7 残暑きらめく
「人間と話しましょう」
そう小川さんに誘われたのは、花火大会から二日後の日曜日のことだった。
あのままお盆休みに入った私は、翌日ベランダに続くガラス戸に張り付いて〈待ち伏せ〉を決行していた。ここ最近、土曜日には欠かさず行っている〈待ち伏せ〉は、別に強い意志で継続しているものでも、無意識にやってしまう習慣でもない。けれど、「そろそろ小川さんが配達に来る」と思うと、気になって気になって仕方なく、結局ガラス戸に背を預ける。
私の部屋のベランダは二階の南向きなので、背中を太陽がじりじりと焼く。ベランダに出て堂々と待つことも、カーテンに隠れてこっそり覗くこともできないので、外から見えないように窓際にしゃがみ込み、外を流れる音に耳を澄ます。車が通る音。誰かの話し声。救急車のサイレン。犬の鳴き声。たくさんの音の中から、息をひそめてたったひとつのバイク音を慎重に拾うのだ。待ち望んだ音がしたら、そこからは更に気を使って身を固くしなければならない。レースのカーテンが少しでも揺れれば、うずくまる私の存在がバレてしまうから。大きく早い鼓動のリズムに惑わされないように、殊更ゆっくり10数えてから、そーっと伸び上がって、エントランス前に郵便バイクが停まっているのを確認。そしてすぐに元に戻る。少ししてバイクのストッパーを外す音とエンジンの音がしてから、私はようやく身を起こして、敷地を出ていく小川さんの後ろ姿をやっと見つめることができるのだ。
「あ、今日違う人だ……」
必要のない居留守を守り通した私は、ものすごくがっかりしてしまい、急に喉の渇きを覚えた。ウーロン茶を片手に堂々と眺める窓の外には、濃い青空が広がるばかり。
小川さんは、たいてい一日に2回このアパートにやってくる。私宛の郵便物はなくても、一階に家族用4世帯、二階に単身用6世帯、合計10世帯入居していれば、誰かしらに郵便物はあるものらしい。もちろん、小川さんにだってお休みの日はあるのだけど、まさか違う人だなんて思わずにドキドキ待っていた。
これは非常に困りもので、好きな人が自分の家に来るなら無視できない。だけどいい大人がこんな無様なことをしているなんて、誰にも知られたくない秘密だった。いっそ車で二時間の実家に帰省すればよかったのだけど、来月大きな法事をするからお盆は帰って来なくていいと言われていた。
「会いたいなー。会いたいよねー? 小川さん、今日は何してるんだと思う?」
ベンジャミンは何て答えているのか、私の愛撫にきゃははと身をよじる。
こじらせにこじらせた恋心は、夏の暑さで傷んでいたのか、翌日それは私自身も思いがけない形で爆発した。
日曜日は配達も基本的にはお休みらしいので、さみしくてつまらない反面、平穏な気持ちで過ごしていた。
「何しよっかなー」
遅い朝食の皿も片付けずに、カーペットの上をゴロゴロして思い付くアイディアに、有効なものなんてない。暑くて外には出たくないけれど、生きる上ではそうも言っていられなかった。
「とりあえず、お買い物は行かないと」
さっき飲みきったばかりの牛乳パックが目に入って、しぶしぶ腹筋に力を入れた。このときゴロゴロなんてせず、さっさと行動に移していれば、事態は違っていたのかもしれない。
「お風呂上がりの化粧水は一刻を争う!」という雑誌の記事を盲信している。だから、シャワーのあと下着姿で化粧水をつけていたのは通常のことなのだ。だけど、
「ええーー!! 今!?」
突然玄関チャイムが鳴った。慌てて元々着ていたTシャツとショートパンツを身に付け、つんのめるようにして玄関に走る。
「はーーーい! 今、出ます!」
思えばインターフォンで確認すればよかったのに、突然のことに慌てた私は、そのまま玄関のドアを開けてしまった。
「ミナツさん、おはようございます。現金書留をお届けに参りました」
「おはようございます!!」
大きく開けたドアを、挨拶と同時に勢いよく閉めた。
「すみませーーん!! 着替えて来ますーーー!!」
最近買ったばかりのパジャマの方がマシなくらいにひどい格好だった。とにかくTシャツとショートパンツを脱いで、簡単に着られるブルーのワンピースをかぶるも、頭に巻いたタオルが引っ掛かり逆に手間取る。乾かしている時間はないのでそのまま簡単にタオルドライをして、クリップでひとつにまとめた。これが限界……。
「……申し訳ありません。お待たせしました」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
小川さんの反応は最初と変わらなかった。こんなことにも慣れていて、見て見ぬふりが上手なのかもしれないし、そもそも私になんて興味ないのかもしれない。
落ち込む気持ちで引き出しからシャチハタを取り出し、現金書留の封筒を受け取った。母が送ってきたものらしい。先日いとこの出産祝いを立て替えたから、律儀に送ってきたのだろう。送ったなら送ったって言ってよ。現金書留なんてめったに受け取ることなくてびっくりしたし、何より小川さんにひどい格好を見せてしまった。
シューズラックの上で、母への恨みをシャチハタに込める。けれど、押してもぎゅっと詰まって動かない。
「あれ?」
もう一度押してみても、やっぱり詰まって押せない。
「ごめんなさい! 今、別のハンコを取ってきます」
少し焦る私に、彼はのんびりした笑顔を向けた。
「サインでもいいですよ。でも、もしよかったら、ちょっと見せてもらってもいいですか?」
差し出された手にシャチハタを乗せると、小川さんは押したり指で探ったりしながら、カチャカチャと動かしている。
「あ、ここが引っ掛かってるだけですね。……ほら、動いた」
滑らかに動き出したシャチハタを、自分の手の甲に押し当てる。
「直りましたよ。ほら」
カシャン、カシャン、とシャチハタが動くたび、小川さんの手の甲に『中道』『中道』と私の名前が押されていく。
「あ、ありがとうございます」
シャチハタを受け取って、今度こそ受領印を押した。
「ミナツさんはいらっしゃらないかと思ってました」
「お盆休みはずっと家にいます」
居留守を使っていたことをうっかり忘れて、つい真実を洩らしていた。
「帰省されないんですか?」
視線は合わせず、私から受け取った小さな紙をしまいながらの言葉は、恐らく挨拶の一環なのだろう。声も掛けられないくせに毎日待ちわびて、会えたら会えたでこんな姿を晒す私が惨めでかわいそうに思えてきた。
「帰省されませんよー。何の予定もないし、ずーっとひとりぼっちです」
「俺も仕事だから似たようなものです」
小川さんの反応はいつもの笑顔だった。そのおだやかさや優しさを好きになったはずなのに、いつでも変わらない態度の中に、彼の感情を感じることができない。
「全然似てません。私なんて観葉植物とかテレビとばっかり会話してるんですから。あー、人間と話したーい」
ゴールデンウィークの頃にはそんな生活さえ贅沢だと楽しんでいたはずなのに、今はただ寂しいだけだった。叶わない恋のもどかしさや悔しさが、棘となって小川さんに向かう。
「わかりました。じゃあ、6時くらいに迎えに来ますね」
「…………は?」
予想だにしない反応に、全身の棘が一気に抜け落ちた。
「俺でよければ人間と話しましょう。そんな時間だから、ご飯食べるくらいしかできないけど。あと、仕事帰りだからオシャレなところも無理です。それでもいいですか?」
「……はい」
「じゃあ、またあとで。ありがとうございました」
軽く会釈して笑顔で帰っていく後ろ姿は何度も見た配達員さんと変わらず、今の事務的なやり取りが現実だと証明するものは何もなかった。それでも窓から外を見ると、小川さんもこちらに向かって手を上げてからバイクを走らせた。あの手には、きっと『中道』『中道』と私の名前がたくさん残っている。
完全に小川さんの姿が消えてから数分後、私はカーペットの上で身悶えて、テーブルに脚を思い切りぶつけた。ものすごく痛い。だけど、胸の中に広がるドキドキとした温かみが勝って、顔はにやけたままだった。
それが夢や妄想ではないと証明されたのは午後6時。宣言通り、普段着の小川さんが玄関チャイムを押したときだった。
「ミナツさん、お待たせしました」
仕事と変わらない笑顔で、仕事と変わらない声で。
「いえ! あの、お仕事お疲れ様でした」
あのあと慌てて買いに走った軽い素材のワンピースが、吹き込む風にふわりと踊った。
「何が食べたいですか?」
初めて並んで歩いた小川さんは、わかっていたけど結構背が高かった。大きな歩幅を弾ませるようにする配達のときと違って、今は私に合わせてゆっくりゆっくり歩いてくれている。
正直なところ、緊張してるし胸がいっぱいで、お腹のことまで考える余裕はなかった。だけど「なんでもいい」って答えたら、きっと困らせるだけ。
「ラーメン、かな?」
あっさりしたラーメンなら、きっと無理なく食べられる。それに余程のことがない限り格式は高くない。
「お酒は飲みますか?」
黒い曲線的な車の運転席を開けて、小川さんが聞いてきた。どうぞと助手席を示すので、お邪魔しますと乗り込む。
「えーっと……」
車に乗るだけで余裕をなくしている私には、単純な質問すら頭の中を空回りする。そんな私を見て、小川さんはくつくつと楽しげに笑った。
「そんなに難しく考えないで」
「あ、はい。じゃあ、ちょっとだけ、飲みたい、です」
飲んだら少しは落ち着くのではないかと、安易な逃げからそう答えた。
「それなら龍華苑は?」
知っているお店を提案されて、ようやく少し余裕が持てた。もしこれが知らない高級料亭ならば、輪ゴムを食べても気づかないくらい緊張したと思う。
「あ、行きたいです! しばらく行ってないので。杏仁豆腐食べたい!」
小川さんはまた笑って、スルスルと車を滑らせた。
敷地を出て右に曲がると大きな通りに出る。私はその通りを起点にしてどこにでも向かうのだけど、小川さんは左に曲がって細い通りを進んで行く。
「え? こっち?」
この辺りは住宅街で、一見すると碁盤の目状なのだけど、行き止まりがとても多い。目印もほとんどなく、うっかり踏み込むと痛い目を見るので、私はほとんど通ったことがない。
「こっちの道の方が静かですよ。あと、ガーデニングを趣味としてるお宅があるので、見ていて楽しいです」
「へえー! 詳しいんですね」
「……誰だと思ってるんですか」
「あ、そっか」
細く狭く入り組んだ道は、ご近所であるにも関わらず私の知らない場所だった。そして小川さんにとっては、何百回と通った仕事場。
「わあ、本当にすごいお庭」
車を脇に停めてくれたので、立木の間からしっかり見えた。緑と岩を基調によく手入れされた見通しのいい庭。暮れかけた光の中でも、芝や葉の緑が清々しい。水音もするから、池もあるのかもしれない。
「よく刈り込まれてるでしょう? 旦那さんの趣味なんだそうです。だけど毎日毎日刈るものだから、いつも刈りすぎて、ちょっと形が歪つなんですよね」
「愛情は感じます」
「はい。毎日見ても飽きません」
「こっちの、白いお花はかわいい」
「キョウチクトウだそうです。かわいいけど強い毒があるから、絶対触るなって言われてます」
庭の自慢を笑顔で聞く小川さんが目に浮かぶようだった。きっと荷物を持ってあげたり、代わりにお菓子やお茶をもらうことも日常茶飯事。私にとっては特別なことでも、小川さんには仕事の延長でしかないのかもしれない。
龍華苑は個人経営のお店ながら、そこそこ広いフロアと親切な従業員のいる人気の中華料理店だ。壁とイスはやわらかな白、床とテーブルは深い焦げ茶色をしていて、スタイリッシュな印象もある。だから、どちらかというとサラリーマン向けの店なのに、女性人気も高い。
「えー! 待って待って! どうしよう。うーーーん」
よく考えたら必死に洋服を探すあまり、お昼はコーヒーしか飲んでいなかった。店内に充満する香ばしい香りと、メニューの写真で空腹を思い出した。
「別に急かしてないから。ゆっくりどうぞ」
小川さんは壁に貼ってあるメニューやお知らせを読みつつ、冷たいジャスミンティーを飲む。からんと氷の音がしたから、それも飲み干してしまったらしい。
「この唐辛子マーク3つってどのくらい辛いと思います?」
不穏に赤黒い〈麻婆担々麺〉を指差すと、小川さんは「どのくらいって言われてもなあ」と困った笑顔を浮かべた。
「食べられなくはないんじゃないですか?」
「でも、普通の担々麺は唐辛子マーク1つなのに。3倍辛いのかな?」
「いつもは?」
私は〈あっさり醤油ラーメン&餃子セット〉を指差す。
「前来たときは担々麺なかったんです」
小川さんは頬杖をついてメニューをパラパラめくる。何度か行き来したあと、
「俺が醤油ラーメンを頼みます。ミナツさんは麻婆担々麺にしてください。一口食べて無理そうなら交換しましょう」
とメニューを閉じた。
「そんなの申し訳ないです! だったら最初から醤油ラーメンにしますから! 小川さんは小川さんのお好きなものを頼んでください」
「俺の本命はエビチャーハンと黒豚餃子ですから大丈夫です」
にっこり笑って呼び鈴を押されてしまったので、私は黙って小川さんが注文するのを見ていた。
「食前に桂花陳酒と食後に杏仁豆腐をお願いします」
注文を終えてしまえば料理がくるまではまともに向き合わなければならない。目を合わせることもできず、もじもじと何度もお手ふきで爪の境まで丹念に清めた。ああ、もう拭くところもない。
「小川さんは、普段お酒は飲むんですか?」
「飲み会は楽しくて好きだけど、お酒がものすごく好きというわけじゃないですね。晩酌もしないし」
「すごく飲めそうなのに」
「一口でも飲んだら顔が真っ赤になりますよ。こんな仕事だから、深酒はしないようにしてます」
「明日も仕事ですか?」
「もちろん。今日配達が休みだった分もあるから、いつもより多いですね」
そんな会話のタイミングで、桂花陳酒が届く。
「そんなの飲んだら一発で身体まで赤くなります」
「……無神経にすみません」
「いや、俺はおいしそうに飲むミナツさんを見て楽しみますから」
「それはそれで飲みづらいです」
キンモクセイを白ワインに漬け込んだという桂花陳酒は、ほんのりと琥珀色で香りのいいお酒だけど、結構強い。舐めるように口に含んで鼻に抜ける香りととろりとした甘みを堪能してから、ゆっくりと飲み込む。喉を焼くようなアルコールが心地いい。これ全部飲ませたら、小川さんをお持ち帰りできるかな? 男の人は重いだろうけど、根性で持ち帰ってやるのに。
「おいしいですか?」
小川さんの声で妄想から引き戻された。
「おいしいですけど……本当に見るんですね」
「あはは! すみません。つい」
視線から逃れるように、ふいっと横を向いてグラスを傾ける。不埒な発想は、大きめに飲んだ一口とともにお腹の底に沈めたのに、別のものが熱く燃える。氷の冷たさだけを求めてひたすらグラスに口をつけ、このままだとほとんど一気飲みしてしまうと焦り出す頃、救いの手がようやくやってきた。
「お待たせいたしました~!」
本当に同じ店のラーメン? と疑問を感じるほどに、小川さんと私のラーメンは対照的だった。さらさらと透き通ったスープにほっそりとやさしげな麺の醤油ラーメン。具材と麻婆豆腐、何よりどろりと赤黒いスープのおかげで麺なんて見えない麻婆担々麺。
「迫力が……」
スープに合わせたのか、醤油ラーメンの器は白くて薄く、麻婆担々麺の器は黒くて厚くて重みがある。ラーメンならさらっと食べられるという事前の見通しを、捻り潰すかのような重々しさだった。
「無理しないで食べられるだけ食べてください」
「でも、残すのももったいないし」
「じゃあ、最初から取り分けましょうか」
小川さんが器を頼んでくれたので、私は麻婆担々麺を少量とっていただいた。
「あ、思ったより辛くない」
麻婆担々麺は確かに辛味は強いけれど、特有の甘味もあって、とてもおいしかった。
「足りなかったらもっとどうぞ」
小川さんが黒い器をずりずり勧めてくれたのだけど、
「やっぱり辛ーい!!」
急にやってきた辛味に慌ててお水を口に含む。最初の一口は平気だったのに、食べ進めるうちにどんどん辛くなってきた。辛味が口の中に残り続け、食べるごとにどんどんプラスされて加速していくような感覚。鼻の頭の汗を紙ナプキンで拭き取る私に、小川さんは笑いで肩を揺らしながら、店員さんにお水を頼んでくれる。
「桂花陳酒飲んでも白いままだったのに、顔真っ赤!」
「だって! 本当に辛いんですよ!」
「じゃあ、やっぱりこっちですね」
醤油ラーメンの真っ白な器がすーっと差し出された。
「いいんですか?」
「遠慮なくどうぞ」
箸をつけた様子のない醤油ラーメン。きっと私が食べるのを待っていてくれたんだなと、嬉しい気持ちがテーブルの上をふわふわ漂う。よく食べていたはずなのに、記憶よりもやさしく沁みる味がした。
小川さんの食べるスピードは早かった。小鉢に取った麻婆担々麺は、ほどよく冷めてもその辛さゆえになかなか進まない。結局私は醤油ラーメンをすすっていたのだけど、その私より早いスピードで黒い器を空にした。その頃には、チャーハンも餃子も半分ほどになっている。
「もっと食べます?」
半分残っていたのは、私に遠慮してのことだったらしい。口に餃子が入っていたので、無言で首を横に振ると、お皿を引き寄せてもりもり食べ始めた。
「辛くなかったですか?」
「辛かったですよ。思った以上でしたね」
「だって、平気そう」
「そんなこともないですけど」
吹き出して、手で口元を覆う。
「ミナツさんよりは顔に出ないだけですよ」
恥ずかしくて俯いた目線の先には、汗を吸い取った紙ナプキンがある。念入りに作ったお化粧も、ほとんど取れてしまったに違いない。
「あんなの普通です。小川さんが変わらないだけですよ。いつもにこにこ営業スマイルで」
いつまで経っても本心が見えないのは、私があくまでお客様だからなんだろうか。怒りでも悲しみでもいい。足掻く私の爪の先が、ちらっとでも傷を残せたらいいのに。チャーハンに付いてきたワカメスープを、きょとんとした顔で小川さんは飲む。
「普段別ににこにこしながら配達なんてしてませんよ?」
「いいえ。いつもにこにこしてます」
「そうかなあ? ミナツさんの前ではそんなにニヤついてるんですね」
小川さんは手で口や頬に触れながら、表情を消すように真面目な顔をする。
「ニヤついてるんじゃなくて、にこにこです」
「自覚ないな。普通に機嫌悪いときもあるし」
「想像つかないです」
「バイクが倒れてたりするとイライラします。あと、絶対小さな本なのに、ものすごく大きな封筒に入れてくる通販会社」
急な真顔からはその不機嫌の一端が伺えて、逆に私は楽しくなった。
「しかもご丁寧に『折り曲げ厳禁』って書いてるんですよね。不在で対面配達もできなかったら持ち帰りです。あ、ミナツさんのアパートはポストの口が広いからありがたいです」
だったら、ポストがもっと小さければもっと小川さんに会えたのに、と私は大家さんを恨んだ。
「私なんて仕事中ずーっと死んだ目でキーボード叩いてますよ」
「……ミナツさんは、会社員なんですね」
「コーヒーの販売会社で事務員をしています。細貝珈琲館。あれ? 知りませんでしたっけ?」
「ああ! だからあのドリップコーヒー!」
「小川さんは何でも知ってる気がしてたけど、言ってなかったんですね」
私の会社は県内を中心に自家焙煎のコーヒー豆を販売し、カフェも出店している。本部にいる私は、県内の様々な飲食店に卸したり、豆やドリップコーヒーをスーパーや道の駅などで販売する卸売りの業務を担当していた。
「いただいたコーヒーも全部味が違っていて、全部おいしかったです」
小川さんの真顔は数分ともたず、結局にこにことえくぼを浮かべた。
「よかったです」
どうにも負けた気がして、私も微笑み返した。例え仕事用でも、小川さんは笑顔の方がいい。
別腹なんて存在しないので、いっぱいのお腹の隙間にぎゅうぎゅうと杏仁豆腐を詰め込む。待たせているのは申し訳ないけれど、ひとさじずつ隙間を探すように口に運んだ。
「無理しなくていいですよ」
ちょっと心配そうに小川さんが言う。
「お腹は苦しいけど、口はおいしいんです……」
「おいしいならいいんですけど」
「さわやかな甘味がドスッときます」
軽やかに笑ってお水を飲んだ小川さんが、グラスを見つめながら言った。
「そういえば細貝珈琲館って、その人のイメージに合ったカップで提供してくれるんですよね?」
先々代社長が開いた珈琲店は、趣味で様々なコーヒーカップを集めていて、同じカップは二脚となかったらしい。その名残で、今でも多種類のコーヒーカップが用意されており、「お客さんのイメージでカップを選ぶ」と噂されている。
「基本的に服の色ですけどね」
使っていたり、洗っていないカップもあるのだから、すべての中から一番合っているもの、なんて現実的ではない。イメージの多くは単純に服や髪の色で決まる。
「私が店員なら小川さんには赤いカップで出しそう」
「ポストですか?」
「やっぱり、そのイメージ強いですもん」
「一度行ったときは、青地に白いラインが入ったカップで出てきました」
「あ、ピッタリ!」
胸の中の青空を、飛行機雲がまっすぐ走っていく。
「そうですか?」
「名前のせいかな。小川さんって青空のイメージです。赤よりそっちの方がいいな」
テーブルに指で『小川晴太』と書いてみる。
「いい名前ですよね。本当にぴったり」
小川さんは珍しく視線を逸らした。
「……ありがとうございます。なんか恥ずかしいですね」
割り箸をくるりと逆さまにして、グラス周りの結露をインク代わりに、小川さんはするすると文字を綴る。
「『中道美夏』さんもいい名前ですよ。ぴったりです」
「でも私、書道は嫌いでした。右払い多くて。せめてしんにょうがなければな」
『道』『美』『夏』とうまく書けない文字ばかりをテーブルに再現する。
「確かに、しんにょうは難関ですね」
そう言いながらもくねくねと淀みなく割り箸を滑らせる。
「あ、『小川』さんはいいですね。これなら上手に書けそう」
「そうですね。しんにょうに比べたら書きやすいです」
縦、縦、縦。水分を補充しながら、割り箸は動き続ける。
「でも『美夏』さんはいい名前です。『ミカ』さんより『ミナツ』さんがいいですね」
横、てん、縦、横、曲がって、横、横……。するっするっと楽しげに跳ねていた小川さんの割り箸が、ぴたりと動きを止めた。
「……ミナツさんはどんなカップでしたか?」
急に話題を戻して、濡れたテーブルをさっさと紙ナプキンで拭いてしまった。小川さんが書いた透明な私の名前。名残惜しいなどと思う間もない、あまりに儚い文字だった。
「私、毎回違うんですよね。きっとそのとき手近にあったものを使ってるんですよ」
「そもそも、ミナツさんは陶器じゃない気がします」
「え! プラスチック!?」
「あはははは! 丈夫で使いやすくていいですね、プラスチック!」
杏仁豆腐を大きく頬張って、見事な膨れっ面を作りあげた私に、小川さんは穏やかな笑みを向けた。
「ガラスがいいです、ミナツさんは」
「ガラス、ですか?」
「熱にも強くて、丈夫で、きらきらと透明な」
できることなら、その鉢のような黒い器を頭からすっぽりとかぶってしまいたいと思った。
「……恥ずかしいです」
「恥ずかしいでしょう?」
ふかふかした背もたれに背中を預けて、小川さんはゆったりと笑った。
私は全然「きらきら」でも「透明」でもない。こんな褒め言葉を真に受けるわけにはいかないけど、それでも表札のひとつじゃなくて、ちゃんとひとりの人間として、小川さんの目に映っていたいと思う。
表情が冴えないのはもちろん胃の重さもあるけれど、帰る時間が迫っているせいもあった。気持ちが落ち込むと会話が弾まなくなり、それが焦りにつながってさらに気持ちを落ち込ませる。悪循環にもがく私の目の前で、小川さんはサラッと伝票を持ち上げた。
「あ、待ってください! 半分出します!」
重い気持ちと身体ですがるように訴えると、
「じゃあ、残りは払っておいてください」
と、伝票と千円札を4枚渡して、さっさと車へ行ってしまう。お会計は、図ったように4507円。
「もらいすぎです。これはお返しします」
助手席に乗り込むなり二千円を突き出す。それをじっと見て、小川さんは困ったように言った。
「ミナツさんは、ごちそうされるのが苦手ですか?」
「うれしいですけど、今日は私の方が無理を言って連れてきていただいたんだし」
「無理はしてないですよ」
「それでもごちそうしていただく理由がありません」
また少し小川さんにお札を突き出すと、私の顔とお札を順番に見つめた小川さんが、真顔でするっと私の手からお札を抜き取った。それはそのまま無造作に車のポケットに突っ込まれる。
「喜んで欲しかっただけなんですけどね。ごちそうするには、理由が必要でしたか」
くしゃくしゃになったお札が車内の空気を重くする。だけど理由がない。むしろ、私がお願いして車も出してもらったんだから、私がごちそうするべきだと思う。それなのに、どうしようもなく悪いことをしてしまった気がして、何も言えなくなった。
車は、私のよく知る大きな通りを通って、あっという間にアパートに着いた。無言のままそれでも小川さんは車を降りて見送ろうとするから、
「もう、ここで大丈夫です! すぐ目の前ですから!」
と引き止めた。これ以上負担をかけたくない、面倒臭いと思われたくない、その一心だった。小川さんはいつもの笑顔ではなく冷静な目で、
「そうですか」
と、あっさりシートに戻る。自分で望んだことなのに、小川さんとの距離が一層遠くなった気がした。あんなに楽しかったのに、もしこのまま別れたら、もう二度と元には戻れないような危機感に襲われる。
「気をつけて」
私が車から降りると、ハンドルにもたれて私を見上げるようにして言った。
「ありがとう……ございました」
ためらいながら閉めたドアは弱々しく動き、それでもバタンとしっかり閉まった。これで終わり? 本当に終わり?
軽く会釈して、小川さんが車を動かした。アパートの敷地から出ようとして一度停まって、左右を確認している。
足は、自然と動いていた。小川さんがやってきた車を一台やりすごしている間に駆け寄り、泣き出しそうになりながら運転席の窓ガラスをバンバンと叩く。
「あの!」
走り出そうとした小川さんが、慌てて車を停めて半分だけ窓を開けてくれたから、しがみつくようにして告げる。
「連絡先、教えてください!」
多分少し、声は震えていた。固まっていた小川さんは、車のポケットからポスト型のふせんメモを取り出してさらさらとペンを走らせる。
「はい、どうぞ」
いつもの笑顔だった。
「ありがとうございます!」
結局車を降りた小川さんに見送られて、私は部屋に戻った。ベランダから手を振ると、小川さんも手を振り返してから運転席に戻り、今度こそ帰って行った。
車が見えなくなってしまうと、見慣れたいつもの景色が日常へと引き戻す。ぼんやりとした街灯が照らす道を、たまに車が通るだけの住宅街。
頑張ってよかった。このメモがなかったら、すべて妄想だったと思ったに違いないから。
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