9 野分のなかを
普段はからっとしている里葎子さんが、いつになく怒っている。
「これだからダメなのよ、この辺の人は! 災害に対して見通しが甘すぎる!」
愛妻弁当を掻きこむ課長越しに窓の外を見ると、青みの落ちてきたイチョウの木が、強い風にゆっさゆっさと揺れていた。
「まだ、雨降ってませんし」
「降ってからじゃ遅いのよ! 美夏ちゃん、懐中電灯は持ってる?」
「ペンライトならあります」
「会社の借りて帰りなさい。簡易コンロは? 保温ポットは?」
「簡易コンロはありません。ポットは魔法瓶機能がついてます」
「熱々のお湯沸かして保温しておくの! あとはご飯を炊いておくこと。お風呂に水をためておくこと。パンとか、調理なしで食べられるものとお水を2日分くらい用意しておきなさい。それから、ガソリンと携帯の充電はいっぱいにしておくのも忘れずに」
もうすでに指示されたことの半分は忘れてしまっていたけれど、そんなことを言える雰囲気ではない。
「……頑張ります」
「どうせ『台風なんてこない』って思ってるんでしょ?」
「……えーっと……はい」
「これだから、この辺の人は!」
里葎子さんだってここが地元でここで生まれ育ったのに、なぜこんなに防災意識が高いのだろう?
台風シーズンに入り、大型のものをいくつかやり過ごしたから、もう終わったと思っていたのに、また大型台風が迫っている。九州と四国を荒らし、中部から日本海に抜けてこの東北に向かっているようだ。けれど、私の人生において、台風というのはあまりご縁のないものだった。ほとんどが太平洋に抜けてしまうし、たどり着く頃には温帯低気圧に変わっている。台風の被害に遭ったという体験談は、私の中学生時代にまで遡る。従って、私に台風に関する記憶はほとんどない。
「俺なんて傘も忘れてきたよ」
通りかかった伊東さんが偉そうに胸を張るので、すかさず里葎子さんにアピールする。
「さすがに私、傘は持ってますよ!」
「伊東さんは大切な傘が暴風雨で壊れるのが嫌だったんですね。そうに違いない」
真実をねじ曲げる里葎子さんを、私も伊東さんも笑って見ていた。台風なんて来ない。めったに。
実際、台風は日本海を北上し続け、東北地方に上陸することはなかった。金曜日はなんとか降らずに終わったから、伊東さんも無事に帰れただろう。けれど、上陸するかどうかは必ずしも重要なことではないらしい。翌日の土曜日は激しい雨音と、ガタガタ鳴る窓枠の音で目が覚めた。痛そうなほど打ち付ける雨と、折れるのではないかと心配になる木を見ながら、高校の地学の授業を思い出していた。日本海を進むと台風は水蒸気を得て勢いを増すとか、台風の東側は雨風が強くなるとか。里葎子さんの言うように、本当に停電くらいはなるかもしれないと不安になってくる。ガソリンと携帯の充電はいっぱいにしたし、お湯も沸かしたし……あと、何だっけ?
見ていたところで状況は改善しないのに、窓から離れられないでいると、排水し切れずに溜まった大きな水たまりをさぶんと言わせて、郵便バイクが入ってきた。
「え! うそ!」
窓を伝う雨のせいで顔ははっきり見えないけれど、背格好と仕草だけでそれが小川さんだとわかった。バスルームに寄って一番上にあるタオルを掴むと、ボロボロのミュールを引っ掛けてエントランスに降りる。
「小川さん!」
「あ、ミナツさん。こんにちは」
無言でタオルを押し付けると、汚れるからと一歩下がって拒否される。
「洗って返してくれればいいので」
腕を伸ばして無理矢理顔にタオルをあてたら、ようやくタオルの向こうで、ありがとうございますとくぐもった声がした。
「こんな時にも配達ですか?」
「そういう仕事ですから」
カシャン、カシャン、とリズミカルに配達して、
「はい、これはミナツさんに」
と、美容院から送られてきたDMを渡された。『トリートメント全品30%OFF!!』というハガキは、この大雨にも関わらずほとんど濡れていない。一瞬見て、そのままごみ箱に入れてしまう程度のものなのだ。それを、この天候の中……。
「こんな日くらい休んでもいいのに」
「そう言ってくれる人ばかりじゃないから」
「人の命の方が大切でしょ?」
「さすがに命の危険が高いときは休みますよ」
小川さんは滴る雨をタオルでごしごしと拭って、えくぼを作った。
「ここまでひどいと、いっそ快感!」
目を丸くする私に、笑顔をやさしく変化させた。
「身体冷えますから、ミナツさんは早く戻ってください。それから」
そこまで言って小川さんは口ごもる。迷うような間を視線でうながすと、降る雨の方に顔を逸らしてぼそぼそと続けた。
「もし、何かあったら……停電とか、断水とか。何かあったら、教えてください」
「……………はい」
小川さんは居心地悪そうにヘルメットの位置を直す。
「さすがに今日は時間かかってるので、もう行きますね」
「気をつけてください。本当に」
急ぎ足でエントランスを出ようとして、小川さんがくるりと振り返る。
「もし俺に何かあったら、ミナツさんは泣いてくれる?」
笑っていないその表情からは何も読み取れなかった。
「当たり前じゃないですか! 縁起悪いこと言わないでください!」
「すみません。じゃあ、泣かせないように頑張ります」
エントランスから見送っていると、やはりいつもと同じように軽く手を上げて、再びざぶんと水溜まりをくぐり抜けて行く。強い風は細かい雨粒を運んでいるらしく、屋根の下にいるはずの私でさえ、全身がしっとりと濡れていた。
いつもならすぐごみ箱行きのDMは、とても捨てる気持ちにはなれず、冷蔵庫の、前にもらったメモの隣にマグネットで貼り付けた。触れると、わずかに湿気を帯びた紙は冷たい。
氾濫危険水位まで増水した川も結局溢れることはなく、夕方には雨も小降りになっていた。停電も断水もなく、浸水被害も報告されていない。この台風で命を落とした人も怪我をした人も、ニュースを見る限りではいないようだった。
小川さんに教えるようなことは何もないけれど、今夜は電話しようと決めていた。ずっと握り締めていた携帯がぬるくなった夜7時。
『もしもし』
元気な声がして、ようやくゆっくり呼吸ができるようになった。
「お疲れ様です。中道です」
『何かありましたか?』
珍しく挨拶もせずに小川さんが聞く。
「あ、いえ、私は何ともないです。小川さんが、大丈夫だったのかなって」
『俺は大丈夫ですよ。ちょっと身体は冷えましたけど、お風呂も入りましたし、達成感はあります。タオル、ありがとうございました。洗って返します』
「あんな天気じゃ意味ないのに、荷物になってしまいましたよね」
『そんなことないです。うれしかったので』
目を閉じて、電話の向こうの気配を胸いっぱいに感じた。もう用事は済んだのに、小川さんの声と言葉を噛み締める。少し様子を伺うようにしていた小川さんは、
『この前、ハート型の葉っぱを見つけたんです』
と、別の話を始めた。もう切られるかもしれないと思っていたから、驚いて目を開ける。
「ハート型ですか?」
『カツラだったかな? 見つけたのは緑色だったんですけど、紅葉すると赤くなるのもあるみたいですよ』
赤いハート型の葉っぱ。小川さんと一緒に見られたら、どんなに素敵だろう。
「私も見てみたいです!」
『じゃあ探して、タオルと一緒にポストに入れておきますね』
「…………はい」
わざわざ探してくれるのだから、もっと喜ぶべきなのに。だんだん贅沢になっている私は落胆して、それを悟られないように声だけ殊更明るく言った。
「もう、秋なんですね。早いなー」
『秋は短いから、すぐ冬になりますね』
「早いなー」
『早いですね』
「冬は寒いから嫌なんです」
『ミナツさんはやっぱり夏が好きなんですか?』
「夏は暑いから嫌いです」
『あははははは!でも、夏に木陰で仕事サボるのは格別ですよ』
「冬に昼間から甘酒飲んで酔っ払うのも格別です」
『ミナツさん、昼間から酔っ払ったりするんですね』
「誰の迷惑にもならない悪事による背徳感は、オトナのたしなみですよ」
『たしなみですか?』
「それを上回るパフォーマンスをすればいいんです」
『上回るパフォーマンス、ミナツさんはしてるんですね』
「酔っ払ったら寝ちゃいます」
電気の無駄遣いだと叱られそうな、内容のない話ばかりした。
『停電しなくて本当によかった』
「ペンライトしか持ってないって言ったら、先輩に会社の懐中電灯持たされました」
『いい先輩ですね』
「ところが電池切れてて」
『替えの電池ないんですか?』
「単2なんですよ、これ」
『単2は……うちにもないですね』
「古いタイプで重かったのに」
いつまでも続けられそうだったけど、小川さんが電話代を気にしたので、終わらなければならなくなった。
「おやすみなさい」
『おやすみなさい』
「…………………」
『…………………もしもし?』
「はい?」
『ミナツさんが切ってくれないと』
「あ、そうですよね。すみません……じゃあ」
『はい』
雨は止んでいたけれど、気温は低く肌寒かった。エアコンをつけようか迷ったまま、ベッドにゴロンと寝転ぶ。頬にあてた携帯があたたかい夜だった。
数日後、確かにポストにはタオルが入っていた。同じビニール袋の中には、緑色のハート型の葉っぱと、期間限定マロン味チョコレートも一緒に。そして、ポスト型のふせんメモ。
『タオルありがとうございました。
紅葉はもう少し先のようで、約束の葉っぱは見つけられませんでした。
だから、シーズンに入ってから山に探しに行きませんか?
よかったらお連れします。
小川』
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