セルシティ / ファラハン文書
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
PART-1:バンデット
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
(ダーゥインシティ・セントラルライブラリー)
中央省庁が立ち並ぶシティの一角にセントラルライブラリーはある。
市民に公開されているほぼ全ての情報は、実用的なものであろうと文芸であろうと、デジタルデータとして提供されることが基本なので、ただ情報を得るだけであれば物理的にライブラリーを訪れる必要性は少ない。
だが、水と緑に包まれたセントラルパークにその一片を接し、広々としたガラス張りのファサードを持つ優雅な中央ライブラリーの建物は、シティの文化的な豊かさの象徴であると同時に、市民の憩いの場でもあった。
ホールの中では、大勢の人々がベンチに座ってなにかを読んだり、誰かと静かに語らっている姿が途絶えることがない。
それに、セル社会でいう『ライブラリー』は図書館であると同時に、あらゆる『情報』をとりまとめる公共の研究機関でもある。
全ての情報を集約し、整理し、分析し、隠れた関係性を見つけ出す。
そして利用価値の高い情報として系統立てて、広大なモザイクのピースを埋めていく。
それがライブラリーの基本的なスタンスだ。
その点も踏まえたセントラルライブラリーの『公開書架』は、実際には書架と言うよりも、『物理的に配列された壮大な見出しの一覧』と言って良かった。
人々は、得られる情報としては冗長であると知りながらも、その書架の間を散策して、多彩な分類に広がる見出しを眺め、気になるアブストラクトをチェックし、物理的な空間を彷徨ううちに、やがて自分の求める『何か』が意識の上で明確化されていく過程を味わう。
それは、知りたいものが何か完全にわかっていると考える人間、言い返せば『タグで検索すれば必要な情報は全て得られる』と考えるタイプの人間にとっては無駄以外の何物でもないように見えるが、効率よりもインスピレーションと知的活動の交差を重視する、セル社会の美意識に則ったものであると言える。
現に、この広大なライブラリーの書架フロアに、いつでも大勢の人々が訪れていることを考えると、その方式は十分な意義を持っていると考えられた。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
先ほどから資源探査局のミシェル・ショウ統括部長は、そのライブラリーのバックオフィスに設えられた応接室で、担当者が現れるのを待っていた。
資源探査局が持ち帰った情報について、当の資源探査局の統括部長が直接ヒアリングしたいと現れたら、さすがにライブラリー側も無碍にはできないのだろう。
対応に出た係員に自分の立場を明かし、資源統括局が遺跡で発掘した資料の情報について話ができる方とお会いしたいと告げると、そのままこの部屋に通された。
ジャンヌが出航する前、遠隔地探査用キャンプについてディスカッションしているとき、彼女がふと思いついたように言ったのだ。
ー 『ミシェル、もし、私が出かけている間に、あのニューダーカーで発見した手記の分析結果が出たら内容を聞いておいて頂戴ね。もう届けてから随分経つけど、ライブラリーからは一切音沙汰がなくて気になるのよ』 ー
戻ってからジャンヌが自分で聞けばいい話だろうし、そもそも歴史に疎い自分が説明を聞いて分かるようなことなのだろうかとも思ったが、その時には、とりあえず頷いておいた。
だが、ひょっとするとジャンヌは自分にも『知って欲しい』あるいは『気にして欲しい』という意図があって、わざわざあんなことを言ったような気もしてくる。
そこで、今日は時間の空いたついでに、という趣でここを訪問したのだった。
ソファに深く腰を下ろしたミシェルがテーブルに出されたお茶を飲み干してからしばらくすると、ようやく応接室のドアがノックされた。
応接室のドアを開けて入ってきた人物は、セントラルライブラリーに置かれた研究部門の一つである『古情報解析室』のリン・ワイナーと名乗った。
差し出された名刺の肩書きは情報科学研究所・古情報解析室研究主任となっている。
ミシェルはとりあえずお詫びを述べる。
「お忙しいところに急に押しかけてしまってすみません。近くで予定していたアポイントが先方事情でキャンセルになってしまったんですけど、たまたまライブラリーの前を通ったときに、以前うちの局員が発掘した資料のことを思い出しまして...」
今回の訪問は急に思いついたことなので、いまこの瞬間に負荷をかけていることに間違いはない。
特徴のない白いシャツブラウスにこれまた没個性なグレーのスカートで、シンプルというよりも素っ気ないと表現した方がしっくりくるような服装をまとったワイナー主任は、ミシェルの言葉を受けて、慌てて否定するように手を小さく振った。
「いえ、こちらこそお待たせしてしまって申しわけないです。ちょうど会議の最中だったもので、どうしても席を外せなくて」
「本当にすみません、そんな忙しいときに。わざわざ主任研究員の方に対応して頂くなんて考えておりませんでしたわ。できれば、誰かにちょっと話を聞けたらってぐらいの軽い気持ちだったのです」
「それは気になさらないで下さい。わざわざお越し頂いたのに、なんの説明もできなかったのでは、こちらが引け目を感じてしまいます」
ワイナー主任は、気さくな感じでそう言うと、少し姿勢を正した。
「さて、何からご説明するのがいいか悩ましいところなのですが、ショウ統括部長は、どの程度お時間がありますか?」
「午後の予定がまるで空いてしまったので、私自身は何時間でも。もちろん、そんなに長く付きあわせてしまうつもりはありませんわ。でも、私の予定はどうかお気になさらず」
「まあ、それでしたらこちらも腰を据えてご説明ができます。ショウ部長がお聞きになりたいのは、ニューダーカーと呼ばれた都市遺跡で発掘された資料の分析結果について、ですよね?」
「ええ、そうですの。あれから、かれこれ一年近く経とうとしていますし、そろそろ何か成果が出ていてもおかしくない頃かなと思いまして」
「仰るとおりです。手記の方は先日ようやく公共ライブラリーに登録しましたが、記載されている内容の事実関係が確認できていないので、いまのところは『古典文学』として扱わせて頂いています。
太古の人は、日記も一つの文学形態と見なしていた側面がありまして、日付の入った時系列の記述だから事実の記録であるとは限らないのです。
公共ライブラリーにも、そういう日記形式で表現された、純粋に創作としての古典文学作品が幾つか登録されています」
ミシェルは心のうちで『古典文学として公開ってどういうことかしら?』と思い浮かべたが、もちろんそれを口には出さない。
「わかりますわ。正直に言ってうちの局長も、あの手記はそういう風にとらえていましたわ。フィクションというか、書いた人は大真面目でも、単に地域に流れた根拠のない風説を真に受けて書いたのではないか?という感じですわね」
「今後もしも情報がさらに揃ったら、なぜ私たちの史実と違いがあるのかはわかってくるでしょう。
それはともかく、手記と一緒に回収された...そちらの局員の方のレポートによると、手記と一緒に頑丈な金属製の箱に密閉して保存されていた...各種のデータの方も気になるのではありませんか?」
「ご明察です。とはいえ、古いものですので、解析中に破損してしまったり、そもそもデータを全く読み出せなかったり、ということだったとしても無理はないと思っていますけれど」
だが、ミシェルの迂遠な問いかけに対して、ワイナー主任はあっさりと返答を返した。
「いえ、実はほぼ完璧な状態で読み出すことができました。なにしろ保存状態が良かったのです。それに記録に使用されていた媒体も、経年変化に強いものが意図的に選ばれていたのだろうと思います。全般的に見て奇跡的な復元率ですよ」
「じゃあ...」
「なぜ、いまだに内容が公表されていないのか? ご不満だと思いますが、それをいまから説明させて下さい」
ミシェルは若干不意を突かれた気もしたが、まずは先方の話を聞こうと腰を据えた。
「まず、あのデータ群...私たちの部署では『ファラハン文書』と呼んでいるのですが...信じがたいとは思いますが、実は本当にまだ分析の途中なのです」
「どういうことなのでしょう?」
「通常、古文書データの解析は、記載内容を全て読み取って整理することに多くの時間がかかります。
一つの媒体であっても、部分的に読み出せるところや全く読めないところが混在している程度は当たり前ですし、かすかに読み出せた内容が、本当に信じて良いものなのかどうか、消えかけた情報の痕跡から記号を推定することも多くあります。
また、過去の人類の間では多彩な言語が使われていましたので、その翻訳や置き換えにも大きな苦労があります」
ここの研究員達の日常が、そういう神経を使う地味で細かな作業と苦労の連続であろう事は、想像に難くない。
「まず、デジタルメディアに書き込まれた情報を読み取るには、書き込まれたときに使われたものと同じテクノロジーが必要です。
それは、ハードウェアの工学的な問題だけでなく、データ型の記述ルールや通信プロトコル等、様々な要素の複合体ですから、どれが欠けても正確に情報を復元することはできません」
「まずは情報を読み出すというハードルですね」
「ええ。もっとも、何らかの手段で物理的にビットを読み取ることさえできれば、あとは様々な分析技術や推論によって、ソフトウェア上のギャップを埋めていくことは可能です。
サンプルさえ沢山あれば、データ配列の法則性などは、意外と簡単に見つけ出せるものですから」
「そのあたりは、地下資源の探索で様々なデータの現れるパターンを見つけ出していくことに似ているかも知れませんね」
「なるほど、きっとそうですね。ですが、あのファラハン文書には、そういう苦労はほとんどありませんでした。
記載されている記号、文字や数字はほとんど問題なく吸い上げることができ、ほぼ欠損のないデジタルコピーを作成することもできています。ですが...」
そこでワイナー主任は言葉を句切った。
もったいぶっているというより、表現を探しているという表情だ。
「昔の政治機構や国家の概念は土地や時代によって大きく違っていたりするので、現代の社会に置き換えて考えるのは難しいのですが...
あの手記を記したオマル・ファラハンという人物は、手記の中で地域の行政長官という肩書きを名乗っていたようですが、それは地域住民の中から選ばれるようなローカルなポジションではなく、地域の監督のために外部から派遣された立場だったようです。
平たくいうと連邦政府、いまでいう中央政府から派遣されていた人間だということですね。」
「彼はあの手記が発掘された都市遺跡よりも、もっと広い枠組みで活動していた人物であるということかしら」
「その通りです。地方の名士ではなく、むしろ当時の国家機構で中心的な組織に所属していた人物だということです。
恐らく、他の情報から推測すると、あらかじめ決まった任期を特定の地域で過ごして、その期間が過ぎたら、また別の地域の監督に向かうか、中央に戻ってその経歴を活かした職務に就くか、そういう立場の人だったのでしょう」
「その政治的ポジションのニュアンスは、なんとなく理解できますわ。しかし、それがデータの解釈とどんな関係が?」
「要するに彼は...オマル・ファラハンは、政治中枢の機密事項を知ることができる立場にいたようです。もちろん、そのレベルは正確に測れませんが、少なくとも、単にある地方の経済や司法を監督するだけなら不要なレベルの情報にもアクセスできる立場だったように考えられています」
「つまり、あのデジタルメディアには、そういった当時の機密事項が納められていたと?」
「はい。ただ、同時に少々不可解な事態が発生しまして...」
「不可解?」
「新しくもたらされた資料の解読と分析が進むにつれて、既存の資料の情報との乖離や齟齬が生まれてきたのです。どちらかが事実でどちらかが嘘である、そういう状態があちらこちらに混在し始めました。そして、その解釈というか決着が、いまだに付いていないのです」
「解釈、ですか?」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
(ダーゥインシティ・情報科学研究所)
「ここから先のことは、差し支えなければ私のオフィスでお話になりませんか?」
ワイナー主任はそう言って、ミシェルを研究所の古情報解析室に案内した。
暴行・殺人・窃盗・強奪...そういった破壊的な行為が滅多に起こることのないセルの社会では、セキュリティというのは事故防止の意味合いが強い。
逆に言うと、『悪意』など存在しなくても、人間の起こしがちな間違い、うっかり、度を超えた好奇心、軽く見ていた悪戯心、果ては精神の錯乱などでも、簡単に破壊的な結果に繋がってしまう可能性はある。
特に、テクノロジーが梃子のように作動した場合は、影響が何十倍、何百倍にも増大してしまいかねないし、その多くは取り返しの付かない結果を生む。
ミシェルの観点からすれば、貴重な資料を扱う部局にそれなりのセキュリティーが施されていることは、強力な武器を保管する資源探査局の倉庫に厳重なセキュリティーが施されているのと同じくらい自然なことだった。
もしも、いたずら好きの子供が倉庫に迷い込んで、高速散弾砲のバレルにぴったりなサイズの鉄の棒を押し込んだりしたら、船が沈むか、局員の命が失われる可能性だってあるのだから。
ワイナー主任がチーフを務める『古情報解析室』は、文字通り遺跡などから発掘された過去の資料を復元して内容を読み取り、現代人に理解できる情報に整理することを主たる業務としている。
つまり、ここにはデジタル化されてライブラリーで公開される前の状態の『生の資料』が大量に保管されているわけであり、それらは学術的に貴重と言うだけでなく、これまでのセル体制社会の発展を支えた、知識の源でもあった。
実際に市民が利用するのはデジタルデータの方だけであるとしても、その一次資料が
どれほど貴重な存在かは言うまでもない。
情報科学研究所の建物まで来る途中では、ワイナー主任はライブラリーにまつわる楽しい小話や裏話で間をつなぎ、シリアスな案件など何もないかのように振る舞っていたが、ミシェルの目には、それこそが彼女の緊張感の表れのようにも見える。
ジャンヌ達が見つけた情報が無駄にはされていないことを知ることができたが、まだ、もっとも重要な話が聞かされていない。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
古情報解析室のオフィスに入ったミシェルは息をのんだ。
壁一面に書棚が形成されており、そこには、恐らく数千冊を軽く越える書籍〜つまり装丁された紙の本が並べられている。
一目見ても、古そうなものも多く混じっている壁の書棚を目で追うミシェルに、ワイナー主任はにこやかに言った。
「極端に古い資料は、物理的に状態を再現したレプリカです。なにしろオリジナルは保管に気を遣う状態のものが多いので」
ミシェルはさもありなんと頷いた。
「あえて物理レプリカを作成するのは、美術的な観点から、なのかしら?」
「それもありますが、基本は将来の保管を考えてのことです。また、情報分析の観点からそうしているものもあります。
本の装丁とか紙面というものは、単なる情報のパッケージではないのです。
それ自体が情報を持っていると言ってもいいでしょう。
その本が形成された時代について、本の中身には書かれていない、様々な周辺情報を伝えてくれたりするのですよ」
「なるほど。私は、こういうことには素人ですけど、何が書かれているか、だけでなく、どう書かれているかがキーになることは理解できる気がするわ」
「ええ、まさにそういう話ですよ。通常は、書籍タイプの古い資料が発見されると、各種のスキャナーを使って内部構造を探ります。
使用するスキャナーの種類は様々ですが目的は同じで、資料を破壊せずに内部を知ること、です。
大変古い、素材そのものが傷んだ資料の場合は、ただページを開くだけで崩れ落ちてしまうようなものすらありますから」
「うちの局員達も苦労していますわ。遺跡で興味深いものを見つけたとしても、持って帰ろうにも簡単には動かせない状態のものの方が多いですから」
「そうだと思います。従って、発掘された本を物理的に『開いて読む』ということは滅多にありませんし、その必要もありません。
現在の技術を用いれば、書かれた字を読み取るだけでなく図版や色彩、あるいは大昔の利用者が余白に書き込んだメモまで、かなり完全に読み取ることができます。むしろ、そういった情報は、長い間に使用された染料が退色して、肉眼では読めなくなっていることさえ多くて、スキャナーで走査して初めて浮かび上がってくるわけです」
こうやって簡潔に説明されると簡単に思えるが、実際に資料の三次元構造を解析して完全なデジタルコピーを作成するには多大な苦労があるに違いない。
そういう意味では、この書棚に並ぶレプリカも、それ自体が貴重な価値を持っているといえるだろう。
「資料の持つ三次元構造全体をデジタル化するわけね?」
「ええ、物理的に再現されたレプリカは、そうして得られた情報を元に作成されています。むしろ、レプリカを作ってはじめて、『本を開いて読む』という行為が可能になると考えて頂いた方が良いでしょうね。
ファラハン文書の手記のように、平然と手に持ってページをめくれるような保存状態のものはごくまれです」
ワイナー主任は、そう言って本棚の方に目をやった。
「非寿に古い本は、木材を粉砕したパルプを原料とした紙をベースに作られています。
ただ、そういう時代の本は文芸的にも現代人の感覚とはまるで違いますし、技術的な実用性は皆無なので、モニュメントというか、歴史的資料としての意味しか有りません。都市遺跡時代に入ってからの本は基本的に合成紙ですね。
それも後期になると、書籍という物理的な存在自体がほとんど姿を消してしまいましたが...それでも、一次資料としての『本』は素晴らしいメディアです。
そこに書かれている記号が消えておらず、理解できる言語であれば、なんのテクノロジーもなしに内容を読み取ることができますから」
「なにしろ書籍の場合は、発掘した探査局員にさえ内容の目星が付きますからね」
ミシェルは少し茶化すように言ったが、ワイナー主任は大真面目に頷いた。
「ですが、これがデジタル情報ではそうは行きません。実はデジタルな記録物の寿命は、印刷された本に比べても非常に短いのです。
だからご存じの通り、争乱と退行の四百年を無事に生き延びられたデジタルデータは恐ろしく少ない...」
「生き残ったデータは復興期に発見されて、記録されたものだけ?」
「仕方がない側面もあるのです。そもそも、後期都市遺跡時代に用いられていたデジタルな記録システムの多くは、耐久性よりも、読み書きの早さや、情報密度つまり物理的なコンパクトさなどの利便性を重視されていましたから」
「素人っぽい質問になってしまいますけど、それは、過去の人々が情報の重要さを軽んじていた、ということになるのかしら?」
「私は、そうではないと思います。当時はまだあらゆる資源が潤沢だったのでしょう。記録媒体が数年で劣化するなら次々と新しい媒体に書き写していけばいい、損傷が怖ければいくつものコピーを持っていればいい。
そういう発想で、一つのデータを沢山のメディアに記録して色々な場所に置いておき、さらに頻繁に書き写していくことで、全体としての維持を担保するという、非常に贅沢なやり方です」
「壊れやすくても無数に予備があればいい、ってことかしら。それにしても豪華な発想ね」
「社会の発展は無限である、というのが後期都市遺跡時代の人々の共通意識だったのでしょうね。
それに一般市民の利用する情報の多くは、このライブラリーのような大規模なデジタルデータ保管施設に集約されていて、そこにネットワークを通じてアクセスする、という使い方が主流でした。一人一人が手元に置いていたデータは、もともと、とても少なかったのです」
「でも結果として、争乱でインフラが崩壊した後は記録媒体のメンテナンスも不可能になり、ほとんどの情報が失われたということね」
「悲しいことです。もしも、争乱の時代の人々がデジタルメディアよりも紙の書籍を重視してくれていれば、セル社会の復興スピードはもっと格段に速かっただろうと思いますよ」
「きっとそうでしょうね。結局、セル社会復興の礎になった知識の多くは、各地の都市遺跡で発掘された図書館の本からだと聞いています」
「ええ。しかも、そのせいで我々のテクノロジーはいまだに後期都市遺跡時代に追いつけません。
その当時の最新情報はすべてデジタルメディアに記録されていて、紙の本の形態に書き写されたものはほとんどないと言っていいでしょう。
だから我々が利用できた情報は、後期都市遺跡時代のピークのテクノロジーと比較すると、少なくとも二百年は古いものだと言われています」
ミシェル自身も子供の頃にライブラリーから得た情報としてしか知らないが、爆発的に発展していた後期都市遺跡時代の二百年間には圧倒的な技術力の差がありそうに思える。
ワイナー主任は本当に悲しそうな顔をしながら、ミシェルをフロアの一角に置かれたミーティングスペースへと手招いた。
「こちらへどうぞ。ところでショウ統括部長、先ほどのデジタルメディアの件についての続きをお話ししたいと思うのですが」
「ええ、大変興味深い話だと思うわ」
「ではまず、先入観なしでファラハン文書に関して何があったのか、全体の経緯からお話しさせて頂くのが良いでしょう」
そう言いつつ、一角に据え付けられたティーサーバーから熱いお茶を抽出すると、それをミシェルの前に置く。
「この部屋へご案内した理由は、ファラハン文書のデータを実際に見て頂きたいと思ったからです。公共ライブラリーのバックオフィスにある端末では閲覧することができませんから」
ミシェルは頷く。当然の管理体制だ。
「私たちがファラハン文書の、特にデジタルメディアに含まれていた各種の情報を解析した結果がこれです」
そういってワイナー主任は壁際に設えられたディスカッションスクリーンに一枚の図を映しだした。
横幅にして10フィートほどあるスクリーンには、ファラハン文書に含まれていた様々な情報を系統立てて分類したらしい、一種のツリー様式のチャートが細かな字でびっしりと表示されている。
「激しい気候に晒されたこともあるのかも知れませんが、近代になって発掘されたメディアから情報が読み取れることはほとんどありません。その点では、ファラハン文書は四百年ぶりの快挙と言っていいレベルですよ」
「まあ! かなり驚きだわ。これは珍しいケースだったのね」
「そうです。紙にプリントされた付帯情報の中には、これらの中でも最も重要であろうと彼が判断した情報が記載されていました。
特に、デジタルメディアを読み取るために必要な基本情報...データのフォーマットや必要なハードウェアの基本的な原理などを説明してくれていたことは非常に助かりました。
彼は本当に聡明な人物ですよ。とにかく、やっていることに抜かりがありません」
ミシェルはそれを聞いて『千年前のジャンヌね』と思い浮かべてクスリと微笑んだが、スクリーンの方を向いていたワイナー主任には気づかれなかっただろう。
「もちろん、彼が精神に変調を来していた可能性は排除できません。ですが、手記の記述を信じるならば短期間に、隅々まで考慮して厳選した情報を残そうとしています。これは、冷静で理知的な人間にしかできないことです」
「情報の格納の仕方に、彼の精神状態まで反映されているのかしら?」
「そう思います。偏執的な観念に駆られた人間は、ある一部分に関しては非常に繊細な思考ができても、全体を見る力を失っていることが多いのです。
当然ながら、自分が気になったこと『だけ』が猛烈に気になっている、という状態ですからね」
「まあそうね。バランスを取れない状態であることは確かでしょう」
「しかし彼は徹頭徹尾、冷静な判断と分析をしていたように思えます。そういう傾向は情報の集め方や分類の仕方に、如実に表れるものなのです。
ちなみに、彼がデジタルメディアに残した情報は、大きく二つの分野に分かれています」
「二つの分野?」
「ええ、一つは、百科事典です。
彼は文明社会が終焉を迎えつつあると覚悟していたように思えます。そこで彼は、この争乱を生き延びた人々が新たに文明を復興する手助けとなるような情報...その多くは技術的なノウハウの類ですが、いまの私たちには伝わっていない技術も含まれていて、それだけでも興味深いです。
それに、政治や経済体制を構築するための知識も多く含まれています」
「それを読んだ人が社会を再構築できるように、文明社会再興のハンドブックを作ったのかしら?」
「それはどうでしょうね? 内容的にはそう言っていいのですが、この百科事典は、そもそもデジタルメディアを読み出す程度の技術基盤を持っていないと役に立たない情報ですから、原始社会に退行した人々に発見されても意味をなしません」
「なるほど。で、あなたの見解は?」
「個人的には、『自分たちの文明は技術的にここまで進んでいた』という記録のように思えます。いえ、むしろ『記憶』でしょうか。役立てると言うよりも、後の時代の人に、自分たちの進歩を知って欲しいという思いが込められているような」
「一種の思い出なのね。一人の人間ではなく、人類という種族の思い出、ということかしら...」
「そんな感じですね。彼の希望が込められているのでしょう。
そして、もう一つが歴史記録です。
あの手記の内容と対応していますが、当時の世界の政治体制、社会不安の発端と争乱の広まっていった経緯、資源や食料の不足が表面化していった動向などが、データとして記載されています」
「でも、彼が冷静でデータも正しかったとすると、手記の内容は....」
「一つ目の可能性が、手記もデータも彼の意図的な創作物だと言うこと。二つ目の可能性は、なんらかの経緯によって、全くのでたらめが彼に事実だとしてインプットされていた、と言うことが考えられますね。
これはあり得ない話ではありません。そちらの局長が仰ったように、本人は大真面目に間違った情報を分析していた、という状態です」
しかし、ワイナー主任自身がそう思っていないことは口ぶりでわかった。
オマル・ファラハンという人物の聡明さを褒めておいて、いまさら『彼は嘘を信じ込まされていたようです』という幕引きもないだろう。
「そして三つ目の可能性が、あの手記に書かれていることは事実であり、争乱の時代には、人為的なパンデミックつまり疫病の拡散で、すでに人類の99.9%、男性種に限っていえば、99.999%が死滅していたということです」
「待ってくださいワイナー主任。そうなると...すでに当時から全人口はほぼ女性のみで、男性種の生き残りはごくわずかだということになりますよ?」
「はい。人為的にもたらされた災厄によって、男性は絶滅寸前だったということです」
「いえ、人為的かどうかは問題ではなくて...どのみち争乱の時代に人類は滅びかけたのですし、復興後も、最終的に男性種は社会から姿を消しました。
私たちは、それについて責任があるのかもしれませんが、退行期の前にすでに男性が姿を消していたとすれば、そもそも、人類社会が復興できたはずがありません」
「そうですね。つまり退行期から、すでに遺伝子操作技術とクローンの技術はあった。あったというか、後期都市遺跡時代の技術が、争乱の時代を越えて温存されていた、ということになりますね」
ワイナー主任はそう言って、ぐっとお茶を飲み込んだ。
「争乱の時代を生き延びた数百万人、どんなに多く見積もっても全世界に数千万人しかいないような原始農耕生活の中で?」
「もしもファラハン文書の記述が正しければ、そうなります。逆に言うと、私たちが知っていると思っていた歴史が誤った情報だったかもしれない、ということです」
「しかし...だとすれば、すでにライブラリーに収納されている他の資料...言い換えれば、いまの私たちの歴史認識の元になっている多くの資料との整合性はどうなるのでしょう? 本当は、退行期も原始的な農耕社会ではなかったということですか?」
「仰るとおり問題はそこです。これを見て下さい」
ワイナー主任が壁のディスカッションボードを操作すると、ディスプレイに細かく記載された表のようなものが現れる。
「これが、私たちがファラファン文書に記録されていたデータと比較した代表的なデジタル古文書のリストです。リストの、赤枠で示された文書に注目して下さい」
ワイナー主任の操作で、それらのタイトルが大きく拡大され、横に内容のサマリーが表示された。
多くの文書は政府の下部組織があげてきた報告書や統計データだが、中には軍事行動の状況分析や難民の処遇、食糧の備蓄や配給に関する提案書などもある。
どれも当時の一般市民に対しては機密扱いされてしかるべき内容だろう。
「途中経過を省略して手っ取り早くご説明すると、ファラハン文書に含まれていた各種のデータの中には、すでに私たちの保有しているデータと類似の内容も多く含まれていました。先ほど申し上げたように、その多くは復興期に発見されて記録されたものです」
「念を押すようですが、それらが私たちの歴史認識の源ですね?」
「そうです。私たちの歴史観では、滅びの時代を生き延びたわずかな人類、せいぜい数千万人程度が、社会と文明を失い、世界各地で細々と原始的な農耕生活に戻って暮らしていました。
当時は気候変動や海面上昇の影響で北緯二十度から南緯二十度の温暖なエリアを除いて食料生産は厳しく、いま、私たちのセルが点在している島嶼部以外では、何度かの飢餓や大規模災害などによって、退行期の間に人類は絶滅したとされています」
発掘した資料の記述がどうであろうと人類が絶滅寸前だったのは間違いなく、問題はその時期と程度にすぎない。
ただ、その時期と程度のズレは、セル社会の成立を語るときに看過できなくなる問題をはらんでいる。
「しかし生き残ったコロニーではやがて技術の復興が進み、クローン技術も復元されて、女性同士で子供を持てるようになった。
当時の女性たちは、人類の99.9%を死滅させるという忌まわしい過去の問題点は攻撃的な男性種の存在にあると考えて、その存在を拒否しました。これが歴史にいう『女性の選択』です。
それを機に社会から男性種は急速に姿を消し、復興期の二百年ほどの間に、人類社会は完全に女性種のみの構成となりました」
ミシェルは頷いた。
この話の肝は、クローン技術がいつから利用できたのか? ということが争点だ。
「ただし、そもそも争乱から退行の時代の出来事については、資料によって記述内容がバラバラだというのが実態です。
記載者によって物事の受け止め方はかなり違いますし、不確かな伝聞を元に想像だけで書いたらしい内容も多いので、どれも頭から信じるわけにはいきません」
「ですが、政府関係の公式文書となると、少し扱いが違うのではないかしら」
ミシェルの言葉にワイナー主任は軽く頷くと言葉を続けた。
「重みが違う、というところですね...ファラハンの手記に書かれていた内容の多くは、同時に保存されていた連邦政府の公文と一致していました。しかし、『以前からライブラリーに登録されていた』資料の内容とはすべて矛盾していました」
「つまり?」
「正確に言うと、私たちのライブラリーに所蔵されているすべてのデータは一貫しています。そして、ファラハン文書に含まれていたすべてのデータの整合性も一貫しています。
問題は、同じ時期に、恐らく同じ連邦政府の部署によって記載された、同じテーマのデータの内容が、出所によって全く異なるということです。
ライブラリーのデータか、ファラハンのメディアに納められていたデータかで、記載内容が全く違うのです」
そう言ってワイナー主任はミシェルの顔を見た。
1オンスたりともジョークなど交えていないとわかる、真剣なワイナー主任の表情からも、猛烈に嫌な話に繋がりそうな感じがする。
ミシェルは、会ったときからそこはかとなく感じていた彼女の緊張感が、どこから生じているのかをやっと理解した。
「...それが、矛盾ということなのね?」
「はい。ファラハン文書のデータに基づくと、争乱時代の極めて短い期間で加速度的に人類が滅亡に向かっており、男性種に至っては、ほぼ絶滅を覚悟していたということが読み取れます。
対して、ライブラリーに所蔵されていたデータからは、それほど急速な男性種の減少は読み取れません。
もちろん、全人口の99.9%が失われたという事実は変わりませんが、争乱の時代、選択的に男性種が壊滅したというデータはライブラリーにはないのです...この意味がお分かりですか?」
「少し整理させて下さい。以前からライブラリーに登録されていた歴史的資料の内容は、どれもファラハンの手記と矛盾している。
しかし、同じ種類の資料を新たに入手して読んでみたら、ファラハンの手記を裏付ける内容を見いだすことができた。そういう理解で間違っていませんか?」
「その理解でけっこうです。ファラハン文書は最近まで人類の目に触れていなかったというだけで、はるか昔に、すでにそこに書かれていたことなのです。
しかし、すでに所蔵されていた資料にはどれ一つとして書かれていなかった。例えその二つが、まったく同じ時期に記された類似の資料であろうとも、なのです」
「それらの資料が書かれた当時から矛盾していた可能性は?」
「ないとは言いませんが...」
静かにこちらを見ているワイナー主任に対して、なんと言葉を返せばいいのか思い浮かばない。
何を喋っても荒唐無稽か、ろくでもない推理に陥ってしまいそうだ。
「あの手記を『古典文学』という位置づけで登録した理由をご理解頂けましたか? 状況証拠がどうであれ、いまこの時点では、あれを事実として扱うことは難しいのです」
「ファラハン文書と一緒に保管してあった公文書のデジタルデータのほうがねつ造だ、と考えるのは難しそうね」
「可能であったとしても、千年前にそれを行う理由が存在しません。後の世に嘘を伝えるためのジョークとしては手がかかりすぎますよ」
「それはその通りだわ」
「しかも情報の乖離の生じ方に、はっきりとした傾向があるわけです。いつ男性種が絶滅したか、言い方を変えれば、いつからクローン技術が使えていたか。
昔からここにあった資料には記載されておらず、ファラハン手記とともに発掘された資料には記載されていた。
違いはそれだけです。言うまでもないことですが、この事象が自然に起きたと考える人はいないでしょうね」
そうワイナー主任の言い方が、少しぶっきらぼうに聞こえるのは気のせいだろうか?
「ライブラリーに保存されていた資料は、すべて誰かが改ざんした。しかしライブラリーになかったものは改ざんのしようが無かった。そういうことに思えます」
ミシェルが素直に答えると、ワイナー主任はこくりと頷いて、それを肯定する。
そこでミシェルは頭に浮かんだ当然の疑問をぶつけてみた。
「いったい誰が、いえ、そもそも、なぜそんな改ざんを?」
「わかりません。『誰』については、少なくとも百年以上前の誰か、ということしか言えません。それに、『なぜ』については、正直なところまだ見当もつきません」
「でも...仮に改ざんが事実だったとして、退行期の人々が原始的な農耕社会にまで落ち込んだのではなく、遺伝子操作技術を使えるほどの技術を維持していたとするならば、それは良いことじゃないのかしら? 隠す意味がわからないわ」
「どうでしょうね...男性種と女性種が共生していた原始農耕社会であったことにしないとまずいことが改ざん者にとって存在したのだとしか思えませんが、それが『なぜ』かはさっぱりです」
「ちなみに、改ざんが百年以上前に行われたという根拠は何かしら?」
「後期都市遺跡時代から復興期までの歴史年表を構成するほとんどのデータは、百年以上前に確認されたものばかりだからです。
実際のところ、近隣の都市遺跡は過去三百年の間にほとんど調査済みでしたし、ここ百年ほどは新しい資料の発掘はほとんどありませんでした。
仮に、それらの中に既存の歴史観と矛盾する記述があっても、これまではそちらが異常例として処理されていたのです」
確かに、この百年で採掘技術や調査技術はかなり進歩したと言える。
結果、セルゾーン近隣の資源はほとんど確認済みとなった。
そして、陸地の内側へ入っていけない以上は、海岸線に沿って、さらに遠くへ足を伸ばすしかない。
その意味でもファラハン文書の発見はロングレンジボウラーが配備されたからこその、四百年ぶりの成果と言えるだろう。
ミシェルはそこで、『誰が』と『なぜ』に続く、もう一つの疑問を口にした。『どのように』改ざんされたのか? と言う点だ。
「ファラハン文書の手記と矛盾する、各種の記録内容については、原本の調査というか、原本との比較はされたのですか?」
それを聞いてワイナー主任は、顔をしかめた。
「正直に言って、そちらの方も大きな問題でした」
「問題? 記載内容がですか?」
「いいえ。そもそも、一つとして原本が見つからなかったのですから」
「は? ええっと、それはどういう意味の....」
「言葉通りです。デジタル化された情報はライブラリーに残っているのに、そのスキャン元である紙媒体やデジタルメディアなどの、オリジナルメディアは、一切残っていなかったのです」
「なぜです!」
「回復不能な損傷によって破棄されたという記録もあれば、事故で紛失したらしいというもの、記録上はあるはずなのに保管場所と指定されたキャビネットは空だった、というものもありました。
なんであれ、ファラハン文書と矛盾する記述が記載されている文書の『オリジナルデータ』を、何一つとして参照することができなかったのです。
それらは、恐らく失われてしまっているのでしょう」
そのことのあまりの重大さに、ミシェルも意図せず言葉が重く押し出すようになってしまう。
「...そんなことが...偶然に、起こるはずはありませんね?」
膨大な量の記録の改ざんが可能なポジションにいた何者かであれば、その改ざんが後で発覚しないように原本を破棄してしまうことも可能だったに違いないと思える。
「もちろんです。その証拠として、争乱の時代の出来事に触れていない、ただの技術文書などであれば、発掘されたオリジナルメディアがきちんと保管されています」
それは、今回に限っては良い情報ではなく、さらに悪い情報だと言えた。
「つまり、先ほどの矛盾の話にそれを重ねて考えると、改ざんされた歴史に関わる、言い換えると『改ざんの証拠になるかも知れないオリジナルメディアだけが、保管庫から消えている』という理解でよいのかしら?...」
「非常に残念ながら、その通りです。そして、私たちはそれに対する合理的な説明を思いつくことができません」
ミシェルとワイナー主任は少しの間、無言で見つめあった。
明らかに、『これ以上は話せることがない』というワイナー主任の意思が伝わってくる。
「主任にお聞きしたいことは山ほどあるのだけど、いまの状況は私が想像していたよりも、ちょっとめまぐるしい感じだわ」
「私としても、スッキリとしたご説明をできないことが辛いのですが...本来なら分析途中の案件は、まだ外部の方にお話できないのですが、せっかくお越しいただいたのに、何もご説明できないのでは申しわけなくて」
「お気遣いいただいて恐縮ですわ。確かに、あまり公けに話せることではありませんね」
「はい、できればいまはまだ、ここだけの会話に留めておいて頂ければ助かります」
「それはお約束しましょう」
「ありがとうございます。ファラハン文書についての扱いは、今後も新しい事実が判明したら、できるだけお知らせするようにいたします」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
その後、ミシェルはワイナー部長としばらく雑談を交わした後に、彼女のオフィスを辞去した。
情報科学研究所の建物を出るときには、同じくワイナー主任が玄関口まで付き添ってくれたが、その際にミシェルが興味を引かれたのは、この情報科学研究所の建物は、入るときと出るときのセキュリティが同じ、と言うことだった。
平たく言えば『各室に入るときにキーが必要』なのと同じように『部屋を出るときにもキーが必要』なのだ。
窃盗のほとんどないセル社会の省庁では珍しいシステムだが、記録の持ち出し管理を兼ねているのだろうとミシェルは想像した。
だが、そうやってきちんと情報の扱いを管理しているはずの場所で、容易に...かどうかはわからないが、かなり大々的な規模で、かつ、ほぼ完璧に情報の改ざんと証拠の隠滅が行われたのだ。
ジャンヌとエミリンがファラハン文書を発掘するという偶然を引き起こさなければ、いまでも人類の歴史に疑問を抱く人は誰一人いなかったのだろう。
ミシェルはそのまま開発局のオフィスに戻るのはやめて、暑さが少し和らいだ午後のセントラルパークを散歩しながら考えてみた。
まず改ざんの件の問題は、『誰が・どんな目的で』人類の歴史を改ざんし、過去の記憶を書き換えようとしたか、と言うことだ。
最初は利害関係を考えれば対象者を絞れるような気がしたが、この際、『誰』というのは差し置くとしても、ワイナー主任も言っていたように『どんな目的で』には、さっぱり見当も付かない。
そもそも人類の歴史というか、正確には争乱の時代の出来事の記録を改ざんするメリットが思い浮かばない。
もちろん、ファラハン文書の手記に書かれていた内容というか、当時の人間達のやったことはミシェルにとってもショッキングだったし、パラノイアの傾向がある人物が書いたと見なす方が、心の平穏という観点でも無難だ。
しかし、そうであったところで、いまのセルのどこにその内容が影響を及ぼすのかと言うと、歴史認識が少し変わる以外に実害は何もないように思える。
かつて人類が滅びかけたという事実は不変だ。
乱暴にいってしまえば、この改ざんで影響を受けるのは、出来事のちょっとしたタイミングと順序の問題に過ぎない。
ファラハン文書の手記の内容が100パーセント事実であったとしても、わざわざ、多大な努力を払って改ざんし、さらに証拠の隠滅まではかるような労力を注ぐ意味のある内容など、一つも思い当たらないのだ。
いかに過酷というか残酷な話であったとしても、それは、とうの昔に過ぎ去った出来事であり、これからの自分たちに関与できることでもない。
千年も前の出来事を隠蔽して、一体全体、誰にどんなメリットがあるというのだろうか?
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます