12 初春にきみは
『謹賀新年』の文字が水の膜で見えなくなる。両親の手前鼻をかむフリをして、そっと涙をティッシュで吸い取った。
さみしい。会いたい。
年賀状をこんなに切ない気持ちで眺める日が来るなんて。
「美夏、あんた宛。いい加減自分の住所教えたら?」
母がポイッと放り出した一枚を受け取り、軽く八つ当たりを仕掛ける。
「もう! 丁寧に扱ってよ! 新年早々届けてくれた配達員さんに謝って!」
「はいはい、ごめんね。でも配達員さんの前に中川さんに謝るべきだと思うけど?」
それもそうだと年賀状に深く頭を下げる。
「中川さん、うちのがさつな母がごめんね」
中学校の同級生である中川さんとは、成人式以来会っていない。どうやらまだ実家住まいで結婚もしてないようで、年賀状には愛犬シラスちゃんの写真が何枚もついていた。年賀状を出さなくなって久しい。律儀な中川さんは毎年くれるので、彼女を含む3人にしか出していない。来る年賀状も、その3人に美容院やショップなどDMに類するものだけだ。
年賀状でしか繋がっていない関係に意味なんてあるのかなって思ってた。中川さんのことは嫌いじゃないけど、添える一言に「今度お茶でも飲みに行こうね!」と書くのはほとんど社交辞令。実際には電話番号も知らない。だけど、小川さんは言うのだ。
『一年に一回必ず思い出すってことでしょ?年賀状だけでも繋がってたら会えるよ。完全に切れてしまったら、その可能性もなくなると思うんだ』
思い出しもしなくなった同級生がたくさんいる中で、中川さんのことは忘れない。結婚してないことも、シラスちゃんを飼っていることも知ってる。これって、結構すごいことなんじゃないかと思う。小川さんが届けているのは、そういう物なんだ。
「中川さん……元気そうでよかった……」
「え……何? 急に」
ポロポロと涙をこぼす私を、母は不審な目で見たけれど、
「あらー! すごく豪華! あの伊勢海老まだ生きてるよ」
心を痛める娘より、テレビに映った豪華おせち料理の方に気持ちは向かったようだ。
さみしい。会いたい。
だけど私の大好きな彼は、しんしんと降る雪の中、朝からずっと配達を続けている。
『遅くても14時頃までには届くはずだから待っててね』
実家に届く年賀状は当然小川さんが届けたものじゃないけれど、そのぬくもりが届くような気がした。
「今はごめん。来年からはなんとか考えるから」
年賀状の締め切りがこの時期であることは知っていたけれど、自分の生活を左右されるとは思っていなかった。
付き合うようになって、小川さんは毎日仕事帰りに会いに来てくれた。プリンとかお花とか、必ずお土産を持って。だけど決して部屋には上がらず、玄関先で5分程度会話して帰って行くのだ。
「入っちゃったら、もう帰りたくなくなるから」
「帰らなければいいじゃない」
「毎日帰りたくなくなる」
「毎日帰らなければいいじゃない」
「ミナツさーん、誘惑しないで。かんたんに負けるから」
そう言いながらも、部屋へと引っ張る私の手を、そっとほどく。ワガママを言ってみたけれど、小川さんの気持ちはよくわかる。関係性が落ち着いた頃ならともかく、今踏み込んだら離れるのが余計に辛い。毎日残業で疲れてるはずなのに、欠かさず会いにきてくれてるのだから、それで満足しないといけないのだ。ほんの10日程度の我慢なのだから。
「やっぱり大変なんだね」
「言うほど大変ではないよ。年賀状の組み立て作業、俺は嫌いじゃないし。不思議な一体感もあって楽しいよ」
私の手の届かないところで充実してる、そのことが本当はさみしい。だけどそれは大人の分別で言わず、口角を少し上げただけで答えた。ほんの5分を一日中待つ生活はつらく、お正月休暇に入ってすぐに帰省した。もらったコーヒーカップを本当は持ち歩きたいけれど壊しそうだから、携帯で写真を撮り、それを飽きることなく眺めて過ごしている。毎年あっという間に終わって「ああー、もう明日から仕事かー」と言っていたお正月は、どうやって過ごしていたんだろう?
母の作ったお雑煮を一年ぶりに堪能しながら考える。お餅だって年中売ってるし大好きなのに、なぜか普段は作らないなって。逆に今、ペスカトーレなんて全然食べる気持ちにならない。何も変わらない毎日を生きてるようで、こうして自然と季節を感じていたんだなー。
「餅3個って、おまえ女として終わってるな」
昼過ぎに起きてきた兄は、餅なんて重くて食えないと、カップラーメンをすすっている。まあ、こういう情緒のないヤツもいるよね。
「市販のものより小さく作ってるんだからいいじゃない」
「正月太りまっしぐらだぞ? 俺なら嫌だな、年明けたら太ってるような女」
太った。お腹周りがむちむちしている。これは正月太りというよりも、小川さんのお土産のせいだと思う。愛が、重い……。人間は的外れなことを言われるより、図星を指摘された方が怒りは湧くものだ。
「そういう差別的で度量の狭いこと言ってるから結婚できないんだよ!」
「お前だって独り身だろ」
「……いるもん。彼氏」
だるそうにスープを飲んでいた兄が、プラカップを叩きつけるように置いた。
「はあ? お前みたいに色気の欠片もなく餅ばっかり食ってる女と付き合う男なんているのか!? 連れてこい! 証拠出せ!」
「仕事中だよ! 合コンばっかりしてるお兄ちゃんとは違うの!」
私と違って優秀で機械に強い兄は、SEという仕事に就いている。見た目だって別に普通だし、不潔なわけでもないけれど、なかなか彼女ができない。その理由は大いにわかるけれど、本人は気づかずに一生懸命婚活に励んでいて、大晦日の昨夜でさえ合コンだったらしい。正直、大晦日に合コンしているような義姉は嫌だなと思う。
「あー、正月からこうして家族で雑煮食ってるなんて、年始早々人生が真っ暗だな」
どうやら合コンは不成功だったようでホッとする。
「年始は……来年もここにいるんだろうな」
年始と言わず、クリスマスだって誕生日だって、仕事が忙しいなら無理してくれなくていい。だけど気持ちはうまくコントロールできない。
さみしい。会いたい。
早く終われ、お正月。
夜8時半に電話はかかってきた。
『さすがに、あれは恥ずかしかった』
「ちゃんと届いたんだ! よかった!」
せっかくだから小川さんに年賀状を出した。よく考えたら住所を知らなかったから、一か八か『中央郵便局 小川晴太様』宛で。
『気づいた人が今日まで保管しててくれたみたい。そうでなければ出したその日に俺に届いたと思うよ』
「住所ってちゃんと書いてなくても届くものなの?」
『ある程度は。自分の担当地域ならほぼわかる』
珍しい名前なら、住所がなくても届けてもらえることもあるらしい。大量に出される年賀状には、宛先に不備があるものも多く、郵便番号だけとか、マンションの部屋番号がないとか、よくあるのだそう。それらはなるべく探して届けてくれるみたいだけど、どうしようもないものは返還処理される。
『名前だけなら探せることも多いけど、住所だけって困るんだよね。長年住んでる人のところなら届けるけど、アパートとか入れ替わりの激しいところだと、今住んでる人宛てなのか前に住んでた人宛てなのかわからないから』
マンションの部屋番号がない場合も同様で、珍しい名前なら届けてもらえる。でもよくある名前なら一度返還することもあるとのことだ。名前の特異性で差があるのは悲しいことだけど、機械的に処理するのではなく、頑張って届けようとしてくれるのだとうれしくもあった。
『中身見て判断することもあるから、基本的にハガキは見られてると思った方がいいよ』
「あ……じゃあ、見られた?」
『一日からかわれた。今日ほど外回りで助かったことないかも』
本能の叫びがほとばしるあれを見られたのかー! もう郵便局行けない……。
「ごめんなさい」
『いや、ありがとう。うれしかった』
『明けましておめでとうございます。
そして、新年早々お仕事お疲れ様です。
今年も好きです。
来年も好きです。
ずっとずっと好きです。
早く会いたいです。』
本当のことを言うと、期間アルバイトの女の子たちを牽制できたのでは? とほくそ笑む気持ちもある。高校生くらいの女の子から見たら、ちょっと大人でやさしく教えてくれて、仕事頑張ってる姿を間近で見たりなんかしたら、すぐ好きになっちゃうと思うから。私が会いたくても会えない間、そんな女の子たちに囲まれて一体感を味わっているのだとしたら心配で仕方ない。
『ミナツさんはいつ戻るの?』
「3日に帰る。4日から仕事だから」
『そっか。気をつけてね』
今年は4日が金曜日だから、私は4日に出勤してすぐ土日休みになる。だけど小川さんは4日が休みで土曜日は仕事だ。日曜日まで休みは重ならない。
テレビも特番ばかり。することもないお正月は流れる時間もひときわゆっくりしている。のんびり寝正月をきめこむにはいいけれど、今の私には苦痛でしかない。
実家での時間を持て余し、結局2日の夕方自宅に戻った。ポストには広告も含めてかなりの郵便物が溜まっていて、これが小川さんの足跡なんだと思ったら、また切なくなる。あと3日は会えないのだ。
冷蔵庫を空っぽにして帰省したから、荷物以外にもビニール袋がふたつあり、何度か車と部屋を往復した。
「あー、面倒臭い……」
買ったものを、冷蔵庫のなんとなく指定席に収納していたら、チャイムが鳴った。
「はーーーい」
キッチンのすぐ隣が玄関なので、インターフォンは使わずにドアを開けた。
「明けましておめでとうございます」
今年最初の小川さんの笑顔がそこにあった。考えるより先にぎゅーーーーっと抱きつく。
「え! あれ? なんで?」
制服の生地に吸い込まれる声は、疑問ではなく喜び。
うれしい!うれしい!
「ミナツさん、帰ってくるの明日じゃなかった?」
「待ち遠しくて」
「たまたま通ったら車はあるし、電気もついてるから、つい来ちゃった」
何度も来たこの部屋に、小川さんは初めて足を踏み入れる。ドアが閉まると薄暗くて、小川さんの冷たい手と冷たい唇の感触だけしかわからなかった。
「……今日のお土産は強烈だね」
「ごめん。ついテンション上がっちゃって」
間近に見えるえくぼに、私は背伸びをして口づけた。
「……やっぱり、今日仕事終わったら来てもいい?」
「もちろんいいけど、仕事は?」
「年明けた方がむしろ楽になるんだ」
「そうなんだ。あ! お雑煮食べる?」
「食べる」
「お餅は何個?」
「2個。でも2杯は食べたい」
「わかった」
小川さんはリビングから漏れる明かりに腕時計をかざした。もう帰るつもりだとわかって、しがみついた手に力を込める。
「このまま帰したくない!」
「うん。でもごめん。そろそろ限界」
素早くもう一度唇を合わせ、慌ただしく戻っていく。
「あとで!」
何度も見たはずの配達員さんは、もう彼氏にしか見えなくなった。
数枚の年賀状の中には、小川さんからのものも入っていた。住所は書いてなくて、ただ『美夏さんへ』とだけある。自分の手で届けてくれたのだろう。
『明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年も桜を観に行きましょう。
花火も、月も。紅葉は夕暮れに。
それに今年は誕生日も。
クリスマスは約束できないけど、がんばってみます。
いい一年にします。
晴太』
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