8 雲がくれ

 一度だけ、小川さんに電話をした。迷って迷って、そうしているうちに一週間かかって、ようやく。


『メモ、捨てられたかと思ってました』


 ジョークとも思えない声に平謝りし、その流れで「この前はありがとうございました」という事務的なお礼を伝えると、もう話題を探せなくなった。沈黙が怖くて早々に切ったら、今度は掛ける用事がない。それっきりひと月近い時間を毎日悩みながら過ごしてきた。考えたところで用事なんてみつからず、小川さんからも連絡がないまま。


「電話よ、鳴れー!」


 スーパーで買った桂花珍酒をちびちび舐めながら念を送っているけれど、今のところまだ効果はない。小川さんの番号を表示させると、それだけで持つ手が震える。このボタンをタップしたら、繋がるんだなー。


「えいっ」


 酔った勢いで押してしまった。プルルルル、プルルルル、という呼び出し音を最初こそふんふん鼻歌混じりで聞いていたけれど、長引くにつれて冷静さを取り戻した。……やっぱり切ってしまおうか。迷って携帯を耳から外したものの、その瞬間に小川さんが出たらと思って切れなかった。この呼び出し音は今、小川さんと繋がっている。


『━━━━━もしもし』


 ざわめきを背景にしたその声は、乾いた地面に染み込むようだった。


「こんばんは。あの、中道です」

『小川です。ミナツさん、久しぶりですね』

「今、電話大丈夫でしたか?」

『大丈夫です。仕事帰りで、ちょうどコンビニにいるところなので』


 ふっと沈黙が降りる。どう考えても、ここが要件を伝えるタイミングだった。ひと月考えて出なかったアイディアがこの一瞬で出るはずもなく、結局黙って抱えた膝を見つめるだけ。けれど、一向に要件を言わない私に、小川さんは『どうしたんですか?』とは言わなかった。


『今夜は十五夜らしいですね』

「十五夜?」


 カーテンを開けても室内の明かりでよくわからない。窓を開けてみたところで、重そうな曇り空しか見えなかった。


『でも満月は明日らしいんですよ。仲秋の名月って必ずしも満月じゃないんだって。知ってました?』

「そうなんですか? 知りませんでした。満月じゃないんだ。……どっちにしろ、見えないですね」

『見えませんか?』


 コンビニの中にいる小川さんは空を見ていないらしい。


「見えません」

『じゃあ、せめて月見団子でも買おうかな』


『お待たせしました~』という店員さんの声を聞きながら、私も厚手のカーディガンを羽織り、冷蔵庫からゼリーを持ち出してベランダに出る。


「寒いっ」

『風邪ひかないでくださいね』

「…………ふぁい」

『何か食べてますか?』

「すみません。せっかくなので、ぶどう味のこんにゃくゼリーを」


 くすくすという笑い声と『892円です』の声が重なって届く。


『俺のことは気にせず、詰まらせないようにゆっくり食べてください』

「すみません。大丈夫です」

『あ、本当に全然見えませんね』


 コンビニを出たらしい小川さんの背景は、今度は車が往来する音に変わった。


「真っ暗ですよね」


「きれいな月ですね」「そうですね」なんてロマンチックなやり取りでもできればよかったのに、もはやこれが空そのものではないかと思えるほど、隙のない曇り空だった。


『でも、いい夜です』

「いいですか?」

『こんなに曇り空を見上げることも、なかなかないじゃないですか』


 雲の一ヶ所を漠然と見ながら、またひとつこんにゃくゼリーを食べる。動く気配のないぶ厚い雲の向こうには、ほんの少し欠けた月があるらしい。小川さんも今、その見えない月を見上げている。それならば、見えるか見えないかは問題ではなく、同じものを見ている喜びが空を明るく見せた。けれど、贅沢を言っても許されるなら、小川さんの隣で見たかった。


『一緒だったらよかったんですけどね』

「うぐっ?」


 以心伝心かと驚いて、注意された直後にも関わらず、こんにゃくゼリーを軽く喉に引っ掛けた。こっそり命の危機から脱した私は、素知らぬ顔で聞き返す。


「……『一緒』って?」

『団子、つい買っちゃったけど、ひとりだと多いなって』


 抱いた期待が魂ごと身体から抜けて、ベランダの手すりにどうにか支えてもらう。


「一緒にいてもダメですよ。私、あんこ苦手ですから」

『そっか、残念。じゃあ、帰ろうかな』


 笑いを含んだ声と重なり、すぐ下でガサガサというビニール袋の音がした。私の部屋から漏れる明かりの中に、月より会いたい人が立っていた。


「小川さん!」

「こんばんは、ミナツさん」

『こんばんは、ミナツさん』


 直接、そして重なるように少し遅れて電話から声が聞こえる。ガサガサという音は、コンビニの袋を提げた小川さんが私に手を振っている音だったのだ。


「今! そっちに行きます!」


 裸足だったけど、靴下を履く余裕もなく、そのままスニーカーに足を突っ込む。ドアに鍵を掛けることもしなかった。


「どうしたんですか?」


 通話を切った携帯を小川さんはポケットに突っ込んだ。


「職場の近くのコンビニにいたので、そのまま流れで歩いて来ました」


 郵便局が近いことを特別便利だと思ったことはなかったけれど、今初めて感謝していた。


「すみません。呼びつけるつもりはなかったんです」

「呼びつけられたつもりもないですよ」


 小川さんは少し辺りを見回してから、空いている車止めに座った。けれどすぐに「あ」と立ち上がる。


「俺は構わないけど、座ったら服汚れますよね」


 私は少し小走りして、もうひとつの車止めにペタッと座った。


「平気です」


 小川さんがまた座ったことに安心して、ぶ厚い雲を見上げる。今夜はどうしても、月を見せるつもりはないらしい。


「これなら食べられますか?」


 暗がりだとはっきりしないけれど、小川さんが取り出したパックには、あんことみたらしと、黒ごまあんの串団子が入っているらしく、指差したのはみたらしだという。


「じゃあ、いただきます」


 遠慮なくみたらしを受け取る私に続いて、小川さんも串を持ち上げた。


「あ、よかったら、これもどうぞ」


 握りしめていたこんにゃくゼリーの袋から、ひとつかみ小川さんに渡す。


「いただきます」


 ふたつの車止めの間には隙間があるから、私と小川さんとの距離は1mくらい空いている。けれど、陰になって街灯も家の灯りも届かない空間にいると距離感は曖昧で、ものすごく近くにも、ずっと遠くにも感じられた。

 隣を見つめたい気持ちを抑えて、ひたすらな雲を見上げる。


「おいしい」


 むっちりとしたみたらし団子はとろりと甘く、その力強い甘味がいとおしかった。


「うわ、これ黒ごまの方だ」


 一緒に口に運んでいた小川さんが驚いた声を上げる。


「黒ごま、嫌いなんですか?」

「そうじゃないけど、あんこだと思って口に入れたからびっくりして」

「暗くてよくわからないですもんね。私だったら気づかなそう」

「じゃあ、あんこの方渡せばよかったな」

「さすがにそれは気づきます」


 くすぐるような風が吹いて、小川さんの持つビニール袋がかさりと鳴いた。凍えるほどでなくても、コンクリートの冷たさもじわじわしみてくる。


「ちょっと、待っててください!」


 走って部屋に戻るとトレイに煎茶をふたつ乗せて、そろりそろりと運ぶ。


「お待たせしました。煎茶です。熱いので気をつけてください」

「あ、すみません! ……いただきます」


 さっそく一口飲んだ小川さんは、


「やっぱり団子にはお茶ですね」


 と、深いため息をついた。


「お月見だと本来はお酒ですよね。お酒に月の姿を映して飲むんじゃなかったっけ? 煎茶じゃ、映らない……」

「どうせ見えないんだから、煎茶で正解です」


 小川さんが再び満足げなため息をつくから、私も熱いうちにと煎茶を飲んだ。


「小川さん、お酒飲めないですもんね」

「飲めたら楽しいんだろうなーって思いますけどね」

「あ、でも、資源回収の日に大量のビール缶と栄養ドリンクの瓶出してると、人生悲しくなりますよ」


 あはははっと小川さんの影が楽しそうに揺れた。


「頑張ってる証拠です。堂々と出してください」


 顔を巡らしても隙のない雲なので、代わりに隣にあるはずの小川さんの笑顔を思い浮かべる。


「そもそもこっち方向で合ってるんでしょうか?」


 凹凸を感じない雲のどこを見たらいいのかわからない。見上げる空は一緒だけど、多分私と小川さんは別のところを見ている。


「ちゃんと方向は南向きなので、出たら見えると思いますよ」

「そういえば、お月見って、お団子とお酒と、あと何でしたっけ?」


 小川さんも少し考えたようだった。


「すすき。一本隣の空き地にありましたね。もらってくればよかった」

「あとは芋とか栗とか?あ、私の家ではぶどうもあげてましたよ」


 誇らしげにこんにゃくゼリーを持ち上げると、小川さんの笑い声が聞こえた。


「じゃあ、モンブランも買ってくればよかったですね。芋ようかんもあったような気が……」

「聞いただけでお腹いっぱいです」


 電話することはあんなに躊躇われたのに、隣にいると他愛ない話が次々と出てくる。胸はいっぱいなのに気詰まりな感じはなく、私はこのまま一晩中でもこの曇り空を眺めていられる気がした。


「お仕事、忙しかったんですか?」


 唐突に問われた意味が、わからなかった。


「仕事、ですか?」

「はい」

「仕事は普通です。嫌なことも大変なこともあるけど、平均的な範囲内だし」

「そうですか」


 意図を探ろうにも暗くて、淡々とした声色からも何も読み取れない。


「あの……?」


 私の戸惑いは伝わったようで、小川さんはなんとなく言いにくそうに言葉を発した。


「ミナツさんがどうしているのかわからなかったので、忙しいのかなって。前の電話も、急いでたみたいだったし」

「ああ、あれは……」


 緊張して、何を話したらいいのかわからなくて、だけど小川さんから切られてしまうのが怖くてさっさと切ったのだと、包み隠さず話す勇気が出ず、食べ終えたお団子の串をぶらぶらと揺らした。


「あれは……用事が済んでしまったから……」

「用事か……。用事……」


 小川さんはちょっと考え込むような間をおいてから、独り言のようにポツリと言った。


「用事なんて、ないもんな」


 続いてお団子を咀嚼している気配がして、会話は止まってしまう。どこを見ても似たような闇なのに、自然とスニーカーの爪先に視線は落ちた。


「あ! 月!」


 小川さんの声で顔を上げると、厚い雲の一点がほんのりと明るくなっていくところだった。雲から滲むような光は確かに月の色。


「本当だ」


 雲はとろけるように薄くなっていく。光が強くなり、じわじわ空の色を変える。もう少し、あともう少しで見えそう。ところが、じっと期待して待つ私たちに、意地悪な厚い雲が再び月を覆ってしまう。


「ああっ! もうっ!」

「残念」


 見合せたその表情はわからないけど、ふっという息づかいで、小川さんが笑っているのはわかったから、私も笑って言った。


「なんかいつもこんな感じですね」


 夜桜も花火も遠目から。月は見えそうで見えない。漱石先生、月が見えない場合、「I love you」はどう伝えたらいいのでしょう?


「うーん、でも」


 小川さんはガサガサとお団子のパックを袋にしまう。


「いつも楽しいですよ。だからやっぱり、いい夜です」


 『いい夜』。きれいなものなんて何もなくても、いい夜だ。もし今夜が史上最もうつくしい月夜だったとしても、小川さんがいなければ私はこんなに空を見上げていなかった。


「遅くなっちゃいましたね」


 そう言って小川さんが立ち上がるから、仕方なく私も立ち上がった。『いい夜』もここで終わり。


「お引き留めしてすみませんでした」

「だからね、ミナツさん。引き留められたつもりはないですって」


 促されてアパートに戻ると、小川さんはまだベランダの下にいた。


「おやすみなさい」


 ガサガサと音をさせて手を振る。


「おやすみなさい」


 住宅街なので夜はとても静かなところだ。小川さんの靴がアスファルトを擦る音さえ拾うことができるほど。それがどんどん小さくなるのもわかるくらいに。


「好きです」


 敷地を出ていく背中にそう言ったけれど、ささやきはわずかな風にさらわれて、こんなに静かなのに届かない。この気持ちと同じくらい大きな声が出せたら……。そんな私の気も知らないで、小川さんは街灯の下で変わらない笑顔を見せて帰って行った。

 夜空を眺めたのなんて、いつ以来だっただろう? 実家でも十五夜なんてしなくなって久しい。幼い頃頑張って勉強した星座も、オリオン座くらいしか覚えていない。私の生活は、ずいぶん味気ないものになっていた。

 今夜は、あの頃うつくしく見えた世界に帰ったような『いい夜』だった。









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