ベイムズ


(ムーンベイ・ベースキャンプ)


その後、二週間ほどでジャンヌの設計によるムーンライトトレイルのセンサーポール群を設置し終わり、警戒網が作動し始めた。


ジャンヌは両脇の山並みの稜線付近に向けても追加で幾つかのポールを立てたので、仮に悪天候などでドローンがまったく飛んでいない時でもキャンプが不意打ちをくらう可能性はほぼなくなった。


とは言え、過去にはエリア5078のような出来事もあったので慢心はできない。

どんな時でも、水が漏れ出すのは気付いてない隙間からなのだし、漏れた水を見てから初めて容器に穴が空いていたことに気がつくのだから。


ムーンライトトレイルが伸びたことで、ジャンヌは特に浜辺付近を『ベースキャンプ』と呼ぶようになっていた。ベースキャンプができたとすれば、次に考えることは『アタックキャンプをどこに置くか?』だ。


ムーンライトトレイルは厳しいラフロードではあるが、MAVやATVでもなんとか走破できる道になっている。

少しづつ資材を運び込めば、長期滞在できるキャンプを設置することもできない話ではなくなっているが、それは逆に、二人しかいない第一〇七支局のメンバーが分散してしまうか、どちらかの場所を完全に留守にしてしまうか、という話になるわけだ。


より正確に言えば、ジャンヌが一人で残るか残らないか、という話になる。


森を抜けてすぐの高原地帯の入り口_かつてアクラが地雷を設置したあたり_から、傾斜が緩やかになってくるあたりまでは、ジャンヌの敷設した哨戒ラインに期待できるが、完全に高地に上がってしまうと、どちらから攻めてこられるか予想もつかないし、環境ジャミングのノイズも激しい。


三人は、リエゾン調査の効率をできるだけ上げるためにどうすべきかを悩んでいた。


「確かにスレイプニルは無人でも船自体は問題ないけれど、ずっと空けっ放しにしておくわけにもいかないわ。

まぁ、この近くを他の支局の船が通ることはまずないでしょうけど...。

それにしても、もしも誰かがここに近づいて連絡を取ろうとしたときに私たちが音信不通だったら、余計な騒ぎを引き起こしてしまいかねないわ。下手をすれば本部から救助隊が出るわよ?」 


ジャンヌの言うことももっともで、二人が行方不明とでも誤認されれば間違いなく大騒ぎになる。

二人が『本当に行方不明』という状況は、いまは考えないようにしよう。

アクラが一緒でそうなったとしたら、もはや他の人々になんとかできるものではない。


「ジャンヌのセンサーポールでなんとかできないかしら?」 


「あのリンクは短距離通信用だもの。それに私たちの会話を遠距離無線に乗せて放送するわけにもいかないでしょう?」 


「そうなると、通信に関してだけ言えば、どのみちスレイプニルから離れるのなら、どこいにいてもそう大差はない、ということだよね?」 


「ええ、仮に私たちが一緒に船を離れてても、他の局員に知られるまでは騒ぎにならないと思うわ。大体、私たちの仕事ってそんなものだし...それにMAVが使えるいまは、高原地帯の外縁とベースキャンプは一日あれば楽に往復できるわね」 


「だったら、高原地帯に上がってすぐの、傾斜が緩やかになって開けてきたあたりはどうだろう? 

あそこなら平らな場所も多いし、MAVの利用にも支障がないんじゃないかな。

谷あいの不整地をトラバースして両脇からメイルやエイムが侵攻してくる可能性はまずないから、哨戒する方向も8割がた高原向けに絞れると思うよ」

 

「そうね、じっとしても仕方がないし、とりあえずそこに固定キャンプを作ってみましょう。それなりに長期居住できる設備で」


「アクラがここに丸太小屋をいっぱい建ててくれたおかげで、プレハブ資材はまだ沢山残ってるもんね!」


「でも、そっち側にエミリンや私がいるときにはアクラにも常駐してもらわないと怖くて仕方がないわ。

ベースキャンプとの往復が煩雑になりそうだから、MAVには自律走行ルート設定をしておいたほうがいいわね。資材運びはマシンとMAVでやりましょう」 


「ATVは二台ともベースキャンプに残しておく?」 


「一台はアタックキャンプに上げておきたいわね。MAVがずっと輸送で出払っている場合に、もしものときの脱出用になるから」 


「そっか、ATVなら二人乗りしても十分にメイルから逃げられる速度が出せるものね。じゃあ、RHIBは砂浜の近くに係留しておいて、MAVは輸送ルートを巡回、ATVはベースキャンプとアタックキャンプに一台づつ。

高原地帯の探索にはエイトレッグを使うっと。それでいい、ジャンヌ?」

 

「オーケーよ」


そこでアクラが意外な提案をした。


「ベイムズに乗れるようにしよう」 


「え?」 


ジャンヌとエミリンが同時に声を上げる。


「ジャンヌがフギンやムニンの背中に乗れるようにしてみようよ。僕の背中にエミリンが乗っているようにさ。

そうすれば、MAVで移動しにくい地勢の悪い場所でも速度の遅いエイトレッグに頼らなくて済む。エイムたちはMAVほどは早くないけど、エイトレッグよりははるかに早いだろう」 


「あら、私はアクラのシートサイズを大きくしてくれても良くてよ?」 

「ジャンヌぅ....」 


「冗談よ。あなたの指定席を取ったりしません。それはともかく、フギンやムニンで振り落とされたりしないかしら」 


「実験してみよう」 とアクラ。


「私で?」 とジャンヌ。


「ダミーで!」 アクラが慌てて言う。


この動揺は本気なのか、それともジャンヌの突っ込みに調子を合わせているのか。


「冗談は抜きにして、僕のハーネスをダブルシートに改造することもできなくはない。ただ、そうするとセンサー系の一部をさらに塞ぐことになる。後ろにずらして作業腕が使えなくなるのも困るしね」 


それから数日かけてフレームを作り、ベイムズの背中にフラットな『荷台』を乗せられるように工夫した。


大まかな寸法を測ってスレイプニルの工作室でフレームを削り出し、それをアクラがフギンの背中に乗せて現物あわせを行う。

破砕弾の発射ハッチは隠れてしまうが、その中身はすでに空っぽなのだから関係ない。


「あら、フレームも同じ色で塗ったの?」 とジャンヌが意外そうに言う。


アクラが二つのフレームの色とベイムズのボディの色をちゃんと合わせていたからだ。


「あの塗料には電波吸収効果があるからね。少しでも敵に発見されにくいほうがいい」 


「いえ、そうじゃなくって、フギンとムニンのフレームを、それぞれのボディの色とちゃんと揃えてあげたってこと。

だって、ステルス効果だけなら同じ色でも構わないでしょう?」 


「もちろんそうだけど、それじゃ美しくないかと思って...」 


それを聞いてジャンヌは微笑んだ。

それはアクラの美意識の発現だ。可視光スペクトルの両端なんていう味気ない話とは関係ない。


「それにしても、荷台を乗せたベイムズも悪くない姿だわ。不思議なものだけど、なんだかこの色も可愛く見えてくるわね」 


「実を言うと僕は、ムーンライトトレイルを造成している最中に、ふと思ったんだ。それまで僕自身は、他のメイルも含めて武装にばかり目がいって、自分たちを自意識を持つ兵器のような存在だと考えていた。

ただ、キャンプ地を造成したり道をならしたりしているうちに、どうもそうではない気がしてきたんだ。

むしろ、こういう土木作業こそ、メイルの一番の存在理由じゃないのかなって」 


「それも一理あるかもね、でも、ただの建築作業員に武器を持たせる理由はないわよ?」 


「そう、それが謎なんだ」 


荷台の上には船内で_ジャンヌのサイズに_作ったシートを置き、使わない時は荷物運びの邪魔にならないように折りたたんでおく。

アクラと違ってベイムズにはボディマテリアルの制御はできないので、シートはスレイプニル製のものをそのまま使うことにした。


同じくステルス装甲版もベイムズには制御できないので、折りたたみ式というわけには行かない。シートの周囲にフレームを回し、そこに貼り付けるのが精一杯だ。

それでも、いざというときには身を伏せれば流れ弾ぐらいは避けられる。

剥き出しよりは何倍もいいだろう。


「さすがにクッション性はこっちのほうがいいわね」 とシートの座り心地を試したジャンヌが言う。


「残念ながら僕のボディマテリアルでスポンジ化は難しそうだ」 


樹脂製のフレームを組み合わせて人間程度のサイズの骨組みを作り、それにジャンヌの作業用オーバーオールを着せる。隙間にはクッション材を詰め込んで、ほぼ人間と同じ大きさのマネキンを作った。

頭には間に合わせのカバー下に個人用の通信機とスピーカーを埋め込んであるし、適当に重りも詰めて_本人の自己申告によれば_ジャンヌと同じ体重に調整した。


でき上がったテストドライブ用のダミー人形をフギンの背中に乗せて、キャンプの周辺を歩かせてみたが、とりあえずの動作には問題ないようだ。

そのまま幾つかの作業をさせてみても、勢い余って振り落とすようなこともない。


ジャンヌは再びアクラのシートにぶつぶつ言いながらも乗り込み、アクラと一緒にフギンを連れてムーンライトトレイルにテストドライブに出かけてみることにした。


ジャンヌがリンクを通じてマネキンのスピーカーから指示を出すと、フギンはちゃんと指示に従う。


「エミリンがムーンライトトレイルで大型獣に出会った時、ベイムズは自分たちでエミリンの危険性を判断した。

ジャンヌの映像で学習した人間のボディの脆さから、あの大型獣の攻撃に耐えられない可能性を危惧したんだ。

だから、シートに乗せているものの許容範囲を理解していれば、それを守るように行動すると思う。それに普通のエイムやメイルの挙動は僕ほど激しくはない」 


アクラの推測はもっともだが、あえてジャンヌはそれを茶化す。


「人間でも荷物でもってことね」 

「まぁね、でも人間さえも運べないようじゃあ、熟したトマトは運ばせられないさ」 とアクラが答える。


きっと集合センサーに蓋が付いていたらアクラはウインクしていたはずだ。ジャンヌは内心そう思った。


「私の心とトマトと、どっちが脆いかなんてわからないわよ?」 

「トマト」 

「即答したわね、アクラ」 

「心は物理的に破壊できないよ。誰であってもね!」 


ただのジョークのやりとりのはずなのに、ジャンヌはアクラの言葉になぜか少しだけ寂しさを感じた。


「ねぇアクラ、あなたはこの先どうしたいの? エミリンを守るっていうこと以外に。自分の出自を知って、それでどうしたいの?」 


「なにかミッションがあったはずなんだ。僕に任されたミッションが。それを思い出したい」 


「もしも、その内容がエミリンを守ることと相反していたら?」 


「すべてに優先してエミリンを守る。それは僕の意志だ。以前ジャンヌが言ってくれたように、僕の自我そのものが破壊されない限り、それが変わることはないよ」 


「そうね。それは私とあなたの共通点だわ」 

「うん。その意志をずっと君と分かち合っていたいと思うよ、ジャンヌ」 

「ええ、もちろん私も同じ気持ち...ところで、少しフギンを走らせてみようかしら?」 


「やってみよう。それにもうちょっとアクロバティックなことも」 


ベルトによる固定なしでもダミーが振り落とされることは一度もなかったし、フレームに取り付けた加速度計が記録した最大Gも十分に平均的な人間の許容範囲以内だ。

やはりフギンはこの一ヶ月間で人間の脆さを十分に理解している。


アクラはムニンのシートも同じ基準で作成しておくことにした。

ジャンヌが座れるシートサイズならエミリンが座ることに問題はないからだが、決してそれは口には出さなかった。


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(高原地帯・峡谷のメイル)


高原地帯へのアタックキャンプを設立したついでに、アクラにはもう一つ試しておきたいことがあった。それは、あの峡谷のメイルと会って、リエゾンの探査に協力してもらえるかどうかを聞くことだ。


もちろん、あのメイルも自分の出自を知らないことはわかっているが、だからといってアクラと同じ興味を抱くとは期待できない。

自分にとって興味のないことであれば、協力してもらうことは望み薄だろう。


だが、もしも何か協力してもらえる可能性があるなら、高原地帯を居所にしている彼の存在は、リエゾンの発見に大きな力となるかも知れなかった。


「会ってくれるそうだ。フギンとムニンが武装していないこともちゃんと伝えて、決して撃たないと約束してくれた」 

前回と同じ大岩の近くに隠れていたジャンヌとエミリンに、一人で先に峡谷のメイルを探しに行っていたアクラが戻ってきて告げた。


なにしろ峡谷部分は広くて複雑な地形なので、行ったから会えるとは限らない。

アクラは二人にアタックキャンプで待っていた方が安全ではないかと提案したが、その場合は往復の時間がかかるし、峡谷のメイルが台地の上に出てエミリンたちを待っている間に、他のメイルやエイムから発見されて攻撃されるような事態が起きる可能性は、エミリンとしても減らしたかった。


折衷案として、今回はエミリンとジャンヌの二人が揃ってフギンとムニンの背中に乗ってきた。

これならもしも予期せぬメイルやエイムと遭遇した時でも、メイル並の速度で逃げることができるだろうし、アクラも荷物を気にせず戦える。


ジャンヌも一緒に来たのは、自分も峡谷のメイルに会ってみたいという彼女自身の希望でもあるが、ジャンヌだけを一人でアタックキャンプに残しておくくらいなら、アクラのそばにいる方が安全という側面もあった。


さっそく二体と二人はアクラの先導に従って峡谷の縁に向かうルートを進み始める。起伏の激しいエリアを抜けて急な傾斜を下ると、眼前に雄大な峡谷の景色が開けた。


「すごいわ!」 


初めてこの風景を見るジャンヌは息を飲んでいる。さすがに、破天荒なジャンヌでさえ、ここまで内陸深くを訪れるのは生まれて初めてなのだ。


いまはポータブルコンソールでドローンからの情報に目を配っているエミリンにとっても、見飽きることのない風景だ。

エミリンが目線を崖の縁に向けると、あのメイルが座っているのが見えた。

前回と同じようにこちらに横腹を見せているのは、本人の意思なのだろう。


「ジャンヌ、念のためにベイムズから降りて歩きましょう」 

「そうね」 


二人はフギンとムニンを止まらせると、身を屈ませてシートから降り立った。

二人が自分で歩き出すと、ベイムズは速度を合わせてそれぞれの横を進み始める。


しばらく近づいていったところで峡谷のメイルが『メイル語』で話しかけてきた。


ー「面白い姿をしているな、その二体のエイムは。光学的にははっきり見えているが、電磁スキャンでは霞んで....そう、まるで『幽霊』のようだ」 ー


ゴーストという面白い表現を取り出してきた。アクラにしてみると『ゴースト』というのは電波の反射や輻輳で現れる、実体のない反応という感覚の言葉だったが、彼の言葉は人間のフィクションに描かれている死んだ人間の残像という、不可思議な存在のニュアンスを示しているようにも思えた。


ー「電磁ステルス、電波吸収力を持つ塗料でボディーを塗っているんだ。十分に距離が離れればまったく見えなくなるだろう。それは、かれらの生存率を向上させてくれると思っている」 ー


ー「なるほど。うまい手だ。そういう手法があるとは知らなかった」 ー


ー「それにしても、同じところにいてくれて助かったよ」 ー


そうアクラが言うと、彼が答えた。


ー「危険を感じない限り、この前と同じところにいるようにしていたのだ。また君と会いたくてね。ところで、今日はそっちを向いても構わないかな?」 


ー「もちろんだとも峡谷のメイルよ。もう私たちは仲間だ」 ー


しかし、メイルが立ち上がって一行の方に頭を向けたとたん、突如フギンとムニンが恐ろしいほどのスピードで前へ進み出た。

斜めに突っ切るようにジャンヌとエミリンの前に出ると、峡谷のメイルに立ちはだかる。


エミリンにはすぐにわかった。大型獣の時と同じだ。


あのメイルの頭部にあるレーザーポートの射線から、自分たちのボディでジャンヌとエミリンをかばうようにブロックしているのだ。


ー「おやおや!」 ー


だが、峡谷のメイルはあまり慌てた風もなくアクラに言った。


ー「アクラ、君から彼らが武装解除されていると聞いていて良かった。でなければ、やはり戦闘が起きていた可能性が否定できないね」 ー


そして、エミリンとジャンヌの前に立ちふさがっている二体をまじまじと見つめて言う。


ー「攻撃しないで守るというのは、考えてみるとどういうことなのだろう? それは本当に可能なのか?」 ー


ー「わからない。ただ、この二体はそういう風に振舞っていると思う。いま君にしたように、自分のボディを盾にするという方法で」 ー


ー「しかし、それでは自分自身の生存欲求よりも、『他者を守る』という欲求が強いということになる。アクラには前回その話を聞いたが、そういう風に行動する意味がわからない」 ー


ー「僕にもわからない。たぶん、地雷...自動防御装置の一件で動機付けをしてしまったのだろうと思っているが...」 ー


ー「君が言っていた固定設置型の自動防御装置かね。それがどうしたのだ」 ー


ー「説明が難しい。あとでゆっくり話そう」 ー


ジャンヌとエミリンは、このベイムズの行動に峡谷のメイルが防御反応をとって、ぜっかくの会合を台無しにしてしまうのではないかと恐れたが、アクラは平然と会話している様子だ。ならば、大丈夫なのだろう。


「フギン、ムニン、大丈夫よ。慌てないで。彼は攻撃してこない。私たちは安全。彼は仲間」 


エミリンがゆっくりとそう言い聞かせると、フギンとムニンは、それを理解したのかどうか、静かに体を下ろした。


「ここにいてね、フギン、ムニン」 


前に進み出たエミリンとジャンヌの方に、峡谷のメイルは改めて頭を向けて音声を発した。


「人間・よ・理解・できる・か・わたし・の・声」 それを人間の音声で。


たどたどしいが、一番最初のアクラの発音に比べるとはるかに洗練されていて、すぐに理解できた。


「ええ、わかるわメイルさん。あなたの言葉は伝わっています」 


エミリンがもう一歩進み出てそう言う。


「良かった、もっと、喋って、欲しい、人間、エ・ミ・リ・ン」 

「私たちと人間の言葉で話をしてくれるのね」 


「あれから、とても、沢山の、言葉を、思い出した。発話も、なんども、練習した。先日の、人間の、音声は、全部、記録して、あったが、複雑な言葉を、組み立てる、には、まだ『音素』が、足りない」 


「音素? それはなんだい?」 アクラも人間の声で尋ねた。


「声の...人間の、音声言語で、一つの発音を、作り上げるための、その元になる、音の基本要素だ。知らないか?」 


「いや、それは知らないな」 


「そうか。...エミリン、沢山、話してくれれば、わたしは、その中から、沢山の語彙と音素を、習得する、ことができる。それは、わたしの言葉を、洗練させる」 


「わかったわ。沢山お話ししましょう。峡谷のメイルさん。それに、慌てて動いてしまったフギンとムニンを攻撃しないでいてくれて、どうもありがとう」 


「フギン? ムニン? それは、その二体の、エイムの、固有の名前、なのか?」 

「そうよ」 

「エイムは、名前を、持っている、のか?」 


この質問にはアクラが答えた。


「いや、恐らく持っていないな。持っていても知る方法もないが...この二体の名前は、エミリンたちが付けたものだよ」 


「アクラには、どうして、名前が、あるのだ?」 

「実を言うと自分でもわからない。ただ、それを知っていたんだ」 

「エミリン、には、どうして、名前が、あるのだ?」 

「私の名前は親が、その、私を生み出した人たちがつけてくれたの」 

「そうか...良いな、固有の名前が、ある、というのは....」 


しばらくの無言ののち、峡谷のメイルが言った。


「そうだ、私も、名前が欲しい。以前は、個体別の名前、という概念は、なかった。エミリン、私にも、名前を、つけてくれ」

 

「ええぇ!、それは責任重大....」 


「かまわない、自分で、つけるよりも、いい。君に任せる。何か、いい名前は、ないか?」 


「そんなこと言われても....どういう名前がいいのかしら?」 


予想を超えた展開にエミリンは慌てた。

一瞬、ジャンヌにすがろうかとも思ったが、頼まれたのはエミリンなのだから、エミリンが名前をつけてあげるのが筋だ。


「できれば、良い意味の名前、だと嬉しい。悪いものの名を、継ぎたくは、ない」 


エミリンは必死に考えてみるが、どうしてもエミリンが知っている友人たちのような名前をメイルにつけるのは違う気がする。

平たく言えば、これまでの知識からして、やはりメイルの名前は男性種の名前であるべきなような気がするし、エミリンは男性種の名前などまったく知らない。


いや、そう言えば一つだけ知っていた。


「えっと....オマルっていう名前はどうかしら?」 

「オマル....良い響きだ。由来は、あるのか?」 


「古代の人間の名前よ。いまから千年前に、ある都市の最後のリーダーを務めていた人で、とても理知的な人だったらしいわ」 


「そうか。オマル...いい名だ。これから、私はそう名乗ろう。ありがとう、エミリン」 


「どういたしましてオマル」 

「いい名前だわ。初めましてオマル。私はジャンヌ」 


「こんにちはジャンヌ。私の名はオマルだ」 

オマルはジャンヌにそう言って、生まれて初めて自分の名を名乗った。


春風が気持ちよくて、世間話にはいい日和だ。


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オマルの言葉が流暢になる速度が非常に早い。


実際に使ったことのない発音の正確さはともかく、前回、エミリンと出会ったことが切っ掛けになって記憶を取り戻し、今日再会するまでに、すでにほとんどの語彙を思い出していたのだろう。


アクラとエミリンからの説明にしばらく耳を傾けていたオマルが聞く。


「では、リエゾンを調べることで、自分たちの由来がわかるかもしれない、と、そう考えているわけか?」 


「そうだ。前回の話で、どうやら巣をもっているメイルは僕だけらしいと思うようになったし、フギンとムニンにも巣はなさそうな気がする。

ただ、僕やオマルのところにくるリエゾンと、エイムたちのところにくるリエゾンが同じものなのか、あるいは同じ場所から出発しているのか、それは不明だ」 


「だがアクラ、その出発点がわかったとして、それがどうして自分の出自につながる?」 


「リエゾンもメイルも、作り手は同じじゃないかな? それに補給物資も。

僕は、恐らく補給物資は大昔に作られたものが蓄積されているだけでなく、いまでも作り続けられてるんじゃないかって考えてるんだ。

いまも新たに作って運ばれてきているのなら、リエゾンの出発点には、その作り手がいるだろう? 

それは、僕ら自身の作り手とつながっているはずだ」 


「なるほど...」 オマルがじっと考え込んだ。


「アクラ、それは興味深い話だ。君と出会ってから、私は一つの疑問を抱くようになった。それは『なぜ生き延びたいのか』ということだ。

以前は、自分のボディを守ることだけを、生き延びることだけを考えていた。

だがいまは、なぜ自分が生き延びたいのかがわからない。

なぜ私は生き延びたいのだ? 生き延びて何をしたいのだ? それがわからない」 


「オマル、それは僕も同じだ」 


「アクラ、君にも生き延びることの目的はないのか? ただ生き延びたいという欲求があるだけなのか?」 


「以前はそうだった。何か目的はあるはずだったが思い出せないままだった。いまは、エミリンを守るという目的がある。

これは、自分が生き延びたいという欲求よりも上位に位置する欲求だ」 


「....それは興味深い。欲求を実現するために生き延びるのではなく、生き延びること自体よりも、欲求の実現が上位にあるのか。その矛盾は私にはまだ想像がしにくい」 


「だけど、エミリンを守るという欲求は受動的なものだ。エミリンが何かをしなければ、僕の行動目的も発生しない。僕は、僕自身の欲求としても自分の出自と、どうしても思い出せないミッションの内容が知りたい」 


「私にもわかる。私は自分がなぜ生き延びたいのかを知りたい。

この峡谷に隠れ住んで敵の目を避け、日々を長らえた先に何があるのか? 

ただ、いつか終わりが来る日まで...誰かに発見され、破壊される日まで、ただ生き延びた日数を数えることが、私が生み出された理由なのだろうか? 

私はそれを知りたい」 


「では、僕たちの調査に協力してくれるのかオマル?」 


しばらく考えた様子のオマルは驚きの提案を口にした。


「協力しよう。いや、一緒に調査をしようアクラ。できることならば、これから私は君たちと一緒に過ごしたい。話し相手も欲しい」 


「オマル、それは非常に嬉しいことだよ。君が僕らと一緒に来てくれるのは。ただ、君は自分のテリトリーを放棄しても気にならないのかい?」 


「テリトリーか...まず、私が日常的に潜んでいたこの峡谷を、誰か他のメイルがテリトリーにしたいと思うようなら、そいつは非常に面白い奴だろう。君や私のように。

もしもそういう奴とまた出会える可能性があるなら、それも悪くない」 


「なるほどね、それはもっともだ」 


「それともう一つ、空間的なテリトリーとは別に、心理的なテリトリーというのものもあるのではないだろうか?」

 

「それは良くわからないなオマル。場所ではないテリトリーということかい?」 


「そうだよアクラ。君がエミリンのそばを離れ難いように。...きっと君は、『エミリンのそば』にいられるのなら、空間的には世界中のどこにいてもあまり変わらないのではないかね? 私にはそう思える」 


「ああ、オマル。言われてみればそうだな。...いまはっきり気がついた。

僕はエミリンが元気であれば、どのような状況や空間だろうと気にしないな。それは確かだ」 


「生存よりも強い欲求というからには、そうだろうと思った。アクラ、それほど強い欲求かどうかは別として、私も君のそばから離れ難い。

私は君の近くにいて、もっと君やエミリンやジャンヌと語らいたい。それがいまの私の欲求であり、空間的なテリトリーに勝るものだ」 


「僕も君のことを同じように考えているよ、オマル。恐らく、それを人間の言葉では『仲間』と呼ぶんだ」 


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