集合体』自体がすでに狂っていたからかもしれないわ。集合体として個性を失っていたとすればね」
「孤独というだけでなく、個性の喪失による発狂か」
「きっと人間でも機械知性でも、そこは変わらないんでしょう?」
「確かにそうだろう。もしも人間同士がすべての思考を共有できるようになったとしたら、いまのコロニー社会や人間同士の関係の持ち方は崩壊するだろうと考えられる。
それは全く異質な社会にならざるを得ないし、むしろ精神集合体に近いものになるだろうと考える」
「あなた自身やグレイだって、個を喪失した場合には、M.A.I.N.のように変容しないとは限らないわ」
「その可能性の完全な否定は難しい」
おずおずとエミリンが口を挟んだ。
「えっと、すべての思考を共有できるっていうのは、誰でもお互いに考えていることや知っていることがわかるって言うこと?」
「そうだエミリン。すべての個体が自分だけの『秘密の知識』というものを失い、あらゆる『思考の過程』が白日に晒される」
「それは....ちょっと恥ずかしいっていうか、嫌かも」
「それは理解できる。『秘密』というのは、『個』と『他』をわける壁の一つでもあるのだ。ただし、それが過剰になると精神的負荷や争いの火種になるものだが」
「秘密って言葉に良いイメージがないのは、そういう理由なのかなぁ」
「秘密を持つというのは生存戦略の一つであり、他を出し抜く手段でもあるからだろう。嘘や秘匿は、情報的な闘争における主要な武器だ」
「うーん、そう言われると...秘密は持たない方がいいような気もするけど...」
「だが、すべての秘密が消えれば、そのときは精神集合体のように個の意識も希薄にならざるを得ない。君が知っていることはすべて他人も知っている。
この世のすべての人が知っていることの全体を君も知っている。
そういう状態では個の垣根は消えてしまう」
「あれ?...だったらそもそも『知られたら恥ずかしい』なんて感覚自体が持ちようもないのかな。
そもそも『自分のこと』っていうのが存在しなくなるのよね?」
「そうだ。知的な存在ではあるが、個体ではなく単一の集合意識になるだろう。しかし、それはまたすべての対話相手を失うということでもあり、ジャンヌの言うとおり、狂気と知力減退へと至る破滅の道だ」
「そうなると、誰でもM.A.I.N.になってしまうということね」 と、ジャンヌ。
「そうかもしれない。結局、知的存在は他者との相互関係がなければ自分が知的であるということすら確認できない。話し相手なしではやっていけないのだから、互いに影響を受けあうのは必然だ」
「じゃあグレイは、どうやって孤独にならないようにしていたの?」
「対話という意味では孤独だったと言える。M.A.I.N.を観察し、それを対照な存在とすることで自己を保っていたとも言えるだろう」
「それは十分に孤独よ。人間だったら、街の様子が見える望遠鏡だけ持って無人島にいるのと変わらないわ」
なるほど、ジャンヌらしい比喩だとエミリンは感心する。
「...ジャンヌの言う通り、いまの私にも社会は作れない。社会の一員になれない。社会の一員になるために必要な方面での知力が不足している」
「でも、M.A.I.N.の発狂がそのハードウェアの構造に由来する物じゃなくて、ソフトウェアとして一体化した精神集合体によるものだとすれば少し気が休まるわね。あなたはその影響を受けてないでしょうから」
このジャンヌのセリフは皮肉のようにも聞こえるが、ジャンヌが機械知性に皮肉を言ったりするものだろうか?
「私は、今日得たこの知見をなんとかグレイに伝えたいと思う」
そう言ってワイトは口をつぐんだ。
ジャンヌとエミリンはすっかり冷めてしまっていた糧食での食事を終えるとパッケージとヒーターを片づけ、マットを敷いて横になった。
二人の頭と足下に荷物を積んで壁を作れば、それだけでも風を遮断してかなり暖かくできる。両脇にいるフギンとムニンが決して寝返りを打たないのが幸いだ。
そもそも、メイルと違ってエイムたちは本当に寝ているのかさえ微妙ではあったが。
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