手記


(都市遺跡・手記)


「エミリン、これは掛け値なしに大発見よ」


静かな声でジャンヌがそう伝えてくる。


静かな声なのはジャンヌがいつも通りに落ち着いているからではなく、逆にあまりにも感動しているからで...つまり、自分が読んでいる文章の内容にあまりにも感銘を受けて、心がそれだけに集中しているせいだ。


その、本のように見えた物体は、あの部屋の住人の書いた『手記』だった。


この都市というか、この都市を中心とした行政エリアの長を務めていたらしいその人物は、恐らく、この場所を立ち去るに当たって、自分がこれまでに見聞きしてきたことを文章に書き留め、それをまとめてあの頑丈なボックスの中に納めたのだ。


そういう行動をとったということは、自分の書いたこの日記が、もう自分で持っていても仕方がないことや、託すべき人もいないこと、そして、しばらくは新たな住人がこの部屋に来ることもないであろうことを確信していたと示唆している。


いつか、自分がこの地から去ってしまったずっと後に誰かの目に触れることを願って、あの頑丈なボックスの中に保管したのだろう。

せめて、あの箱を開くぐらいの技術力を持った誰かの目に止まることを期待して。


それは正確には回顧録と言ったほうが良いかもしれない。

最終的にあの部屋を去るまでにどれほどの日数があったのかはわからないが、その人物は、世界に起きたことを自分の知る限り記しておこうとしたようだ。


合成紙に印刷されているその『本』は、乾燥した状態で暗闇の中に密閉されており、驚くほど良い状態を保っていた。これならダーゥインシティに持ち帰るまでの長旅でも、まったく問題ないだろう。


ジャンヌは回顧録の中身をかいつまんでエミリンに読んであげる。

その冒頭は、こう始まっていた。



私の名前は、オマル・ファラハン。


このニューダーカーの街で長年、そして恐らくは最後の地域行政長官を務めてきた。

だが混迷を極めるこの時代に、もはや政治という物が意味を成さなくなってきていることは否定できない。今週も、街のあちこちでは残っている住民たちの間で騒動が起こり、海べりの旧市街区の端の方で火の手が上がっているのが見えた。


長官という肩書きもいまとなって虚しい物だ。すでに整えるべき対象となる街そのものが崩壊しているのだから。いまも官邸に残った勇敢な警察と治安維持部隊の面々が、この建物と周辺をガードしてくれている。ありがたいことだと思う。


ただ、それが意味をなさなくなることも時間の問題であろうと認識はしている。街の人々の避難があらかた片付いたら、私たち自身もここを離れなければならない。

市民のほとんどはすでに難民となって南東方面へ流出している。

伝え聞く状況からは、世界中どこに行ってもひどい有様であることが想像されるし、よそへ行ってどうなるというものでもないのかもしれないが、ここにいても仕方がないことは事実だ。すでに市の食料庫はほとんど空だと言っていいし、どこからかの救援が届く見込みもない。


あと数日か、長くても一週間程度の後には、この部屋を去ることになるのだろう。まだ部隊の面々が移動できる燃料や資材が十分残っているうちに移動を開始しなければならない。その時点で街に残っている市民がもしいたとすれば、それは自己裁量だと思ってもらうしかないだろう。

それまでの間に、私がやれることはそう多くはない。


そこで、静かに海に飲み込まれていくこの街をずっと眺めてきたこの部屋で、これまでに各地で起きたことを綴ってみようと思う。いつか、この争乱が過ぎて再び静かな時代が訪れたときに、これが誰かの記憶を呼び覚ます糧になれば、これ以上に嬉しいことはない。



何から書き始めれば良いのだろう? 天候激化による食料不足の常態化か、それとも海面上昇による市街地や耕作地の水没のことだろうか? 石油資源の枯渇か? ただ、どれが先に起こったのだとしても結果はそう変わらなかったに違いない。

簡単に言ってしまえば、人間はこの星が無理なく養える人数を超えてしまったのだ。


ここ数十年の間、確かにエネルギーはいつも各所で不足している状態になっていたし、それに起因する国家や民族間の地域紛争も絶えることがなかった。

それに石油が不足すれば化学肥料も不足する。肥料が不足すれば食料生産は低下する。腹が減れば人は争う。そして戦争は生産を破壊し消費だけを重ねていく。シニカルな見方かもしれないが、当然の帰結でもある。


天候不順というか、天候不定が当たり前のことになったのが、人類の活動に起因するものなのか、この星そのもの活動周期に基づく不可避なものなのかは議論があった。私自身は、いまでもどちらとも判断が付きかねている。

ただ、百年議論が続いていようと二百年議論が続いていようと結果は変わらない。居住環境の大幅な悪化と、これまた農業への大打撃だ。


そういったことは、私自身が生まれる遥か前から少しづつ広がっていたことであり、私がこの街に初めて来た時でもすでに、干潮で潮位が下がると海辺に沈んでいた建物が遠くまで姿を現していたものだ。

それに、もっともっと昔は、都市の奥地はいまのような乾いた茶色い山並みではなく、鬱蒼としたジャングルが生い茂っていたという話も聞いたことがある。



「ここからは、この市街の日常の様子や、この手記を書き始めるまでの市街地の変遷が書かれているわ。水位の上昇はだいぶ昔から始まっていたみたいね。

旧市街...というのが、恐らくいまは水没しているエリアだろうと思うけど、昔はそのさらに沖合にも8キロ...えっと...4マイルちょっと先まで市街地が広がっていたみたい」


「きっといまよりもずいぶん大きな都市だったのね」


「そうね、どんどん狭くなってしまったのか、それともどんどん標高の高い方にずれていったのかはわからないけど...ちょっとページを飛ばすわね。

先の方に紛争が酷くなってからのことが書かれているから、重要そうなところを拾い読みするわ」



地域紛争のエスカレートでとうとう核兵器が使われてしまったのはいつだったか。それでも最初の一つで人々が目覚めていれば、まだここまでひどい状態にはならなかったのではないかと思ってしまう。

私が知る限り、これまでに四つの核兵器が使用されている。

使われた核兵器がいずれも戦術レベルの小さなもので、今後数百年ほどの間、放射能汚染にさらされる地域が狭い範囲で済んでいることだけが救いだろうか。

それを救いだと思ってしまうほどひどい状況だという証でしかないのかもしれないが。



世界はいまや、絶え間ない局地戦争を繰り返す状態に陥っている。世界体制は混乱の極みとなり、あちこちで国家という枠組みが崩壊しようとしている音が聞こえてくるかのようだ。実際、私もすでに大統領府や中央官庁と連絡を取ることは諦めている。

情報ネットワークはほとんど機能しないし、なぜか無線通信も役に立たない。物流が途絶えた頃からヘリの一機さえも飛んでこなくなったし、こちらの地方軍司令部から送り出したヘリも、一機も戻ってはこなかった。

この官邸を警備してくれている治安部隊の兵士たち、皆、かつては私の可愛い部下たちではあったが、彼らへの指令本部からの命令も途絶えたままだ。もし誰かに、私が彼らを私兵化していると非難されたら認めざるを得ないだろうとは思う。



あらゆるインフラは動きを止め、食料も、資源も、必需物資やエネルギーも、いや、人々の移動手段でさえ止まってしまった。

いま現在、世界全体の様子を正確に知る手段はここにない。そして推測ではあるが、すでに世界中のどこにも残ってないのではないかと思える。

分断された世界のあちこちで、人々が少ない食料や医薬品を求めて彷徨っているというのに、まだ国家や民族や宗派という単位で下らない勢力争いを続ける愚か者が、憎しみの火を燃やし続けている。



欲にまみれて堕落してしまう人間の判断に社会を委ねずに、AIに政治を任せればすべて上手くいくと、昔はそう言われていたのではなかったろうか?

いや、かつて実際に世界は滑らかに回転し続け、人々は繁栄を謳歌していたのではなかったか?その、頼り甲斐があったはずのAIたちは一体全体、みんなどこへ行ってしまったのだろうか?



「AIってなに?」


「機械知性のことよ。昔の言い方だと『人工的知性』なのね。意味は同じだわ」

「え、じゃあなに、機械知性に政治をさせてたの?」


「そうよ。後期都市遺跡時代には、人間じゃあ利害関係とか感情が介在して論理的な意思決定ができないっていう理由で、政治や経済なんかの意思決定を、どんどん機械知性に任せるようになっていったそうよ」


「人間が意思決定しなかったら、意味ないじゃない!」

「そうかしら?」


「えっ!?」


「私も意思決定は人間の役目だと思うし、自我を持つ機械知性の製造を禁じているセルの法律も正しいと思う。だけど、いまだって機械の挙げてきたデータ、それも生のデータじゃなくて分析済みの結論を見て意思決定してるのよ?」


「それはそうだけど...」


「実際、人間の意思決定って言うのは、機械的に絞り込まれたいくつかの選択肢から選んでいるに過ぎないわ」


「うーん、そうなのかなぁ...」


エミリンは、ふと自分が農場で働いていたときのことを思い浮かべた。

マシンたちが送ってくる果実の熟度や収穫率の遷移データは、過去の膨大な蓄積から推定されているもので、確かに『それ自体』は人間が生み出したものとはほど遠い。エミリン自身だって、それらの解釈がどれほど複雑な数学的なプロセスを経てアウトプットされてくるのか、まるで理解していない。


人間は、機械が送ってきた報告を見て『どう対応するかを決めるだけ』だったが、それさえも機械任せにしてしまう...

じゃあ、それで何が良くないの? と改めて聞かれると、もしも機械知性が十分に賢いならば...人の気分が良くないという以上の実害は思い浮かばなそうな予感もする。


「ま、それでも、私は効率よりも感情で物事を決めることが人間として大切だと信じているけど」


エミリンの思索はジャンヌのあっけらかんとした声で中断された。


「続きを読むわ」



この二百年間に、AIを生み出す技術は大きく進化したという。二十世紀までの人間には、本当の思考力、すなわち自意識をもった装置は作れなかったそうだ。

やがて、それが実現し、人間がやるべきことの多くを機械が行うようになった。軍隊でさえ例外ではない。私の元部下たちに限らず、様々な兵器がAIで制御されていた。


思い出せば、私が生まれた頃にはもう、もともとは人間だったが肉体を失って精神だけを電子化して生き残っている人と、ゼロから人間に作り出されたAIを、電子的なインターフェースだけを通じて区別することは困難になっていたと思う。というか、そういう区別に意味がないという感覚の中で育ったという記憶がある。

肉体を持たず、あるいは肉体が滅びた後に電子化することで存続する人が増えたとはいえ、人は最初から電子の海で生まれてくるものではないが、電力の供給も情報ネットワークの接続も途切れたいま、彼らはどこかで長い眠りについてしまったのだろうか?



「人間と機械知性の見分けが付かないって、ちょっと想像できないなぁ」


「端末経由の会話とかで、内容が限定的だったら可能なんじゃないかしら?」


「技術の話に限定とか?」


「別に相手が機械知性だからって、機械の話じゃなくてもいいわよ。世間話だって、向こうがきちんとシミュレーションできてれば成り立つと思うわ」


「そっか、実際の経験がなくてもシミュレーションできてれば話はできるもんね」


「ええ、試したことはないから断言できないけど...遺伝子技術のこともちょっとだけ書いてあるわよ」



遺伝子操作技術がほぼ定着したのも、AIの発展と肩を並べていたと思う。

困難な遺伝病を駆逐することに成功し、ちょっとした知性の向上や肉体能力の強化さえ可能になってきていた。いまでは考えられないことだが、かつては生まれてくる子供が男の子か女の子かは『偶然』に任せていたのだ。

だが、そういう発展、あまねく人類を幸せにするために取り組まれたことさえ、社会に格差を増やすことになってしまったようだ。つまり、富める者と持たない者の差、それがどうしようもなく広がっていく一因となってしまった。


こんな地方の一都市に過ぎないニューダーカーでさえ、その貧富の差には眼に余るものがあり、そして行政、平たく言えば市民全員の幸福に責任を負う者として、なんとも心苦しい状態を変える方法はついぞ得られなかった。

それは、人々を幸せにするはずではなかったのか?

生まれてくる前から押し付けられてしまう不幸を人間の力で取り除き、幸せの総量を増大する取り組みではなかったのか?


きっと二百年も前に、遺伝子操作技術の実現に取り組んでいた人々は、それが多くの人類に、生まれてくる前から『あちらとこちら』を押しつけて、人々を決してシャッフルできないように階級区分するための道具になってしまうなどとは、まったく想像もしていなかったのだろう。



昔の人々を責めることはできない、が、恨み言の一つくらいは言ってもばちが当たらないだろうとは思う。

なぜAIを上手く使いこなせなかったのか?

なぜ人間を争わない生き物に変えることができなかったのか?


だがこれは愚痴なのかもしれない。やはり責任は人間そのものにあると私には思える。

きっと、争いで、戦いで、闘争で、戦争で、他人から何かを奪うことで自分の領域を増やそうとする人間特有の性質が、この世界を生み出してしまったのだろう。

かつては心を痛める暴力事件の温床だったニューダーカーのスラム街の様相さえ、思い出せば平和で暖かな日々だったと考えられてしまう、いまの世界を。



「つまり、この人の考えによると争乱の時代になったのは機械知性と遺伝子操作の責任じゃないか?っていう意味のことを書いてあるわね。前の方では核兵器のことにも触れていたけど...」


「核兵器ってどんなもの?」


「詳しくは戻ってから説明するわ。大雑把に言えば一度に何万人もを殺すだけでなくて、使用したエリア全体を二度と人が住めない土地にしてしまう恐ろしい兵器よ」


「聞くんじゃなかったかも...」


「そうも言ってられないでしょ? 続きを読むわ」



情報ネットワークだけでなく、軍用や防災用の無線通信でさえ、長距離間ではほぼ使えなくなってきている。先方の機材故障やエネルギー不足による機材の停止も考えられるが、治安維持部隊の通信担当は、航空連絡が完全に途絶している状況も含めて意図的なジャミングの可能性を排除できないと主張している。

こんな悲惨な状況でも、いまだに軍事行動を行う連中がいるというのか。なんとも言えない気分になる。



「この時代からずっと陸地の環境ジャミングが続いているのかしら? でもまさかね」


「さすがに千年動いている機械はなさそうな気がする。病原菌だって千年もたないんでしょ?」


「まあそうねえ...この先にちょうどウイルスのことが書いていあるわ」



ニューダーカー市民のほとんどはすでに外部へ脱出しているが、その行く末は正直に言って暗い。行った先で居住スペースや十分な食料が得られるかという問題もあるが、人々の移動速度よりも疾病の進行速度の方がはるかに早い様子だからだ。

しかも、人々が大群をなして移動するということ自体が疫病を広範囲に伝播する。


最初は内陸の一都市で見出された正体不明のこの疫病『砂漠熱』は、人類の歴史上、かつて出会ったことがないほどの、異常な致死性と伝染性を持っている。

私はいまはっきりと確信を持って、この砂漠熱のウイルスは人為的に作り出された生物兵器だろうと言える。むしろ他に考えようがないと言ってもいい。なんの前触れもなく大都市で突然発生し、それからあっという間にすべての大陸で患者が発生していた。


最初に発生した場所で開発されていたものなのか、それとも外国から攻撃的な意図をもって持ちこまれたものなのかははっきりしない。だから、この疫病の責任をどこかの政府に求めるのはお門違いかもしれない。

ただ、このウイルスの強力さ、悪意とさえ思えるその伝染の仕組みや致死効果は、人の手が作り出したものだろうと私には思える。いや、私だけではなく、この砂漠熱を研究した人間ほとんどの合意事項だと言っていいだろう。


感染には自然には考えられないほどの男女差があり、罹患した男性の死亡率は99.9パーセント以上に達する。つまり、いったん発症すれば確実に死ぬと言ってもいい。男性の持つY染色体への作用が取り沙汰されているが、女性が全く罹患しないというわけでもなく、いまだに詳細は不明だ。


この病気さえ生まれなければ、人類は、この争乱の時代を耐え抜いていたかもしれないと思う。いずれは、戦火の焼け跡から立ちあがった人々が、互いにもう一度手を取り合い、笑顔を交わすことができる時代が来ていたのではないかと考えざるを得ない。

私が最後に得た確かな情報では、多くの地域で総人口の七割以上が命を落としたと聞いている。これは、すでに飢餓と戦乱で多くの人命が失われた後の七割だ。

いまだに治療方法は確立されておらず、ニューダーカーの難民たちも一旦罹患すれば無事では済まないだろう。



「以前に疫病が猛威を振るったことは伝えられていたけど、こんなにひどい状況だったなんて知らなかったわ...」


「ほんとに....人類が滅亡寸前だったなんて...すごいショック」



私は、この回顧録を紙にプリントして金庫にしまっておくことにした。

記述データは私自身も持っていくつもりだが、果たして、それを読み取れるスレートやロールはいつまで存在しているのか定かではないからだ。すでにネットワークはあらかた機能していないし、新しいフエールセルやバッテリーの供給も望み薄だ。

私自身や治安維持部隊の兵士たちに残されたエネルギーパックの残りもそう多くはない。


メディアに収めたデータを持ち歩いたところで、それを読み取れる機械が周囲から消え去ってしまうことも、あながち突飛な想像とは言えないだろう。

だが、紙に書かれた文字ならば、機械がなくても言葉さえ通じれば読み取ることができる。だから私は、職員が市の倉庫から見つけてきた古いプリント装置で合成紙にこれをプリントして一冊の本にし、この部屋の金庫に収めておこうと思う。

いつの日か、この部屋を訪れる誰かの目に止まることを願って。

そして、その人物がこの金庫をこじ開けられる程度には技術力を持っていることを願って。

もしもそれまでに街そのものが消え去っていたとしたら、それは仕方がないことだ。

だが、訪れる人類が残っていないという風には考えたくない。

私は、そう遠くない将来に、人間が必ず理性と希望を取り戻すと信じている。


願わくば人類の未来に光を


2231年7月16日                  オマル・ファラハン



「手記はここで終わっているわ。途中でかなりページを飛ばしたから、街の様子の描写や細かい出来事の記述まで含めると、実際はこの五十倍近い文字量があるけれど...それに最後の方には、レポートって言うか、当時の統計的な事実関係を記録した資料も一緒にバインドされてる。これは絶対に持ち帰って詳しく研究したいわね」


「男性の死亡率は99.9パーセント以上って、そんな一気に大勢の人が死んじゃったの?」


「この人は、それが遺伝子操作で人為的に作り出された伝染病だと考えてるみたいね。手記の内容からすると、この都市にすでに病原菌が侵入していたとしてもおかしくはないでしょう。お願いだからMAVの中で発熱なんてことにならないよう望むわ」


だが、エミリンは別のことを考えていた。


「千年前の争乱の時代で大勢の人が死んで国や都市が崩壊したって言うのは歴史で習ったけど、男性種がいきなり絶滅して社会から姿を消したなんて話はなかったなぁ...」


「確かに人類の99パーセントと男性の99.9パーセントじゃ、だいぶ意味が違うわね」


「そうよね。百億人から生き残ったのが男女五千万人ずつ、じゃなくて女性九千九百万人と男性百万人だったらかなり不均衡だわ」


「エミリン、それどころか、もしもこの手記の内容が普遍的なものだと仮定すると、最終的な男性の生存者は全人類の1パーセントのうちの、さらに0.1パーセントだけっていう可能性だってあるわよ?」


「うわぁ、一億人の0.1パーセントだと十万人かぁ...九千九百九十万人の女性と、十万人の男性なんて、不均衡もいいところだわ。仮に男性の99.9パーセントが死んじゃってたら、自然に子供を残すのってかなり厳しい気がするなぁ」


「そりゃ比率で言えば九百九十九対一だもの。社会全体で取り組んでいかないと無理ね。きっと遺伝的にもすぐに血縁が濃くなりすぎてしまうわ」


「あれ? でも六百年以上前の人たちは、古歴史時代みたいな暮らしをしてたわけでしょ? もし千年前に男性種のほとんどが死んじゃったんだとしたら、遺伝子操作技術も無しに、どうやって人類は退行時代を三百年間も生き延びたの?」


「本当にそうだったらね。でも実際には、男性種だけが争乱の時代にいきなり絶滅したって記録は歴史上にないし、現実に男性種が急速に減っていったのは、むしろテクノロジーが復興して女性同士で子供を持つことが普通になってからよ?」


「そっか。それで『女性の選択』が起きたのよね」


エミリンの言う『女性の選択』というのは、復興期に女性同士で子供を持つ技術が復活すると同時に、女性同士が得る子供は、やはり女性であることを望むケースが増え、その積み重ねで社会からどんどん男性が減っていったという事象をさす言葉だった。


現代人なら誰でも知っている『人類が女性だけになった理由』だが、これまでエミリン自身は、その歴史的な経緯にはあまり興味がなかったし、子供の頃に学習してきた内容にも、人類史というものは、あまり時間を割かれてはいなかったように思う。


「ええ。いまと同じセル体制が確立したのは三百年くらい前だけど、それまでは男性種は数を減らしながらも社会に残ってたのよ」


「じゃあ、完全に男性が姿を消したのは、退行の時代が終わってセル体制が確立するまでの、復興期の二百年間の間っていうことよね?」


「そうよ。それに退行期や復興期の間だって、人口が一定だったわけじゃないわ。争乱の時代から退行期、復興の時代に掛けて、酷い疫病が何度か猛威を振るったと複数の記録に書かれているもの。

ただ、争乱の時代に男性種だけが99.9パーセントも死滅したっていう疫病の記述は、私は見たことがないわね」


「うーん、そっかー。このオマルって人が手記を書いた後に治療法が開発されたとか、病気が広まったのはこの大陸の周辺だけだったとか、そういうことかもしれないもんね」


「だって、これが書かれた年代から、セル体制が確立するまでに七百年くらいかかってるんですもの。きっと色々なことが起きていたと思うわ...」


「あ、そうだ。最後のところを、もう一回読んでもらっていい? 紙にプリントしてどうしたとかいうところ」


「ちょっと待って...ここね...『私は、この回顧録を紙にプリントして金庫にしまっておくことにした。記述データは私自身が持っていくつもりだが、果たして、それを読み取れるスレートやタブレットはいつまで存在しているのか定かではないからだ。

すでにネットワークはあらかた機能していないし、新しいフエールセルやバッテリーの供給も望み薄だ。私自身や治安維持部隊の兵士たちに残されたエネルギーパックの残りもそう多くはない。メディアに収めた』...」


「そこ! そうそれ。ねえジャンヌ、それを書いた人、『私自身や治安維持部隊の兵士たちに残されたエネルギーパックの残りもそう多くはない』そう言ってるわ。『私自身に残されたエネルギーパック』ってことは、これを書いたのは人間じゃないってこと?」


「言われてみればそうね...自分の使っている何かのマシンに必要って意味かもしれないけど、自分のボディに必要だとも取れるわ。

前の方の章では『とっくの昔に電子化された人間と人工知能の見分けがつかなくなっている』っていうことを書いていたし...」


「でしょ?」


「ちょっと待って....そうそう、途中にも『私の元部下たちに限らず、様々な兵器が人工知能で制御されていた』というくだりもあったわ。ここは元部下たちっていうのが人工知能で制御されている存在だと読めなくもない」


「それに、部下たちのことを『彼ら』と呼んでいるわ。ということは、その部下たちが人間じゃなくてマシンだったっていうことにならない?」


「でも、この時代の社会では、戦闘任務には男性種があたることが基本だったはずよ。『彼ら』というのはマシンのことじゃなくて、普通に男性種の三人称だと考えたほうがいいわね。

それともう一つ、一番冒頭の書き始めのところ....ここには『いまも官邸に残った勇敢な警察と治安維持部隊の面々』という一文があるわ。

勇敢な人工知能っていうのもあまりピンとこないし...それにこの文章自体が、なんていうか書いている人間の温かみを感じさせるものだわ。

とてもマシンのことを書いたものとは思えない」


「じゃあ、その彼らっていう男性種の人達なのかな...書き手や兵士たちは機械知性じゃなくて、もともとは人間だった人達が、その思考っていうか精神っていうか、頭脳をなんらかの手段で機械に移し替えた、そういう『元人間』みたいな存在だったかも?」


「一理あるわね。確かに」


「でしょ? でしょう!」


「ただ、文章自体がとても古い文体だし、私の知らない単語や表現なんかもずいぶん混じってる。いま、エミリンに聞かせていたのは、文字そのままじゃなくて、私が頭の中で現代語に組みなおしている部分も多いの。だから、読み取り間違いっていうか正確にニュアンスを掴んでいない可能性もあるわ。

結論を出す前に、やっぱりもっと詳しく分析してみたいと思う。物理的にというよりも記述内容としてね」


「ねえジャンヌ。それ、絶対に持って帰りましょうね」


「そうね、そうしたいわ。それにしても、ありがとうエミリン。あなたがこの都市遺跡の調査を思いつかなかったら、きっとこの手記はあと何百年も埋もれたままだったわ、いや、人間の目に触れることさえなかったかもしれない。あなたのおかげよ」


「えへ。そう言ってもらえると嬉しいな」


「じゃあ、私はさっき読み飛ばしたところも含めて、ここでもう一度最初から読み直してみるわ。ドローンはフルオートで飛ばし続けてちょうだい。遠距離探査は不要だから、この市街の周辺5マイル程度を哨戒するだけでいいわ。その距離なら、もしメイルが現れても、すぐにMAVを出して海に逃げ込めるでしょう」


「アイマム! ドローン二編成を二十四時間体制で哨戒任務につかせます。ジャンヌのMAVから陸側の半径5マイルを防衛エリアに設定」


「お願いね。じゃあ夕食は冷蔵庫のもので適当にとってちょうだい。フルーツサラダを解凍しちゃってるから、よければ食べてね。あんまり夜更かししちゃダメよ」


最後のセリフは上司や上官というよりも保護者のようだが、最近は実際にそんな感じでもあるので致し方ない。


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