第三部:ノー・マンズ・ランド 〜 挑戦

PART-1:バンデット

第三部 プロローグ:翡翠


(プロローグ:翡翠かわせみ


少年が最初に、近くの川縁に飛んでくるカワセミの姿に魅せられたのは夏の初めだった。

そのとき彼は、いま潜んでいた茂みのある淵よりも少し上流にある浅瀬の岸部に立って、渦巻く水流の中に毛針を落とし込んでは流して引き上げる、という動作を延々と繰り返していた。


この川にすんでいるトラウトは貪欲で数も多い。


天候や水温、時間帯によっても違う、鱒たちの餌になる昆虫の飛び具合、そういったことを考え合わせた上で、使う毛針の選択さえ間違えなければ、経験の浅い少年でも、まぁまぁの釣果をあげることができた。


この日も少年は選んだ毛針を釣り糸に結び、狙ったポイントに何度も落としていったが、いつまで経っても、水中からはまるで反応がなかった。


鱒たちがこぞってどこかに消えてしまったという感じだが、それよりは自分の毛針の選択を疑った方が現実的だ。


少年はいったん釣り竿を立てて手元に毛針を引き寄せ、さて、では数少ない持ち駒の中から、どの毛針に替えてみるかと思案していたところ、その視界の先の水面を、なにかキラリと光る青いものが通り過ぎた。


そのスピードと輝きに、少年の目はほぼ無意識に引きつけられる。

少年の見ている前で、その青く光る弾丸は、少し下流の岩の隙間に引っかかっていた流木の枝に止まった。


ー カワセミだ! ー


少年はカワセミの存在は図鑑で知っていたが、実際に見るのは初めてだった。

このあたりの地域にはいないと思っていたのだが、夏の間だけ北上してきたのかもしれない。

光り輝くようなメタリックの青い背中と、対照的なオレンジ色の腹、頭のサイズからすると不自然なほど長くて太いくちばし。


その姿は一度見たら忘れられないし、他の鳥と見間違うこともない。


少年は思わず、もっとよく見ようと岸辺を下流にむけて動きかけたが、三歩も進まないうちにカワセミは飛び去ってしまった。


次の日、父親に頼んで高性能な録画機能付き双眼鏡を貸して貰った少年は再び川に足を運んだ。

一応釣り竿も持っては来ているものの、もう一度カワセミを見れないかと気もそぞろで、どうも竿さばきがおろそかになってしまう。


と、昨日と同じように、同じ方向から青い宝石が飛んできた。


昨日と同じ流木の枝に止まったので、少年は慌てて双眼鏡を向けようとするが、すぐに飛び去ってしまう。

スピードが速すぎて視線が追いつけない。

諦めて双眼鏡を顔から離し、カワセミの姿を川縁に探す。

どこにもいない。


あのまま下流に向けて飛び去ってしまったのだろうか?

しばらくあちらこちらに視線を巡らせた後、再びカワセミを見つけられなかった少年は少しがっかりしながらも、諦めて再び釣り竿を手に取った。


左手にリールから引き出した釣り糸をホールドしながら、竿を水面近くまで下ろす。そのまま少し糸を繰り出して、毛針を結んだ釣り糸が水面に漂うままに糸を繰り出していった。

この釣り糸は毛針釣り専用にわざと水に浮くように作られていて、ゆったりした動きで水面を這っていく。


竿の長さの三倍ほどの釣り糸が繰り出されたところで、少年は自分の背中に向けて素早く竿を水面から持ち上げ、大きく腕を伸ばした。


釣り竿に引っ張られた糸が水面から引きはがされ、そのまま少年の後ろに向かってするするとまっすぐに伸びていく。

少年は後ろを振り返らないままで、釣り糸が伸びきるタイミングを掴んでいた。


釣り糸が後方に伸びきって釣り竿と一直線になった瞬間、少年は手首のスナップを効かせ、伸びやかな動作で今度は釣り竿を前方に振り下ろした。


ほぼ水平に空中に静止した釣り竿の先端から糸が伸び、川面の上空を走って行く。

鞭のようとも蛇のようとも言えそうな有機的な動きで空中を走った釣り糸は、少年が狙いを定めていた場所に前端から静かに着水した。


少年が毛針を落とす場所として狙っていたのは、鱒が潜んでいるだろうと思ったポイントの少し上流だ。

直接、鱒の真上に毛針を落とすのではなく、上流から川の流れにのせて流し込んでいくことで、より自然に毛針を鱒の鼻先に運び、警戒心を抱かせずに食いつかせることができる、と少年は父親から教えられていた。


左手でホールドした釣り糸の出し具合をコントロールしながら、着水した毛針を下流に向けて流していく。


そして、水流に揉まれながら流れていく毛針の挙動に神経を集中していた少年の視界を、再び青い光が横切った。


やはり、カワセミはこの川を一夏のすみかとして選んだらしい。



それ以来、少年は双眼鏡を持って何日も川辺に通った。

だが、図鑑に載っていたような「川に飛び込む瞬間」や「魚を加えて水面を突き破って出てくる瞬間」、それに、「小魚を咥えて木の枝で休む姿」と言った絵になる姿は、ついぞ目撃できないままだった。


流れが緩やかになって水深のあるこの淵で魚を採っていることは間違いないのだが、どうしてもその瞬間を見ることができない。

きっと、川岸をうろうろしている自分の姿に警戒しているのだ、と少年は考えた。


あまり警戒させてしまうと、せっかくやってきたカワセミがここを離れて他の場所に行ってしまうかもしれない。

決定的瞬間を記録できないのは残念だけど、それよりも、せっかくやってきたカワセミを、自分が追い払ってしまうような結果になるのはもっと嫌だ。


少年はそう考えて、後一度だけ、淵の川岸にある茂みに姿を隠して、そこから上手く撮影できないか試してみよう、そして、もしもそれでダメだったら、今年の夏はこの場所はそっとしておいて、もっと上流で釣りをすることにしようと決めた。



太陽の位置が川の向こう岸に移る頃、少年は隠れていた茂みの中からごそごそと這い出ると、体中についた枯れ葉や蜘蛛の巣などのゴミを払い落とした。

立ち上がった少年は、子供が持つにはちょっと不釣り合いな感じもする大きな双眼鏡をもう一度目に当てて、撮影した内容を確認する。


もう三回も同じシーンを再生して見ているが、それを見ている少年の顔に満面の笑みが浮かぶ。


小さな鱒を咥えたカワセミが水面から飛び出た瞬間のアップだ。

キラキラと飛び散る水滴、鮮やかな羽とくちばしのコントラスト。

高倍率の超高速度撮影ならではの、風切り羽根の一枚一枚が手に触れられそうなほどに鮮明な画像。


少年は、この画像をいますぐにでも、家にいる妹に見せたくてたまらなくなる。


最初にカワセミを見つけた日、このあたりでは珍しいこの鳥のことを妹に話したら、彼女はその姿をとても見たがったのだ。

父親に頼み込んで双眼鏡を借りだしたのも、半分は自分のためよりも、なんとかして妹に本物のカワセミの姿を見せてあげたかったからなのかもしれない。


少年は家までの平坦な道のりを、ほとんど走るようにして帰りを急ぐ。


最高の夏だった。


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