13 愛ゆえに

 10日ほどになる。晴太と口をきいていない。もちろん顔を合わせていないし、メッセージのやりとりもしていない。そして、そんな中作ったガトーショコラは失敗した。


 バレンタインのあれやこれやが店頭に並んだのは、晴太と付き合って半月ほど経ったころ。お菓子作りが得意なわけでも好きなわけでもない私が、わざわざ砂糖や小麦粉をこね回さずとも、おいしいチョコレートは容易に手に入る。それでも晴太はあの笑顔で「ありがとう」って言ってくれるに違いない。だけど、市販のチョコレートを買う以上に私に何ができるのかって考えた。気持ちよく晴れた空みたいなあの人。そんな人に気持ちを伝えるなら、買った高級チョコレートではない。

 毎晩ネットで探し回った結果、雲の形のクッキー型を見つけた。深い空色の箱に、空色のふわふわ紙パッキンを詰めて、そこに真っ白な粉砂糖をふった雲型のガトーショコラを浮かべたい! イメージトレーニングだけは完璧で、材料も揃えてうきうきした気持ちを膨らませていた。そんなバレンタインを翌週に控えた2月3日、豆まきしようよと晴太がやってきた。


「豆まきって大豆なの?」


 晴太が抱えてきたのは、大量の煎り大豆だった。


「俺が好きなの」

「落花生買っちゃった……」

「大丈夫。それも好き」


 子どもの頃は思い切りできた豆まきも、悲しいことに現実が邪魔をする。


「大豆だとあとで拾うの大変だから、撒くのは落花生にして」


 鬼は~外、福は~内、の掛け声も近所迷惑を考慮してごく控えめに、私たちは落花生を撒きながら、広くもない部屋を一巡した。そしてすぐさま回収。一応年の数の落花生と、平均寿命を軽く越える数の煎り大豆を晴太はもりもり食べていた。さすがに喉に詰まりそうだったようで、冷蔵庫からウーロン茶を取り出す。そしてそれをグラスに注ぎながら言った。


「そういえば、この前届いてた『クッキー型(くも)』って、どっちの『くも』? 空の方? 巣作る方?」


 ポリポリと大豆を噛みつつ歌番組を観ていた私の目の前は、そのまま真っ白になっていた。返事もせずテレビを観続ける私を見て、晴太は何か勘違いしたようで、邪魔をしないようにしずかに座った。そんな晴太の邪気のない態度を見ていたら、ふつふつと怒りが湧いてきたのだ。


「……なんで知ってるの?」

「え? 何が?」

「なんでクッキー型のこと知ってるの?」

「ああ、簡易包装だったけど送り状に書いてあったから」

「だからって見ることないじゃない! プライバシーの侵害! 情報漏洩! 職権濫用! 痴漢! 変態! ばかーーーーっ!!」


 握っていた煎り大豆を思い切り投げつけた。晴太は持っていたウーロン茶を安全地帯に避難させてから、叩き続ける私の手を止めた。


「え? なんで? 見たのは悪かったけど、そんなにまずいものだった?」

「知らない! 帰って! もう帰ってよ!」


 怒りにまかせて晴太を追い出したこのときでさえ、彼が悪いわけではないことはわかっていた。だけど、喜ばせたいと積み上げた気持ちを無造作に潰されて、とにかく悲しかった。

 私が悪い。送り状に「くも」まで書いた業者さんだって悪くないし、書かれていたものを読んだ晴太だって悪くない。時期的に「ああ、雲の型のチョコレート作るつもりなんだな」って察して黙っていてくれたとしても、うれしくない。つまりはどうしようもないことだった。だから行き場のない悲しみを怒りに変えて晴太に当たってしまったことは、全面的に私が悪いのだ。そう思うのに、晴太から何度電話が来ても、「今日行ってもいい?」ってメッセージが届いても、引きずった悲しみと罪悪感から無視をきめこんだ。自分が悪いとわかっているからこそ、簡単に謝れなかった。

 丸二日無視していたら晴太からも連絡は来なくなった。何度も何度も携帯を確認するけれど、届くのは広告メールだけ。そうしているうちに13日になり、悲しい気持ちで作ったガトーショコラは見事に失敗したのだった。味はおいしい。普通に。私は苦めのチョコレートが好きだから、人によっては「苦いよ……」って思うかもしれないけど、よくできた。失敗したのは、こともあろうか形だった。クッキーを作ったならきれいな雲の形になったかもしれないけれど、ガトーショコラは膨らむものだ。型からはみ出たガトーショコラは、雲の形をしていなかった。しかもケーキ用ではないからはずしにくく、どうにか型をはずしたところで、ぼこぼことした汚い楕円。それは粉砂糖をふったところで変わらない。無理矢理青空色の箱に入れてみても、それは歪んだ楕円以外のものには見えなかった。



「味はすごくおいしいんだから、いいじゃない」


 結局ガトーショコラはおにぎりと同じようにラップでぐるぐる巻きにして、里葎子さんと私のデザートになった。里葎子さんがうれしい感想をくれるけれど、それは私の気持ちを少しも上昇させなかった。


「おいしいガトーショコラなんて、そのへんに掃いて捨てるほどあるじゃないですか」


 寂しさと睡眠不足でもたれる胃に甘いケーキは重く、私は里葎子さんから目を逸らして黒い塊を弄んでいる。


「気持ちの問題でしょう? そこを汲んでくれない男だったら今夜にでも別れたらいいのよ」

「そんな人じゃないですよ」


 晴太は失敗したからって悪く言うことなんてない。絶対ない。だから反応が怖いわけではないのだ。私の想いを込めたものが汚い塊に成り下がったことが、ただひたすらに悲しい。それに……そもそも会う約束をしていないし、渡すべきチョコレートの用意もない。


「これは見ものね」


 里葎子さんは、真顔でそう言った。


「見ものって……」

「ヤツの反応いかんによっては、『クズ』の烙印を押させてもらう」


 なぜかすでに晴太を色眼鏡で見ている里葎子さんは、不敵に微笑んで最後のひとかけを飲み下した。

 伊東さんが「娘が本命チョコ作ってた……」と一日落ち込んでいたり、女子社員共同で500円の義理チョコを配ったりしながら、バレンタインの一日は暮れていった。きっと晴太だってチョコレートをもらっているはずで、それも気になっていたけれど、相変わらず連絡がない。あんな意味不明に怒って連絡を絶つ私に怒っているだろうか。呆れているだろうか。それとも、もう忘れちゃった?

 あの日投げつけた煎り大豆は、掃除をしたにも関わらず、その後もふいに現れる。まるで私を責めるように、踏みつけた足の裏が痛い。砕けた煎り大豆を捨ててから、買い直した材料を取り出し、ガトーショコラにとりかかった。


 曇ったガラスの向こう側でちらちらと降る雪を、膝を抱えて眺めている。粒子の細かい雪は風によって右へ左へ流されていた。テレビもつけず、ファンヒーターや冷蔵庫の音さえうるさく感じるほどに耳を済ます。ケンカをしてからも、晴太は毎日ここにやってきているはず。それが仕事だから。

 バイクの音がして、私は立ち上がって外を見た。曇ったガラスを手で拭く間にも、人影は素早く郵便物を用意している。いつもなら私の部屋を見上げる晴太は、頑なに下を向いたまま、エントランスに向かって歩き出した。私がいない日でも見上げると言っていたのに。今日が土曜日で、私が休みだって知ってるはずなのに。

 世の中のケンカは、きっとほとんどが些細な理由に違いない。そして、くだらない意地で大切なものを傷つけたり失ったりするのだ。

 走ってエントランスに向かうと、晴太はまだカシャンカシャンと配達を続けていた。私の足音には気づいたはずなのに、何かを確認しているようで郵便物を見つめたまま、振り向きもしない。私はやっぱり声をかけられず、大きく開かれたエントランスの出入り口に立ち、降る雪を眺めるふりをしていた。思った以上に気温が低く、タイツ一枚の脚が痛いほどに寒い。

 カシャン、と最後の郵便物が落とされる音がした。背中で晴太の戸惑うような気配を感じて、私は小さく一歩だけ、出入り口を塞ぐ位置に移動した。狭くなった出入り口をものともせず、晴太はすり抜けて出て行く。通りすぎざま、ピシッ! っと私のおでこをやさしく叩きながら。バイクを回転させた晴太は、滂沱の涙を流す私を見て、いつものように笑って言った。


「あとでね!」


 頬を落ちる冷たい涙は、悲しみから安堵のものへと変わった。


 空色の箱の中にはまあるいガトーショコラを入れた。クッキー型と粉砂糖で、ふわんふわんの雲の模様を入れて。それを見た晴太は納得したように笑った。


「ああ、空か!」


 この10日間なんてなかったみたいに普通に現れて、謝りもしない私が無言で差し出した袋を「ありがとう」と言って受け取った直後だった。


「こっちの靴下も雲柄だ。すぐ穴あくから助かる。どうもありがとう!」


 どうしてこの人はいつもいつも、私の雨雲をきれいに晴らすのか。目元に力を入れ、鼻を一度すすった私は、あぐらで座る晴太の膝の上に跨がって胸ぐらを締め上げた。


「そんなことよりも先に言うべきことがあるでしょ? なんで普通に笑ってるの?」


 たちまち晴太は目を泳がせる。


「俺、まだ何かしたっけ?」

「ここに来てすぐ、まずは私に『謝れ!』って謝罪を要求するべきでしょう!」

「ああ、なるほど」


 晴太はくすくすと含むような笑い声を立てた。


「謝罪の気持ちはちゃんと受け取ったつもりだったから。あのしぶしぶ譲歩する美夏見たら、どうでもよくなっちゃって」

「もっと怒ってよ。私が全面的に悪いんだから」

「どうしたらいいのかわからなくて困ったけど、ちょっとだけうれしかった部分もあるんだ」

「なにが?」

「美夏と恋人になったんだなーって。前は『ごめんなさい』『申し訳ない』ばっかりだったから」


 握った襟首を持ち上げて力任せに引き寄せる。勢いをつけすぎたせいで、ぶつかった唇が痛い。「ごめんなさい」は、そのまま口の上で言った。雑な謝罪とキスにも、晴太は乱暴だなーとうれしそうに笑った。だけど「待ってた?」と聞いたら、「うん。……ずっと」とさみしそうに答えたから、


「ごめんなさい。大好きです」


 今度はちゃんと謝った。


 ひと月後。つぶれたブーケがポストに入っていた。小ぶりに作られたブーケでもポストの隙間を通るわけなく、無残な姿で落ちていた。


「あーあ」


 クリーニング店の割引ハガキをちりとり代わりにして、ポスト内に散らばった花びらを集める。ポストに入れるとき、予想より入らなくて晴太はきっと焦っただろう。平たくしおれたブーケは、そのまま彼の姿を表したようだった。肩を落として、いつもより弱々しくバイクを走らせる背中を想い、笑いとあたたかな気持ちが込み上げる。

 ふと見ると、ブーケには広告から切り抜いたらしい男性アイドルグループの切り抜きが貼ってあった。丁寧ながらゆがみのある切り口は、あきらかに人の手、晴太の手によるものだろう。


「……は?」


 私に向かってとろけるような笑顔を向ける男性たち。立ち尽くしたまましばらく考えてもまったく理由がわからず、夜やってきた本人に直接確認した。


「どうして? って。だって美夏、好きなんでしょ? この前食い入るように見入ってたから、好きなんだなーって思ったんだけど」


 そういえば、晴太に雲のクッキー型を指摘されたとき、観ていたテレビで彼らが歌っていたような……。ショックで呆然とする私を、晴太はアイドルに見入っていると勘違いしたらしい。


「あはははははは!」


 私が晴太仕様のガトーショコラを作ったように、彼は彼なりに私の好きなものをプラスしようとしたのだ。それがとんでもない間違いだっただけで。


「ありがとう! すっごくうれしい!」


 そのうち誤解は解くとしても、今日だけはこのアイドルのファンということにしよう。サプライズに軽く失敗して落ち込むこの人に追い討ちをかけたくないから。


「ブーケつぶしちゃったから、好きなものなんでもごちそうする! ごめん!」

「じゃあねー、龍華苑の麻婆担々麺!」

「美夏、辛くて食べられないじゃない」

「味は好きなの! でも全部は無理だから、ちょっとだけ食べたい。残りは食べてくれるでしょ?」


 あなたが愛しい。

 あなたを好きだともがく、私も愛しい。











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