11 聖夜のいつわり

「私たちって、付き合ってるんでしょうか?」


 一緒に紅葉を見に行って以来、毎日頭を悩ませている疑問を真っ直ぐにぶつけた。


「……え? わからないの?」

「だって手も繋いでないし」

「それ、弄ばれてるだけなのよ。絶対」

「もうー! 里葎子さーん!!」


 デスクの下でジタバタ足を動かしたら、うるさいよと先輩らしい叱責が飛んできた。


「じゃあ聞くけど、ちゃんと告白はされたの?」

「されてもないし、してもいません」

「でも都合よく付き合わされてるんだよね?」

「……電話はしてます。たまに」

「会ってないの?」

「一回だけ、ご飯には行きました」


 紅葉のあと、一度ご飯を食べに行ってマフラーを返し、タッパーを返してもらった。その後は何度か小川さんから誘われたものの、本当にたまたま残業と重なって三回連続で断り、今に至る。誘いたくてもいつ入るともわからない残業が邪魔をするのだ。もどかしさに身をよじる私に対して、小川さんはいつも『わかりました。大丈夫ですよ』と朗らかに答えるだけ。


「なんなんですか? 残業多くないですか、最近!」

「お歳暮の時期だし、新商品も出したからねー」

「そのせいでうまくいかなかったら、労災申請します」


 気持ちとしては本気でそう言った。だけどお金より、この恋がほしい。


「残業くらいで簡単に諦める男、やめた方がいいのよ」


 ほらごらんなさいと里葎子さんは人の不幸に微笑みさえした。この人の手によると、私と小川さんの関係はどんどん薄暗い色に染められていく。


「やっぱり明確に『付き合ってください』『よろしくお願いします』ってやり取りがないとダメですか?」

「そうとも限らないけどね。だからこそ、そこにつけこむ輩がいるわけよ」

「多分、ちゃんと両思いだとは思うんですよね」

「早めに確認した方がいいよ。『クリスマス用』ってキープされて、必要なくなれば切り捨てる気かもしれないからね」


 ミスがないことで定評のある里葎子さんの仕事は、入念な確認作業に支えられている。やんわり誘いをかける現旦那様に「あんた私と結婚する気あってそんな生ぬるい態度取ってるの?」と真っ向から確認し、ミスなく円満家庭を築いたのだから、それは正しいアドバイスなのかもしれない。だけどそれを実行できる人ってどのくらいいるのだろう?


「そんな人じゃないと思うけど……」

「なんか前にも聞いたな、それ」



 生まれて初めて、お歳暮をいただいた。

『お歳暮 小川晴太』

 定形封筒より小さいけれどしっかりした紙の封筒に、ちゃんと赤熨しも付いたそれは、無造作にDMや広告と一緒にポストに入っていた。中身は映画のチケットで、前売り券とは違い作品は指定されていない。だけど、期限は今年度いっぱい。それが、たったの一枚だけ。


『一緒に行きませんか?』


 添えられたメモにはそれだけ書いてあって、日付も映画も、何も指定されていない。チケットをぴらぴら言わせながら、うーーーーーん? と唸った。クリスマスイブまではあと三週間。それなのに、なんで24日を指定してこないの?


「なんか、試されてる?」


 他意はないのか、それとも私の出方を伺っているのか。里葎子さんではないけれど、胸ぐらを締め上げて、あのねー、お歳暮ってのいうのは洗剤のセットとか、カタログギフトとか、お札を敷き詰めた高級フルーツなんかが一般的で、こんな中途半端なものを送りつけてくるやつなんていないんだよ? それともあなたのご両親は猟師か何かで、餌を置いてじっと罠にかかるのを待つように幼いみぎりより骨身に叩き込まれてきたのか? どうなんだよ! 小川晴太! と問い詰めたい気持ちだった。

 想いを匂わせる態度や言葉、私を見つめる目。あれは友達とか、ましてお客さんに向けるものではない……と思いたい。それは私の方も同じで、この気持ちに気づいてないなんて言わせない。だけど、だからこそ難しい。改めて恋人になるきっかけもタイミングもわからない。そこにきて扱いに悩む『お歳暮』だった。クリスマスプレゼントじゃなくて。

 里葎子さんほどの自信も勇気もないけれど、どこかで踏み込まないといけないのも事実。もしずーっとこのままなら、本当にただの友達になってしまう危険もあるのだ。小川さんと友達になりたいなんて、ほんの少しも思っていない。



『連絡遅くなりましたが、お歳暮受け取りました。わざわざありがとうございます! 日にちはいつがいいですか?』


 なんでもないフリをして、そうメッセージを送信した。クリスマスイブまであと10日。いつ行くのか、この日程が関係性を左右する。


『ミナツさんの都合のいい時で構いません。ただ23日から3日まで休みがないので、できればその前か後がいいです』


「え……?」


 クリスマスイブだけでなくその前日もその後もずーっと仕事……? 誘ってくれないどころの話ではなかったらしい。年賀状の存在は当然知っているけど、忙しいのはもっと年末だと思っていた。


『だったら22日でどうですか?』


 せめて、と一番クリスマスに近い日にちを指定した。だってほとんど選択肢がない。


『わかりました。大丈夫です。では22日に』


 あの笑顔が容易に想像できる文面だった。眺めても眺めても、どんな気持ちでこのメッセージを送ってきたのかわからない。もし私が手を引いたら、小川さんはどうするのだろう? 電話もしなくなって、必然的に会うこともなくなったら、そのまま終わらせてしまうつもり? それとも、追いかけて自分から行動を起こしてくれるだろうか?


 12月22日15:34。

 ゴロンとカーペットの上に寝転んだまま携帯で時刻を確認する。約束の時間を34分過ぎたけれど、小川さんから連絡はない。小川さんが遅れているのではない。私が、待ち合わせ場所に行っていないのだ。


 直前まで、私は買ったばかりのワンピースを着こんで、お化粧も念入りにして、髪なんて先週から念入りにトリートメントして、さっき美容院にまで行って準備していた。姿見に映る私は、わかりやすいほどに気合いが入っていて、それはそのまま恋心だと他人にだってわかると思う。だけど、そんな自分の姿を見ていたら、ものすごく虚しくなったのだ。

 今回はお酒も飲もうということで、駅近くの映画館に行くことにして、待ち合わせも駅前のカフェにした。小川さんは何でもいいというので、人気の小説を映画化した邦画を選び、15:40上映に合わせて15時に。そこでも午前中から会おうとは言ってもらえず、あくまで映画を観に行くことが目的のようなやり取りだった。

 歩きやすさより見た目優先でピンヒールのブーツに片足を入れたとき、ずっとずっと引っ掛かっていた棘が無視できないほどに痛み出した。こんなに楽しみにしても、小川さんの方は違うんじゃないかな? 小川さんはいつも『わかりました』としか言わない。早く会いたいとか、もっと一緒にいたいという気持ちが感じられない。

 小川さんはきっと私を好きだと思う。だけどそれはごくごく軽いものなんじゃないだろうか。今知っている女の子の中では一番好き程度の。私が想っているように、寝ても覚めても身体の中心に小川さんがいるような、指先から恋心がこぼれているような、そんな想いは持っていないに違いない。

 虚しい。悲しい。

 背中がつりそうになりながらファスナーを上げたワンピースも、歩きにくいピンヒールも、悩んで悩んで選んだクリスマスプレゼントも、全部痛々しい。

 ブーツを蹴り上げるように脱ぎ捨てたら、ドアにガツンとぶつかった。セットしてもらった髪が崩れるのも構わず、カーペットに寝転がる。頭の上にはベランダに続く窓があり、見た目だけはのんびりとした晴れ空が広がっていた。私はそのまま、動きの少ない雲をじっと見続けていた。


 15:50。

 携帯からバイブ音が響いた。カーペットに音も振動も吸い込まれて、普段ならきっと聞こえなかったけれど、静かな部屋ではよく響いた。

『小川晴太』

 表示された名前をじっと見ながら、出てしまいたい気持ちを押し殺して携帯を放り投げた。もう上映は始まっている。さすがの小川さんも異変を感じたようで、少し安心した。来ないなら帰ろうと、そのまま放置されることも考えていたから。

 バイブが止まって、部屋の中は再びファンヒーターと冷蔵庫の音しかしなくなった。今なら郵便バイクの音もしっかり拾える。いつの間にか青空は色味が薄く暗くなっていた。じっと見ていたはずなのに気づかなかった。部屋も隅の方には闇が忍び込んでいる。そういえば、昨日は冬至だったっけ。カボチャ食べ忘れたな。昼間が短いと一日が短い。クリスマスもすぐに終わってしまう。

 15:55 小川晴太

 16:00 小川晴太

 16:05 小川晴太

 16:10 小川晴太

 きっちり5分ごとに小川さんから電話がくる。部屋の中は薄暗く、レースのカーテン越しでは空さえ曖昧にしか見えない。


『すみません。今日は行けなくなりました』


 電話は取ることなく、そんなメッセージだけ送信した。


『具合悪いんですか?』


 小川さんからの返信はすぐに来た。


『いいえ。今日は用事ができました』


 素っ気なく送りつけた文字は、白々しい嘘をつく。面と向かっては言えない言葉も、ディスプレイには堂々と並んでいた。


『わかりました。こちらは大丈夫ですので、気にしないでください』


 いつもと変わらないメッセージが、たまらなく悲しかった。

 実家で私が両親と寝起きしていた部屋は西向きで、隣の家が少し奥に引っ込んでいるせいで、夕焼けがよく見えた。昼寝から目覚めると部屋が真っ赤に染まっていることがたびたびあって、そんなとき世界でひとりぼっちになったような心細さを覚え、大きな声で母を呼びながら泣いた。暗闇は暗闇で怖いけれど、夕暮れのあのなんとも言えない悲しみは、大人になった今でさえ、心のどこかに残っている。みんなそうなのかもしれない。夕暮れは泣きたくなるほど人恋しい時間だ。だから今、とても悲しい。


 17:12。

 電気もつけない部屋で、携帯で時間を確認した。ディスプレイの明かりがまぶしくて細めた目元は濡れている。こんなに暗くても、昼と夜の境目にある悲しみが出ていかない。


「雪?」


 ずっと晴れていると思っていたのに、カーテンにはちらちらという影が見える。その儚げな動きを見ていたら、滲んでいた涙の量が一気に増した。会いたい。なんでこんなことしちゃったんだろう。もっと一緒にいたいなら、自分でそう言えばよかったのに。きっと小川さんはわかりましたって、ずっと一緒にいてくれたのに。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。

 目覚めると真っ暗な中にひとりいて、ファンヒーターさえ止まっていた。泣き疲れていつの間にか眠っていたらしい。寒さに震えながら窮屈なワンピースは脱ぎ捨て、髪に刺さったたくさんのヘアピンも取ってそのままベッドに入った。今度は眠れなかった。身体がなかなかあたたまらない。思い悩んではうとうとすることを繰り返し、朝方ようやく深い眠りに落ちた。携帯は、もう鳴らなかった。

 郵便バイクの音は、不思議とわかる。日が高くなってもベッドに入ったまま、腫れて重いまぶたを薄く開け、ぼんやりと部屋を眺めていた。そんなとき、その音がはっきり聞こえてきたのだ。感覚が一気に覚醒する。アイドリングするエンジンの音を聞きながら身体を起こしたとき、玄関の外で物音がした。部屋着を着てドアを開けると、そこに人の姿はなく、ドアの横に小さめの紙袋が置いてあった。添えられていたポスト型のふせんメモを握りしめ、部屋の中を走ってベランダに飛び出す。


「小川さーーーん!」


 雪は積もっていなかったけれど、出しっぱなしだったサンダルは素足に冷たかった。だけど身を切るような冷気も、今は全然気にならない。


「小川さーーーん!」


 走り出していた小川さんは、敷地を出るところで一度停まり、そこで私の声に気付いた。振り返って私を見ると、バイクをくるりと回転させて窓の下まで戻ってくる。


「ミナツさん」

「待って! そこにいて! 今行きますから!」


 床に転がっていたコートを羽織り、急いで階段を降りた。握ったままのメモには『昨日渡せなかったので。いいクリスマスを』と書いてあった。


「小川さん!」

「おはようございます、ミナツさん。今日も寒いですね」


 やっぱり変わらない笑顔だった。


「なんでですか?」

「何がですか?」

「なんでそんな平気な顔で笑っていられるんですか?」


 ひどい格好だった。メイクは崩れ去り、まぶたは腫れ、髪の毛はぐちゃぐちゃ。家族にも見せたくないほどひどい格好だった。小川さんはそれにも頓着せず、私の質問にきょとんとしている。


「『用事ができた』なんて嘘なのに。わかってるくせに。なんで何も言わないんですか?」

「じゃあ、理由を聞いてもいいですか?」


 バイクのエンジンを止めて、小川さんは私の正面に立った。


「だって、」


 昨日からの涙と怒りが堰を切ったように溢れ出た。


「だって小川さん、全っっ然会いたくなさそうなんだもん! いつでも『わかりました』ばっかりで、会えなくても残念がってくれなくて。小川さんにとって、私の存在ってそんなに軽いんですか?」


 小川さんはふっと私の部屋を見上げた。


「会いたくないわけないじゃないですか。毎日毎日、この窓を見上げて『会いたいなー』って思ってるのに。ミナツさんはいないって知ってても」


 小川さんは初めて見せる切なそうな表情で私に近づく。そして、べちゃべちゃと泣く私の頭にそっと手を乗せた。


「いろいろ悩んで考えても、ミナツさんに会うとどうでもよくなるんです。『ミナツさんに会えたから、まあいいか』って。俺はそれで三日くらいは機嫌良くいられます」

「昨日も?」

「さすがに落ち込みました。もう会ってもらえないかと思って。だけどミナツさんはこうして来てくれたから、まあいいかって」

「なにそれ! 私は全然足りなくてものすごーく寂しかったのに! 小川さんは平気そうだからいつも虚しくて悲しくて、もう映画なんて行かないって……なんで笑ってるんですか? 私はとっても怒ってるんです!」


 強く抱き締められた。顔にあたる制服の生地がものすごく冷たくて、内臓が沸騰するほどの怒りがするするとほどけて行く。


「……嘘ついて待たせてごめんなさい」

「ミナツさんの気持ちを見誤っていたので、あのくらいの制裁は甘んじて受けます」

「自分で行かなかったのに、どうしても会いたくて」

「うん。俺も」

「本当は毎日会いたいの」

「うん。俺も」

「『俺も』ばっかりでズルい!」

「好きです」

「うん。私も」


 悔しいから『好き』とは言ってあげなかったのに、小川さんは満たされたような顔で笑っていた。


「ミナツさん、俺はね、多分ミナツさんが思ってる以上のことを知ってるんです。誕生日は8月ですよね?」

「8月25日です」

「『お誕生日割引』のハガキが何枚も来てました。だから、通ってる美容院も、歯医者も、ショップも知ってます。ご実家の住所もお母さんの名前も知ってるし、出身校やお友達の名前も何人かはわかります。すみません、見てしまいました」


 ゴミと郵便物は個人情報の宝庫。例え封筒を開けなくても、DMやハガキ、封筒の差出人でかなりのことがわかるのだ。


「怖いでしょう? もしミナツさんが俺を好きじゃなかった場合、ものすごく怖いと思います」


 全然怖くなかった。だけどそれは相手が小川さんだからだ。もし知らない誰かが、あの小川さんじゃない配達員さんがそれを全部知っていたら、やっぱり怖い。


「見てはいけないのに、ミナツさんの郵便物は目に入ります。夜に通りかかって電気がついていたとき、カーテンの向こうで揺れる影をしばらく見ていたこともあります。振られたら、俺はこうしてストーカーになるんだなーって」

「振りません。絶対」

「本当に残業なのか、俺に会いたくないのか、わからなかったから」


 お互い同じ気持ちなのに、バカみたいだなって思う。だけどささいなすれ違いでダメになってしまう関係だってある。踏み出すのが怖いのは、好きだから。


「それで、なんで『お歳暮』なんですか?」

「あれは、本当はお中元のお返しに用意したもので……渡せなくて」

「臆病者」

「……俺なりに頑張ってたんだけどな」


 大通りを車が流れる音がする。剥き出しの足首から冷気が全身に回っていく。小川さんの腕の中で、ようやく日常の感覚が戻ってきた。


「……ごめん、ミナツさん。さすがに仕事が……」

「やだ!」

「本当にごめん!」


 背中に爪を立てるようにしていた腕をやんわり離される。ワガママを言いながらも仕事が大事なことくらいわかっているので、仕方なく引き下がった。


「お仕事頑張ってください」


 小川さんの手を温めるように握った。手袋をしない小川さんの手は冷たくて、両手で指先を握ってもあたたかくはならなかった。


「ありがとうございます」


 小川さんはバイクに股がり、再びエンジンをかける。


「昨日のカフェで、俺絶対振られたと思われただろうなー」

「だったら、今度手を繋いで行けばいいですよ」

「そうですね」


 小川さんはもう一度私の頭に手を置いて、行ってきますと仕事に戻っていった。

 どこにでも手を繋いで行ったらいい。何回でも手を繋いで行ったらいい。その手が冷たいとかあたたかいとか、いつもわかる距離にいたい。


 部屋でひとり、小川さんからの包みを開けてみた。


「……ロマンチックすぎる」


 シックなベージュにブラウンのリボンという高級感がある箱の中からは、コーヒーカップが出てきた。逆三角形のような優美な曲線を描いているのは透明なガラス。持ち手は金属なのか粘土なのか、とにかくガラスではなく、うすいピンク色のバラが咲いていて、蔦が絡まっている。ソーサーも透明なガラス製で、そちらには白い小さな蝶々が止まっていた。私とはほど遠いけれど、見たことないほど繊細できらきらしたコーヒーカップ。昨日から涙腺の調子がおかしい。カップの中には、コーヒーより先に涙が注がれた。愛されている。私はちゃんと愛されている。言葉ではなく示してくれた愛情を今、確信した。












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