ジャンヌ



(シティ・タウンハウス)


午後遅く、家に帰ったエミリンは、まだボーッとしている心地だった。


ランチに何を食べたのかさえ思い出せない。いや、そもそもきちんと最後まで食べ終わったのだろうか?

ポロポロとこぼしまくっていたりしていなかっただろうか?

デザートってあったっけ?


「まさか、ワイルドネーションを仕事場にしている人と知り会えるなんて考えてもみなかったな...」


プロジットのテラスでジャンヌが披露してくれた数々のエピソードは、瞬時にエミリンの心を虜にした。


霧に煙る森の中を飛び交う小鳥たち。

砂浜を埋め尽くして地面が見えなくなるほどの渡り鳥の群れ。

海岸線の切り立つ崖に佇む偶蹄類の家族。

どれもメディアセットで見る知識では知っていても、実際に見たことはないものだ。

そして、一度で良いからこの目で見てみたいものだった。

平たく言えば、エミリンは自然と生き物が大好きなのだ。


「彼女...カッコ良かったなぁ...」 ふと、そんな言葉をつぶやいた自分に、急に慌てふためいてしまう。

いやいやいやいや、ワイルドネーションで仕事しているって言うことをカッコ良く思ったわけで、人物としてどうこうとか考えたわけではないわ。

そもそも十歳以上は離れた年上だろうし、って、なんで年の差なんか意識してるんだろ私は?

ちょっと待って私。


エミリンはソファから立ち上がり、キッチンに入った。

一番好きなお茶を入れて、心を落ち着かせよう。


ワイルドネーションと深く関わりを持つ人物との思いがけない出会いに興奮しているだけなんだ。そう自分に言い聞かせて、窓の外の景色を見ながら熱いお茶を啜る。

『なんでもできそうな大人の人』 それがなによりもジャンヌの印象だ。

ジャンヌは自分の仕事に興味があるならと連絡先を教えてくれたが、なんにしても、もう一度ジャンヌと会うためにはこちらから連絡するしか方法がないのは確かなことだ。


エミリンが住んでいるタウンハウスの部屋は、ちょうど建物の角になっていて、テラスに繋がるリビングだけでなく、ダイニング側からもシティの中心部とその遠くにある海に向けての景色がよく見えるのが自慢だった。

実際に海そのものが見えるわけではないけれど、市街地の向こうに大きな海が広がっていることは十分に感じ取れる。


いま、そちらの方向には青白い空と、細くちぎった綿のような雲が浮かんでいる。もう夏の真昼間特有の眩しさは失われ始めていて、空の下の方がかすかなオフホワイトを帯びていた。


他の多くの友人達と同じように、エミリンは十四歳になって自分の最初の仕事を持ったときに両親の家を出て、自分で探したこの部屋に引っ越してきた。


そもそもセルでの暮らしは、親の生活時間に大きなゆとりがあるため、子供達に施される教育のほとんどが両親によるものと公共のメディアで充足されている。

そのため学校という存在は制度として明確化されておらず、地域ごとにボランティアベースで運営されているパブリックハウスのような存在であり、自分が好きな時だけ行く場所だ。


そうして子供達は地域の様々な環境で遊びながら学習し、成長していく。


学歴という概念もないので、まだ少女の頃から気分次第でなんらかの職業につき、その中でさらに専門性を身につけてプロフェッショナルになって行くケースが多い。

そして大抵の子供は、十二歳から十五歳ぐらいの間に、本人の興味や特性、知識レベルに合わせて最初の職業を持つ。


もちろん、仕事は一つか二つ、それも負荷の軽いものに絞って、空いた時間のほとんどを好きな学習に費やす人も大勢いる。

そういうのは、もっと年長になってから技術者や学者になるタイプの人だ。


職業を持つことと、何らかのボランティア活動に従事することで市民として自立すると、セル行政府からのベースクレジットが自分名義で配布されるようになるので、大抵の子供は、それを機会に親から独立した生活を送るようになる。

それは自分のスタイルを持つようになれるということで、セルで成長する子供達にとって、何よりも重要な大人への通過儀礼と言えた。


自分のスタイルを持つこと。

すなわち、自分の美意識を育てることは、セルの市民として最も大切なことだ。

人から教えられるだけではなく、自分自身で美しい所作を身につけなければ、いつまで経っても周囲から一人前の人間だと見なしては貰えない。


いまようやくエミリンは大人として周囲に認められ始めたところだった。


「大人かぁ...」 無意識にそうつぶやく。


自分はジャンヌと較べてどのくらい子供なんだろうか。というか、自分がジャンヌのような自信や威厳を身につける日は来るのだろうか?

それは、いまのエミリンにとっては到底想像が付かない未来の話に思える。


仕事を持つ。

ボランティアとして市民の活動に参加する。

プロフェッショナルを目指す。

パートナーを見つける。

子供を得て、育てる。....


そういうことが、これまでのエミリンにとって、ぼんやりとした大人へのステップだった。

でも、ただ、そういう当たり前のことをしていくだけでは、今日出会ったあのジャンヌのような大人には、到底なれっこないはずだ。もちろん、ジャンヌはきっと自分なんかとは違って、最初から、生まれつき凄い人だったんだろうとは思うけれど。


そんなことをとりとめもなく考えていると、ジェインからのコールが届いた。

もう、彼女もとっくの昔に勤務を終えてシティに戻ってきているはずの時間になっていた。


「ハロー、ジェイン」

「ハロー、エミリン。ちょっと話したいんだけど、いまは大丈夫?」


「いいわよジェイン。別に何もしてなかったから」


「そう良かった。さっき言いかけたのはナタリーのことなんだけどさ、ちょっとエミリンに聞いておきたいことがあって」


「いいわ、何でも聞いて」


そう言いつつも、エミリンは心の中で一種の覚悟を決める。


ナタリーは十ヶ月前までエミリンの恋人だった。


良い娘だけど杓子定規なところがあって、エミリンの、特にピクニック好きとかワイルドネーションへの興味とか、『変わり者』趣味なところに眉をひそめるような意見を示すことも多かった。

それだけが問題ではないけれど、なんとなく二人でいる時間を互いに億劫に感じるようになり、やっぱり普通の友達同士でいるべき、という合意に至ったのだった。


その後、農場のマシンパイロット研修で同期になり、エミリンと意気投合していたジェインを紹介して、ジェインとナタリーがつきあい始め、エミリンとジェインが研修を終えて新人向けの仕事が多い同じタワーに配属されたのが半年前だった。


「こんなことをエミリンに聞くのも、気が引けちゃうんだけどさ....」


よほど言い出しにくいのか。

ジェインが、そこで長い一拍をおいてようやく続ける。


「ナタリーって、誕生日プレゼントにどんなものを喜んでくれると思う?」


咄嗟にエミリンは吹き出しそうになってしまい、ジェインにそれを悟られないように必死にこらえる。


「やっぱり変だったかなぁ?こんなこと聞くの」 


ジェインは、エミリンの沈黙を別の意味で捉えたようだ。


「ううん、そうじゃない。そう言われてみると何が良いんだろうって考え込んじゃっただけ」 


これは嘘だ。

本当は笑いをこらえてた。

自分のために利己的な嘘をつくのは美しくないけど、この程度の嘘なら許容範囲だよねと自分に言い聞かせる。

だって笑いたかった対象はジェインじゃなくて、変に気を回しすぎていた自分自身なんだから。


「そうねぇ、ナタリーって真面目なタイプでしょ?」 


気を取り直してエミリンが言う。


「模範的っていうほどではないけど...。だから茶化したりふざけたりしたものよりも、ストレートに綺麗なものとかの方がいいと思うの。深く考えすぎるよりも、いかにもナタリーが好きそうって感じの可愛いアイテムなんかが、実は一番良いと思うなぁ...」


これはひょっとすると、いまの自分に言い聞かせている言葉なのかも知れない。

でも、ジェインには光明だったようだ。


「そうか、そうだね! うん、言われてみるとわかるかも。あたしさぁ、実はちょっとひねったものばかり考えちゃってたんだよね...ウケたいかも?って」


「そういうのも悪くはないと思うけど、たぶんナタリー自身が予想できる範囲にしてあげた方が、喜ぶと思うんだ」


エミリンにはナタリーの趣味がよくわかっていた。それはアウトドア趣味のことを除けば、ナタリーの趣味は自分の趣味に近い物でもあったからだ。

小さくて可愛い物、カラフルな物、丸くて柔らかな雰囲気の物、そういう物を選ぶ傾向については、エミリンもナタリーもそっくりだった。

カップルになるペアは、やっぱりシャープなタイプとキュートなタイプっていう組合せが多い。


自分とナタリーのように、キュートと評されるタイプ同士の組合せは少ないと思うし、どちらかというとシャープなタイプのジェインの方が、ナタリーの相手としては自分よりも似合っていると思う。


「だよね...うん、やっぱり思い切ってエミリンに相談して良かったよ。ありがとう」


「お役に立てて光栄ですわ」 


エミリンが茶化すと、ジェインが部屋中に響くような大声を立てて笑う。

この豪快さがジェインの持ち味だ。


「サンキュー、エミリン。その線で考えてみるよ。品物選びとかで悩んだらまた相談するかも?」


「もちろん、いつでも聞いてね」


そして別れの挨拶代わりに他愛のない会話を幾つか交わし、じゃぁまた今度、とリンクを切った。


考えてみると、ナタリーがジェインに惹かれたのも、いまのエミリンとエスラが互いに惹かれているような気がするのと同じなのかも知れない。

自分にないものを求めるという、シンプルな理由。


自分とナタリーの間で違和感が育ってしまったのは、どうしてなんだろう? 

ファッションの趣味が似ていたから?

お互いが似ていたから? 

いや、やっぱりそうは思えない。

自分にないものを求めるというのは、本当にシンプルな理由なのだろうか?


シンプル? 

私はどうなんだろうか?

私は何を求めているんだろう?

私にとって、いまの自分にないものとは、エスラなのか、ワイルドネーションの景色なのか、それとも....


エミリンは決心して立ち上がると、リビングに戻った。


椅子に座り、姿勢を正して深呼吸をすると、ジャンヌから貰った連絡先を慎重にコールする。

コール先のIDはジャンヌが自分の勤め先だと言った『資源探査局・第一〇七支局』と表示されている。

すぐに繋がった。


「ハロー? こちらはジャンヌ・ルース」


ダイレクトに本人が出た。

瞬間、エミリンの頭に血が上りそうになるが、必死で冷静さを保つ。

きっとこれも私にとっての『修行』だ。


「あの、あたしエミリンです。今日、プロジットのテラスでお会いした...」


自分の口から出てくる言葉が、普段とはまるで違うしゃちこばった話し方になっていることを自覚する。


「ああエミリン! 嬉しいな、さっそく連絡してきてくれて」


そう言われて思わず舞い上がりそうになる。


「いまお忙しいですか? あの私、もっとワイルドネーションっていうか、えっと、ジャンヌのお話をもっと聞きたいんです。それで、あの、今日のお店、プロジットでまた、お昼ご飯とか、いかがですか?」 


緊張で舌を噛みそうになりながらも、心が勢いを失わないうちに、勇気を振り絞って聞いてみた。


「いいわね。あそこは素敵な店だから。でも、私にもアイデアがあるの。折角だからエミリンを面白いところに連れて行ってあげたいと思うんだけど。どう、来てみない?」


「はい、もちろん。私はお話が聞けるなら何処でも...」


「オーケー、じゃあ決まり。都合がいいのはいつ?」


「明後日以外なら今週はいつでも大丈夫です。来週も、まだ勤務シフトを変える余裕が沢山有るのでいつでも構いません」


「そう。じゃあ土曜日のお昼でいいかしら?」

「はい」


「それじゃぁ土曜日の十二時頃にシティのポートゾーンまで来てちょうだい。正確な住所はそのアドレスに送るから」


「はい、必ず伺います」


「じゃぁ、楽しみに待っているわエミリン」


ジャンヌとのリンクを切ったあと、エミリンはしばらくの間、ボーッと座り込んでいた。


ジャンヌに快く受け入れられて嬉しい反面、心のどこかで、自分がなにか後戻りのできない一歩を踏み出してしまったような予感がしていた。


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(南の海岸・クルーザー)


湾内でゆったりと波に揺れるクルーザーの上では、夏の午後の光が、定規で引いたようにくっきりとした輪郭の影を作り出していた。


つい先日、レストラン・プロジットのテラスでキリエに教えて貰った水墨画の、すべての景色が溶け込んで一つになってしまいそうな雰囲気とは対局にあるビジュアルだ。


光と影の強いコントラスト。


強烈なくらいに蒼い海面と赤みを帯びた崖の岩肌。


かすかにベージュがかった白い砂浜。


反対側に目をやれば、果てしなく広がる蒼い海と空の先に、白い雲が泡のように薄く広がっている。


この真っ白なクルーザーのデッキはクリアな塗装で被われた木材のように見えるけれど、実際はすべて太陽光発電セルで覆われているそうだから、きっといまは全力で発電中なのだろう。


蒼いシェードの下で食後のデザートを食べているジャンヌの柔らかな髪が、その頭の動きに応じてデッキから照り返す光にキラキラと輝く。

時折通り過ぎる優しい風に、髪のへりがふわりと持ち上がると、まるで亜麻色の髪の一本一本が自ら発光しているように綺麗だった。


ついエミリンはうっとりとそれに見入ってしまいそうになる。


生まれて初めて海側からこの海岸の美しい景色を眺めて、普通だったらそれだけで自分は有頂天になっていただろうと思う。

昨日は、エスラとこの近くの海岸にピクニックに来て、二人で陸から海を眺めていた。それが今日は、思いもかけず、反対に海の上から陸地を眺めることになっている。


人生にこんなことが起きるなんて想像もできなかった。


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約束の土曜日、お昼になって指定された場所に赴いたエミリンは、そこに100ヤード近い長さの巨大なクルーザーが停泊しているのを見つけた。


だが、それはとりあえず自分とは無関係だと思って、周囲にジャンヌの姿を探したが見当たらない。

指定された時間にはまだちょっと早かったので、自分が早すぎたんだと思い、何処で待っていようかと視線を巡らせたとたんに、思いがけず頭上からエミリンを呼ぶジャンヌの声が降ってきたのだ。


エミリンが見上げると、巨大なクルーザーの舷側から赤いシャツを着たジャンヌが身を乗り出して手を振っている。

まずそれに、とんでもなくびっくりしてしまった。


真っ白なクルーザーの上から手を振るジャンヌの姿は、まるで青空を背に真っ赤なバラの花が浮かび上がっているようで、思わずぽかんと見とれてしまう。


そして、あらためてまじまじと見たそのクルーザーの姿は、これまでに見たことのあるどんな貨物船とも違っていて、その美しさにエミリンは魅了された。


船首のあたりには金色のレリーフで船の名前らしき文字が書いてあったけど、これはエミリンにとっては馴染みのない筆記体で、最初の文字が『S』で始まっていること以外はちゃんと読みとれない。


純白のボディは船首から船尾まで緩やかなカーブを描いて水面から立ち上がり、前後の突端で吃水から一番高くなっている。


船首には読み取れなかった文字のレリーフの他にも、普通に読み取れるアルファベットと数字の記号が薄いブルーで『RED-107』と船体に直接プリントしてあり、エミリンは、きっと最後の数字の107って言うのは、ジャンヌが所属していると言った資源探査局の『第一○七支局』のことだろうと考えた。


じゃあ、最初のREDは、『赤色』っていう事じゃなくて、Resource Exploration Departmentの略かしら?


船の中央より後ろにはガラス張りで台形の建物が乗っていた。

船の上に建物なんて言うとおかしな感じがするけれど、船のサイズが大きいから、そのガラス張り部分の高さも、たぶん三階建てか四階建てくらいの高さがある。

実際に岸壁の向かい側にある倉庫と比べても、あまり高さが変わらないぐらいだ。


真っ白なボディに木目と金属の美しいトリム、それにガラス張りの構造体の組合せは、うっとりするほどゴージャスで、製作者の美意識を強く感じさせる。

全体を流れる有機的なラインは、道具としての輸送機械以上の何かを感じさせるし、建造物としてみれば、質感や造作のディティールはシティのオペラハウスを彷彿とさせた。


舷側には前寄りと後ろ寄りの二カ所にドーム型の膨らみがあるけれど、船のことに詳しくないエミリンにはそれがなんなのかは分からなかった。いや、エミリンに限らず、普通のセル市民は船と関わる事なんてまずないから、知らなくて当然なのだけど。


クルーザーにエミリンを乗せたジャンヌは、昨日のピクニックでどこに行ったのかと聞いてきたから、南の海岸で車を降りたときの大まかな位置を答えると、そのあたりの地図を操舵室のディスプレイに表示してみせた。


そして、「オッケー、そこに行ってみましょうか」 と何食わぬ顔でクルーザーに行き先を指示して発進させたのだった。


クルーザーにはジャンヌの他に誰も乗っていなかった。というか、レイバーマシンは沢山いるものの人間はまだ誰も見かけてない。

発進するときに船の管制コンピュータが『乗員二名』と言っていたので、ジャンヌの他に乗組員がもう一人いるのかと思っていたが、どうやら自分を含めて乗っているのが二人、という意味だったらしい。


こんな大きな船でもたった一人で動かせるんだ、と、エミリンはパイロットとしての職業上の興味を抱いた。


自律動作で洋上を滑らかに走っていくクルーザーの操舵室でエミリンとジャンヌはおしゃべりを続け、目星をつけた海岸沿いに雰囲気の良い湾を見つけると、その中に入って船を停めた。


「ここで食事にしましょう」


ジャンヌはそう言うと、てきぱきとレイバーマシン達に指示を出して甲板にテーブルを広げさせ、あらかじめ作っておいたらしいバラエティ豊かな食事を次々とギャレーから取り出してきて、エミリンの前に並べてくれた。

エミリンは自分も手伝うと主張したけれど、「いいからお客様は座ってて」と押し止められてしまった。


そしてジャンヌが出してくれた食事は、プロジットにも負けないくらい素晴らしかった。

いまは、クルーザーのゆったりしたかすかな揺れも、食後のけだるい微睡みを誘ってくるようだが、エミリンの心はジャンヌの言葉を一つたりとも聞き逃すまいとレーダーを張っているかのように、いや、小石が投げ込まれる前の池の水面のように澄んでいた。


ジャンヌが笑って言う。


「パイロットだと聞いていたから、こういう場所での食事も大丈夫だろうと踏んだのよ。人によっては最初は揺れで三半規管をおかしくして不快な状態になってしまう場合もあるけど」 


確かにエミリン達マシンパイロットは、自分で移動用マシンに乗って動くことはそれほどないけど、マシンの送ってくる主観映像をモニターしたり、それこそ揺れ動いているような群れの流れを見ながらコントロールすることには慣れているせいか、特に違和感を感じたりはしなかった。

それに『変わり者』のエミリンは、農園内の視察時も自分自身で操縦することが多い。


「エミリンが船に弱い人でなくて、本当に良かったわ」


そう言ってジャンヌが話を続ける。


「人間というものは、潜在的に危険なものを嫌う。そうでしょ? 

だから人は誰でも不潔なものや見苦しい行いが嫌い。それらは病気をもたらすかも知れないリスク源、あるいは社会や人間関係に亀裂をもたらすかも知れないリスク源だから。

そう考えると、自分からワイルドネーションに出かけていこうとする人が、ごく少数に限られるのも当然のことだってわかるわ」


変わり者のエミリンのように。


「だってワイルドネーションはリスクの源泉といっていいような空間だから...シティの内部にいれば絶対に出会うはずのないリスクが、そこには満ちあふれている。

地形は人間が移動しやすいように整形されていないから事故の危険も高いし、天候の変化も激しい。病原菌はそこらにうようよいるだろうし...

極端に言えばウイルスから菌類、毒草や肉食獣まで、それどころか地形や気候そのものまで、潜在的には人間を死に至らしめるポテンシャルを持った存在でひしめいているってことね」


そう言われてみると、そうなのかも知れない。


農業とそれに関わる動植物や生態系については一通り学んでいるから、シティの中で完結するタイプの仕事に就いている人々よりは、他の生物相に関する知識は有る方だと思う。

だが、野生の動植物を媒介して人間に影響を及ぼす病原体などが沢山存在することを知識として知ってはいても、ワイルドネーションをそういう風にハイリスクな場所として捉えたことはこれまで無かった。


「でも...」 ジャンヌは手に持ったグラスの中身を煽ってから続けた。


「そこには美があるわ。自然の美、生命の美。

確かに農場の景色はステキだけど、それでも自然の森林に較べれば工場というか、生産現場の一種に過ぎないわ。

ワイルドネーションにいて感じるものは、セルでの生活で感じるものとは違うけど、やはりそれは美だと思うの」


エミリンはそれに心の中で同意する。


これまで解ってくれる友人は少なかったけれど、ジャンヌの言う自然の美、生命の美は、まさに自分が魅力を感じて止まないものの中心にあるのだと思う。

『美しい』と言う概念、それは現代社会において、人間のあらゆる行動の元になる規範だと言っていい。

だが同時にジャンヌは、美しいことを求める人間の普遍的な行動原理の根底にあるのは、リスクへの恐怖だとも言っている。

もちろん、それがすべてではないにしても。


そしてワイルドネーションとは、当たり前に考えればリスクのひしめく恐怖のるつぼだと言っている。


ではなぜ?


「ではなぜ、私やあなたはワイルドネーションに美を感じるのか?」


そう、確かに問題はそこ。


「それはね、エミリン。私やあなたがリスクと向き合う行為に美を認める、冒険家という珍しいタイプのプロファイルを持つ人間だからよ」


『冒険家?』 思いも掛けない言葉を聞いて、エミリンの心は少し混乱した。

確かに精悍な雰囲気を纏うジャンヌは、多少の怪我もいとわずに限界にチャレンジするタイプの人だと納得できる。


でも自分はどうだろう? 


明るくて活発なタイプだとは言われるけれど、体は痩せてて小さいし、グラマーなジャンヌとは正反対な気がする。

だってマシンパイロットには特に筋力も必要ないし、その仕事内容もチャレンジ精神みたいなものからはほど遠い。

それに自分で言うのも変だけど、自分の好きなファッションは、ジャンヌのようなシャープさよりも可愛いと言われるタイプの方だ。

農場のパイロットというよりも、むしろシティでサービス業についていると言った方が納得して貰いやすいかも知れない。


エミリンは思わず、ジャンヌと会うために一生懸命にお洒落してきた今日の自分の服装を見下ろした。


フレアが可愛いストライプのスカート。

縁取りのレースがキッチュなメッシュのベスト。

柔らかな光沢を持った麻のシャツ。

こんな私の何処に、リスクを好む要素があるって言うのだろう?


「エミリン、このクルーザーに乗った感想はどう?」 


そう言ってジャンヌは、四角い皿に盛られた木の実のシロップ漬けを一つ摘まみ上げると、上を向いて口の中に落とした。


ちょっと考えてエミリンは答える。


「すごく興奮しました。ステキだと思ったわ。こんな素敵な乗り物があったなんて。仕事以外でセルゾーンの外に出る人はあまりいないし、船で海に出るなんて輸送関係のジョブ以外では普通ないですよね」


セル間での輸送関係のジョブというのは、すべて中央政府の統括なので、自分にはあまり縁のない世界だという印象だった。


「それに、この近くの海岸線には何度もピクニックに来ていたけど、海側から見たらこんな風だなんて、今日初めて知ったわ。上手く言えないけど、とっても感動してます」


「大昔はね、エンジン付きのクルーザーや風力で動くヨット、それに人力で漕いで動かすボートとか、小さな船を個人で楽しむ人も多かったらしいわ」


「そうだったんですか」


「でもだんだんと廃れたそうよ。なぜだと思う?」


「クレジットが沢山かかるとか?」


ジャンヌはかすかにクスッと笑う。


「海には高いリスクが付きまとうからよ。いまの人間は、こんなに海辺にへばりついて暮らしているのに、自分から海に入ろうとはしない。

わずかなエリアで海藻を育てるくらいで、海に出て魚を捕ったりはしないし、どんなに暑い日でも砂浜で泳いだりはしないわ」


「それは...」 とエミリンも口を挟む。


「泳ぐのは管理者のいるプールだって決まってますから。

それは置いとくとしても、海にはサメっていう危険な魚がいて、うっかり泳いだりしていると一瞬で食べられてしまうんでしょう? 

それに、猛毒を持った透明なクラゲや砂に埋もれている有毒生物がうようよいて、気づかずに触れただけで死んでしまうこともあるって」


エミリンはそれを常識だと思う。


さっきジャンヌ自身が言ったように、街の外には『潜在的に人間を死に至らしめるポテンシャルを持った存在でひしめいている』ということだ。

誰でも幼い頃から普通に知らされていることで、言うなれば海とは巨大な『危険物の坩堝』なのだ。

だから、海を見て綺麗だとは思っても、自分が海中に入ろうと思うなんて考えられない。たとえワイルドネーションが好きなエミリンであっても。


「そうね。人は命を大切にしたい。それが自分のであっても、他人のであっても。人を傷つけるのも、人に傷つけられるのも嫌。そして人間は徐々にリスクを伴う行為を社会から減らしていったのね。

誰に強制されたわけでもなく、ただ自然とリスクを取らなくなっていっただけ」


エミリンにも、それは当然のことだと思える。


「招待しておいてこんなことを言うのもなんだけど、確かに海上移動には高いリスクがあるわ。実際に過去には、セル間の輸送船や連絡船が悪天候で沈んで、人の命が失われたことも数え切れないほどあるの」


あまり考えたことはなかったけれど、確かにハリケーンの最中に海に出ていたら、きっとただでは済まないだろうと思う。

公園の備品が倒れるレベルじゃすまないことは確かだ。


「このクルーザーは大きいし、滅多なことで沈みはしないだろうけど、それでも天候の急変や巨大なハリケーンとの遭遇、予期せぬメカの故障、海中に隠れていた障害物との衝突とか、そういう予想外の出来事で遭難するリスクは色々あるのよ」


確かに、海上では何が起きても、そこから降りて歩くというわけにはいかない。


「こんなにのんびりした午後でも、少なくともシティのレストランでランチしていることと較べたら、潜在的なリスクが桁違いに多いことは間違いないわ。でもあなたには、そんな怖さよりも、このクルーザーの上で体験することの面白さの方が強かったでしょ?」


それはその通り。エミリンはうなずく。


「つまりそういうことよ、エミリン。私たちにとってワイルドネーションは、メディアで眺めて感動するタイプの美じゃないの。写真や絵画とは違う。実際に自分がその場所に入ることでしか感動できないタイプの美」


「場所の持つ美ですか...」


「私たちは観客として幾らワイルドネーションを眺めていても決して感動を得ることはできない。観客ではなく当事者として自分自身が舞台の上に上がらなければ...自分がその中に入っていかなければ得られない美だってことなの」


そう、確かに自分の目で色々なところを見たい。その思いは強い。

これまでどれほどメディアでワイルドネーションの映像記録を見ても、満足することはできなかった。それは確か。


「エミリン、どうして農場のマシンパイロットになりたかったかを答えられる?」


そう聞かれてエミリンはちょっとだけ答えに詰まる。


農場の仕組みをきちんと知る年齢になったときには農場で働きたくなった。

そしてどうせ農場で働くなら、その最外縁に出たいと思った。

農場にも様々な種類の仕事がある。

計画部門もあれば加工部門や流通部門もある。

自分に向いているとは思えないけれど、バイオ関係はまず農業か医療のどちらかだし、ほとんどシティの中で過ごすような仕事もある。

でもエミリンはできる限り農場の『外に近い場所』で働きたかったのだ。

できるだけ農地と作物に。


いや、いまならはっきりと言える。

できるだけセルの外縁部に近い場所、言い換えれば、できるだけワイルドネーションに近い場所に行きたかった。


だって、面白そうだったから。


なにか、シティにはない物に出会えるんじゃないかという期待があったから。


そう、ワイルドネーションの一端に触れられるのではないかという予感がしていたから....。


そうだ。答えはここにある。


「私はずっと、ワイルドネーションの中に行きたかったんだわ」


それを聞いたジャンヌはにっこりと笑うと、自分でグラスにアイスティーを注ぐ。そのグラスをゆっくりと顔の高さまで掲げると、エミリンの目を優しい微笑みで見つめながら言った。


「資源探査局へようこそ、エミリン」


それだけを言うと、まるで乾杯するようにグラスを動かし、アイスティーをゆっくりと口にした。


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(グッバイ・マッケイシティ)


資源探査局は各セル毎ではなく、中央政府直轄の組織だ。


マッケイシティに置かれている資源探査局の支局は、セルのスペースを地元行政府から間借りした仮オフィスという扱いになる。

逆にセルの行政府側にしてみれば治外法権エリアという感じで、こちらからの要望があれば最大限聞いてはくれるが、地元行政府の方から積極的に資源探査局に関わってくることはないらしい。


幾つかのセルには資源探査局の仮オフィスが置かれていて、補給やら休暇やらでそのセルに寄港した資源探査局員が自由に使って良いことになっているそうだ。


だからマッケイシティの支局オフィスもジャンヌというか第一〇七支局のオフィスというわけではなく、このときにたまたまジャンヌが使っていただけだし、オフィスと言っても内実はコンドミニアムのようなものだった。


エミリンは、最初は資源探査局員になってもすぐにマッケイシティから離れるとは思っていなかったので、正式な研修員の立場が用意されるとほぼ同時にジャンヌから移動というか事実上の引越しを告げられたときは、ちょっとビックリしてしまった。


とは言えジャンヌは、エミリンが資源探査局員になることを決意する前に、今後の可能性やあり得るリスクについて詳細な説明をしてくれていたから、それなりの覚悟はしていたし、もちろん後悔もない。


後は『生命の危機に直結する最大のリスク要因』があるけれども、その詳細については秘匿事項として関係者にしか話せないから、エミリンが正式な職員になってからの説明になると言われていた。


そんなわけで、資源探査局員となったエミリンの日常は激変した。


これまでセル385・マッケイシティで過ごしていた日々の常識は、その友人関係と一緒に置いて来ざるを得なかった。

他のセルとのやりとりは基本的に船で運ばれるメディア経由になるから、これまでのように気軽にコールしたりメッセージを送りあうというわけにも行かない。


急な話におろおろするママ達と妹に笑顔で心配は無用だと告げ、自分にわかる範囲で資源探査局の仕事を_穏やかな表現になるように気をつけながら_説明した。


決して危険な場所にばかり行くわけじゃないし、最初の行き先はマッケイシティよりも都会のセルだと言って安心させようとしたが、二人はとにかくエミリンが『セルを引っ越しする』という前代未聞の異常事態にショックを受けているようだった。


ママたちは二人ともまだ若くて、市民が定期的に受けることになっている『思考力・認識力テスト』でも、全然フラットなポイントをキープしている。毎年のスコアの描くカーブが下に向かって下がり始めるのは、まだまだ先のことだろう。


だからエミリンはママたち自身について今後の心配はしていなかったし、会う頻度は減ったとしても、会えなくなるわけじゃないと気軽に構えていたから、二人の反応には本当にびっくりしてしまった。


それでも、最終的になんとか落ち着いた二人はおめでとうと言って、笑顔でエミリンを送り出してくれたし、友人たちはエミリンのためにお祝いのパーティーを開いてくれた。


いつもの豪快さに似合わず泣きじゃくるジェインをなだめ、ナタリーにジェインを頼んだわと告げ、エスラと少しぎこちない笑顔をかわし、農場やシティのみんなとハグして別れてきたのだ。


始めてジャンヌに誘われてクルーザーに乗ったときのことを思い出す。


あのときジャンヌが言った『エミリンが船に弱い人でなくて、本当に良かったわ』という言葉は、そのまま言葉通りの意味だったのだ。


そして、三百六十度見渡す限りの蒼い水平線に囲まれて疾走する、この巨大なクルーザーの甲板上で、憧れのジャンヌと二人、心地よい潮風を受けている。


いまのエミリンにはそれで十分だった。


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