10 いろづく秋に

 ミニトマト、ブロッコリー、卵焼き。赤緑黄色の彩りは完璧に美しい。よく見ると実際調理してるものは少ないけれど、いざとなると卵焼きひとつだって難しいものだと、少ない経験でも知っている。


「里葎子さん、お弁当って何入れたらいいんですか?」

「お弁当? 昨日の残り物とか、冷凍食品とかでいいのよ」


 自分や家族ならそれでいいと思う。お弁当は毎日の生活なのだから。だけど、好きな人へのお弁当に冷凍食品はない。


「えっと……自分じゃない人に渡す場合は、どんなのがいいのかなーって」

「ああ、デートのときね」

「デート!」


 持っていたおにぎりを放り出して、 両手で顔を押さえる。


「違うの?」

「ただ、ちょっと、紅葉を見に行くだけです」

「女友達と?……なわけないか。その反応で」

「……はい。男の人です」

「ふたりで?」

「……はい。多分」

「それってデートじゃないの?」


 ブロッコリーを咀嚼しながら、里葎子さんは納得いかない様子で首をかしげる。


「『デート』って、基本的に恋愛感情を孕んだものじゃないですか。私が頼んだから、付き合ってもらうだけなので」

「でも美夏ちゃんは好きなんでしょう?」

「……はい。好きです。……すごく」

「だったら『デート』でいいじゃない。恋愛感情を孕んでるんだから」


 もじもじと食べかけのおにぎりを握りつぶす私と対照的に、里葎子さんは小気味良く鶏の照り焼き、ご飯、卵焼き、ご飯と食べ進めて行く。


「まあ、端から見てれば単純でも、当人同士って見えないものよね。だけど、紅葉見に行くなんて十分に気を持たせる行為だと思うなー。それをわからないほどバカなのか、わざとやってるなら、そんな男はやめなさい」

「そんな人じゃないと思うけど……」


 控えめに考えても、好意的に見られてるとは思う。だからって小川さんが私と同じ想いでいるという自信はない。


「そういえば美夏ちゃん、ここしばらく様子がおかしかったもんね。変な男に引っ掛かってなきゃいいなーって旦那とも心配してたの」

「いや、だから大丈夫ですよ。そんなんじゃないですって」

「端から見れば明らかにダメ男でも、恋してると見えないものなのよね」


 里葎子さんを取り巻く空気がどんどん剣呑なものになっていくので、無理矢理にでも話を戻した。


「それで、お弁当のことなんですけど……」

「ああ、それね。普通のおかずがいいと思うよ。卵焼きとか、からあげとか。あんまり凝って失敗するよりいいじゃない」

「そうですね」

「さりげなく人数は確認した方がいいかも。ふたり分だけ作って、たくさん人がいたら困るじゃない? それに食事の場所予約してたら気まずくなるし。あと、アレルギーもね。サプライズは失敗すると痛いからオススメしない」

「わかりました」

「そもそも、その男、本当に大丈夫?」



 10月は比較的晴れる日が多い。下旬になるともう紅葉は終わってしまうので、中旬の日曜日に約束をしていた。慣れた様子で敷地に入ってくる黒い車を窓から確認して、私は保温バッグを持って部屋を出た。


「おはよう、ございますっ」


 重さに引きずられるように一段一段階段を降りていると、小川さんは慌てて駆け寄りバッグを奪った。


「部屋で待っていてくれたらよかったのに」

「そんな、アパートの階段降りるだけなのに申し訳ないですよ」

「その階段から落ちたら、今年の紅葉は見られなくなりますよ」


 今日のために買った大きな水筒もまとめて軽々と運び、後部座席につける。


「こんなにたくさん……大変だったでしょう? ありがとうございます」

「いえ! 量がわからなくて作り過ぎちゃっただけなんです!」


 里葎子さんのアドバイス通り、「もしお嫌でなければお弁当を作りますけど、苦手なものやアレルギーはありますか?」と確認した。「人数はふたりですか?」とは聞けなかった。もし小川さんがデートのつもりなら、あまりに無粋な気がして。大事な時間に傷が入るような気がして。だから、お弁当はかなり多めに作ったけど、他に人は乗っていない。

 当然小川さんから人数に関する話はなく、「ありがとうございます。申し訳ないのですが、ナスとパクチーは苦手です。でも食べられなくはないです。アレルギーはありません」という返答が返ってきた。

 車内に充満したいろんな食べ物の匂いを、小川さんは味わうように吸い込んだ。


「この匂い、懐かしい」

「そうですか?」

「手作り弁当なんて縁ないですから。自分では作れないし」


 彼女は? っていう言葉は思うだけで口にしなかった。


「期待はしないでくださいね! ハードルは目をつぶっても越えられるくらいに低くして!」


 小川さんはからからと笑ってから、よかったらどうぞとドリンクホルダーを示す。


「あ、すみません。気を使っていただいて」

「ミナツさん」


 小川さんの声が少し咎めるように変わった。


「俺がしたくてしていることに、謝る必要はないんですよ。謝られると悪いことをしている気分になります」

「すみません、じゃなくて、……ありがとうございます」


 ペットボトルのミルクティーは、まだ十分にあたたかかった。


「いただきます」


 ミルクティーの甘さと一緒に、私の顔に笑顔が広がる。


「おいしい」

「よかった」


 うれしそうな小川さんに、私もうれしくなる。明るい日の差し込む車内が一段とまぶしく感じる。


「天気も晴れてよかったですね」


 夏のぎらつきはすっかり抜け落ち、小川さんによく似合うやさしい晴天。


「でも山は冷えるから、寒かったら遠慮なく言ってください」


 桜同様、紅葉の時期も毎年二週間程度は前後する。今年は例年より少し早めで、10月中旬と言えど、もう終わりが近いらしい。


「一番見頃だから、混んでるかもなー」


 全国的に有名な名所でなくても、絶景を求めて人は集まる。山道に入ると車の数は減ったけれど、目的地が一緒と思われる数台が、ずっと同じルートを走っていた。


「この辺もきれい」


 常緑樹なのかまだ紅葉していないのか、緑色と橙色がまだらに混ざった道が続く。不思議なもので、常緑樹も夏の強い色とは異なり、赤や黄色と馴染むような落ち着いた色に変わっているように思えた。


「もう少し先は全部紅葉してますよ」


 小川さんの言葉通り、徐々に緑は減って、明るく鮮やかな世界に変わっていく。


「わあ! すごい!」


 左右から道路に覆い被さるような木々は、ほとんどアーチのよう。赤、黄色、橙色と、きれいなグラデーションで溶け合い、木の幹さえやわらかな色でひとつの世界を作っている。風でだいぶ葉を落としたのか、地面にも同じように鮮やかな色が広がり、隙間の多くなった枝葉から、明るい木漏れ日がきらめきを添える。


「この辺はブナらしいですよ」

「本当に、詳しいんですね」

「実をいうとカンニングです。あの庭の手入れ好きの旦那さんに教えてもらいました。今日行くところも、近場では一番のおすすめだそうです」

「それ、言わなきゃいいのに」

「心苦しくて」


 気まずそうに表情を曇らせる小川さんがやっぱり好きだなーと思って、私は声を立てて笑った。


 普段ガラガラらしい大きな駐車場は、人と車でいっぱいだった。奥の方に残っていた数台分の空きに、小川さんはスムーズに車を停める。


「少しだけ歩いてみましょうか」

「はい」


 もちろんそのつもりで、足元はスニーカー、防寒にコートを着て手袋も持ってきている。


「うわーーーっ! 寒いーっ!」


 思わず叫んだ声は、真っ白な色をして黄金色の山に消えていった。途中のコンビニで降りたときより数段気温が低い。穏やかな陽気の空とは違い、山間を抜ける風は強く、予想以上に体温を奪われる。冷めたくなったデニムで足が冷えるほど。真冬の仕様にしてこなかったことを激しく悔いた。身を固くしてよちよちと進む私を、ちょっと待ってくださいと小川さんが呼び止める。車の中をごそごそと探して、


「用意が足りなくてこんなものしかないけど、使いますか?」


 とマフラーと大判のバスタオルを持ってきてくれた。


「このマフラー、仕事用にしてて、もうボロボロだけど。でも、この前洗濯してからはまだ使ってないし、ちゃんと柔軟剤も……」

「お借りします」


 ダークグレーのマフラーに手を伸ばした。


「小川さんが大丈夫なら」


 本当は、小川さん自身に使って欲しかった。こんなに寒いのだから、防寒はどんなにしてもいいと思う。だけど、もし遠慮して、小川さんのマフラーを嫌がったなんて思われたくない。


「俺はこのくらい平気ですよ」


 マフラーは、いつかのタオルとよく似た匂いがした。抱きしめられたら、きっと同じ匂いがする。


「こんな寒い中、配達してるんですね」


 台風の日同様、雪の日でも郵便は届く。そのことに感謝したことなんてなく、ポストに取りに行くことすら億劫だった自分が情けない。


「何年やっても寒さや暑さは慣れないです」

「専用の防寒着ってあったかいんですか?」

「かなり機能的にはできてますよ。あったかいし、軽い方だと思います。それでも寒いですよね。素手だし」

「素手!?」

「指先の空いた手袋をしてみたこともあるんですけど、どうしても滑って作業が遅くなるんです。誤配も増えるのでやめました」

「雪の日でも?」

「はい。一応バイクのグリップにヒーターはついてるんですけど、本当に気休めです。配達が終わる頃にはエンジンも切れなくなって、両手でようやく切ることもあります」

「そんなに過酷なんですね」

「辛いと言えば辛いけど、でもストレスは少ない方じゃないかな。家まで持ち帰って悩む仕事じゃないし、基本的にひとりだから人間関係も煩わしくないし。俺は好きですよ、この仕事」


 時折かさり、かさり、と音はするものの、落ちた葉の多くはやわらかな土と混じり、足音を消す。きん、と冷えた空気は身体には厳しいけれど、赤の激しさも、黄色のかがやきも、土の深みも、すべてを際立てているかのよう。

 水音が届くのと、風が一際冷たく湿り気を帯びるのはほとんど同時だった。


「ここが観光ポイントのひとつだそうです」


 さほど長くもない橋の上では、たくさんの人が足を止め、橋の下を覗き込んだり、写真を撮っている。


「わあ! きれーい!」


 和歌に詠まれる世界のように、清流を色とりどりの葉が流れていく。川からおこる風に、真っ赤に染まるカエデの枝も揺れていた。ちょっと勢いが激しく、ごうごうという流れの速さが情緒に欠けるような気もするけれど、水音によって空も山々も透明度を上げている。口を開けて見とれる私の腕が、何かに引っ張られた。


「あんまり身を乗り出して、落ちないでくださいよ」


 笑いながらも、私のコートの袖をしっかり握っている。


「落ちませんよ」

「見ている俺が怖いんです」

「高所恐怖症ですか?」

「そういう意味じゃありません」


 やんわりした言い方の中に、真剣味がこもっていたので、素直に身体を引いて遠くの山々に目を移した。


「やっとまともに見られましたね」


 欄干にもたれて同じように景色を眺める小川さんが、感慨深げに言った。


「ミナツさんとは、いつもちゃんと見られなかったから」


 桜も花火も、私はちゃんと見たけれど、小川さんと一緒ではなかった。月に関しては見られていない。


「じゃあ、小川さんはもう満足ですか?」


 望んでいなかったゴールにたどり着いてしまったようで、取り繕った笑顔の中にもさみしさが滲む。こんなに見事な紅葉を、私は見たことがない。それを好きな人と見られたのだから、生涯忘れないと思うけど、これがゴールになるというのなら見たくなんてなかった。


「……満足?」


 小川さんはちょっと考えるように視線を落とし、川の流れを見る。


「俺はいつだって満足ですよ」


 適当な相槌も打てず黙ってその横顔を見ていたら、瞳を楽しげに揺らして小川さんが私を見た。


「ミナツさんは満足できましたか?」


 圧倒的なかがやきで、山々は私に答えを迫る。だけど、


「満足、しないといけないのかな」


 今はとても満ち足りた気持ちだけど、別れるときにはもうゼロになる。どれだけの時間と季節を重ねても「満足」が続くことはない気がする。一緒にいる今でさえ、なぜか会いたくてたまらないのだ。

 強い風に負けることなく、撫でるような陽光が山肌を包む。晴れ晴れとした小川さんの笑顔も、その中にあった。


「今日もすごくいいけど、夕陽に染まる紅葉はもっと幻想的だそうです」

「見たいです」


 日はようやく頂点を折り返したところで、夕暮れまでここにはいられない。


「絶対に、見たいです」


 切実に願う。この人と一緒に夕映えの紅葉が見たい。そして、その日はずっとずっと未来ならいい。小川さんもゆっくりと頷いた。


「今日は無理なので、また、来年にしましょう」


 来年までに、生涯かけても見られないような絶景を探そう。それで、それを見る約束をしよう。約束が果たされるまで、一緒にいてって。


 上も下もあちこち見ながら歩いたつもりだけど、結局ハート型の葉っぱは見つからなかった。


「カツラでしたっけ? この辺にあるんですか?」

「どこかにはあるかもしれませんが、見つかりそうもないですね」


 落ちている葉は、どれもハート型とはほど遠い。その中の一枚を拾いあげる。


「これなんてリーフパイにそっくり」

「あはは! それは多分ナラですね。ブナ、ナラ、カエデ、あとダケカンバが主流らしいので」

「じゃあ、あの葉っぱはどこから?」


 小川さんは内緒話でもするように声をひそめた。


「配達の途中で見つけて、一枚いただいたんです。あれがカツラだっていうのは、」

「庭仕事好きの旦那さまに聞いたんですね?」

「……はい」


 あの一枚を大事に拾ってポケットに入れたのだろう。そのあとも赤く紅葉したカツラを、あちこち探してくれたに違いない。


「赤いハートの葉っぱも絶対見たいです。だけど、今日は諦めますから、だから、」


 声に出さなかった続きの言葉に、小川さんは笑顔でうなずいてくれた。


「また来ましょう。一緒に」



 車に戻るなり、小川さんは暖房を全開にする。風が冷たいから寒いけれど、日差しはあたたかいので、車内に入るだけで全然違った。ピクニック気分でお弁当持って行きますって言ったのに、とてもそんな気温ではなかった。


「すみません。考えが足りませんでした」

「いえ、実際この辺りで食べるところはほとんどないので。コンビニで買うか、市街まで戻るしかないですから。助かります」

「でも……食べる場所が……」

「食べにくいですけど、車の中で食べませんか? ここなら紅葉も見られるし」


 後部座席に移動して、できる限りお弁当を広げた。と言っても、全部並べることは不可能で、タッパーは重ねたまま。


「おにぎりは鮭と焼きたらこと梅干しです。こっちに卵焼きとからあげ。下の方にベーコン巻きときんぴらとエビチリが入ってますから。無理のない程度に食べてください!」


 紙皿と箸を持ったまま、小川さんはいたただきますと手を合わせた。からあげを口に放り込んだタイミングですかさず続ける。


「感想とか言わなくていいですから! あと、本当に無理せず、静かにそっとお箸を置いてくださって結構ですので!」

「おいしいです」

「だから感想いらないですって!」

「どうして?」

「けなされたら辛いし、誉められても『本当かなー? 余計に気を使わせたかなー?』って悩むことになるので」

「悩まなくていいです。本当においしいですよ。このきんぴらも。ごま油好きなので」


 自分でもわかってる。食べられないものじゃない。だけど、特別においしくて感動させられるほどのクオリティでもない。小川さんはきっとおいしいって言ってくれるし、食べてくれるって思ってたから、だから申し訳ない気持ちになるのだ。


「ミナツさんが一生懸命作ってくれたことはわかります。その気持ちだけでうれしいんですけどね。それに、ほら、」


 小川さんはピックに刺さったミニトマトとアスパラのベーコン巻きを差し出してきた。


「笑って食べた方が絶対おいしいです」


 小川さんが本当に楽しそうに笑うから、もやもやした卑屈な気持ちがすうっと消えた。


「そうですね」


 ベーコンの香ばしさとミニトマトの甘味と酸味。じゅわっと広がるそれらと一緒に、楽しい気持ちも広がっていく。


「……え?」


 笑顔で幸せを噛み締める私の顔を、小川さんは驚いた顔で見ている。不思議に思いながら飲み下して、口の周りに変なものでもついたかと、ウェットティッシュで拭きながら、ようやく思い至った。


「あれ? 私……」


 小川さんの手には、ピックとアスパラのベーコン巻きが残っている。小川さんが手渡すつもりで差し出したものを、私はそのまま食べてしまった……らしい。飲み込んだはずのトマトからじわじわと恥ずかしさが全身に広がり、口を手で覆っても耳の赤さまでは隠れない。


「すみません! 間違えました!」


 ピックを持ったまま、小川さんも所在なげに視線をさ迷わせた。


「いや、不味くなってなきゃいいんですけど」


 今度こそピックを受け取って、一気に口に放り込んだ。もうどんな味か感じる余裕もない。


「とってもおいしいです!」


 小川さんは吹き出すように笑った。


「やっぱりおいしいんじゃないですか!」

「あ、また間違えました! 普通です!」

「あははははは!」


 車の小さな窓から見える紅葉は、強めの風に吹かれている。ビュオーッという風が車にぶつかるけれど、狭い車内は、少し暑いくらいだった。


「小川さん、やっぱりいつもにこにこしてますね」

「そうですか?」


 小川さんはおにぎりを口に入れたまま、首をかしげる。


「台風の日だって『いっそ快感』って。私も道端のお花とか小さな幸せを感じて笑っていたいのに、なかなか難しいです」


 天気がいいなー、タンポポかわいいなー、と一瞬思っても、すぐに忘れてしまう。燃費の悪い私は、小さな幸せでは笑顔を保てない。たくさんあったおかずは、半分ほど減っていた。その幸せな隙間を感じることもできず俯いていた私の頭を、一瞬重みとぬくもりが通り抜けていった。


「俺のはそんなのじゃないですよ。例えば花が咲いただけで幸せな気持ちにはなりません。むしろ、大事なのはその先です」

「その先?」

「『花が咲いたって教えたいなー』とか『一緒に見たいなー』とか。喜ばせたいって思って幸せを感じるんです。そういう人の方が多いんじゃないかな? 少なくとも、俺は紅葉をひとりで見ようとは思いません」


 うれしことがあったら、誰かに言いたくなる。喜んでくれるかもしれないって想像したら、さらにうれしくなる。きっと、咲いた花より、ずっと。


「ひとりで紅葉って、さみしさ増しますもんね」


 小川さんはカツラの葉っぱを見て、私を思い浮かべてくれたのだろうか。堪能する間もなく去っていたぬくもりが恥ずかしくて茶化してしまったから、もう聞けなくなった。


 小川さんはかなり頑張ってくれたけれど、さすがに全部食べきることは無理だった。


「ミナツさん、このおにぎりって何合分ですか?」

「えっと、4合かな」

「俺ってそんなに大食漢に見えるのかなー?」


 こころなしか膨らんだお腹をさするので、申し訳なく思う。


「足りたならいいんです。もともと多めに作ったので」


 タッパーとおにぎりをバッグにしまうと、その持ち手を小川さんが掴んだ。


「これ、もらってもいいですか? 明日食べたいので」

「本当に大丈夫ですよ? 私が明日食べれば終わりますから」


 引っ張ってみるけれど、小川さんが手を離す気配はない。


「俺に作ってくれたってことは、これは俺のものですよね。だからいただいて行きます。タッパーは洗って返しますから」


 バッグを奪い去り、ではそろそろ行きましょうかと、運転席に戻るので、私はそれ以上何も言わせてもらえなかった。



「マフラー、洗って返しますね」


 アパート前の暗い駐車場で、違和感なくつけていたそれを、ぎゅっと握って言った。


「洗濯なんていらないですよ」


 と小川さんは手を差し出す。けれど、一瞬考えて、出した手を引っ込めた。


「やっぱり、お願いしようかな」

「はい。ポストには入らなそうなので、終わったら連絡しますね」

「タッパーも返しますから」


会話が終わりそうになり、急いで話題を探す。


「うどん、ごちそうさまでした。おいしかったです」

「こちらこそ。おいしいコーヒーを社割で飲めるなんて得しました」


 結局、ショッピングモールでうどんを食べ、細貝珈琲館のカフェにも寄って帰って来た。時刻は9時をまわり、関係性を考えても明日の仕事を考えても、『デート』はもう終わり。

 山からの帰り道、来たときと同じ道にも関わらず、きらめくようだった葉が、枝が、くすんで見えた。それは夕暮れが近づいたせいばかりではない。終わっちゃった。楽しみで楽しみで指折り数えた時間は、ほんの一瞬で終わってしまった。目の前に広がる景色も、来週には様変わりし、すぐに色を失ってしまうと思うと、今日という日がとても貴重だったのだと思える。すべてを覚えておくつもりで一生懸命堪能したはずなのに、もっと大事にできなかったのかと後悔する気持ちばかりが湧いてきた。


「どこか行きたいところはありませんか?」


 黙りこむ私に小川さんも話し掛けてはこなかったけれど、市街が近づいたところでそう言った。


「え?」

「だいぶ歩いたから疲れてますか? もう帰りたいなら送っていきますけど、行きたいところがあれば。ついでなので」


 普段こんなに歩くこともないほど今日は歩いた。やわらかい土に守られ、歩けてしまったけれど、座ってみるとじんじんと疲労感はある。


「じゃあ、ショッピングモールに行ってもいいですか? 土日は駐車場が混むからなかなか行けなくて」


 身体の疲労を考えるともう歩きたくはないのだけど、この時間を延長できるならなんでもよかった。私も小川さんも何か買うこともせずに一通り回ったあと、フードコートでうどんを食べることにして、


「お昼をごちそうになったので。これくらいはいいでしょう?」


 と小川さんがふたり分払ってくれたのだった。

 その後小川さんが細貝珈琲館のカフェに行きたいというので、それも二つ返事で了承した。閉店も近いせいか人もまばらな店内で、声のトーンを落としながらもずっと話し続けた。


「小川さんはやっぱり青なんですね」


 今日小川さんに提供されたカップは焼き物で、土の色と鮮やかな青がうつくしく溶け合っているものだった。


「男はこんなものじゃないですか? 少なくとも赤のハート柄にはしないと思う」


 私のカフェオレは、白地に赤とゴールドのラインが入ったカップに入ってきた。側面には、装飾的なハートが描かれていてかわいらしい。


「やっぱり服ですよ」


 赤に黄色いラインの入ったカットソーを指差して言うと、小川さんは笑った。そして口を尖らせながらカフェオレを飲む私に尋ねる。


「なんでカフェオレの名前が『半月』なんですか?」

「『新月』っていうブレンドが深入りで苦味が強いからカフェオレに向いてるんです。で、」

「ああ! ミルクで半分割るから『半月』!」

「ちなみにアイスコーヒーは『凍て月』。無理矢理感は指摘しないでください……」

「なるほど」


 また笑って、メニューにあるコーヒーの解説を興味深げに読む。


「軽めのブレンドってあったから『そよ風』にしたけど、パプアニューギニア産なんだ。……よくわからないな。どこだっけ?」

「えーと……あれ? オーストラリアの方だったような……」


 そうして、もう少しもう少しと時間を延長するように頑張ったのだけど、やっぱり終わってしまうのだ。閉店時間に追われてカフェを出て、アパートの前で車から降りると、もうできることはない。


 あとは別れるだけの空気が漂ってお互い顔を見合わせた。けれど、どちらも口を開かなかった。お茶でもと誘うべきかと考えて、本当はそうしたかったのに、車は敷地内とは言え駐車スペースではないところに停めているので、このままにしてはおけない。


「今日は本当にありがとうございました」

「こちらこそお弁当ありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね」

「えーっと、……今日はありがとうございました」

「それ、今言った」

「ですよね。……マフラー、洗ったら連絡しますから」

「それも言いましたよ」

「……ですよね」

「連絡しますから」

「はい。……楽しかったです」

「俺もです」

「えーっと……」

「ミナツさん。きりがないから、ミナツさんが先に帰って」

「……はい。では、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 重い足を剥がすようにその場を離れ、そこからは急いでベランダに出ると、小川さんは笑顔で手を振り車に乗った。去っていくテールランプが、角を曲がって見えなくなる。


「伝わったかなー」


 私なりに精一杯気持ちを表したつもりだけど、小川さんがどう思ったのかわからない。満足とはほど遠いさみしさが胸に広がる。結局一日借りたままのマフラーが、夜風とさみしい気持ちの両方から私を守るようにあたたかかった。



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